神話を繰るもの:あきら
各話の主人公を『:』のあとに明記するようにしました。
…どうする? …どうする!?
一つの波に心身とも揺さぶられた私は決断を迷っていた。いや、迷っているふりをしていたのだ。残された選択肢はもはや一つしかなかったものの、それが最も辛い道であるがために。
「ふぅ……ふぅ……はぁ……っう”ぅ”!?」
内臓の膨満感による吐き気がひどさを増し、肺を圧迫された今は深呼吸すらままならない。痛めつけれられているのは内臓だけでなく、筋肉や関節も同様であった。それらには今まで感じたことのない痺れが襲い掛かっている。
痺れは最悪の感覚だ。痛みの後にやってくる理由がよくわかる。それは痛みよりも痺れの方が不快な感覚だからだ。インディアンの言葉によれば痛みは俯瞰することができるが、痺れはそれができないという。つまりは、耐え難いものであるということだ。
……全身の激しい筋痙攣が始まった。疲労によって筋肉を動かすために必要なイオンのバランスが大きく狂い始めたのだ。こうなると手足のほかあらゆる部位は自分の意思とは関係なしに動く不随意運動をとり始める。竜輝を抱える手腕が大きく跳ねまわるので、私は上半身で必死に竜輝の身体を巻き込むように抱えた。
「うあ……ぅアぅ……かはっ、かはっ……」
声を発しても苦痛から逃れられないことには変わらない。早いところ搬送を終えて解放されたいと願った。だが、かろうじて頭をもたげると陸まであと1.2㎞はあることがわかり、この地獄がまだ序盤であることに絶望した。だが休むことはもちろん、速度を落とすことは許されない。私は力を入れる筋肉の部位をわずかにずらしそしてごまかしながら飛行を続けた。
肉体的な限界に達すると頭の中さえも痺れはじめ、口を閉じる気力がなくなり、眼前が白む。そして最後には世界から音が消えはじめる。そうなると自分の意識は現実世界から隔絶されて、闘争の場はおのれの脳内にある精神世界に移りゆく。そこは肉体的な限界を超えたものが、自らの勝利のために試される最後の場だ。
精神世界での敵は、己の内側にある苦難への疑問やあきらめの誘惑たちだ。それらに対して己の強固な意思というパンチを殴りつけることによって勝ちぬかねばならない。そのためには困難の中で己の意思をどんな稚拙な言葉であっても肯定していくことが絶対に必要なのだ。
……なんのために戦う?
頼りにしてくれるものたちがいるからだ!
……なぜ、諦めないのだ?
みんなと約束したからだ!!
……君の頑張りは誤った方向に向けられている。
私は常に正しい道を歩んできた!!!
……君は諦めるべきだ。
私を、私をなめるな!!!!
私は聖書でイエスがサタンを追い払うかのように、誘惑を一喝した。すると視界は急に晴れ、私は自分の脳内にある精神世界の試練から帰還した。つかの間の闘争だと思っていたが、ずいぶんと長く戦っていたらしい。私の身体は陸上まであと約600mの地点にまで迫っていた。
やった!ゴールに近づいている!
その希望が私の身体を再び溢れんばかりの気力でみなぎらせた。先ほどまで感じていた全身の疲労と痛みが吹き飛び、まるで別のエンジンがかかったかのように元気が止まらない。私は勢いに任せて一度一気に高度を上げ、前のめりに飛び込み ——トビウオのように—— 上昇と滑空を繰り返しながら前へと突き進んだ。
確かに竜輝がいる分、身体は重たいが、それでも先ほどとは違って今は遥かに軽く感じるものだ。
これが精神世界での勝利の報酬。自分の思っていた限界を超える、唯一の力。
そしてついに、私は浜辺に到達し、足首がつかるくらいの水際に降りると、そこから2、3歩ほど歩いた。だが、急に身体が歩くことを拒否しているかのように動かなくなった。歩くことだけでなく、瞬きをすること、呼吸でさえも。
まるで自分が石像になったようにじっと砂粒の一点を見ながら、何を待つまでもなくぴたりと私は立ち止まった。頭の中では耳鳴りがだんだんと大きく鳴り響きはじめると……
バチンッと何かが切れる音がした。
するとテレビの電源が切れるように私の世界は光を失い、辺りは闇と静寂に包まれた。
……
…………
………………
「おめで……ござい…な女の子……。」
どこからかとぎれとぎれに女の人の声が聞こえる。私の目の前には白い靄で目元を隠された女の人が腕を広げて近づいてくる。
「まぁ……しい……」
さらにもう一人の女の人の声が聞こえる。それはどこか懐かしい声。その声の主の腕の中に私の視点は移された。女の人は私の顔を覗き込んでいるようだが、私からはその人の口元しか見えない。まるで腕に抱きかかえられた赤ちゃんの視点みたいだ。
……赤ちゃん?
