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ママの星  作者: ホモはメンヘルちゃん
10/21

ひとふれの海:あきら

「……うわぁっ!?真っ逆さまに落ちてくる!!」


 私は空高く打ち上げられた竜輝のなりゆきを浜辺から双眼鏡で見守っていた。竜輝は星女を握りつぶしてビリビリに引き裂いたあと、太い幹の塊でできた人狼の姿のまま海へと真っ逆さまに落ちていったのである。


 それにもかかわらずママは空に立つように浮いたまま、微動だにしない。ママの白い翼がわずかに揺れるだけで、どこか心ここにあらずといった感じだ。とにかく、この高さから海面にたたきつけられれば竜輝であっても無傷では済まないだろう。ママが放心している今、私がなすべきことは明らかだった。


 

 海面に落ちた竜輝を助けなければ…!



 私は柔らかな浜辺の砂に足をとられながら、まっすぐ海に向かって全速力で走った。


………やれるはずだ! 力にならなきゃ……!!



 私は背中の翼をぶわぶわとはばたかせると、確かに翼は力強く動いてくれるのだった。ほんの少し前には力なくしおれていたものだが、今では自分でも頼もしさを覚えるものに育った。そしてこの頼もしい相棒を動かすに足る心肺機能もまた以前の自分のものとは大違いだ。厳しいトレーニングを己に課し、心身ともにこの日のためにこれ以上ないくらい万全を期すことができただろう。



……にもかかわらず、今感じるこの胸のざわめきは何だろう。私よ、何が怖いのか?



 私は走りながら全力で翼をはためかせた。3…4…5秒、翼の生み出す浮力が体重に勝り、私の体は2mくらいの高さまで浮き上がった。


 もっと、もっと集中して体を浮かせないと!


 私は呼吸が乱れないよう、また心拍数が上昇しないよう意識を集中させながら、飛翔を続けた。マラソンなどの競技でも心拍数が毎分150回を超えないペースで負荷をかけ続けることが持久力の維持に肝要なのである。減圧された部屋でのトレーニングのおかげで、地上での呼吸と心拍数を維持することはかなり容易いことになっていた。



 100mくらいは昇っただろうか。遠くの海面に竜輝が浮いているのが見える。距離にして約3㎞。行きは滑空するので良いが、竜輝を抱えて飛行するとなれば帰路は厳しい道になるだろう。精神的に参ってしまわないように渇を入れなければ。

 

 そうして私はすっかり高さが分からなくなるほどの高度までのぼってしまうと、ぐるんと後ろに宙返りをして(ママが教えてくれたこの動作が好きだ)、頭から海へと急降下した。落下の最初にはふんわりとした空気を感じていたが、速度がのりだす数秒間のうちにそれは剃刀のようにするどい風となって耳元で鳴くのを感じた。風が大きく鳴けばなくほどよい、今の私にとって風は速度感を掴むヒントになると気づいたからだ。


 

 海面がちかづくと、私は翼の角度を海面と並行にして滑空の体勢をとり、竜輝に向かってぐんぐんと迫った。速度が早ければ早いほど航続距離が伸びるこの飛行スタイルは基本中の基本だ。だけども習得には時間がかかったと思う。速度を稼ぐために高いところから真っ逆さまに落ちて冷静沈着に翼の角度をコントロールするのは、昨日OLだった私にとってかなりの無茶ぶりであったからだ。今でも自由落下のときは少し怖いし、その時に感じる内臓が浮く感覚にはなれない(絶叫系の乗り物には絶対に無理)。


 だが、今は恐れおののいている場合ではないのだ。私はママたちと違って命を懸けてはいないし、戦う力も持ち合わせていない。それでもママの力になりたいと思った。だから、今私にできる数少ないこと――仲間を助ける——を全力で遂行しなければならない!



