103話
エスタ王国を襲った王異種ユグドラシルは徐々に押し返すことができていた。絶対的な物量を相手にする場合、少しずつ削るしか方法がない。どうしても時間がかかり、戦略的な行動は必須だ。そして王国が戦略行動をするには国王の決断が必要となる。
「陛下、この二か月でかの大魔物へかなり接近することに成功しました。予想よりもかなり早いです。あと一か月……長くとも二か月以内には直接攻撃が可能だと思われます。ウルズ卿は武勇だけでなく、指揮官としても素晴らしいですね」
「ふむ。兵士たちの士気はどうだ? ウルズ卿かアドラメレクから連絡はあるのか?」
「我が軍はやはり疲弊が見られます。しかし流石はアドラメレクといいましょうか、あちらは上手く交代しているようですね。数の多さ、そして魔物との戦闘経験は敵いません。貴族たちには実際に戦線へと出るのではなく、部隊指揮などに専念して頂いております」
この国は武官貴族が軍人として働いている。そのため数も少なく、また対人を想定しているので魔物の相手は得意ではない。逆にエスタ王国の経済をほぼ単独で支配するアドラメレクは対魔物において非常に優秀な冒険者を揃えている。その代わり、冒険者は少人数での戦闘経験がほとんどで、多人数を有機的に動かすことは苦手である。
よって冒険者が戦い、貴族は指揮する。
これが正しい動かし方だ。
「そろそろ我が軍にも休息が必要か」
「はい。陛下のおっしゃる通りです。幸いにもアドラメレクが物資の手配をしてくださっていますので、そちらの方面ではまだ余裕があります。物資輸送の際に疲弊した兵を下げてはいかがでしょうか?」
「そうであるな。では代わりの部隊の編成はどうなっておる?」
「すでに完成しております」
王の側近は優秀だ。
彼らも元は貴族であり、その中でも厳しい試験を乗り越えた者だけが見習いとして採用される。見習いとして何年か仕事をこなせばようやく王の傍で仕えることを許されるのだ。側近の仕事は多岐にわたり、軍の編成もその一つである。
側近とは王の手足なのだ。
「陛下。おひとつ報告がございます」
そして側近の仕事は他にもある。
国王に平民の言葉を伝えるのも側近の役目だ。平民は王に直接謁見する権限がなく、例外は王が許可したときだけだ。ただ平民が謁見する場合は複雑な手続きが必要となるため、緊急を要する場合は側近がそれを吟味して王に伝えることになっている。
今回もそんな伝言があったのだ。
「陛下はシェバ様を覚えておられますか?」
「無論だ」
「はっ! ウルズ卿の奥方であるシェバ様が……ご懐妊されたと報告が」
それを聞いて国王デビッドは冷や汗を流す。その鍛えられた外面によって表面上には出ていなかったが、内心では側近の言葉の意味を必死で咀嚼する。
思い出すのはあの夜だ。
(馬鹿な……いや、あり得ぬことではない。だが、ならば……つまりシェバ殿には私の……)
シェバはデビッドがあの夜に食事を共にした。そして欲を抑えきれず、デビッドは彼女と床を共にしたのだ。
いわば一夜の過ち。
まさかそれで子が宿るなど、誰が予想できようか。
しかし残念ながら彼女の夫であるウィリアム・ウルズは戦争へと赴いている。シェバが不貞を働いていない限り、デビッドの子ということになる。そもそもデビッドとの関係も不貞にあたるが。
「陛下? どうかされましたか?」
側近は心配そうにデビッドへと声をかける。
彼はシェバが食事を共にしたことは知っているものの、王の過ちまでは認知していなかった。いや、あの夜の罪はデビッドとシェバだけの秘密である。
「あ、ああ。やはりウルズ卿を一度帰らせる必要があるかもしれぬな」
「はい。しかしあの真面目な方が大人しく帰られるかどうか……ある意味で不器用な方ですから」
「しかし彼らの休息も必要だ。少なくとも一週間は王都に滞在させ、休暇を与えるとしよう」
「ではそのように手配いたします。陛下には一筆お願いしたくございます」
「うむ」
