表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ママの星  作者: ホモはメンヘルちゃん
1/21

青の暁

 小さいころは、絵本の世界によくあこがれたものだ。

 そこでは私はお姫さまで、悪い魔女に誘惑されてまんまと邪悪な術にかかってしまう。深い眠りに囚われた私。しかし、そこにステキな勇者様がさっそうと現れて、魔女と術から私を救いだしてくれる。今度は私が勇者様を誘惑して、二人は永遠の愛のもとに結ばれる・・・。そんな乙女の夢に目一杯の背伸びをした子供心を共感させて幼少期を過ごした。しかし年齢を重ね、身体も大きくなるにつれてそんな夢はだんだんと妥協的な現実志向になっていった。その結果、私は夢もなく希望もないついでに彼氏もいないのないないづくしの社会人となってしまっていた。いや、なったはずだったのだ。

 ・・・しかし今、私は何故ボロボロのドレスを着た少女を抱えて走っているのだろう。

 私たちは追跡者から必死で逃げている最中だった。腕の中の少女はひどい傷を負っていて意識混濁の状態にあり、息は絶え絶えだった。彼女のまとう空色の光は弱々しく、私が知っているいつものそれと比べるとまさに風前の灯火のようだった。それを見て私は何もしてあげられないのを知っていながらもその少女に向かって叫ばずにはいられなかった。

 「大丈夫よ!ママ!大丈夫!!」本当は大丈夫なんかじゃない。それでも叫ばずにはいられなかった。

 「大じょ・・・ッ」走りながら叫んだので私は激しくせき込んでしまった。そのせいで喉が激しく痛み、空気を吸うたびに肺のあたりも痛むようになった。少女を抱える腕はしびれ、もはや感覚がない。痛み、苦しみ、極度の疲労が絶望感へと変わった。私の顔は涙と鼻水で覆われ、先ほど大丈夫と叫んだにもかかわらずこれ以上走り続けることはできなかった。私はとうとう膝から崩れ落ち、ぺたりと座り込んでしまった。

 「うぅっ・・・ママ・・・。」背後から追跡者の足音が迫り、彼の大地を踏む揺れが一層大きくなりつつあった。もうだめだと思い強く目を閉じる。「・・・ごめん、ね・・・。」私はそうつぶやき、最後の力を振り絞って強く少女を抱きしめた。

 そして、強い風とともにあらゆるものがメキメキとぶつかり、砕け、割れるような轟音が私たちを圧倒した。


 これは地球ママ親不孝者わたしの物語。



 地元の大学を卒業後、東京の大手IT会社へと入社し、あわただしく色んな意味で辛い生活に嫌気を覚え始めた24歳の冬。私は父から母が突然死んだことを伝えられたので、式と身辺整理のために休暇を取って地元へ帰ることになった。母の体調は私が大学生の頃からあまり優れなかった。一人娘の私の学費と生活費を援助するために以前よりも一層と働き、家事も手を抜くことなく丁寧にこなしていたのでとても疲れていたのだろう。それが体調不良の原因だったのだ。死因は脳卒中だったが、過労が要因の一つだということは疑うまでもなかった。そんな母の娘である私は現代っ子特有の親不孝極まりない娘であった。しかし、そんな私も母にはできるだけ迷惑をかけたくないと思っていたので、バイトには励んだつもりだった。それでも私の稼ぎが少ないこともあり、結局は母の懸命な施しに大体依存していたのだった。だからこそ勉強を頑張って、良い企業へ就職できた時は本当にうれしかった。これからは母に恩返しができるのだと思えたのだ。しかし、母の死はそんな矢先の出来事だった。人生とはなぜこうもうまくいかないのだろうか。

 母が至上の支援者である一方、父と私の関係はかなり微妙だ。父は幼いころから私の進路に一切口を出さず、意見を尊重してくれた。だからあまり会話をした覚えがない。父の職業は運送業で、夜に仕事に行くことが多かったことも会話が少なかった理由だとおもう。そんな寡黙で無関心(?)な父だが母の死を告げた時は、初秋のヒグラシのような寂寥感を声に含ませていた。母の死を認め切れていない、現実だと信じられない感覚。それがおそらく生まれて初めて抱いた父と私の共感だった。



 実家に到着し、少しの挨拶の後父と集まってくれた親戚一同で式の準備を進めることになった。式典について何もかもわからない世間知らずの二人がこうした準備に取り掛かれるのも、母の親類や友人が親身になって手伝ってくれたからであった。式の出席者は20人程で母の人望の厚さがうかがえた。しかし今日は通夜のはずだが、すでに空気はお葬式の様相を呈していたのだった。私は不思議に思った。教科書にも載る有名な聖女は、あなたが死ぬときは周囲が笑っていられような生き方をなさいという趣旨の言葉を述べていたが、母のような善人でさえも死に方を選ぶことはできなかった。どんな生き方をすればそのような死に様が見られるのだろうか。苦労人と善人の通夜では、華として咲くはずの思い出話も残された者たちにとって慰めの出来損ないにすぎない。

 「あきらちゃん、本当に残念ね。」母の妹にあたる親戚のおばさんがハンカチで涙をぬぐいながら、私に語りかけた。おばさんのハンカチは涙の塩気と水を含んでしわくちゃになっている。「おばさま、お忙しいところ御足労いただいてすみません。」おばさんがハンカチから目を上げながら応える。

 「いいのよ、あたしにできることなら何でも言ってちょうだい。ねぇ、私、本当になんて言ったらわからないけど・・・元気を出してちょうだいね。あきらちゃんみたいな子が娘さんだなんて・・・お母さんはきっと天国の集まりでも鼻が高いわ。だから安心してちょうだい。お母さんきっとあきらちゃんを応援できて幸せだったんだわ。えぇ。あぁ、もうこんな時間。ごめんなさいね、お邪魔しちゃって。じゃあ私はお葬式の業者と打ち合わせに行ってくるわね。」おばさんは、まくし立て終わると玄関先にきた葬祭業者のもとへ駆け寄った。私は自分のやるべきことはないかと思案を巡らせた。しばらく考えていると横目に親戚のおじさんと父がテーブルを持ち寄ってきている様子が映ったので、この後必要な店屋物のことを思い出した。私は頭の中で式出席者の人数をカウントし、今から注文するものの数量を確認するとホコリ被った固定電話から寿司屋へ電話をかけ、ソラで注文を読み上げた。



 忙しくも親戚一同の協力で葬祭は首尾よく終わった。だが式を終えても母の死の実感は意外なほどに薄かった。母の遺体を目の当たりにしても、ずいぶんと精巧な人形だなと思ったほどである。こんな私は薄情だと思われても仕方がないだろう。だが、それが心と体の現実逃避の結果なのだということはすぐに理解した。現実を認めてしまえば、きっと私も父も耐えられないだろう。だから私と父は現実からより遠くへ逃れるべく、母の形見などの身辺整理に取り掛かった。母の死を否定することは、すなわち母の存在を否定することである。残された二人の任務は、非情な魂の暗殺者になることだった。

