古の双鎖にて2
「ねぇ、ママぁ?どうしてママと空を飛ぶときは風圧も寒さも感じなかったのかな?」
私は木製椅子の背もたれに胸をもたらせながらギシギシと椅子を揺らしていた。はぁ、今日のトレーニングもきつかった・・・。私はママと夜空を飛び戦闘機と交戦したあの日以来、身体的なトレーニングと飛行訓練に一層取り組んできた。
しかし、問題があった。一向に飛行時の寒さや風圧に慣れることができないでいたのだ。そのせいで飛行時には速度を出せなかったり、目を開けることができない。なので今の私にできることは凧のようにゆらゆらと空で揺れるだけである。これでも大きな進歩なのだが。
「それはね、防護膜を張っているからよ」
ママはそう答えると、難しい文字で書かれた厚さ5cmくらいの本をボムッと閉じて私を見た。
「あっそれだ。前も言ってたよね?でもそれっていったい何なの?」
私は自己を守る正体不明の膜について前からたずねようと腹の中に思っていた。だけども、トレーニングの疲れからかいつも忘れてしまうのだった。
「あれは希ガスのアルゴンを主成分にした気体の膜なんだ。希ガスって知ってる?」
「うん、知ってる。学校で勉強したなぁ・・・。ネオン、アルゴン、ヘリウム・・・えぇと、とりあえず反応性が薄いとか単体でいるとかそれぐらいしか覚えてないなぁ。へっへっへ・・・」
ずっと前に学んだこととはいえ、思い出す内容に自信を持てないのが少し恥ずかしかった。
「うふふ、まぁそんなものよ。私の防護膜は大気中にあるアルゴンを強いプラズマでイオン化させてつくってるの。このイオン化したガスは熱と相まって、たいていの金属を触れるだけでえぐり取るくらい強い力をもつものなのよ。例えば防護膜にすれば機関銃の弾くらいならば耐えられるわ。」
「は、はぇ~・・・。やっぱりすごいんだねぇ、ママ。でもどうしてアルゴンなの?」
「そこらへんの大気に比較的多く含まれてることが一番の理由かしら。それにアルゴンは一度イオン化すると単体には戻りにくい性質があるの。つまりほかの希ガスに比べて、防護膜が簡単に作れて強くかつ長持ちするってことなの」
「プラズマを発するのも大変そうだね。」24歳、すーぐ知ったかぶりをする。
「そうよぉ、大変なのよぉ?このプラズマを生成する力こそが、人間たちの想像する実際の魔力であって、操ることが魔法、と言えば納得いくかしら。でも特別な力じゃない。大昔はみんなやってたことなのだから。・・・あきらちゃんもやってみる?」
「ひぇ、うそ!できるの!?」
自分に翼が生えた時点で何も動じることはないと思っていたが、まさかプラズマまで繰り出せるとは・・・。ここまでいくと何でもありだ。
「えぇと・・・、大気中に含まれる気体の種類を鋭敏に判別するための受容体活性化と、放電現象を意図的に引き起こすために必要な血中含有金属の比率変更と重金属への耐性強化、磁器発生を精神的に制御する神経の追加、表皮細胞の耐熱能力向上とプラズマ安定化のための翼先端部におけるスタティックディスチャージャー化、その根本である幹細胞のレシピ変更は・・・。」
ママは上斜め45度を見上げ、なにやら私に必要な処置をぶつぶつとつぶやきながら思い出しているようだ。
「なーに言ってんのよ?ママ、ごはんよぉ。」
そう言いながら厨房の影から現れたのは竜輝だった。
この10歳くらいの年に見える桜色の髪をした少女は、その瞳と同じくらい鮮やかな黄緑色のサラダが入ったボールをテーブルまで運んできた。ドスっと置かれたボールの中には水菜とトマト、スクランブルエッグがたっぷり入っており、クルトンが別のお皿で供された。少女はとりわけ皿を私とママの前に配膳した。