デビットは引き出しから紙を一枚取り出し、北の戦線に宛てて手紙をしたためた。その内容は休暇のため王都に帰還するよう促すもの。この手紙を交代の軍に持たせて戦線に向かわせることで、初めて交代となるのだ。これは軍事規定である。
最後に国王の印である玉璽が押され、手紙は完成した。
しかしその間、デビッドは上の空であった。
(ど、どうすればよい。魔物が現れた直前は……そうだ、ウルズ卿は王宮で寝泊まりをしていた。奴は休暇以外は決して自宅に帰らぬ男。シェバ殿の胎にいるのは間違いなく私の子だ)
あまりに動揺したからか、その後の仕事に手が付かなかったのは言うまでもない。
◆◆◆
北の戦線は東西に長い帯のような陣地を形成している。ユグドラシルの物量があまりにも多いので、それを抑え込むには広く展開しなければならないのだ。
そんな陣地に敷設されたテントの一つで、イーラは休んでいた。
「おい、あれが……」
「あんな小さな娘がなぁ。俺の子と同じぐらいだぜ」
「馬鹿みたいな魔術を見せられりゃ、信じるしかないよな」
冒険者たちはイーラに畏敬の念を抱いていた。
それもそのはずだ。彼女はハルバードの一振りで大量のトレント種を薙ぎ倒し、炎魔術や爆魔術で破壊し尽くす。戦線の押し上げには彼女が大きな貢献を果たしていることは明白である。
「ふん……」
しかしイーラは淡々と食料を頬張っていた。
高位悪魔である彼女にとって、人間とは等しくゴミに等しい。下等種族であり、破壊対象である人間と仲良くなど有り得ないことだ。これがスペルビアやルクスリアならば必要な作戦として人間と協力関係を結ぶこともあるが、イーラは絶対にお断りである。
そんな彼女だからか、近寄るなという雰囲気を周囲に発していた。
故に英雄の如きはたらきをしても彼女に近寄る者はほとんどいなかった。話しかけることができるとすれば、力量も図れぬ愚か者か、彼女に等しい力の持ち主だけである。
「イーラ。随分と活躍したようだね」
「お前か……真っ黒」
「いい加減、名前で呼んで欲しいな? 僕はメルド・アドラーだよ」
イーラが呼んだ通り、メルドは確かに真っ黒だ。彼は黒髪黒目で、服装や武器まで黒い。そんな全身黒にもかかわらず、彼は非常に優秀な聖魔術の使い手なのだ。
「僕との結婚、考えてくれたかい?」
「黙れ、死ね」
「辛辣だね。何か不満でもあるのかな?」
メルド・アドラーからの結婚申し込み。それはエスタ王国において女性たちの憧れである。
なぜなら彼は王国を支える大企業、アドラメレクの御曹司だからだ。社長は世界最強の剣士の一人であるとされ、その息子であるメルドも優秀な戦士と言われている。強さという面でも申し分ない一族だ。何より、金持ちである。その一族になれば、一生困ることはないだろう。
しかしそれは一般女性の話。
高位悪魔であるイーラには逆効果にも等しい。
「お前如きが私の目に留まるなど甚だ愚かだと思え」
「うーん。何が気に入らないのかな? 僕は力もあるし、権力も、金もある。君を不自由させないよ」
そういう問題ではないということにメルドは気付かない。しかし気づかれたら困るのはイーラなので、その理由を具体的に話すことはないが。
「ふん。死にたくなければ私に近づくな。殺すぞ」
「怖い怖い。しかし棘のある女性というのもぞくぞくするね」
「死ね」
「もっと言ってくれ!」
最強に近いと呼ばれる男、メルド・アドラー。
彼は類まれなる聖魔力と自動回復の希少能力を有し、あらゆる傷をその場で再生させてしまうのだ。そのせいか、彼は傷を受けることを快感として認識するようになっていた。
つまり極度のマゾなのである。
「君ならば僕を満たしてくれる! さぁ、結婚しよう」
「死ね!」
「うぐっ! そう、その調子だ!」
殴っても燃やしても復活し、イーラに結婚を迫る。
ある意味で彼女の天敵だった。
◆◆◆
その頃、本陣に交代の部隊が到着していた。
「ウルズ卿! 久しいな!」