 「あきら、すまないが整理のついでに屋根裏部屋の中にネズミがいないか見てきてくれないか。」父がアルバムの整理をしながら、ぽつりと言った。「え?・・・うん・・・。」私は戸惑いながらもそれを承諾した。遠い昔に忘れかけていたことだったが、2階の両親の寝室にある押入れの天井板は押し上げて取り外すことができたのだ。そこには屋根裏部屋というほど広いものではないのだが、少しの物を収納することができる空間があったのだった。私はペンライトを握って押入れに入り、幼いころの記憶を頼りに天井板を探り当て、それに手をかけた。その瞬間、板がガタガタガタっと揺れた。何かが板の上を走り去っていったようだった。あまりにも予想外の驚きだったので、放心状態の私はわずかに遅れて「うわぁっ!?」と男らしい叫び声をあげてしまった。さっきのはネズミ・・・?えー・・・嘘でしょ・・・?近年は輸入された愛玩用げっ歯類の野生化が著しいということは知っていたが。これはかなりの大物にちがいない。

 「えー・・・マジぃ?これ見るの・・・?」誰に言うでもなく、迷いのあまり自問自答する。かといって父には何となくすがり難かった。「うわぁ・・・やだなぁ・・・。」だが女は度胸、それをやらねばならないことはわかっていた。思い切って開ければ正体不明の動物は逃げてくれるかもしれない。そうだ、とっとと開けて下に戻ろう。私は意を決して板を思いっきり押し上げた。そして間髪入れずに周囲をペンライトで照らし、むっとしたホコリとカビのガスの中を見渡した。


 ・・・だが何もいなかった。そう、何もいないのだ。

 

 ・・・ごくり。・・・ドクドクドクドクドク・・・。


 つばを飲み込む音と心臓の音がはっきりと聞こえる静寂さの中で、頭では勇気を振り絞った以上は何としても異音の主を確かめねばと思いながらも、私の心臓は絶対そいつに出てきてほしくないと願っていた。「よしっ・・・!」私はそそくさとだが慎重に天井板を戻した。ゴクッと板がはまり閉じた3秒後に「ふーーーーっ。」安堵の息が吹き出た。ずっと息を殺していたからか頭がぼーっとする。おまけに緊張を解いたせいかここ数日の疲労が押し寄せてきた。思わず私は踏み台にしていた重ね布団にあおむけで倒れこんでしまった。ぼふっと布団からはホコリとともに懐かしい匂いが立ち込めた。あぁ、とても落ち着く、懐かしい実家の匂い。瞳を薄く閉じて、ホコリにかまわず深呼吸をした。そして窓の方へ顔を向け、押入れの中か冬の夕暮れをみた。もう空はカラスたちのシルエットがそう目立たないほど、新鮮なレバーのように赤黒く染まっていた。部屋は暖房がついていなかったので寒かったのだが、そんな寂しい黄昏をみると一層寒さが引き立てられた。押入れの戸をぐっと隙間5㎝程度まで思いっきり閉めると寒さが和らぎ、気持はより落ち着いた。はぁ、押入れがこんなに落ち着くだなんて知らなかったわ。

 「そっかぁ、もう、夕方なんね・・・。」体温でじわりと温かくなった布団が私を離さない。押入れの暗さと実家の匂い、布団の感触と温もりを私も全身を使って抱擁した。窓辺に座っているデジタル時計は午後5時15分を表示していた。そう急ぐこともない、私は少し休もうと考え薄い瞳を完全に閉じた。しかし、頭の中ではこの寝室にまつわる母と押入れの思い出が駆け巡っていた。



 「あきら!また、こんなに遅く帰ってきて!そんな悪い子は押入れの中で反省なさい!」

  私がまだ幼いころ、私は母にお仕置きとしてよく押入れに閉じ込められていた。帰りが遅くなった日、宿題をさぼった日、嘘をついた日、今では信じられないようなわがままを言って両親を困らせた日、顧みると誰もが経験したことがあるような幼少期の悪行に対して私の母は厳しかったように思う。一方、父はそのころから寡黙だった。今思えば父の寡黙さは放任主義というわけではなく、母に対して全面的な信頼を寄せていたのだろう。自分は男としてひたすら稼ぎを得ることに集中する、物静かな亭主関白を突き通してきた結果があの寡黙さなのかもしれない。ところで母がよく押入れに入れたがった理由は、幼少期の私が暗がりを恐れていたからという理由だけではない。母が私に読み聞かせた「押入れの魔女」という本を私はひどく怖がったことがあり、その反応を見てお仕置きには押入れがキくと思ったのだろう。本の内容?それは大体こんな感じだった。


 『戸が閉じ、押入れが暗闇でいっぱいになるとき壁には異世界へ通ずる穴がぽっかりと開く。それは魔女の住処へと通ずる穴。魔女は、遊びやお仕置きで押入れに居る子供たちをさらうために世界中の押し入れやクローゼットにこの穴を作っている。恐ろしいことに、そこからさらわれた子供たちは二度とこの世界へ戻ってくることはできない。』


 大人になればこうしたおとぎ話に対しては『ふーん』の反応で終わってしまうものだが、全国津々浦々に住む押入れの常連、悪ガキたちにとってはたまったものではない。押入れに入れられるよりかは、お尻たたきのほうを懇願するくらいトラウマものだったのだ。閉所と暗闇の組み合わせは人間の恐怖心をあおる要素としては最適(今は平安な空間と化しているが)だが、私としては目が暗闇に慣れたころが一番怖かったように思う。なぜならば、壁の木目が見えるようになるからである。無数の木目は魔女の通路穴とも目玉のようにも見えたのだった。それがたまらなく怖かったので私はオケラのように必死で布団の中にもぐりこんで息を殺し、ガタガタと震えていたわけである。あぁ・・・なんて純粋な私だったのだろう。子供のころは世界に夢や希望が満ち溢れているように思えたから、その影として恐怖や絶望なども色濃く感じられたのだろう。逆にいえば大人になるにつれて恐怖や絶望などの感情が薄れていくのだから、人生を夢や希望もない無味乾燥ものと捉えがちになることは自明の理である。切ねェ。

 「おーきて?」女の子の声が聞こえた。うん、もう少しやすみたいな。「ねぇ、おーきて。」あと五分だけ。って私に対していってるわけではないのに。近所の女の子が猫かなにかにかまっているのだろうか。しかし、声の主がずいぶんと近くにいるように聞こえるのだが。「おきないと・・・。」いや、確実に声の主は私の隣にいる。なんだなんだ、親戚の女の子が遊びに来たのか?今更?なぜ?そして起きないとどうなる?

