夜空の飛びかた
地球の防人としての道を歩むことを決意したものの、私にはいまいちその実感がなかった。あたりまえのことだが、私には防人以前に社会人としての生活があるし、防人としてこれから何をすればよいのかを全くもって想像できなかった。そしてなにより社会人として背中に翼が生えたままでは・・・いやそれ以前の問題か。ママは翼を自在に消したりできているようだが、私にもそれはできないだろうか。
「ねぇ、ママ。これから私は具体的にどうすればいいの?あと翼の動かし方と消し方を教えてほしいんだけど・・・。」私は紅茶をすすりながら尋ねた。背中に翼が生えたせいで背もたれに身を預けることができず、背筋をピンと張らざるを得ないことにも少し困っていたが。
「うふふ、まずは体力練成を続けてちょうだい。とくに心肺機能の向上を重点的にね。戦いには持久力がなによりも大切なの。ずずずぅ・・・。」ママは傾けたカップの向こう側から目を細めて答えてた。そしてカップを置くと私の後ろに回り込み、無言で私の翼をわしゃわしゃとくすぐった。
「あははっ!?く、くすぐったい!やぁん、ママやめてぇ?」私はジタバタともがいたが、それでもママはいっこうにくすぐるのをやめない。
「いひひひひぃ・・・あははは!ぐるじぃーあはっあはっほほ、ゲッホゲホッォ!!」背中の翼に手が届かないのでママの思うがままに悶えさせられる私はどうにか翼をはばたかせて振り払おうとした。喘ぎあえぎながら、できるだけ大きく息を吸い下腹部と背筋に力を入れる。かき乱される脳みその中で翼へとつながる神経の糸を探り伝ってゆく。だが、どうしてもはばたかない。しばらくもがいているとママはくすぐる手をぴたりと止め、耳の近くでささやいた。
「んふ、新しい部位を動かすにはこうやって刺激を感じて、動かそうと意識することが一番手っ取り早いの。俗にいう『開発』ってやつだね。うふ、ふふふ・・・。」怪しげなアドバイスを不相応な童顔でいうのだからタチの悪い冗談のように聞こえる。でも確かにこうしたリハビリの方法には神経を意識して動かすという方法が一番にように思える。
「そして翼を消す方法はね。いつも通りホールを通って帰ると消えてるはずよ。あのホールにはあらゆる存在をある時期の状態にまで復元する力があるの。逆に能力を解放したまま世界に戻りたければ、そこの玄関から地上に飛び降りればいいのよ。本当は、この玄関が正式な世界への入り口なのよ。」そういうとママは私から離れ、玄関と呼ぶ木製のドアを開いた。そこにはやはり青く美しい成層圏の光景が広がっていた。
「でも、私こんなところから出たら死んじゃうよ。」そうだ、一歩踏み出せば生命の存在を許さない強烈な放射線と無酸素の環境を通り抜けることになるのだ。それにとてつもなく寒いだろう。今の私では到底通り抜けることはできないように思われた。
「大丈夫よ、防護膜をかけてあげる。それに1人で巣立てるようになるまでは、私が一緒に飛んであげるか
ら。・・・そうね、ちょっと今から一緒に飛んでみましょうか。」そういうとママは私に何か光る霧をあびせかけるなり、私の手を引きあっという間に外へと飛び出した。
「うっ!!っちょ、ちょっと待っ・・・・!」ママに引かれた腕以外何にも固定されていない状態の私ははるか下の青い空に向かってゴゥと真っ逆さまに落ちる、はずだった。しかし、不思議なことに私たちの体は砂時計の砂が落ちるかのようににゆっくりと落下にしているのだった。そしてとてつもない高度であるにも関わらず風音も寒さも感じないまま、さかさまに落ちる私の体はふわふわとした柔らかな抵抗を受けているのであった。
私の足元には宇宙の黒と星々の明かりが絨毯のように広がっていて、横に顔を向ければ地球の青と宇宙の黒との明瞭なコントラストが境を作っているのが見えた。それをみて、わたしたち生命はほんとうに薄い層で森羅万象がもたらす死から守られているのだと理解した。地に顔を上げるとつないだ手の先に青白く輝く後光の中からママが微笑んでいた。守護者たる地球そのものが今わたしの手を握りしめていること、彼女の中で共に同じ時を生きていること、儚げなその微笑みはこの星の脆さそのものであると感じ、私は胸の中でこの星の住人として星を守らなければという使命感に駆られていた。神秘的な体験で完全に言葉を失っていた私をママはふんわりと翼を駆使して舞い背中から抱きかかえると、グライディングの姿勢をとった。そのとたんに眼下の島や雲が点から線となって視界から消えてゆく。
「ふわぁ・・・。すごぉい・・・。」楽な姿勢をとって、初めて私は言葉を発した。
「そうよ、翼で飛ぶってこういうことよ。私、あんまりはばたかないの。結構大変だから。こうやって滑空する時は翼を地面となるべく平行にすることがコツよ。で、速度が十分あるうちは翼の角度を変えるだけで高度を上げることができるのも覚えておいてぇ。」そういうとママは高度をぐいと上げて大きく大きく宙返りをしながら自由落下の風を翼に乗せて、まさに一閃、水平方向へさらに加速した。
