112話
お久しぶりです。
生存報告がてらの投稿。
法則属性、混沌。
それは生命を犯し、汚染し、不純なものとする。完全な混沌は全てが均一となり、あらゆる境界が失われて無となる。エントロピーの行き着く先をも司るため、万物を崩壊させて無とするのだ。
混沌とは世界を滅びへ導く法則。
生と死の境界線すら失わせる異質な力。
「引け! 早く引け! 生きている者は脱兎のごとく撤退するのだ!」
騎士が叫ぶ。
兵士が叫ぶ。
冒険者が叫ぶ。
身分も立場も気にせず、生きている者は誰もが逃げていた。
「くっ……なぜこれほどの死者たちが」
「そんなもの分かるわけがない! だがこの戦いは人が死に過ぎた! あのデカブツめ! あの悪魔め!」
「怒鳴る体力も無駄だ! 俺たちは魔力も気力も体力もない! とにかく生きて帰りたければ走れ!」
彼らは限りなく不幸であった。
エスタ王国北部に出現した巨大トレント、ユグドラシルを討伐するだけのはずだった。それもまた死を覚悟する戦いであったが、最小限の犠牲で達成したのだ。だが次の瞬間には戦士として潜んでいた憤怒の高位悪魔イーラが暴れ出し、それを仕留めたと思ったらアンデッドが大量に湧き始めたのである。
エスタ王国の騎士も、アドラメレク社の冒険者も、この戦場にいる時点で強者ばかりだ。だが所詮は人間なのである。いつまでも戦い続けることはできない。既にユグドラシルとの戦いで彼らは限界だった。そこから限界以上を絞り出して悪魔と戦ったのだ。
「アンデッドとは無駄に戦うな! 殺されると感染するぞ!」
存在そのものが忌み嫌われる理由は、何もアンデッドの魔王に由来するだけではない。五百年前に出現した最悪の魔王は人類史に大きな傷を残したが、それから時が経って魔物など恐れる必要もないと考えられるようになった現代ですら、アンデッドだけは激しく嫌われる。
最大の理由は不死の呪いが感染することだ。アンデッドに殺された場合、その呪いの感染によって死体はアンデッドとして蘇る。つまり魔物のような何かになってしまうとされている。
厳密には魔物のアンデッドと、アンデッド化した死体は異なるものだ。なのでこの場で出現したアンデッドたちは魔物というわけではない。しかし逃げる戦士たちにとってはどちらでも関係のないことだ。
重要なことはただ一つ。
アンデッドにだけは殺されてはならない。
「くそがァ! こ、の!」
「お下がりください社長! もう魔力が尽きているのですよ! これ以上は――」
「黙れ! 息子がアンデッドに変えられたのだぞ!」
「――アンデッドだけはだめです! 万全な状態でなければ!」
呪いの感染により蘇った死者は、元の実力に比例して強くなる。
本来の実力からは落ちることも多いが、それでもアンデッドの集団を強化してしまう。そうしてさらに強くなったアンデッド軍は、より強い人間を殺すことで強化される。早く対応しなければ大災害となる一方、安易な対応もまた事態を悪化させる。
今は戦うべきではない。
「くそが! くそ! くそがああああああああああああ!」
自力でまともに動くことも敵わないグリゴリ・アドラーは悔しさのあまり叫ぶ。
枯れた声は悲壮で、激しい怒りを孕んでいた。
◆◆◆
エスタ王国の王都サウルには各地の異変がほぼ一斉に届けられることになった。
穴の迷宮および岩の迷宮からは大量のスパイダー系やスライム系の魔物が現れ、アトラネクアという強毒を有する魔王種によって迷宮都市が大きな被害を受けている。谷の迷宮ではティタンオークという魔王種に率いられたオーク種が登ってきて都市を襲っている。城の迷宮ではゴブリン種が大反乱を起こし、戦力を北に引き抜かれた現状では対応しきれない。花の迷宮では毒の花粉が舞うようになり、安易に踏み入れられなくなった。まだ原因究明中だが、アルラウネ系の魔王種が出現したのではないかと考えられている。灰の迷宮では火山活動が突如始まり、大被害が出た。
そしてトドメが北から押し寄せるアンデッドの群れである。超巨大トレント、ユグドラシルを討伐すべく精鋭たちが大量に送り込まれていたのだ。それによって生じた死者がアンデッドとなり王都を目指して南下しているというのは悪夢でしかない。
「陛下、そのように頭を抱えないでください。王としての威厳を。どうか」
「……すまない。だがこれは」
「お察しいたします」
各地の迷宮で同時多発的に発生した魔王種とそれに率いられた魔物の氾濫。このようなことはエスタ王国でも初めてだった。
どれか一つの迷宮で氾濫が発生したことは何度も経験しており、その度に対応策を打ち立て、迷宮を『生かして搾取』する方法が確立されてきた。常に魔力核の側に騎士を常駐させ、異変を監視させていたのもそのためだった。