 「無理に起こしちゃだめよ。」声の主が変わった。幼い女の子の声だが、ややお姉さんぶった言い回しだ。その声の後ろでピュウピュウ、シューシューとお湯の沸いた薬缶のような音が聞こえる。寝室に薬缶なんてあるはずがない。しかしこれは夢なのだろうか。鼻いっぱいに匂いを吸い込む。ホコリの匂いではなく、無臭の清浄な空気が鼻を通り抜けた。それは実家の匂いでもなかった。どういうことだろう。私は唸りながらうっすら目を開けた。ぼやけた視界に暖色色の光が差し込む。「え・・・。」そこは見知らぬ部屋、そして私は布団ではなく見慣れないシーツの上に横たわっていた。そして目の前には人らしきものが立っていた。



 「やぁ、おはようおはよう。」声の主であるその人は細い腰に両手をかけ、私の顔をほほえみながら見つめていた。女の子だった。しかし彼女の外見は飛び切り奇抜だった。真夏の入道雲のような白銀色をした髪の毛はセミロングの長さ。宇宙と地球の境でゆらめくカーマンラインを水晶に閉じ込めたような空色の大きな瞳。頬には闇とあきらの刹那にみられるビーナスピンクをたたえている。私に向けられた母性を感じさせるほほえみの中には、八重歯のあどけなさが違和感なくはまっていて小さくかわいらしい唇は優しさを発していた。

 「・・・。」私は目と口を大きく開くが、声が出せなかった。むしろこの状況で出せる声などあるのだろうか。「あー、大丈夫よ大丈夫。」彼女は両掌を私に向けて振った。・・・・何が大丈夫なのかわからない。「たぶんホールワームの穴に吸い込まれたね?あいつ暗いところならどこでも穴を作っちゃうからね・・・。んぅ。」吸い込まれた!?私が・・・?穴とこの部屋どういう関係が?「大丈夫ってのはちゃんと帰れるからって意味よ。大丈夫大丈夫。」彼女は私の両手を取って言った。・・・良かった、ちゃんと帰れるんだ。「でも」少女はすっと息をわずかに吸い上げた。

 「・・・おかえりなさい、あきらちゃん。雨戸あまどいあきらちゃん。」彼女は微笑みながら、しかし眉をきりっとさせた真剣な面持ちで言い放った。「え・・・?あっあっ・・・おーっおーっ!?」私は驚き声を上げた。彼女はふふふと笑うと、また優しいげな表情をとった。「おかえり?え、どななた・・・?」乾いた喉と混乱した頭からやっとしぼりだした声だった。昔から人と話すことが苦手だった私にしてみれば、正体不明を相手に幸先の良いスタートだった。彼女は当然のように答えた。

「ママよ。」・・・???「ふぇ・・・ママ?」意味が分からなかった。しかし、彼女はふーっと鼻から息を吹き出しつつ「そうですとも。」誇らしげに言った。「え、でもお母さんは死んで・・・。」彼女は顔ごと右斜め上を向き、考えるそぶりをしたあとに言った。「あきらちゃんのママ。のママのママのママの・・・ご先祖だね。でも多分この言い方じゃよくわからないよねぇ。」そうね、まったく理解できない。ママのママ、祖先ってことは遠い昔のおばあちゃんのこと?だとしたらこの子はおばあちゃんの幽霊?私の考えを察してか、ゆっくりと彼女は話した。

 「あきらちゃんやほかの生き物が住んでいるこの地球。その管理者が私。そして、私をもとにヒトがつくられたのね。だから私があなたたち人間の本当の意味でのママなの。そしてもちろんママだから当然あきらちゃんを含めて子供たちの顔を見れば大体どんな子かは思い出せちゃうのよ。あきらちゃんは私のことを知らないだろうけどね。」彼女は唖然とする私をみつめながら続けた。

 「この部屋は地球の核、そして私たちの住居。周りは高温高圧の重金属でおおわれてるけども、ホールワームの開けた穴が偶然ここにつながってあきらちゃんは吸い込まれてきたわけ。もしくは、よほど何か強い思いがあったとか・・・。きっとね。何が決め手かはわからないんだぁ。」彼女は親指と人差し指で顎をスリスリしながら言った。

 「あ、ちなみにこれは夢じゃないんだなぁ。・・・ほぉら。」彼女は言い終わると同時にぐぃっと顔を私の顔に近づけて頬をゆびで少しつまんだ。温かい手指の感触と頬に感じる軽い圧力が、これが夢ではないのだと囁く。不思議なことに彼女の指を伝って温もりと落ち着きが私の中に入ってきた。だが、それと同時に脳が余裕を持つことによって思い出したくないことを思い出すはめになってしまった。つまり母のことである。この少女がいくらママと名乗っても、私たちの祖先であったとしてもそれは私の実母ではないのだ。私の母は死んだ。なぜ運命はこうまで残酷なのだろう。母を亡くした子の前に、ママを自称する人物をめぐり合わせるなんて。そのことが私の落ち着きを種火にして、怒りと悲しみの爆弾を爆発させた。

 「も、申し訳ないですけど!私のママは死んだの!せっかく忘れようとしてたのに、こ、こんなの卑怯よ!あなたは私のお母さんじゃないの!もう会えないの!何もしてあげられないの!・・・どうしてッこんな・・・もう何も言わないで、思い出させないで・・・・。あぅ・・・。」間欠泉のように勢いよく言葉と怒りが噴出した。母の死の認識と自らの不甲斐なさ、思うように表せない気持ち、私は彼女にありったけを泣き叫ぶ以外ほかなかった。

 「うーん、ごめんねぇ、その・・・あきらちゃんの最近の事情がよくわかってなかったの。あぅ・・・。」彼女は申し訳なさそうに視線を伏せた。その時、一人の人影が彼女の後ろから現れた。それは彼女よりも少し小さいものだった。

 「コーヒーをいれたの。人間、甘いものは大丈夫かしら。」2杯の小さな金属のひしゃくがのったお盆を持って幼い小さな少女が私とママ(?)の間に割って入った。年齢はぎりぎり10歳くらいだろうか。かなり小柄の少女で、身長はおそらく150㎝もない。腰まである長い薄桃色の髪の毛から不思議な・・・さくらもちのような匂いがする。紅い大きなリボンが後頭部についていて可愛らしいが、やや釣り目気味な瞳をしていた。瞳の色はサファイアを思わせる若草色だ。その子が着ている朝顔の柄入りの白の浴衣はやや丈が短く、帯から下はミニスカートのようで少し洒落ていた。全体的に髪と瞳の色を除けば、縁日によくいるような女の子のような容姿だった。

 「人げ・・・じゃない、オホンッ!あなた、どこから来たのかはわからないけど、自分のお母さんのことで他人に怒るなんて良い度胸してるじゃない。世の中にはね、親のことで人目をはばからず泣くような人間はたくさんいるけど、あなたみたいな人間は少ないわ。・・・いい子ね。好きよ、あなたみたいな人間。・・・歓迎するわ。」言葉では好意を表しつつも、少女は無表情で柄杓の柄の一本を私に向けた。