「んふ、今からパスタをゆでるの。サラダを食べながら待っててね。」
やや釣り目気味でいかにも気が強そうな目をしているが、家庭的で温厚な少女である。尤も、少女は数百年を生きており、私が少女と評するのは妙な感じがするものだが。
「ぅ?ありがとう、竜ちゃん。今あきらちゃんの遺伝子をね、新しく解放する必要があるねって話してたのよ。」
ママはそう言いながら、サラダトングに手を伸ばしてサラダを取り分けた。
「へへへぇ、なんだかすごいことになりそうなんだけど、大丈夫なのかな・・・。」
私も笑顔を引きつらせつつ、たっぷりとサラダを取り分けた。竜輝はいつも私の食事の内容や順番を気にする。とくにサラダを最初に食べることは、栄養吸収や消化、エネルギー量の安定化(一日のエネルギー量が不安定だと筋肉の回復を妨げるようだ)という面で食事をより効果的なものにしてくれるのだと言い、すすめる。
さらに少女は生物の強さは遺伝子によって決まるモノではなく、日々の食事によって後天的に決まると主張する。
「うふふ、いただきましょうか」
「うん、お腹すいたよ。うしし」
テーブルに向かい合う二人は、合掌してサラダに取り掛かった。ところで竜輝が精霊の友達からもらってくるお野菜はどれもおいしい。私は今まで野菜を好んで食べようとは考えなかったが、今ではうさぎのように食べずにはいられないのだった。
サラダを中ほどまで食べると、竜輝が白いお皿に素パスタを盛ってきた。
これはオリーブオイルと粉にすりおろしたハードチーズ(味の濃いもの!)、わずかなコショウで食べるパスタビアンカにするためのものだ。彼女によれば、パスタや米といった複合的な炭水化物を摂ることは素早いエネルギー補給となり、その役割は瞬発力のある激しい動作のエネルギーとして消費される。
一方、オリーブオイルなどの油脂類は長時間の行動に必要な持久力を供給するエネルギーとして緩やかに燃焼されるというのだ。こうした栄養やエネルギーの両特性をバラエティ豊かに取り入れることで、確実に明日への血肉にしてゆけることが食事の髄らしい。
実際、食生活を健全にすることで私の体はみるみるうちに引き締まり、戦士の肉体としての片りんを見せ始めた。
「食事ってこんなに楽しかったっけなぁ・・・」
私は24年間の人生を振り返りながら、頭の中で自問した。
両親と共に団欒を囲んでいた昔の日々のことを、私は思い出せない。
覚えているのは、共働きの両親が置いて行ってくれた冷えたご飯のみ。忙しい日々でもたしかに両親は水滴で濁ったラップの下に冷たくも愛を盛っていってくれていた。
しかし、独りで食べる夕食は美味しくはあっても決して楽しくはなかった。一段光度が落ちた天井灯の下の食卓にはどこかやるせなさがあった。今思うに私の頭が賢ければ、私は両親ともっと一緒に団欒に居られたに違いない。今の食事が楽しい分、どこか罪悪感を感じるのだった。
「ん?なにか言った?」
竜輝は自分のパスタの皿と一緒に生ハムが数切れのったお皿を運んできた。生ハムの皿を食卓の真ん中にごとりと置くと竜輝は椅子に腰かけた。
「ふぅ、私も食べるわよん」
「うふふ、いつもありがとね、竜ちゃん」
そう言いながら、いつの間にかパスタまで片付けたママは、生ハムを3枚自分の皿に移し、竜輝にサラダを取り分けてあげると、ポットから自身のカップにコーヒーをなみなみとつぎ、一口すすった。
「このプラズマ利用のための遺伝子の解放は、激痛を伴うことはないけども、空気に対して今までとは違う感覚を覚えるかもしれないからそこを留意してね」
「今までとは違う感覚・・・?」