だが今回は色々と例外過ぎた。
国王としてデビッド・エスタリオの両肩に乗る責任は重い。
「ひとまずは現場対応しておりますが、武官貴族たちも王には同情的です。今回の件は北に戦力を集めすぎたことで状況把握と対応が遅れ、最悪にまで発展しました。ですが当時の判断は間違いではなかったはずです」
「そう言ってくれるだけでも私は嬉しい。だが結果こそが全てだ。民の声が私への評価なのだ。私は責任を持って迅速に対応しなければならん。最古の迷宮だけは氾濫の兆しがないのだな?」
「はい。ただこの迷宮はまだ攻略が完了しておりませんので、万全とは言い切れません。また最古の迷宮では別の問題もあります。冒険者の間で流行っている熾灰病です。今のところ完治した例はなく、致死率は百パーセントです」
「優秀な冒険者が次々に病に倒れるというのは問題だ」
「幸いにも騎士や兵士に熾灰病患者はおりませんが……時間の問題でしょう」
魔物の氾濫についてはまだ対応の方法もある。戦力の低下が激しいエスタ王国だが、魔王種程度ならそのうち収束するだろうとデビッド王も予想していた。
また王都に迫っているというアンデッドも、進路上に迎撃用の拠点を準備している所である。北から撤退中だった王国軍と冒険者たちも合流し、反撃のため体を休めていると聞いていた。
「これを機とした東の大帝国が攻めてくるかもしれぬな。こういう時だからこそ外部とのやり取りは慎重にするのだ。また間者に対する取り締まりは一層強化するのだ!」
「承知しました」
「それと巨大トレント討伐の直後に悪魔を討伐したという話もあったな。それを神聖ミレニアとの外交に使え。そうすれば聖女団を……いや大聖女すら貸してくださるかもしれん。熾灰病の対策になるだろう。ひとまずは隔離で対応せよ」
彼らにとって迷宮の氾濫も、不運な自然災害でしかない。
それよりも気にしているのは他国の動向。他国とのやり取り、そして自国の繁栄だ。だからデビッド含むエスタ王国の上層部は、自分たちが間違った手を差してしまったことに全く気付いていなかった。本当に首元へと迫っている脅威を見逃していた。
◆◆◆
セイは魔王としての責務を果たすため、エスタ王国で何をするべきか考えた。どの国家でもそうだが、人類は絶大な戦力を誇る。魔王にとっての拠点であり武器でもある迷宮は等しく攻略され、エスタ王国に至っては魔力核を生かして搾取しているほどだ。
迷宮の魔物から得られる恩恵は大きい。
ドロップアイテムに魔法金属など、迷宮を攻略するのではなく生かして搾取し続けるという方式はエスタ王国を大国に引き上げた。その武力と経済力故に、東の大帝国による侵略を免れ、外交によって食い止めることが可能となった。
「これだけ猛攻を続けてもまだ戦力があるのか……やばいよね」
そんなことを言いつつも、セイは笑みを浮かべたままだった。
エスタ王国に存在する七つの迷宮を接続し、大迷宮を完成させたセイはしばらく籠って作業していた。折角、魔力核を残して迷宮を管理してくれていたのだ。国を内側から崩すため利用するという計画は初めからあった。
問題はどのようにして異変を察知されることなく迷宮を手中に収めるか。
一般市民は忘れかけているが、エスタ王国上層部は迷宮のリスクを決して忘れていない。異変が生じたらすぐに調べられてしまう。
「俺がいない間の話をありがとう」
「いいのよ。私たちとあなたは協力関係。それに鈍った感覚を取り戻すのに丁度いいわ。ずっと封印されていたから魔力も凝り固まっているのよ」
大悪魔マリティアはいかにも、といった様子で肩や首を回す。
実際、エスタ王国の攻略は悪魔たちがいなくては成り立たなかった。アルギル騎士王国の時は万全の準備を整えた亡都ナスカへと攻め込んで罠に嵌ってくれた。三公国の時は内乱を利用して漁夫の利を得た。だがエスタ王国はそうもいかなかった。
対魔物と迷宮攻略に特化した冒険者たち。そして連携の取れた国家体制。少なくともこれまでのように下手な迷宮でも作ろうものなら、即座に攻略されてしまうだろう。
実際、これだけ戦力を分散させ、弱体化させてもセイを驚かせるほどの戦力を見せたのだ。
「今のエスタ王国は大量の戦線を抱えている。俺が異変を起こした六つの迷宮と、北からやってきたアンデッド。正直アンデッドについては助かったよ」
「即興の拙い出来損ないよ」
「それでもだよ。各地の迷宮で起こした異変にはもう対処され始めている。常駐している騎士からの連絡が無くなれば調査されると思っていたけど、流石に動きが早い。冒険者たちも専門家だけあって攻略も早いし。お蔭でさっさと魔物たちを動かすことになってしまった。魔力核の守りは置いてきたけど、あまり時間稼ぎにならないかもしれないね」