 漂流している竜輝に近づくと、その姿がはっきりと見えた。そこで彼女の姿がいつも通りの少女に戻っているのに、私はほっとした。あんなに巨大な樹の人狼を引っ張っていけるかどうかに自信がなかったからだ。そして見た限りどうやら竜輝は気を失っているようだ。


 私は海面に最低限だけ触れるタッチ・アンド・ゴー方式で竜輝を回収するために、高度を落とした。滑空と違って狙った地点に触れるタッチ・アンド・ゴーはやや高度な技術を要するが、それでも飛行の基本的な動作だ。しかし、今回それを困難たらしめている要因は波による狙点のゆれである。



 今、竜輝はあおむけで海面に浮き、波に揺られている。アプローチの前に少し頭を冷やして回収を確実にしよう。



 まず、この状況でできる搬送方法は、いくつかあるが単独で救急搬送する際に最もよく使われるお姫様抱っこ、通称横抱きが一番確実な方法だろう。傷病者にとって負担が軽く、また小さい手足を接点にする方法は、胴を接点にする方法よりも不確実だと思うからだ。


 だが、私の筋肉が上陸まで竜輝の体重を持ちこたえ続けられるかどうかはわからない。これは私の上腕二頭筋だけの話ではなく、全身の遅筋の持久力にかかっているのだ。加えて、まだ私の翼はママと比べて貧弱すぎる。つまり二人の身体を飛ばすには重すぎるかもしれないのだ。



 ではどうするか………。



 力尽きる前に陸につけばよいのだ!



 地と決心が固まったところで、竜輝と私の距離は100mほどの地点にまで差し掛かっていた。私はさらに慎重に高度を落とし、海面から約10cmのところを低空飛行した。


 波が私の服を濡らし、そのひやりとした冷たさに体が驚いたが、私は後頭部が痛むほど竜輝の身体に意識を集中させつづけた。



 50m…30m…

 


 10…5…3…


 1!!


 私は両腕を竜輝の胴の下に差し込んだ瞬間、バキッと奥歯を噛み締め、一気に持ち上げた。すると、ゆっくりと竜輝の身体は宙に浮きあがりはじめた。



 …やった!! なんとか身体をすくい上げることはできたみたいだ。だがしかし…



 重たい!重たいぞ!!



 竜輝の服が海水を吸っているのか、人ひとりの重さを軽く見積もりすぎていたのかそれともその両方かはさだかではないが、とにかく竜輝の身体が重たい。


「ひぃ…これは……まずぃ…」


 どうにか速度の生きているうちに浜辺の方にUターンし、浜辺までの距離の長さを目の当たりにすると、心にもずんと重りがのしかかってくる。精神的な重りは、質量をもたないが確実に足取りを重くし、幻の苦痛をその保持者に与える。自分の他に誰もかわりに背負うことができない重り。


 だが、それに打ち勝てるように私は己と対峙してきたのである。 こんなことでは負けられない!



 私はゆっくりと前に進みながら高度と速度を一定のものにし、また基本的なエネルギーの節約方法をためした。



…すっ、すっ、はっ…!


…すっ、すっ、はっ…!

 


 息を2拍小さく吸って、1拍で大きく吐くこの呼吸法はランナーが持久走で用いる方法である。これによって体内のガス交換効率が高まるだけでなく、呼吸のリズムも取りやすくなるのだ。生物の体内では酸素がエネルギー生産に不可欠な役割をする。故に、効率的で安定した酸素供給はこのようなときの持久力に大きく影響するのである。



…すっ、すっ、はっ…!


 (よし、いいぞ! だいぶん楽になってきた。)


…すっ、すっ、はっ…!


 (いけるいける! なんだぁ、たった3kmじゃん!)



 一筋の希望が見えたことで、心の重りはいくぶんか軽くなった。呼吸のルーチン化と精神的な解放感を得たことによる安心感で私の身体はにわかに活気づいてきたのだった。そうなると少し頭の回転が良くなり、妙なことに気が行ってしまうのである。例えば、竜輝の衣の重さが気になってしまう。



 (むぅ、竜ちゃんの浴衣、海水を吸っててとっても重い……脱がせられないかな……?)