「ひゃぁああ~っ!?」間抜けな声を上げてしまった私は、宙返りの間際に自分の脚を見てさらに間抜けなことに気づいた。なんとワイシャツと下着のみの姿で空を飛んでいたのである。
「うわ!あわわわわわ、ママ!ちょっと!私なにも着てきてないよ!さいてー!」誰かに見られるところではないが、もし公衆の頭上でこうした姿をさらけ出すことになってしまったら・・・。私の顔はあっという間に赤面沸騰してその様子を見たママはくひくひと笑った。
「あら?いけなぁい、忘れてきちゃった。でも大丈夫よ。この距離ならだれにも見えない。」
「ふぇええええ、ちょっとぉ・・・。ぐふぅ。」先ほどまで抱いていた使命感は一体どこに行ったのか。私はワイシャツをなるべく下着が見えないように目一杯引っ張り、下界の様子を気にした。すると眼下にはいつのまにか黒い大地とそれを覆いつくすような光のじゅうたんが広がっていた。つい先ほどまでは青い光を返していた海の上を飛んでいたのに、今では宇宙と寸分も違わない地上を飛んでいるのだった。ほんとうにどんな速度で飛んでいればこんなにもすぐに昼夜が逆転するのだろう。そして、こんな速度で私たちはどこに向かっているのだろう。
「ねぇ、ママ。私たちどこへ向かっているの?それになんだか高度が下がってきてない?」
「ふふふ、当機はあきらちゃん宅に向かって航路を進行中でーす。」
「えぇ?私の家を知ってるの?」
「もちろん、自分の娘の家を知らない親はいないでしょう?」
「そりゃあそうだけども・・・。あ、バルコニーにおろして!こんな姿で外に出たらやばいよ!」
「うししし、大丈夫大じょ・・・あ・・・。」不意にママの言葉がとぎれた。
「ん?どうしたの?ママ?」私を抱くママの力が強まるのを感じた。
「・・・うふふ、おでましね。あきらちゃん、息をしっかり吸っておなかに力を込めてて。」
「え?お腹?どうし・・・。」あまりにも唐突な言葉なので私がその意味をたずねようとしたその時、暗闇の向こうから小さなオレンジ色の光がぽつぽつと点滅した。
「んんぅ?」私が光の主に目を凝らしていると・・・。
ズンッ!という全身を揺るがすような重く鈍い音が私たちの全方向から三度四度響き、すぐさま厚いガラスが破裂したようなバリバリッという音があたりに散らばっていった。その状況の中で私は固く閉じなければならないはずの口をあんぐりとあけて呆然としていた。
「戦闘機よ!ちょうどいい!教えてあげるわ、飛び方を!」ママは今まで彼女から聞いたことのない大きな声を張り上げた。それと同時に世界がぐるりと大きく横に数度回転したかと思うと、グンッと背中のほうから全身に衝撃がたたきつけられた。そして今まで感じることができなかった風や音、寒さが一気に襲い掛かってきた。
「ェぁッッッ・・・!!!???」衝撃の跡にはお腹と胸を猛烈に圧縮される感覚が残り続けた。ママの言う通り息を吸おうにも胸をふくらますことができないので息ができない!!しかも体中の至る所からギリギリという不気味な音が風切り音の奥から聞こえてくる。痛みは感じないが、猛烈な力学に晒されている体はいつ限界を超えてもおかしくない状況だった。・・・2・・・3・・・4秒、普段なら意識せずに過ぎる1秒間が何十倍にも長く感じた。それでも私は必死で数を数えなければならなかった。この苦しさから気をそ
らすためにはそれしか方法がないと直感したからだ。ママは激しく軌道を変え続ける。もはや上下どちらの方向を向いているのかはわからなかった。
「あきらちゃん!わかる!?今は空に向かってほぼ垂直に昇ってるのよ!夜間は空の月や星を目印にしちゃあダメ!水面と夜空の月星はとっさの区別がつかないくらい似ているわ。機動するときに感じる重力のわずかな違いを感じ取るのよ!」
「かっ・・・、感じ・・・取る!?」私がそう言い終わろうとした瞬間、急に世界が私を除いて静止したかのような感覚がした。防護膜の光の粒子があらためて私たちを包むとふんわりとした無重力を感じ、風も音も感じない最初の平安がもどってきた。それが何秒続いたのかはしらない。だがわずかな時間でも極度の緊張から解放されたことで、私の頭は興奮状態でありながら今の概況を理解する程にまで冷静となった。・・・逃げ切ったのか?いや!否ッ!違う!私たちは上方向にむかって進んでいたんだ。その加速度がゼロになったということは、この後の動きはつまり・・・。このあとを理解した私はママにわかるように大きく息を吸い込み、彼女の腕を強く抱き込むとママは両膝で私の太ももをしっかりとつかみかえした。私とママが一心一体となった気がした。
「いくわよ!あきらちゃん!」ママが合図を叫んだ。ボッという短い爆発音が鳴ると、私たちは大きくきりもみ状になりながら黒い海に向けてブレイキングした。向かう先から双発ジェットの戦闘機が猛然と一直線に突っ込んでくるのがわかる。私たちは意を決して、そいつの真っ平らな腹をスレッスレに飛びぬけることを悟られないようきりもみをしながら近づいた。狙いなど済まされていない戦闘機の機銃が火を噴くと私たちの周りでギンッ!とこすれるような金属音が数十発も鳴り響いた。・・・3!