 「トルココーヒーって飲み物よ、知ってるかしら?甘くて温かいものを飲めば気分は落ち着くわ。イブリックは熱いから飲むときには気を付けてね。」そういうと少女はにっこりと目を細めた。口もとは恥ずかしそうにぎゅっと結ばれていたが。なるほど、この柄杓みたいなものはイブリックというのか。私はお礼を言ってイブリックを受け取ると、中のコーヒーを見つめた。それは光を吸ってこげ茶色に濁っていた。杯を揺らすとコーヒーはモッタリと濃く、杯の動きからやや遅れて揺れた。

 「ほら、ママもよ。」ママもイブリックを受け取った。「りゅうちゃん、あんがと。」ママと呼ばれる少女から礼を受け取った。『りゅう』と呼ばれた少女は器用にもお盆を頭にのせ、部屋の隅にあった二つの椅子と一つの机を器用に両脇に抱え持ってきた。見た目に反してかなり力があるようだ。いったい何者なのだろう。この私の考えを見通したようにママは『りゅう』の紹介を始めた。

 「この子は、桜の管理者をやってる精霊たちの代表なんだよ。」ママは少女を一瞥いちべつし話を続けた。「私は確かにこの地球ほしの管理者。だけども地球って色んな形の生命にあふれていているでしょ。だから一人じゃ十分な管理は難しいんだよね。そういうわけで私に代わって細かい管理、特に桜の木を専門にしてくれるのがこの子なわけ。名前は桜樹之竜輝さくらぎのりゅうき。日本に生えてる竜鱗桜りゅうりんろうの精霊だからこんな名前なのね。本当の姿はとても大きくて綺麗な桜よ。樹齢は・・・。」ママが言い終わらないうちに竜輝がママの口を手でふさいだ。

 「ちょっと待って!今年で大台超えたんだから・・・。」竜輝は深くため息をついた。一方で、口をふさぐ力が強いのかママは苦しそうにじたばた暴れている。

 「はははぁ・・・そ、その・・・失礼ですがママさんはおいくつなんですか?」置いてけぼりにされまいと必死に考えた質問がこれだった。私も二十歳半ばを間近にしてあまりされたくはない質問だ。「っぷはぁ・・・んー・・・忘れちゃったなぁ。でも億はいってるんだよね、たぶん。ここまでいくと年なんて数えても意味はないからね、もう忘れちゃったよ。」ママは恥ずかしそうにもじもじしながら応えた。

 「億?えぇー・・・一けた台じゃないでしょ。ほらほら、ちゃんと10億歳くらいですって言ってみなさい。ちゃっかりサバ読んじゃだめよ。」竜輝が突っ込むがもはや鯖を読むレベルの話ではない気がするのだが。

 「もうはっきり覚えてないんだからしょうがないでしょー。地球の年齢イコール管理者の年齢じゃないの。私の前にも何人か管理者はいるんだから。」もうだめだ、二人の言っていることが理解不能で世界から完全に置いてけぼりにされてしまった。ともかく、彼女たちは人間ではなくとても神秘的な精霊の類なのだ。何が悲しくて20代半ばでこんな解釈をしなければならないのだろうか。これが仮に夢であるとしたら、私の頭は相当疲れているに違いない。帰ったら心療内科にでも行ってみよう。福利厚生の一環として使えるし。

 「それにしても若いっていいわね。二人ともお肌がすべすべね、ふっふっふ。」ママはいわゆるジト目でこちらを見つめる。「へっへっへ、へへへ、へへぇ・・・・。」私はひきつった笑顔で返すしかなかった。間の悪さを紛らわすためにコーヒーに口をつけてみた。それはとても濃厚だが、かなり甘かった。そして、とろみの中にざらざらした舌触りを感じた。そのざらざらした粒は繊維質のようで舌の上では溶けなかった。

 「トルココーヒーは初めて?それは上澄みだけを飲むのよ。普通のコーヒーには使わないほど細かいコーヒーの粉とたくさんの砂糖を直接水の中にいれてつくるからドリップしてないの。甘いのは苦手かしら?」竜輝は親しいお姉さんのような気づかいをしてくれた。「いえ、大好きです。初めて飲んだけど、温かくてとてもおいしいからすごく落ち着きました。ありがとうございます。」私はやや堅苦しい感想を述べると竜輝はあはっと笑った。「そんな肩ひじ張った言い方しなくてもいいわよ。気に入ってもらえてうれしいわ。」竜輝は儚い桜花というよりも明るいヒマワリのような性格のようだった。

 「あ、そうだ。ここに着て何時間寝たんだろう。早く戻らないとお父さんが心配しちゃう。」ふと私はここで何時間もの間を過ごしたのか小学生のように不安になった。母の死の直後に天井裏のネズミ退治にいった娘が行方不明になったら父は発狂しかねないし、それにこの部屋から帰ったら浦島太郎みたいに時間が経っているかもしれないのだ。ともかくも様々な不安の種が胸の中で芽を出して、私の心臓をきゅうと締め付けた。

 「大丈夫よ、ここの時間の流れは地上とは違うから。とはいっても、大変な時に来ちゃったみたいだし早く帰りたいよね。いいわ、大丈夫よ大丈夫。今あなたが通ってきた穴をあけるから。」そういうとママは椅子から立ち上がるなり右手をきらめかせ、ベッドに隣接する壁にゆっくり突っ込んだ。手は何の抵抗もなく壁に突き刺さった。「あ、よっこいしょー。」ママはさらに左手をきらめかせ、それも壁に突っ込み、ふすま戸を開けるようなふるまいをした。そのとき壁に白い光の筋が縦に入ったかと思えば、ギシギシと一人が通れる大きさの暗い穴が開いた。

 「ふぅ。さぁどうぞ、ホールは鮮度が命、ドアホールとは違うから開いたら早めに帰らないといけないわ。暗いけど、ずっとまっすぐ風が吹いてくる方向に進めば大丈夫。元いたところに帰れるから。穴は一本道だから迷うことはないわ。たぶん。怖かったら目を閉じて歩いたらいいよ。」ママは両手をパンパンとはたきながら説明してくれた。私は不安げに穴を覗き込んだ。穴はまさしく漆黒の闇で一寸先も見えなかった。そして、たしかに冷たい風が穴の向こう側から吹いてくるのだった。穴の暗さと風の冷たさに私の体と肝は震えた。私はおそらく長いだろうと思われる道程を想像して風の冷たさに抗える暖かさを内に秘めるために残りのコーヒーを一気に飲んだ。コーヒーが喉を通り、温もりと甘みがとろりと胸を包んで勇気となった。

 「残念だけど、お別れの時間だね。また、会えてよかったよ。」「うん、なんだかよくわからないけどお世話になりました。」ママは私を抱きしめた。私もママを抱きしめ返した。ママの匂いはなかったが、本当に温かくて柔らかい人間の女の子と変わらない抱き心地だった。