 竜輝が先ほど変身した際には、浴衣はちりぢりに裂け飛んでいた。しかし、今は何も起こらなかったかのように竜輝を包んでいるのである。ということは、脱がせて海に投棄してもまた服は戻ってくるに違いない。そして幸いにも帯を解けばすぐにでも脱がせられる状態にまで浴衣はずれている。ここはだれの目もないし。


 

 …… 


 ……………剥くか…。


 

 私は浴衣の帯にかみつくと、首をぶんぶん上下左右に振って解いた。すると水を吸って重くなった浴衣は自然に竜輝の身体を滑り、海へと落ちていった。竜輝は一糸まとわぬ姿になったが、重さはだいぶ軽くなった。


 私はそういうつもりは一切ないが、気が付くと腕の中の裸体を凝視してしまっていた。そこには露になった部分は何ら人間と変わりない普通の少女のものがあった。


 それにしても本当にきれいな肌だ。ほんのわずかな桜色を帯びた限りなく白に近い肌色は、指でさすると高級な織物のように滑らかで柔らかいのだ。なんだか救助しているつもりなのにとても背徳的な罪悪感を感じてしまう。


 しかし、見とれているばかりではいけないことに気づいた。竜輝の身体からはいつものあたたかみが感じられないのである。海水に濡れているから一時的な体温の低下が起こっているのだと思うが、精霊という神秘的存在も衰弱すれば体温が低下するのだろうか。ともあれ陸へ急ぐ必要がありそうだ。

 

 さらに、もう一つだけ気になるものが目に入った。竜輝の右の横腹に大きな傷がついているのである。大きくて深い切り傷のようだ。傷口の形は汚い。おそらく鈍った刃物で無理やりえぐられた痕ではないだろうか。



 (竜ちゃん……。)



 私はこの傷と竜輝の過去に思いをはせた。


 竜輝はなぜ桜の樹の精霊なのに、人の形をしているのだろう。人の姿が仮の姿であることは、私たちが最初であった時に知ったことだが。それに先ほど人狼に化けた時は体中の皮膚や組織がビリビリに破けていたのが確かにみえた。でも、今は全て元通りに治っている…それでは、仮の姿に傷を残す意味はなんだ?



 何かの思い出をとどめるため?


 誰かとの?


 どんなことの?


 ……。


 

 突然、ザバンッと音がして大量の水しぶきが私の顔と竜輝にかかった。それは水しぶきというよりも波にちかいものだった。集中力が飛行よりも竜輝のことに費やされてしまい、その間高度の低下に気が付かなかったのである。



「ぶっ!? うぇえ、しょっぱぁッ! うああぁ、ごめんね竜ちゃん!」



 私は急いで高度を上げようとしたが、波によって呼吸が乱されたので、思うように力が入らなくなってしまった。これが路上のランニングならばリカバリーは楽にできただろう。しかし、これは翼による飛行だ。ランニングと比較して何倍もつらいものなのだ。それに走るのがつらいから歩くなどという甘えは許されない。


 呼吸の乱れが重なると空気の嚥下量が増え、胸と胃の張り、それに伴う吐き気があっという間に耐えがたいレベルのものへと変わった。空気嚥下による膨満感という苦しさからは簡単には逃れられない。そのことをトレーニングの中で幾度も痛感した私の本能は絶望に凍り付いた。


 さらに悪いことに竜輝を抱える腕や背中の僧帽筋、腹直筋などにジンジンと鈍痛がまとわりつきはじめ、全身の至る所から汗がにじみ出てきた。私は下半身を力なく垂れさげてしまいたいと思ったが、空気抵抗が増してしまうのを恐れて必死でこらえた。



 南無三宝……完全に油断した!


 どうする…? 陸まではあと1.5㎞はある…だがこのペースで飛び続けるのは、全身の疲労状態から考えると到底できないかもしれない…。


 一度、竜輝を海に浮かべて筋肉の回復を待つか……?


 いや、そんな悠長なことはできないし、本末転倒過ぎる。私はこの子を助けに来たのだから。



 どうする…? どうする…?


  




 私は抱きかかえている竜輝の横顔をわずかに目の端で一瞥すると、頭の中に一つの考えがよぎった。


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