機銃の雨を突破すると同時に数発のオレンジ色の光が瞬間的にわたしたちの視界を埋め尽くした。何らかの信管系爆発物が私たちに反応したようだった。だが、私たちの周りにはママの強固な防護膜が既に張り巡らされており、それは爆発の雲を難なく突き抜けたので私たちに害を与えることはなかった。私たちの後ろで光る爆炎が戦闘機の姿と位置をはっきりと照らした。・・・2!
もはや彼我の距離は目と鼻の先にまで迫っていた。しかし、私たちは突き抜けるコースを微調整するべく最後まで死の恐怖から目をそらさなかった。・・・1!
下腹部に力を入れ、覚悟を決めて・・・0!
私たちは戦闘機のピトー管を肩すれすれでかわし、金属が削り取られるようなガリガリという音を聞きながらエアインレットを頭ぎりぎりのところで交わし抜けた。そしてその瞬間、私たちは垂直落下からグライディングの体勢をとり素早く厚い雲の下に滑り込んだ。撒いたのか!?だが、胸の緊張感はとまらなかった。しばらく私たちはお互いにかける言葉もなく無言で滑空していたが、スカイツリーらしき建物が見え始めた時、ママがようやく口を開いた。
「撒いたわ。もう大丈夫よ、あきらちゃん。」それをきくと私はとても長く息を吐いた。
「ほ、ほんと・・・?」かすれたような声をだしたあと、徐々に生きているという実感が熱と一緒にのどをのぼってきた。そして目頭が熱くなり、視界がぼやけたかとおもうと、すぐに悲しくもないのにツンと鼻孔が狭くなり嗚咽と涙がとめどなくあふれ始めた。
「うぐっ、ひぐぃ~ん・・・・。」
「あはは・・・うん、よしよし頑張ったね。んん、いい子よ。もう大丈夫大丈夫、あきらちゃん。あっはっは。」
「ぐっ、ご・・・怖”か”っ”だの”ぉ”・・・。」みっともなく本音と涙をたれながす24歳にママはぐっと頬を寄せる。
「いいのよ、自信をもって。あきらちゃんはやっぱり強い子、私の子なの。」
「ぐっ、ぐぶぅ・・・。」
「私の加護をまとっていたとはいっても、飛行機動の高いGに耐えられたことはすごいことなのよぉ?常人ならせいぜい4秒、もって7秒ね。私たちが交戦した時間は大体一分だから、すごいじゃん?」
「ふぇぇえ・・・。」高ぶった感情で頭の中が雨後のあぜ道のようにぐしゃぐしゃドロドロになっているので情報の処理が追い付かない。もう裸ワイシャツ(下着は装備)で空を滑空していることなんてどうでもよいことなのだ。明かりがついた高層ビルの真横を通り抜けていたとしても。
「うぅー、それにしても滑空が楽だわぁ。あきらちゃんの翼がある分、揚力を受けやすいのね。上下に翼があるなんてまるでレトロな複翼機みたいね。」
「あぃ、そうなの?」
「そうよぉ。翼にもいろいろ種類があることは前にも少し言ったでしょう。私のは肩甲に主翼が2枚、腰に他よりも小さめの捕翼が2枚、そのすぐ下、お尻のちかくに主翼がもう2枚生えてるのよ。捕翼は飛行機でいうとフラップにあたる翼で、ゆっくりとした低速滑空をするときの揚力を生み出してくれるの。でも捕翼が小さいと揚力も小さいから早く落下しちゃうわけ。昔の複翼機はのんびり落ちるでしょう?」
「はぇ、今は私の翼がちょうどママの捕翼の下に複翼機状にひろがっているから、ママの揚力を補ってゆっくりと落ちれてるってこと?」やっと脳みその冷却が始まってきたので、私はどうにか要点をいうことができた。
「はいそうでーす。実はあきらちゃんの翼もおおいに使っているのよん。どう?自分の翼で飛ぶ気分は。」
「えへへ・・・まだよくわからないけど、嬉しいよ。・・・うれしい。」嬉しい、その感情は翼で飛ぶことに対してではなく、ママの役に立てているということに対してであった。そして、それを実感すると先ほど感じた怖さよりも自分をこの人(?)に役立てたいというほうの気持ちが勝るのであった。
私たちは蝙蝠のようにきらめく摩天楼のひかりを潜り抜けながら、私の住むマンションまで飛んだ。