 「何かあったらまたおいで。辛いこと悲しいこと、どんなお土産でもあきらちゃんが来てくれたらママはうれしいから。」耳にささやかれる優しい言葉から、私は出会ってまだ僅かしか経っていないはずの彼女たちと別れることに寂しさを感じていた。まるで今生の別れをするかのような。

 「ありがとう、また来るよ。でもどうしてそんなに優しくしてくれるの?」私がママに尋ねると、彼女に耳打ちをするようにささやいた。

 「あたりまえじゃない、なんて言われても私はあなたのママなんだから。あなたの幸せを願ってる。また会いたいと思うとき・・・強く願いながら眠りなさい。そうすればきっとまた・・・。」ママは私の後頭部を優しくなでながら言った。「・・・うん。」私は抱きしめる力を強くした。

 「ねぇ、お楽しみのところ申し訳ないんだけどコーヒー占いで近々いいことが起こるってでてるわよ。」竜輝はイブリックを覗き込みながら言った。

 「トルココーヒーはね、飲んだ後にのこった粉で占いができるの。よく当たるからどうしても言っておきたかったのよ。ふふっ。あっちに帰ってもやってみてね。」「あははっ・・・うん、やってみる。ありがとう。」そう別れを告げると、私はママから離れ、穴に体をくぐらせた。探るよう四つん這いで穴の中を2、3歩あるいてみた。足元はしっかりしているようで、これなら目を閉じても歩いて行けそうだ。5歩、6歩・・・私は歩みを続けた。後ろが気になって、振り返ってみると二人が手を振っている。私は軽くサムズアップをするとアドバイスの通り目を閉じて再び歩き出した。どうせここでは何も見えない。ならば自分の意思で選んだ暗闇の中で歩みたいと思ったのだ。風は相変わらず冷たいが、胸の中のコーヒーはまだ熱を持っている。それが私の希望だった。



 ふぅ・・・どれくらい歩いたのだろう。10分くらいだろうか。勇ましく歩み始めたものの、普段歩かないためか少し疲れてきた。あとどれくらい道は続く・・・?もしこのまま永久に抜け出せないのではと考えると・・・ブルブル身が震える。すでに体の中に宿るコーヒーの熱は失われていた。だがママの言葉への信頼は失われてはいなかった。歩き続けなければと自分自身に信頼を言い聞かせるために、あくまでも私は歩き続けた。

 冷たい風が弱まってきたと感じたその時、不意にまぶたの裏が赤みを帯びた。

 「うわっ・・・!」私は思わず声を上げて、目を開いてしまった。だが目にうつったのは暗闇ではなく、沈みかけた夕日だった。戸の隙間から漏れた夕日の朱が、まぶたの裏に差し込んできたのだった。暗闇を歩いてきたはずの私は押入れの布団に寝そべっていて、何もかもが眠る前と変わらなかった。やはりあれは夢だったのだろうか。記憶は鮮明である一方で、あの部屋で飲んだコーヒーの熱はすでに胸から完全に失われていて現実だと判断する証拠とはならなかった。デジタル時計は17時38分を表示していた。意識を失ってから20分ほどしか経っていなかったが、それにしては長く不思議な体験だった。

 穴の冷たい風に似た冬風が戸をカタカタと揺らした。風と暗闇、静けさも含めてあの体験を夢であったと説明できる要素は身のわりにいくらでもあった。しかし妙なことに眠っていたはずの布団の温もりは失われていて、その冷たさは私の体が布団から一時的に離れていたようにも受け取れた。ひょっとしたら私は押入れの穴を通り抜け、本当に地球ほしの主たちに会ったのかもしれない。ふぅむ・・・。

 「おーい!あきらーっ!どうだーっ!?」冷たい布団の上であれこれ思案にふけっていると一階から父の声が聞こえてきた。「なにもいないよーっ!」私はとっさに叫び返した。こんな声調で父と会話するのは(会話というほどのものではないが)何年ぶりだろうか。私は普段なれない大声を使ったことと父が怒っているのではないかという心配で少し胸がどきどきした。「わかったーっ!ありがとーっ!そろそろ飯にするぞっ!」父から返ってきた言葉に安心した。「はーいっ!いまいくーっ!」ほっとした私はより大きな声で叫びかえした。私はもそもそと押入れから這い出て、あらためて中を振り返ってみた。そこには古い木目がいくつも渦をなしており、夕日を浴びて静脈血のような赤黒さを帯びていること以外はいつも通りの様相だった。




 父と外食に来たのは何年ぶりだろうか。あまり家庭が裕福でないこともあって、親子での外食は稀なことだった。今日の外食先は安いイタリアンレストランに決めた。私はここの味が好きだし、なによりも値段が安いから気兼ねなく食べられる。値段が気になってのびのびと食べることができない、なんてことは外食でありがちな失敗だ。だから良い選択をしたと思う。

 料理を待つ間に父が私に尋ねた。「仕事ォ、うまくいってるか。」私は一瞬どうこたえるべきか迷った。お世辞にもうまくいっているとは言えないからである。「うん。」だが私は嘘をついた。「そうか。」父は一言、そういった。親心子知らずである。私はその一言の意味をはかり知ることができなかった。だがあとで思い返せば、やはり父は私の嘘を見抜いていたと思う。父は寡黙な男らしく察してくれたのだ。

 しばらくして、一枚のモピザと2人前のランプステーキがやってきた。ドリンクバーをつけてこれが2,000円ちょっと。うーん、感涙ものだぁ。さっそく二人は目の前のステーキにとりかかった。二人とも身辺整理で体力を使った分空腹だったのでピザも冷めないうちにがつがつと半分ずつを食べた。しばらくの間、カニを食べるときのような美味しい沈黙があった。

 料理はステーキとピザのみだったので、二人はものの数十分でそれらを平らげてしまったが、お腹はそれなりに満たされた。私がおしぼりで口をぬぐっていると父が言った。

 「コーヒーを取ってくるが、どうだ。」コーヒー・・・あの夢を思い出す。「うん、いただきます。」私は快諾した。何かの偶然だろうか。いや、コーヒーなんてどこでも飲む機会はある。わたしはやや過敏になり過ぎていた。しばらくして父の太く男らしい腕がカップとともに私の前に差し出された。父はカップを私の前に置くなり、座りながらコーヒーをすすった。

 「ねぇ、父さん。さっき変な夢を見たの。」なぜ、私はこの夢を話そうと思ったのだろう。なぜか言わなければならない気がしたのだ。「へぇ、さっき?ん?さっきっていつだ?」父は珍しく不思議そうに聞いた。

 「天井裏見終わったとき、なんだかすごく眠たくてね。まぁ、その・・・少し眠っちゃったの。ごめんね。」「眠った?上に行ってから少し時間がかかるなとは思ってたが・・・。まぁ、疲れてたんだな。でも肺に悪いからあんまり変なところで寝るなよ。」父は口と眉をへの字に曲げて心配して見せた。私は父のこんな表情を今までみたことがなかった。