「なまえを……………のか?」
今度は聞き覚えのある男の人の低い声、これは…これは私の…!
「……きら……」
私を抱える女性が顔をもたげて、喜色あらわに答えた。言いたくて言いたくて仕方がなかったと、そんな抑えられない感情が言外に伝わってくる。
「あ……ら……。すてきな………だね。」
男の人もそれが心から気に入ったといわんばかりに、喜色を言葉に表している。
「……あきら」
「……あきら、ちゃん」
だんだんと声がはっきりと聞き取れるようになり、それによって私の名前が呼ばれたことがはっきりと分かった。
(おとうさん……? おかあさん……?)両親に話しかけたいのだが、私の口からは泣き声しか出ない。
「あらあら……元気な子ね……よしよし」
「女の子か……どんな男にもやれんな……」
「もぅ、お父さんったら気が早いんだから……うふふ。でも本当に私たちの宝子…」
母はそういうと私の頭を撫でてくれた。
……たから……か。お母さんにとっての、お父さんにとっての宝……。
私も、自分の子供に対して、そう思えるようになるのかな……。
……
…………
………………
ふと、目を覚ますと目の前にはいつもの暖色光を放つカントリーな照明器具が揺れていた。
起き上がり、周りを見渡すとそこは照明と同じようにいつもの部屋であった。そして寝そべっていたのもいつものママのベッド。何一つ変わらない、”いつも”たちがそこに鎮座していた。
「ふぅぅ……」
私は額に手を当てながら、大きくため息をついた。私の出産直後の夢……?
ははは……えらく昔の話の話ではないか。覚えていることなんてありえないはずだ。昨日食べたお夕飯の内容でさえ記憶に怪しいのだから。
もしかしてあれは走馬燈だったのでは? ……きっとそうだ、ひと仕事を終えて死ぬほど疲れていたし。
それにしてもなぜ私はここにいるのだろう? 私と竜輝は浜辺に倒れたはずだが、ママはどうなったのだろう? 私たちが部屋の中にいるのはママが運んでくれたおかげだとは思うのだが。それだと部屋のどこかにママがいるのでは?
ママを探すためにベッドから出ようと体を動かすと、シーツで覆われている私の右太ももに何かがあたる感覚を覚えた。どうやら隣に何か寝ているようだ。そっとシーツをめくると、竜輝が丸くなって眠っていた。最後に見た姿——裸体——のまま寝ているところを見ると、やはりあの浜辺からそのまま運ばれてきたのは間違いなさそうだ。
「あら、おはよう。あきらちゃん……」
ママの声が背後から聞こえたので振り向くと、ママが茶器をカチャカチャと携えながら厨房からあらわれた。そのときのママの顔は暗く沈んでおり、私の見たことがない表情だった。一瞬私はどう話しかけてよいか迷ったが、明るくいこうと思った。
「ママぁ!」
私はあまり大きくない声でそういうと竜輝を起こさないようにゆっくりとベッドから出た。
「ねっ? 戦いは、終わったの…?」
「今回はね……。だけど、またすぐに別のものがやってくるわ」
「あぁん……まぁ今回はお疲れさまということで……。そうそう、ママもだけど竜ちゃん、なんだかほんとにすごかったね。あの狼の姿ちょっと怖いかも……」
私がそういうとママはテーブルに置いた茶器から2人分のカップへ紅茶をつぎ、手しぐさでそれを喫茶するよう促した。
「ほんとよ。まさか竜ちゃんがあんな力を持ってたとは思わなかったわ。あのとき、私は……怖じ気づいていたのかもしれない……星女のもつ目的達成への執念にね。駄目ね、私は……あきらちゃんに強い正義感を以て戦いに臨むように説教しちゃったのに私が劣っていたなんて! もちろん、実力面でも最後まで敵わなかったか…」
私は早口でまくしたてるママに向かって、ウィンクを送り、人差し指を鼻の前にあて、”しーっ”と沈黙のジェスチャーを送った。お母さんが子供をしつけるときに使う意味ではなく、その逆の意味として。
「ママのいうことは正しかったと思うの。だから自分を責めないで。それよりも私の方が何の力にもなれなくてごめんなさい。」
「そんなことはないわ。あきらちゃんも、竜ちゃんを回収してくれてありがとう。おかげで竜ちゃんの身体には何の問題もないの。少し眠れば元気になるから。その…ごめんね、私色々ショックでぼーっとしちゃって頭の中がまっしろになっちゃって……二人が砂浜で気を失ってたことに後から気が付いたの」
ママは申し訳なさそうにお礼を言ってくれた。竜輝が無事であるのならば、私のしたことには意味があったのだろう。あの時の私の行動は恐らくママが言っていた”自身の中にある正義感”によるものだったに違いない。振り返った今、そう思う。