「あ、家見えた!見えた!12階の右から三番目のバルコニーにおろしてぇ!」私はとっさに叫んだ。
「はいはい、ママはリサーチ済みでーす。」そういうとママは我が家のバルコニー柵まで近づき、ゆっくりと柵の向こう側に入った。抱きかかえられているママの腕の中からすとんと降りると、はだしの裏に感じるキンとした冬の冷たさと石畳の感触が私を迎えた。ママは私を下すと少し浮き上がって柵の上にふんわりと腰を掛けた。満月と翼を背負ったママは月の使者といわれても違和感のないくらいハマっていた。
「ありがとね、ママ。なーんだか空を飛んできちゃったって信じられないなぁ。」
「うふふぅ。早くひとりで飛べるといいね。」ママは手と足をパタパタとさせてはばたく仕草をした。
「うん、頑張るよ。いろいろ自信はないけど。」まったく先ほどの泣き顔はどこにいったのか。私はママに向かって軽く舌を出し、ウィンクまじりの笑みを浮かべて見せた。すーぐ調子に乗ってしまう24歳であった。ふふふっとお互いに笑い見つめ合っていると、じんわりと足元から寒さが昇ってきた。私は右足を左足のふくらはぎにくっつけて暖をとろうとした。
「寒いわね。おうちに入りましょうか。」ママは柵からぽんと降りるとガラス戸のカギに向けて手をかざした。するとカギはひとりでに動き、カタリとはずれた。
「ママ、どうぞ中へ。汚い部屋だけども。初めて会った時のコーヒーのお返しをしたいの。」私はそういうと部屋の中にいそいそと入り、ママの分のカップ一つだけをとるとコーヒーマシンにセットした。ありゃあ、水を入れるのを忘れてた。あらためて水を入れてスイッチオン、ヒーターが温まりだす。
「うふふ、覚えててくれたのね?ありがとう。でも、ごめんね。今日はこのまま帰らないと。急に飛び出してきちゃったから竜ちゃんがきっと心配してるから、ね。」申し訳なさそうにママは眉を下げた。
「あ、そっかぁ。そういえばほんとに突然飛び降りたんだよね・・・。」ママは私にうなずくと、くるりと背を向けた。
「来るときは、教えてね。部屋を片付けておくから。」ママはポンと柵の上に飛び乗った。
「うん。あきらちゃんも翼を一時的に消したいときだけじゃなく、寂しいときはまた私たちの部屋にきてちょうだい。ごはんもあるから。あら・・・これは私のセリフじゃないわねぇ。」ママは柵の上で片足を使って器用にこちらを向くと私の方を見て言った。
「じゃあ、おやすみなさい。あきらちゃん。」ママの右手がバイバイとやさしく揺れる。
「うん、おやすみなさい。ママ」私も右手を振り返す。
ママは柵をカツーンと蹴って宙へと飛び出すと、翼とドレスをくるくると回しながらあっという間に空のかなたへと消えていった。あぁ、行ってしまった。しばらく部屋の中からママの消えた夜空をぼぅと眺めているとパチンッというコーヒーマシンの出来上がりを知らせる音が響き、私ははっと我に返った。
私はやけどをしないようにシャツの袖越しにコーヒーカップを抱え、もしかしたらママがまだいやしないかと思い、バルコニーにもう一度出た。ピュウと一筋の風が吹き体が凍みる。しかし、手のひらが温かいので耐えられるのであった。見上げてママを探すがやはりいない。しかし、鋭く乾いた藍色の寒空に黄金色に光る暖かそうな月が浮かんでいてそれはママにも負けないくらいきれいだった。でも、このくらいきれいな月をどこかで見たことがあるような気がする。とても小さな子供の頃に?記憶の毛糸玉をほどきながら、月の姿をたたえたコーヒーをすすっていると、ママの羽だろうか一本の白い羽がふわりふわりと舞い落ちてきた。私がそれを右手に取ると、まるで雪のようにそれは手の中で溶けて消え去った。
残された私は右手を胸に当て、溶けた羽をおのれに取り込むしぐさをすると、地球の防人として生きることを満月に誓うのであった。