 「うん、変なところで寝たせいかわからないけど、本当におかしい夢だったの。小さな部屋で地球ほしのお母さんと桜の木の精霊さんに会ってね。少し話して、コーヒーをごちそうになってきたの。その・・・コーヒーを見てそのことを思い出しちゃってさ。はは・・・。」父は目を見開いた。

 「ぅおい、あきら、本当に大丈夫か・・・。たしかにいろいろあって大変だったが・・・。その、なんだそのトンチンカンな二人の組み合わせは。その、都会に行ってここじゃやってないアニメを見る機会が増えたと思うが、まぁ・・・深入りせずに気分転換程度にしときなさい。」父は深刻な面持ちでそう言った。ドン引きである。一人娘が妻の葬儀後にこんなことを口走れば、保護者として不安にならない方がおかしい。

 「う、うん・・・そうじゃね・・・。うちは何いっとんのじゃろう。」あまりにも自分が何を言っているかわからない上に父の至極当たり前の反応に恥じらいを感じ、つい方言が出てしまった。これに限らず、例えば私はパニックに陥ったりしても方言が飛び出ることがある。地方出身者の悲しい性なのだ。

 帰宅するやいなや私の体から新たな疲れが吹き出た。帰宅途中の車内の気まずさといったらなかったのだ。あぁ、あんなこと言わなければよかった。本当に父の言う通りアニメの世界にあこがれている痛い人になった気がした。大体なんだ、地球のママとは。八百万の神様ならばともかく、そんなもの現実にいるはずがないじゃない。じゃあ、あれらは女神さまたち?だが、気さくにコーヒーなんてすすめてくれるフランクな女神さまなんて聞いたことがない。あぁ、おかしな夢だ。恥ずかしい、すぐにこの世から消え去ってしまいたいくらい恥ずかしい。そんなことを考えていると、いつの間にか私は布団にもぐり就寝態勢に入っていた。疲れと後悔で頭がいっぱいであっても、ちゃんと人間は生活リズムの通りに無意識で行動できるのだ。

 「はぁ”っ・・・。」恥ずかしさを頭から吹き飛ばすように私は大きめのため息を喉から撃ちだした。だがそれでも不十分なので、電気を消して一刻も早く眠ろうと考えた。実は恥の一日を忘れたいということの他に早く眠りたかった理由があった。なぜならば、明日は休暇日の終わりなので実家の身辺整理ができる最後の日なのであった。明日の夕方には実家を発って、東京の家に戻らねばならないのだから早起きは必須だ。

 ・・・寒い。夕方に寝そべっていた布団はすでに銅板のように寒気を吸っていたので猛烈に冷えていた。毛布を掛け布団の上に重ねてはいるが、温かくなるまでは時間がかかりそうだ。カタンッ・・・カタカタカタカタ・・・ピーィ、ヒゥ・・・。冬の風がガラス戸を撫でる。寒いなぁ、この風は近いうちにきっと雪を運んでくるに違いない。私の故郷は瀬戸内海の沿岸に位置しているものの、冬季は冷たい潮風が横長の山壁にはじき返され、それが潜り込むように麓に吹き下ってくるので気候は温暖というわけではなかった。さらに、この地方特有のみぞれ雪は粉雪よりも格段に滑りやすくまた一段と冷たく感じる特徴があった。空から降ってくる時点でズルズルの雪だから当然、雪遊びには向かなかった。おまけに道に積もった灰色のみぞれ雪に田畑の肥えた茶色の土が何度も擦りつけられていたので、降雪後の通学路はいつも汚かったのを覚えている。・・・それでもこの寒さや寒風から連想される冬の思い出が、風物詩のように懐かしくあまつさえ良いものと感じるのはなぜだろう。雪道とすっかり汚れた大人の自分が重なるからだろうか。きっと、そんな私があの無邪気で幼稚な夢を見れたのは、母の死を抗原とした現実逃避的な拒否反応が起きたからではないだろうか。あるいは・・・。

 そんな妙なことを考えているうちに布団はじんわりと温くなってきた。肩のコリと布団の繊維は体温でほぐれ、あの抜け難い朝の布団のような心地よい肌触りとなった。それを感じると同時に、私は疲れと温もりに一気に支配されてしまった。そして朝まで意識を失い、アラームをかけ忘れていたために寝坊が確定するのであった。



 母が逝去してから丸1か月が過ぎた。父は元気にしているだろうか。私は実家の身辺整理の状況と残された父の孤独を案じながらも勤務先のオフィスビルで働き詰めの生活に戻っていた。この仕事についてから2年目の冬を迎えたが、まだまだこの業界では新人同様の扱いである。実際、私自身が己の能力に進歩を感じられなかった。思えば学生の頃はテストがあっても大まかな範囲を事前に知らされることがほとんどだったし、勉強をすればそれなりに結果が出たのでソコソコやれてきたのだ。だが社会で良い仕事をするためには、今まで培ってきた知識や問題の解き方よりも物事に臨機応変に対応できる地頭の良さが必要だと気付いてしまった。その気付きから私は自分自身がこの世界に生きるのに不適当な人間ではないかと案じ始めていたのだった。こうして私の心は現実の壁にぶち当たり、いまにも砕け散りそうになっていた。

 23時の真夜中でもこのオフィスから人々が消える様子はない。皆、懸命に仕事に励んでいる。だが年棒制が適用される弊社では、当然ながら残業手当などはでない。にもかかわらず、残る人間が多いワケは単純にこうでもしない限り仕事が終わらないからである。では、仕事が間に合わず納期に遅れが生じた場合どうなるか。それはわかりやすい話でその仕事に参加したメンバーたちは、生き馬の目をひっこ抜く外資系の弊社ではレイオフの対象になり得るのだ。こんなこと入社前からわかっていたことだけども、実際これがかなり辛いことだと理解するためにそう時間はかからなかった。おまけに圧力と激務、人間関係の三重奏トリオで一年目の秋から生理不順となった。それでも辛い一年目を乗り越えられたのは、母がいつも励ましてくれたからだった。母は不慣れなスマートフォンに挑戦し、メールやメッセンジャーアプリを介して「あきらちゃん、応援しているね(何かしらの顔文字を後につけて)」という内容の文をよく送ってくれていた。あえて電話音声でなかったのは、声の様子から私に体調不良がばれると心配したのだろうか。今思えば私の方から数分間でも時間を作ってお母さんとはなすべきだった。時間がないことを言い訳に、一言二言で返事を終わらせてしまうべきではなかった。心を亡くすと書いて『忙』だが、本当に私は母を思う心を亡くしていたのだ。

 後悔先に立たず。二度とあの優しくて親しみのある声が私のために発せられることはないのだ。


 「あぁ・・・今日も泊まりじゃ・・・。」デジタル時計は23時30分を表示していた。もはや独り言においても標準語を使う気力がないのだが、依然仕事の進捗度は芳しくない。ちくしょう、今日も無駄に体力を消耗するだけの残業になりそうだ。夕飯を食べる暇さえなかったというのに・・・。そうだ今日は昼から何も食べていないのだ。私はそのことに気づくと急に空腹を覚えたので、自販機から夜食を買うべく休憩スペースへ行くことにした。