「例えば、空気に対して感じる匂いとか、感触、味とか。体内の受容体を増やすことで空気の変化に対してカナリアのように鋭敏になるの」
「も、もう人間じゃないみたい・・・。怪物じゃない?」
「うふふ・・・本来の人間に近づいていってるのよ、本来のね。将来的にはあきらちゃんがなすべきことの一部を見せてあげる」
そういうとママはカップを置き、テーブルから少し離れて立った。そしてにわかに両手を合掌させてそのまますり合わせ始めると、ビチッ!という大きな破裂音がした。
その刹那、手の周りに小さな青白い稲妻がはしり始め、それを伴わせたまま、ゆっくりとママが胸の高さで真一文字に刀を抜くしぐさをすると、みるみるうちに手の中から青白い半透明の剣があらわれるのだった。
私は目の前で起こるあり得ない光景に絶句し、ただ口を開けてみているしかなかった。
「希ガスとプラズマを練り合わせて生成する武器の一つよ。組成にもよるけど、戦車砲の弾頭くらいならお豆腐のようにスライスできるわ」
ママの顔は青白い剣のかげろうに照らされてあやしく揺らめいている。
「ひぇぇ!そんな危ない物を扱えないよ!」
「大丈夫大丈夫、確かにとても危ないものだけどちゃんと使い方を練習すればこんな便利なものないのよ?」
そういうとママは懐からパンを取り出し、それを剣でさっくりと切った。する断面がきつね色に焼き上がり、香ばしいにおいを放つパンが二つできたのだった。
「ね?トースターいらずでしょ?星剣アルゴニックセイバー、なんちゃって。」
ニコニコとママは微笑むが、そういう問題ではないと思うのだ。
「ママが料理を失敗する理由ってこれじゃあ・・・。」
竜輝はサラダボールの向こう側からジトリとママを見つめた。
「えへへぇ・・・まぁ、心の準備ができたら言ってちょうだい。今回は身体的要件は何も求めないからあきらちゃんの気があればいつでも。でも前回とは違って解放箇所がかなり多くて発現までに少し時間がかかるから、お早めにね」
ママがウィンクをすると剣はバチンッと一閃、青い煙となって蒸発した。
「うん、でもいいの?ほんとにわたしで。それにそろそろやってくるんでしょう?ママの敵が。私、間に合うのかな・・・?」
そう、私が解放を受ける本来の目的は脅威に対抗するためであるのだから。重要なことにどんなに能力を得たとしてもやつらの襲来に間に合わなければ意味はないのだ。そして私は本当に戦えるのだろうか。ほんとうに?圧倒されなすすべもなく、命を失うとしても?
「信じてる。そして時間ならまだ大丈夫。この部屋の時間は外よりもゆっくりとゆっくりと過ぎているの。あきらちゃんみたいに努力ができる強い子がこの部屋で特訓をすれば、すぐに私に近づけるんだから。」
「う、うん。頑張るよ・・・」
自分の能力がそこまで優れているとは思えないが、ママがそう言うならば信じるしかない。
いいだろう。
私はおもむろに脱衣し、下着姿になって解放を受ける決意を示した。
「うふふ・・・うーん、体つきが変わったわね」
ママは私のおへそを指で撫で、軽くキスをした。
「ぅおっほぉ!?ママぁ!?」
その冷たくみずみずしい感触がくすぐったかったので、思わず変な声が出てしまった。
「ふふふ、始めましょうか」
前回もだが、解放をする前にあやしいことをすることがママの決まりなのだろうか。小さな女の子にもてあそばれている気がして複雑な感じがするのだが・・・。
ママは、前回の解放とは違い5cmほどもある分厚い本を広げて謎の文章をところどころなぞり始めた。するとなぞられた文章はポッと燃え上がり黒いすすとなって消え去った。しばらくするとママは別の頁に進み、文章をなぞっては燃やす作業をひたすらつづけた。