「だとすると、次の段階に進むのね」
肯定のため、セイは頷いた。
ダンジョンコア一つを犠牲にして王異種ユグドラシルを生み出し、エスタ王国の戦力を北に集める。その間に七つの迷宮を周り、魔力核に触れることで魔王として登録する。これでようやくエスタ王国で戦うための下準備が完了したことになる。
「ここからが本番だな」
「ええ。呪いに悶える人間を楽しみにしているわ」
マリティアは悪魔らしい、嗜虐的な笑みを浮かべていた。
◆◆◆
新たに出現したアンデッドの件で有耶無耶になりかけていたが、ユグドラシル討伐の件はしっかり王都まで届けられていた。王の名で危機が去ったと公表され、民衆は一応の安堵を得たのだ。だが冒険者も騎士も兵士もまだ戻ってきていない。それどころか最古の迷宮を除く六つの迷宮で起こった異変へ対処するべく、王都守護軍や国境警備軍までも出動していたほどだった。
だが、大きな悲しみもある。
戦いから戻らなかった兵士や冒険者は少なからずいたのだ。忠臣と名高いウィリアム・ウルズ卿もその代表であった。
「ああ、なんということでしょう」
その妻であるシェバは訃報を伝えた遣いの目の前で崩れ落ちた。王宮からの遣いに対して大変失礼な態度であったが、こればかりは仕方ないことだ。深い悲しみに打ちひしがれるシェバはウルズ家の家令に抱き起される。
涙は止まらないが、どうにかシェバは体裁を持ち直した。
そこで遣いは続きを話し始める。
「ウルズ卿と夫人の間には跡継ぎの男子がおられません。この場合、ウィリアム様の弟にあたるヘンリック様がウルズ家の当主となられます。ヘンリック様に奥方がおられぬ場合、シェバ夫人はウィリアム様に代わってヘンリック様との間にウルズ家の跡継ぎを作る必要がありました。ですがヘンリック様は既に正妻がおられます」
こういう事情もあって、貴族は上の兄弟から結婚していくのが通例だ。しかし近年では文化の変容もあり、そういった風潮は少しずつ減っていた。
一見すると妻となる女性の人権を無視した文化であるが、これはこれで理に適っていた。
たとえば今回の場合、ウルズ家はウィリアムの弟であるヘンリックが継ぐ。そうなるとシェバは元当主の妻でしかないため、家を出て行かなければならない。仮に実家に戻ったとしてもバツの付いた女を娶る者はいないので肩身の狭い思いをすることになるだろう。
近年では市井の生活水準も上がっているので、実家に所縁のある商家や芸術家などに嫁ぐという選択肢もある。どちらにせよ貴族という特権を失った女の未来は暗い。
「シェバ様、どうか気をしっかりを保ってください」
そう言った事情をよく理解している家令はシェバを元気づけようとした。だが愛する夫を失い、未来も暗いシェバに何を言えばいいのか分からない。差し当たりのない言葉をかけても、シェバの本心には届かない。
だが遣いの話はまだ終わっていなかった。
「ご安心ください。デビッド国王陛下は英雄ウィリアム様を高く評価しておられます。巨大トレントを討ち果たせたのはウィリアム様の勇猛さあってこそ。ですがそれに報いることはもはや叶いません。そこで陛下は、ウィリアム様の妻であったシェバ様を宮廷に迎え入れる用意があると言われました」
「ッ!」
「おめでとうございます」
それはつまり側室として引き取られるという意味だ。
拒否するなどあり得ないことだと言わんばかりに遣いは話を進める。これからの手続きや動きについて細かい話もしていたようだが、シェバの耳には入ってこなかった。
思わず、本当に無意識のうちにお腹へと手を当てる。
しばらく月のものが来ていない。それは王の城に呼ばれ、不義を働いてしまった時からだ。
遣いが帰ってからの記憶はない。
シェバは気付けば自室にいた。用意されているお茶はすっかり冷めており、あれからかなりの時間が経っていると分かる。
(ああ、私はなんと愚かで惨めなのでしょう)
いっそ毒を飲んで死にたかった。
一刻も早く穢れた身体を捨て、ウィリアムのもとに駆け付けたかった。
だがそれはできない。そんなことをすれば、英雄として亡くなったウィリアムの名誉を傷つけてしまうことになる。一般的に自殺は深い失望と解釈されるからだ。
またデビッド王はウィリアムの英雄的な活躍への報いとして、シェバを宮廷に招くと言った。そんな時に自殺でもしようものなら、ウルズ家やシェバの実家にも大きな迷惑をかけてしまう。
そういった『正しさ』を分かってしまうがために、シェバは自分の肉体ではなく、本当の気持ちを殺してしまう。
「どうかこの身に呪いがありますように」
祈るシェバは窓から差し込む月光に照らされる。
その願いは闇の中で淀み、炎のように灯る。彼女の影は揺らいでいた。