 硬くなった関節をほぐしながら廊下にでると、すでにほとんどの電灯が節電のために切られていた。そのうえ廊下の暖房も切られていたので、暖房が効いた部屋から出た体は一気に凍みた。一階の大エントランスに行けばコーヒーチェーン店が24時間営業しているので温かいコーヒーを飲むことができるが、正直自販機のコーヒーと大差ない味だし、その割には食べ物も含めて価格が高いように思えたので、私はあまり利用していなかった。私はまさに庶民サンプル的な人間だから自らのサラリーの多寡にかかわらず安くて量が多くて、とても大切なことだが私自身が美味しいと感じるものを好んだ。例えば、ラーメンとかハンバーガーとか。ああいうものはあんまり体に良くないとわかっているのだが、気付けば食べている。最近はさすがにそうした食生活がまずいと感じ始めたので、時間があるときはオフィスのスポーツジムで汗を流すようにしている。学生時代から運動は大の苦手なので、ランニングのような簡単な種目しかやってないが。

 休憩スペースの扉を開けると、そこは無人だった。私にとってこれは結構うれしいことで、食べるのは好きだが食べている姿を誰かに見られたくないのだ。スナック自販機の前に立つとお気に入りのツナおにぎりがまだ残っているとわかったのでボタンを押し、社員証を決済リーダーに近づけた。決済終了の音が鳴ると少し遅れておにぎりが転がり落ちてきた。私はおにぎりを拾うと数ある飲料のうちから挽き立てコーヒーをその相棒として選んだ。

 それにしても最近のコーヒー自販機には驚かされる。なんたって、豆を挽いて淹れてくれるのだから本当に香りが良くておいしい。しかも安い。だから、いくらコーヒーとおにぎりが変な組み合わせだと言われようともここではコーヒーを飲んでしまう。自販機のサンバが鳴り終わると中央の子扉が開き、丈夫で手抜き感のない蓋がつけられたカップがゆっくりと現れた。この丈夫な造りが地味に嬉しい。頭が疲れているせいかこんな些細な心配りなんかでいつも感動してしまうのだった。絶対に独裁者の演説とか聞いちゃいけないタイプだよなぁ、私は・・・。

 簡単な椅子に腰かけ、おにぎりの封を解く。乱暴に開けたせいか袋の内側に海苔が少し残ってしまった。だがB型をなめてはいけない。こんなことを気にしたことがなかった。私は周囲が無人だと確認すると大きく口を開け、冷たいおにぎりの半分にかじりついた。バリバリ・・・うんうん、おいしいおいしい。確かにコンビニのソレよりかは味が落ちているけれども、ツナはいつだってあたりの具なのだ。おにぎりの冷たさを紛らわせるために熱いコーヒーをすする。コーヒーの熱は冷たくアルファ化しかけた米をふやかした。よくない食べ方なのかもしれないが、ここでの食事はこれが一番ましなのだ。こんな娘を許してお母さん。

 ・・・お母さん?・・・おにぎり・・・。あぁ、そうだ。

 おにぎりといえば、母が良く作ってくれたものだ。もちろん具材は私の好きなツナ。母謹製のおにぎりならばいつでも10個は食べることができた。朝ごはんとして、遠足や運動会のお弁当として、帰省した時の晩ご飯としてさえ私は母のおにぎりを食べ続けてきた。不思議なことに母のおにぎりは、冷たくてもこんな食べ方をする必要はなかった。いつでも、とても美味しかったのだ。だが二度とそれを食べることは叶わない。そう思うと、急に目頭が熱くなり涙があふれてきた。コーヒーを持つ手が震えたがそれは寒さのせいではなかった。ノドの奥から吹き出すマグマのような熱い嗚咽をこらえようと必死で耐えている、その証左だった。この一か月間、何度このような進歩のない懐古を繰り返してきただろうか。周りに散らばる鋭細えいさいな思い出の破片が、精神的なまきびしとして私の歩みを妨げているように思われた。それらを乗り越えるためには精神的にタフになるしかないが、まったくもってダメだった。感情の昂ぶりで生じる喉の狭まりを感じると、私はぬるくなってしまったコーヒーをあおった。鼻が詰まっていたためにコーヒーのなぐさめの香りはわからなかったが、私はその苦みからあの不思議な夢をふたたび連想した。地球ほしの管理人と桜の代表者、どちらも現実離れした夢の住人のことだが彼女たちも私の頭から離れることはなかった。母が逝去したこととママと名乗る謎の少女との遭遇のタイミングとの関係にはいったい何が・・・?あぁ・・・悲しさのあまりこんなことをマジメに考えだすなんて・・・。もう今度こそほんとに私はダメかもしれない。今週末にでも心療内科にかかろう。涙目でため息をつくと私はスマートフォンを取り出し、めったに使われない社内福利厚生ページから診察の予約にとりかかった。

 不思議なことに予約を取り付けると少し気が落ち着いたので、しばらくの休憩後私はかろうじて仕事に戻ることができた。やっと助けを求められたというか、ともかくも現状から打破するきっかけを得られたことが精神的なリラックスにつながったようだった。なんだか人生における上手い逃げ方を会得した気がした。さらに良いことに、そのおかげか深夜帯にもかかわらず仕事に集中して取り組むことができた。気づいたときには時計は午前3時16分を表示していた。私はその日の仕事の進捗度に満足感を覚えたので(といっても全体的な視点から見れば微進に過ぎない)、睡眠をとることにした。すでに疲労感があまりにも強かったので就寝準備としてシャワーを浴びることなく、歯磨きのみを行った。一端いっぱしの女子として一日一回のシャワーを欠かすことは世間では割と大罪に値すると思うのだが、それを社内で気にする者は皆無だった。むしろなりふり構わず仕事をこなし、死んだようにワイシャツのままで仮眠をとる姿が企業戦士的だとして讃えられる妙な風土があった。悲しいかな、そんな風土に私もすっかり染まってしまったようだ。

 カードキーをリーダーに押し付け女性用仮眠室に入ると先ほどまで働いていた同僚たちの眠っている姿があった。皆あられもない姿だが、寝ている時ぐらいは解放的であっても罰は当たらないだろう。私はスーツ一式を脱ぎ下着姿になると、せめてもの世間体に対する償いとしてそれらをきれいに折りたたんだ。そしてそれらをベッドの枕元に置き、体をシーツの中へと潜り込ませた。弊社では暗黙的に泊まり込みを推奨しているだけあってシーツのクリーニングは良くなされていた。真っ暗な天井と同僚たちの寝息が私を睡眠モードにしてくれる。私は軽く目を閉じた。目を開けるとき、また彼女たちが枕元に立っていたら・・・嬉しいな。もしあれが現実でまた会えたとしたら色んなことを尋ねたい。もっとうまく話したい。コーヒーのお礼も・・・そして怒鳴ったことをまたちゃんと謝ろう。夢に対して様々な決意を固めながらも私の意識は勢いよく減速していった。