それを見ていると私の体はだんだん内側から熱を発するようになり、気が付けば全身が日焼けをしたときのように赤くなっていた。それにのどが渇き、唾も出ないので口の中がからからに乾いた。熱い。暑いではなく熱いのだ。全身の細胞から熱が噴き出し、とにかく苦しい。
冷気を求めてさまよう私を見て、ママが口を開いた。
「竜ちゃん、冷たいお水をあきらちゃんに。食塩水である必要はないわ。」
そう言われると竜輝はピュウと厨房からあらわれ、氷と冷水を満たしたジョッキを私に手渡した。
「あ、ありふぁとう・・・。」
ろれつが回らない程、のどが渇いていた私はそれをガブリガブリと怪獣のようにあおった。一息もつかぬ間にジョッキを空にすると、すぐさま竜輝はお代わりを持ってきた。私はその二杯目もあっという間に飲み切った。のどの渇きが収まらない。まるで砂漠のように体が水を吸収してしまう。
「とびっきりの冷水をどんどん飲んで。解放には、体が燃えるような感覚に苛まれる場合もあるの。普通の体温上昇ではないから、汗が出にくいの。冷たい物を摂取するか、氷を当てて体の熱を逃がしてちょうだい」
「う、うん・・・」
翼の時よりかは痛みはないが、これはこれで中々きつい。体はとても熱く感じるのに、不思議と汗をかかないのだ。そしてしばらくしてから猛烈な倦怠感が襲ってきた。
熱中症のような感覚だ。しかし筋肉の張りはない。むしろ力が入らないので弛緩している。ついに私は思わずフローリングに倒れこんでしまった。背中に感じるフローリングのひんやりした冷たさが気持ちよかったが、すぐにそれはなくなってしまった。
すぐに別の冷たさを求めかろうじて転げまわったが、やはり行った先々で床は暖かくなってしまうのだった。竜輝は私を拾い上げると氷のうを両脇と頭、脚に敷いてくれた。後で知ったことだが、末梢血管を冷やすことが体温を下げることに有効らしかった。
「うぅ・・・あぅ。」
私が苦しそうな声を漏らすと竜輝はまるで熱を測るかのように私の額に彼女の額をくっつけた。そして彼女は何かに集中するように目を閉じた。すると徐々に彼女の顔や首が汗ばみ始め、一方、私の猛烈な火照りは幾分か和らいだのであった。彼女は私のほてりがやわらいだのを呼吸の落ち着きから察すると、片目だけを開いて私に言った。
「どう?少しは楽になったでしょう。あなたの熱を奪って私の体で蒸散させてるの。やらないよりかはマシかもね」
「うん・・・ありがとう」
砂漠のような熱帯地域の暑さから逃れるために、人肌をくっつけ合うことが有効だとは聞いたことがある。
「ごめんねぇ、もっと早く終わらせたいんだけど施錠遺伝子の切断を早めるともっと体が熱くなっちゃうんだよねぇ。今は半分くらい終わったかな」
そういうママの指の動きはさながら高性能な印刷機のように機敏で的確だ。
「うん、気を紛らわせるためにどういうことをしてるか話してくれる・・・?」
「今やってる作業はあきらちゃんの遺伝子鎖に含まれている施錠遺伝子っていうものを焼き切っているの。これは私がかつてイントロンのなかに組み込んだ抑制遺伝子の一種よ。これを取り除くことで失われた能力を再び発現させられるってワケ」
「はぁ、はぁ・・・翼の時とはやり方が違うね・・・」
「今回は複数の解放だからね。間違えないよう箇所を確認しながら作業を進めているの」
「ごめんねぇ、こらえ性のない子で・・・」
「放射線熱はだれにでも耐えられるほど、生ぬるい物ではないよ。とくに複数の箇所を焼き切ることはそれだけ多くの熱を生むことになるからね」
