1話
「王手」
「ちょっと待った!」
そんな声が室内に響き、周囲の人物は『またか……』と苦笑してチラリと目を向ける。ここはとある有名進学校の一室であり、静かな教室の中でパチパチと何かを打つ音が聞こえる。その中で彼の声は非常に良く聞こえた。
私立桐谷学園高校の将棋部。それが彼らである。
そして待ったをかけられた少年は不満そうに言葉を返す。
「また? 三回目だぞ?」
「いいじゃん。俺とお前の仲だろ?」
「まぁ、いいけど。そっちに逃げても十三手で詰むぞ」
「嘘だろ?」
「ホントだ。見ておけ」
少年はパチパチと手を進めて戦場である将棋盤を変化させていく。
歩、香車、桂馬、銀、金、飛車、角の駒を用いて王を守るこのゲーム。古来の日本でも楽しまれていた戦略シュミレーションだと言えるだろう。それは現代にも引き継がれて多くの人に楽しまれている。この学校でも総勢で十人を超える部員たちが将棋盤を挟んで向かい合っていた。
その中でもこの少年は部員最強であり、学生大会では優勝も経験している。宮古 星はその実力を買われて奨励会にも誘われたことのある実力者なのだ。
「ほら、こっちに桂馬を配置すれば王は逃げるだろ?」
「ああ」
「それでこの飛車が竜に成って銀取りの王手。王はこいつを取るしかない」
「そうだな」
「今奪った銀をここに打ったら詰みだ」
パチンと音を立てて銀を置く。星と対峙している友人こと赤坂 竜二は両手を上げて降参のポーズをとった。そして小さく『だめだ〜』と口にしながら大きな溜息を吐く。
部内で最強を誇る星には勝てないと分かっているが、それでも負けは悔しい。
「星〜。もう一戦いけるか?」
「さっきの一局も研究将棋だったから考察に疲れたしな。一時間以上やってただろ? それに三回も待ったをかけられたし」
「いいじゃん。ハンデだよハンデ」
星は腕時計を見ながらそういうが、竜二は再び駒を並べ始める。しかし星はそんな竜二にお構いなく立ち上がってカバンを掴んだ。学校指定の黒い鞄の中には大量の参考書や問題集が入っているため、結構重い。そのカバンを肩に担ぎながら星は口を開いた。
「悪いけど、今日はバイトなんだ。他の空いている人に相手をしてもらってくれ。あっちに麗香もいるから対局してもらえよ」
「あいつの手は定石過ぎて面白みがないんだよな。やっぱ星の指し方は変わっていて対局しても楽しいんだよ」
「知るか。じゃあな」
「あ、おい!」
竜二を無視して教室を去って行く星。そして扉を開く前にチラリと目を向けたのはさっき話題に上っていた白井 麗香だ。麗香は詰将棋の本を読んでいたようだが、星の視線を感じたのか顔を上げてニッコリと微笑んだ。星も軽く手を振ってから教室を出る。
星、竜二、麗香は小学校から同じ学校に通っている。三人は勉強が出来たために名門私立として有名な桐谷学園高校へと進学することになった。もはや腐れ縁とも言える三人は一緒にいる時間が長い。軽く挨拶をして帰るのもいつもと同じだった。
「さて、急がないとな」
実は星の家はそれほど裕福ではない。だが私立高校に通っている以上はお金が必要であり、星はバイトで稼がなければならないのだ。
走りながら校門を出ていつもバイトをしているコンビニへと向かって行く。
「貧乏は、大変だ、っと」
運動が得意とは言えない星は荒い息を吐きながら目的地へと急いでいく。
成績が学年トップならば授業料が全額免除されるという太っ腹な高校なのだが、残念ながら星の学業成績は最下位に近い。とはいっても彼がイコール馬鹿というわけではないのだ。
事実、星の全国模試における成績は三百位ほどであり、かなりの上位だ。その順位で? と思うかもしれないが、全国四万人の中での三百位である。単に私立桐谷学園高校のレベルが高すぎて星が目立たないだけなのだ。
そして星は学校の定期試験での成績は良くないが、それは国語や英語が足を引っ張っているからである。パズル的な思考は得意であるため、数学と理科に関しては学年有数の順位を誇っている。だからこそ将棋部でも強者として立ち続けていたのだ。
「間に合うかな?」
星は走りながら腕時計を見て呟く。竜二との対局が長引いたせいでバイトの時間に間に合いそうにないのだ。視線を前に戻すと歩行者信号が嫌な色を見せている。
「はぁ……こんな時に限って」