「これはリカルド卿ではありませんか。どうしてこちらへ? 確か卿は王宮警護の責任者だったはずですが……」
「心配には及ばん。既に引継ぎをさせているさ。私は君の代わりにこちらに来たのだ。働きすぎだと陛下も仰られていたぞ。これは陛下からの手紙だ。おそらくその中にも書いてあると思うが、陛下は真面目なお前が帰還を拒むのではないかと危惧しておられたぞ。責任感の強いことは良いが、しっかりと自分を労わることだ」
「そうでしたか……わかりました」
「君の真面目なところは父君に似ている。だがあいつの親友だった私からすれば心配だ。あいつのように早死にしてしまうのではないかとな……」
「リカルド卿……」
「さて、私事はここまでにしよう。すぐに引継ぎをしたい」
「ではこちらに。アドラメレク社長もおられます」
手紙を受け取り、ウィリアムは彼を奥まで案内する。
本陣テントの奥は巨大なテーブルが設置され、そこに辺りの地図が置かれている。そしてユグドラシルの大駒、トレント種の駒、騎士の駒、冒険者の駒がそれぞれ大量に置かれていた。
リカルドも軍を預かる者として、地図の読み方は会得している。すぐに戦況は理解した。
「ほう。素晴らしい。噂通りの戦果だ」
「ありがとうございます。しかしやはりグリゴリ・アドラー殿がいなければここまで押し返すのは難しかったでしょう。冒険者の対応能力には驚かされます」
「なるほど。流石ですなアドラー殿」
「それほどでもありません」
地図の前に座っていたグリゴリは謙遜しつつ答えた。
彼は誰もが認めるだけの功績を出しているが、それでも平民である。貴族を前にして尊大な態度を取るわけにはいかない。彼も大企業の社長として必要な礼儀は修めている。
「それでウルズ卿、今の状況は大まかに理解した。私が早急に知りたいのは今後の計画だ。あの巨大なトレント……どこから攻める?」
「我々の作戦は強行突破です。そちらにいらっしゃるアドラー殿を中心に百名ほどの強者で一気に突破し、削り切ります。しかしそのためには……」
「無数のトレントが邪魔になる、と」
「はい。そこでこうして少しずつ戦線を押し上げ、突破可能な位置を確保しているところです。その目標ラインはここになります」
ウィリアムは地図上にある赤い線を示した。
現在展開している部隊がこのまま進行すれば一か月で辿り着くことだろう。ただ、ユグドラシルに近づけば近づくほど抵抗が激しくなるのは予想に難くない。念のため多めに見積もって二か月というのが妥当だ。
武官貴族の当主であるリカルドもそれはよく分かっていた。
「ふむ……戦いがあと二か月として、兵站の計画は?」
「私の部下が資料にまとめています。軍事日誌もまとめてそちらの棚にありますので、後で一読お願いします」
「分かった。つまりはそちらにいるアドラー殿の竜殺剣頼みという作戦でよいのだな?」
「その通りです。アドラー殿、あれを」
「これですね?」
グリゴリは腰に差した一本の剣を見せる。鞘こそ武骨で一般的だが、内包された魔力は一軍すら容易く撃破するといわれるものだ。
それこそ、グリゴリ・アドラーの所有する竜殺剣の一本である。
初めて見るのか、リカルドは感動した様子でそれを眺める。
「おお、それが」
「あの巨大なトレントは強力な結界を張っています。しかしこの剣ならばそれを破ることができるのです。そして私が率いる精鋭たちと共にとどめを刺します。そして既に百人も選定済み……時間はかかりますが、撃破は確実というところまできています」
交代要員としてこれほど頼もしい話はない。リカルドも内心で安堵する。
「これは素晴らしい。ウルズ卿のいない間の戦いも任せていただきたい」
「お願いします。私も最後の詰めの時には戻ってまいりましょう」
「とはいえ、油断はできん。今後も宜しく願うぞアドラー殿」
「こちらこそ」
真面目なウィリアムが資料を詳細にまとめていたからだろう。
この後の引継ぎは比較的すぐに終わり、ウィリアムをはじめとする騎士たちは王都へと帰還した。