私はすぅっと大きく息を吸うと、体内の熱を追い出そうと一気に息をはいた。それを5回ほど繰り返した。
「あともう少しよ。発現させるためのコードを実行してるから。頑張って」
コード?それを聞いて私は仕事のことを思い浮かべた。遺伝子とプログラムコードはどこか類似性を感じさせる存在だと思ったのである。どちらもハードの稼働に必要なソフトだからだ。
「あははぁ・・・私もママみたいなお仕事をしてたんだよ。コンピューターのソフトを作ったり、考えたりするの。なんだか似てるなぁって思って」
「あきらちゃんを選んだ理由は、それもあるんだよ」
「え?」
意外な理由に私は耳を疑った。なぜ、それが私を選ぶ理由なのだろう。
ママは本を青白く光らせるとばたんと閉じた。その彼女の額にはうっすらと汗の玉がうかんでいて、この作業は彼女にとってもつらい物であることを感じさせた。
「ひゅう、終わったよ。ここで10日間もすればすべての発現は終わるはずよ。しばらくここで休養してちょうだい。頑張ったわね、あきらちゃん」
「はぁ、終わった・・・あはは・・・」
終わったことに安どすると、理由などはどうでもよくなってしまった。体は熱いままだが、気分がいい。いつの間にか膝枕をしてくれている竜輝はぐったりとしている私の頭をやさしく撫でてくれた。
「えらい、えらい」
「えへへ・・・」
私はおかえしに竜輝のちいさな頬を撫でた。もしかしたら彼女は、ママよりもお母さんらしいかもしれない。
「私、戦うの、頑張るよ」
不意に私の口から決意がこぼれ落ちた。一つ試練を乗り越えて、胸の中の達成感が決意を喉の奥から押し出したせいだろうか。いずれにせよ、これは私の本音だった。
「苦境の中を生きたつよい人間たちには共通している点があるものよ」
「へ?」
「試練に対して敢然と立ち向かうことを是とすること。決してあきらめず、打ちのめされても立ち上がり、変わり続けること。誰かのために役立ちたいと願うこと。それらの共通点が、強い人間にはみられるわ」
「そんな人になりたいな」
「・・・強い者たちは必ず正義感をもつものよ。だけど危険なことに正義感の方向性は多種多様なの。二つの強い正義感がぶつかり合うことが大きな戦争になるのだということを忘れないで」
「うん・・・」
さらにママは続ける、真剣な表情で。空気が、ツンと張り詰める。
「近い時期に飛来してくる星女たちも強固な己の正義感を以て私たちを襲撃してくるわ。強固な正義感、それ故にとても強いの。私たちはそれを上回る正義感を以て対抗しなきゃいけないことも忘れないで」
「あぅ・・・」
ママの真剣な表情とセリフに思わず自信が揺らいでしまう。私が口にした決意は正義に反する程、軽薄なことだったのだろうか。しかし、ママは一転表情を柔らかくし、微笑んだ。
「でもママは安心しちゃった。あきらちゃんの決意が口から溢れるほど前向きだった、なんて。多くの人は一度痛い目を見るとしり込みしちゃうけど、あきらちゃんは逆に前向きに自分の正義を以て進もうとしましたとさ。力を授けて、正解。今回も合格ね、頼もしいわ。うふふ・・・」
ママの微笑みを見ると一気に緊張がゆるみ、大きなため息が出た。その折に、背中にゾクゾクとした感覚がはしると、あの熱さがぶわっと蒸し返してきたのであった。ため息をつく瞬間まで熱さを全く感じることができなかったのだ。心頭滅却すれば火もまた涼し、とはまさにこのことであった。
「ふぅ・・・」
私は頭についていた氷嚢をカラリと胸に抱きかかえると、竜輝の膝枕の上でごろりと寝返りを打った。彼女の浴衣が顔に擦れると桜餅に匂いがふわりとするのだった。