立往生を喰らっているのはこの辺りでも名の知れた長信号なのだ。細い道と大通りが十字路となっているため、片方の信号だけが異常に長いのである。初めから止まれば五分は動けないという嫌がらせのような設定なのだ。
この信号さえ越えてしまえばバイト先のコンビニはすぐそこ。それだけに星のイライラは相当なものとなっていた。最終手段の伝家の宝刀といえる信号無視をするには交通量が多すぎる。無理に渡ろうとすれば事故で終了だ。
星は大人しく青信号になるまで待っていた。
「よし、急ぐか」
若干のフライングをしつつもようやく青となった横断歩道を走り抜ける。五分ほど遅れているため、先輩の女子大生に怒られることは間違いないだろう。シフト上では彼女と交代で入ることになっているからだ。遅れるとジュースを奢らされるので星としてはかなり拙い。
「すみません遅れました」
小さく謝罪の言葉を口にしながらコンビニのレジの方へと目を向ける。どうやら女子大生の先輩こと辻は黒い服装の男の会計をしているらしく、レジを開けてお金を弄っていた。
―――という風に見えた。
「早くしやがれ! さっさとお金を詰めろ」
「……強盗?」
突然飛び込んできた非日常。
先輩の辻に銃と思しき黒い物体を突きつけて手元には口を大きく広げたバッグ。そして唾を飛ばしながら興奮気味に吐いたセリフ。
間違いなく強盗である。
どうやら辻の他には奥から顔を覗かせている店長しかいないらしく、騒いでいる客もいない。幸いと言うべきか、頭に血が上っている強盗は星に気付いていないらしかった。
(つーか店長は何してんだよ。辻先輩に押し付けて……)
星は溜息を吐きつつも数歩下がって担いだカバンからスマートフォンを取り出す。蛮勇で頭のおかしい強盗に敵うハズなどない。冷静に判断した結果が警察へ連絡することだった。
辻は携帯を取り出しつつ下がっていく星に気付いたようだが、特に騒ぐことなく強盗の指示に従ってお金を詰めている。心なしかその速さが下がった気がしたが、彼女なりに星のために時間稼ぎをしているのだろう。
しかしそれが悪手だった。
「早くしやがれこの女ァ!」
「なっ!」
手に力を込めて辻の顔に銃口を向ける強盗。これに驚いた星は思わず声を上げた。しかしその声は強盗に届かない。もはや止まらないと思えた強盗に向かってとった星の行動は自分自身でも驚く物であった。
「くそっ!」
既に通話が始まろうとしていたスマートフォン。右耳の位置からスナップを利かせて勢いよく投げつける。そして投げられている途中で通話は繋がった。
『はい、110番で―――』
◆ ◆ ◆
コールセンターで110番通報を受け取った秋元という担当員はすぐに通話をオンにした。最近は悪戯で警察に電話を掛けてくることも多い。事件でないことに越したことはないが、出来るなら本物の事件を担当してみたい。
新人の秋元は未だに事件らしい事件の通報を受けたことがなかったのである。
「はい、110番で―――」
『(ガコン)―――何しやがんだ野郎っ! 死ねっ!』
『ちょっ! やべぇ!』
ドガンッ! ドガンッ!
ガンッ! ズガンッ!
『きゃああああ! 星君!』
『クソがっ! もう逃げるしかねぇ!』
四発ほどの耳を劈くような音に続いて聞こえた女の悲鳴。秋元は思わずヘッドホンを落として椅子から転げ落ちてしまった。周りの同僚や先輩も驚いて秋元を見て、付き添いの上司は慌てた様子で近寄った。
「どうした秋元」
「い、いえ……耳が死にそうです……」
「なんだ? また悪戯か? 悪質だな」
「ち、違います。あれは銃声と女性の悲鳴です!」
「何だと!?」
上司は慌てて秋元が落としたヘッドホンを耳に当てる。すると誰かが騒いでいるような音や声が聞こえ続けていた。誰かの名前を呼んでいるような声はどこか遠くのように感じられたのだった。
そしてその日の夜のニュースで次のような報道がされた。
『夕方六時ごろ、――県――市のコンビニエンスストアで強盗事件がありました。強盗は男一人であり、銃を持ってバイトの女子大生を脅していたようです。その際に偶然コンビニへと入ってきた男子高校生が銃撃を受け、病院に搬送。死亡が確認されました。
既に犯人は捕まっており、警察の取り調べに「銃は家庭用3Dプリンターで部品を製造して組み立てた」と供述しています。また警察は設計図の入手ルートの捜索も―――』