「いえいえ、ふふふ……ねぇママ? 私、その、やっぱりまだ何もママにしてあげられなかったよ、そう思う。でも、これからもっと何かしてあげられると思うのね。私、ママが言っていた正義感っていったい何なのかほんの少しだけど、分かった気がするの。それは命をかけてママや竜ちゃんの力になること、とりあえずはそんな感じかな。」
私のアンサーを聞いて、先ほどまで暗い表情だったママは至極安心したように微笑んだ。そして恥ずかしそうに一口紅茶をすすった。
「うふふ……またとても力強く成長したんだね、あきらちゃん」
「ししし、早くママにみたいになりたいなぁ…なれるかな?」
「すぐにでも私と比肩するようになるわ。でも竜ちゃんにも助けられちゃったし私の方が心配ね?」
それからしばらく二人はテーブル越しにお互いを讃えるささやかな歓談を楽しんだ。ほめたたえられるべき竜輝は未だに深い眠りから覚めないが、勇者として私たちの会話の中にいた。一応のハッピーエンドがここにあった。
(……お疲れ様、竜ちゃん。あなたが起きたら今日は私がお料理作るね)
このほっとするような温かな時間がいつまでも続けばよいと思った。この時間が終われば、また厳しいトレーニングの毎日が始まるのだ。そういえば、そろそろ会社にも出社しなければならない。あの暗い戻り路を通って目覚めれば、一時的ではあるがいつものだらしない私に戻ってしまうのが残念でならない。
(あぁ、そういえば有給の残りも少なくなってきたな……)
ギッギィッ……!
突如、玄関のドアが開いた。今まで一度も外からあけられたことのないドアが。
私はドアが外側から開くのを知らなかったので体を飛びあがらせて驚いた。恐る恐るドアの向こう側をみると真っ暗だが、わずかに靴で歩くような足音がこちらにやってくるのがわかる。
…ッ…ッ…コッ、コッ、コツ…コツ…コツ…
暗闇の向こうから聞こえる靴音は次第に大きくなり、そしてうっすらと何かの影がこちらへ向かってくるのがみえた。それは背の高く細い人のようなもの……ひと?
その影はいよいよこちらに近づくと玄関と部屋の敷居をギュウと革靴のようなもので踏んだ。たしかにそれは何の変哲もない上質の革靴であった。私は鏡のように磨き上げられた革靴のつま先をしばらく凝視すると、少し視線を上向かせた。そこには真ん中でぴっしりと折り目が付いたビジネス用のパンツをはいた細長い脚があった。そして形の良い太ももと丸みを帯びた腰も……これは女性?
その美脚の持ち主が一歩進み、部屋へと入ってくると部屋の温かな照明が、その姿を完全に露にした。
胴のくびれがはっきりした細身の黒色スーツと緋色の細いリボンタイ、そしてそれをのせているそこそこの大きさの胸(私よりも1カップ程度上だ)が、その人物が女性であることを明示している。一見して服装はどこかの会社の制服のようにも見え、ありがちなものだ。だが、その女性の顔は特別だった。
瞼を閉じた物静かそうな女性の小顔が、その制服の上にのっているのだ。その髪型は前髪をそろえた所謂ぱっつんヘアだが、後ろの髪には弱いドリーミーウェーブがかかっているようにみえる。両耳には空色をしたイナズマ型のピアスを携えており、この不思議なセンスである。
表情は……表情は完璧なまでに無なのである。口元を固く閉じ、一切の心情を表にあらわさないという気構えのみが外見から見て取れる。
身長は女性としてはかなり高い方だろう。恐らく170㎝はこえているはずだ。脚も長く、身体も細い、小顔なのに胸は十分にある……うぅむ、女性なら誰しもあこがれる理想的なスタイルだ。だが、何かがおかしい。完璧すぎる一方で私たち人間のセンスとは離れたそれを持っているようだ。
私はこの人物に対して”物好きな大人の女性”という印象を抱いたのだった。ママと竜輝の姿もまた物好きなのだが……(お姫様騎士と縁日の浴衣姿が日常的な姿、という人はいるまい)
「………………」
その女性は沈黙を決して破ることなく、ポケットに手を入れたままテーブルへと向かってきた。瞼は閉じられているが、不思議なことにその足取りに迷いは見られない。
対して、ママは厳しい表情ですくっと立ち上がり、女性に向かって歩みだした。
私にはいったい何が起こっているのかがわからなかった。だから、何が何だかわからないといった表情でおろおろと二人を交互に見つめるしかなかった。わかるのは部屋に張り詰めるピリピリとした雰囲気だけで、それから察するにただごとではないのだろう。先ほど感じていた祝賀的な雰囲気は一切消え去っていった。
(ひぇえ……なんでこんな雰囲気になってるの……一体これからどうなっちゃうの!?)