「やれやれ、無事に終わって何よりだわ。すこしまだ熱いわね・・・のど渇いてる?」
「うん。とても渇いてるけど・・・あっ、ちょっとおトイレに・・・。へへへ、失礼失礼っ」
私は不意にやってきた猛烈な尿意に突き動かされて、よろよろと立ち、ふらふらと玄関に向かった。この部屋の玄関は立てかけてあるプレートの種類を変えると、それに対応する部屋につながるという不思議な仕組みをしているのだ。例えば、トイレに行きたい場合は、プレートをW.Cに変えればよい。
トイレの他にもお風呂や庭園、といった一般の家庭にあるような部屋にアクセスできる。私は大抵この仕組みを使ってアクセスできるジムでトレーニングをひとり行っている。いまいち感覚を掴めていないが、部屋ごとに時間の流れが異なるようだ。
ジムは特にゆっくりと時間が流れるように感じる。そのほかにわずかに減圧されているという特徴があるみたいだ。運動をするとすぐにへばり、頭痛と吐き気がしてくる。軽い高山病に似たような症状が現れるのだ。しかし、私が短期間で身体能力をある程度進展させることができたのは、この環境のおかげかもしれない。
・・・って、あったあったW.Cのプレートだ。
ガチャッ。
私は勢いよく扉を閉めた。もうすぐそこまで鉄砲水が来ているし、なんだか氷嚢のせいでお腹を壊したような気がする。あいててて・・・。
「・・・間に合うの?ママ」
「正直、間に合わない。この部屋の時間に換算してあと10日もない。恐らくはすでに火星を通り過ぎている。地表の時間にすれば、あと24時間といったところね」
「あきらちゃんは、どうするの?」
「発現したとしても、武器として魔法を使いこなすだけの練習時間がない。でも、敵がどんなものであるか、どのように戦うのかを示すために戦闘の様子を見せなければならないと思う。そこから多くを学び取る能力があの子にはある。」
「わかったわ。見学してる間のあきらちゃんは私が守る。でも、ママはだいじょうぶなの?」
「頼もしいわ、竜ちゃん。海からはテっちゃんが援護してくれるから、きっと大丈夫。あの子もかなり頼もしいから」
「テスタメント・・・盲目と沈黙の深海王・・・旧支配者を繰る謎の力・・・」
突如、ママのペンダントが青く点滅し始めた。ママはそれを手のひらで優しく触れ、目を閉じた。しばらくの間、風もないのにざわざわと彼女の髪が揺れた。ペンダントが徐々に光を失いだすと、ママはゆっくりと目を開いた。
「キリバスの海辺にて岩礁に偽装した3個の亡霊部隊が、その沖にテッちゃんが繰る旧支配者1体が展開準備を完了したと」
「キリバス?世界で一番早く朝日を迎えるところ?」
竜輝がそういうと、どこからかノイズの混じった女性風の機械音声がそれにこたえた。
「・・・隠密性の確保と即応態勢を両立するためには、我々は暗い深夜のうちから準備を進めたい。それに加えて、迎撃のために少しでも早く夜の闇を白けさせたくもある。・・・彗星と星女どもの放つ光は我々のセンサーでも見分けが難しいからな・・・」
「迅速な準備をありがとう。私ももうすぐ行くね、テッちゃん」
「・・・・・・・・・・・」
沈黙が返されたがママはその真意を感じた。それは彼女なりの照れ隠しを含む複雑な沈黙なのだ。
ママは口数の少ない深海王が自らに忠実な友であると改めて痛感し、友のためにも自分はこの部屋で過ごす10日間を一切無駄にしてはならないと思った。
「テッちゃんはすでに戦場にいる。さぁ、私たちがあきらちゃんにしてあげられることを進めましょう」
「ええ!」
竜輝は握り拳を作り、ママに強く応えた。
こうして太古の昔より続く星の戦争が、数百年ぶりに幕を開けた。