 コトリコトリと誰かが歩くような音がしたが、先ほどの決意とは裏腹にもはや目を開けようという気にはならなかった。今はただ、始業までの残り約5時間を一秒の無駄もなく睡眠に費やさねばならなかったからだ。



一方そのころ



 「びぇーっくしっっ!!!ふァーッしゃ!」「ひっ!汚なっ!ちょっとママ、ちゃんと口押さえてよ!」「うーっ、ごめ”ん”べー。ティッシュどこー?」カントリー風の部屋で二人の少女が騒いでいる。一人の少女が片手で鼻をおおいながらフローリングの上をさまよい始めた。青を基調色とした布生地に黄金の縁と模様が美しいドレスをまとった少女は”ママ”と呼ばれていた。

 「もぅ・・・ホラ。」もう一人の少女がティッシュ箱を手渡す。「ありがとん、竜輝ちゃん。」そう呼ばれた少女は、白いアサガオ模様の浴衣に身を包んでいた。鮮やかな薄桃色の頭髪には頭ほどの大きさの赤リボンが結いつけられていて、やはり全体的には縁日に居る女の子にしかみえない。

 「誰かが噂してるのよねーきっと。」竜輝が天井を向いて言う。「誰かって誰よ。えっぢーーんッ!」ママが鼻をかみながら応える。ママの目は鼻のかみ過ぎで少しうるんでいた。「うーん、他の星女せいじょじゃない?そろそろ来るんでしょ?ママをどうやって倒そうか会議してたりして。」竜輝は強気な目をいたずらっぽく微笑ませた。

 「やめてよー。星の中だけでも大変時なのに今あいつら来られたらマズいんだよぉ。ずずっずーっ。」ママは鼻をぐじぐじとティッシュでこねくり回しながらうんざりした口調で言った。「でも、ママならきっといつも通りパパッと追い返しちゃうから大丈夫ね。」竜輝はママを信頼しているようだ。だがママはうーんという表情だ。

 「そういや星女じゃないけど、あの子はどうしたのかね?ちゃんと帰れたかな?正直、結構危ないルートで帰しちゃったけど。」ママはティッシュから目を上げて竜輝を見た。「ママ、何気にひどいことすんのね・・・。」「しょうがないよ、ワームの穴なんて獣道程度のものでしかないし。あの時、私ができたことなんて入口開けるくらいしかなかったからね。」ママはそういいながら天井のほうを向いた。「ねぇテッちゃ、さすがに海人うみんちゅでも次元の穴は操れないでしょ?びびーっ!っぷは。」『テッちゃ』と呼ばれた人物はハンモックの上で寝そべり一言も話すことなくただ天井を見つめていた。ママや竜輝と同じくその人物の形相もまた奇妙だった。頭髪は黒く、眉よりやや下のところでぱっつんにそろえた髪型をしていた。後髪の長さは肩に少しかかるくらいでややウェーブがかっている。そして両耳には青い稲妻のピアスが輝いている。彼女の瞳は閉じられているため寝ているのか起きているのかはわからない。だがこのような場で女性モノの黒いスーツをまとっていることが、この人物を奇妙な人物と足らしめる要素だった。おまけにネクタイの代わりに細長く赤いリボンが結ばれており、それもまた奇妙な組み合わせにみえた。少し変わった大人しめのキャリアウーマンといった形相だが、ママと竜輝の恰好があまりにもファンタジーなのでやはりこの場では常識外れの雰囲気を漂わせているように見えるのであった。

 「テスタメント、お昼寝かしら・・・。」竜輝がママの顔を覗き込む。「やろうって思ったことがなかったんだってさ。」ママが言った。しかし、テスタメントもといテっちゃと呼ばれた人物は一言も声を発していなかった。「

 よくテレパシーが通じるものね、まだ私には何もわからないわ・・・。」「テっちゃの声は話すだけでもすごい威力だからねぇ。まぁテレパシーは慣れなんだよ慣れ。そして一緒に住んで仲良くなることが大切よ。でもコツはおでこをテっちゃの方に向けて集中することね。チーンっ!」ママは早口でいうと急いでティッシュに顔をうずめた。そして「そんで、もうお腹減ったって。あなたの料理が好きといってる。」と付け加えた。

 「あ、あらそう?じゃあご飯にしましょうね。ふふっ、何にしようかなぁ、ふふっ。」竜輝は頬を赤らめていそいそと部屋の隅にあるキッチンへと向かっていった。なにか特別に食べたいものがない場合、料理の献立は常に竜輝に任せられている。彼女は料理が得意で分野を問わずなんでも美味しくつくるからだ。彼女は大地の神の一端として自然の恵みを活かすことに楽しみを覚えているようだった。

 「うーん、良いものなんだけど昆布と鰹節しかないわねぇ・・・。冷蔵庫には大きなお豆腐が3つ・・・。買い物に行っておくべきだったわねぇ。でもまぁいいわ、今日は文豪風湯豆腐にしましょ。」竜輝の決定を聞き、ママは不思議そうに目を丸く開いた。

 「湯豆腐に強いこだわりがあった作家のレシピをマネした料理よ。レシピだけじゃなくて食べ方にも強いこだわりがあるの。ダシが薄まらないような醤油酢のかけ方とか薬味の入れるタイミングとか・・・。ずっと前に一回やってみたけど、案外と面白かったし生意気にも美味しかったのよねぇ。二人ともどうかしら?」レンガほどの大きな絹豆腐を取り出しながら竜輝は尋ねた。

 「ふふふ、たまには淡白で上品なお食事もよさそうですなぁ。あ、テッちゃもそれがいいってさ。」ママは猫のように目を細めながら賛成した。竜輝は自信があるというような笑みを浮かべて言った。

 「上品なのは確かだけど、案外と淡白じゃないのよ。このレシピはダシとお豆腐の風味がお酢に負けないくらい引き立つの。特にカツオと昆布の組み合わせだから満腹感もあるわ。楽しみにしてて、ふふ。」どうやら今夜は湯豆腐で決まりのようだ。地球の管理人といえども桜の代表者といえども、そして海の民といえども自然の恵みを完成された形で享受することに幸福を感じるようである。ともすれば美味しい料理が人の悲しみを吹き払うことはわけもないはずだ。そして楽しい人生を送りたいのであれば、美味しい料理を求めてさすらうのが一つの道理ではないだろうか。彼女たちは今、幸福の中に生を宿している。

 夕食を終え、さらに食後のコーヒーを飲み終わるとママは椅子からポンと立ち上がり言った。

 「じゃあちょっと見回りでも行ってくるかね。食べたら運動よ運動。」「気を付けてよね。ママ、最近敵対的な人間に見つかる頻度がちょっと高い気がするわ。見回りは大切だけど、ママの命はもっと大切よ。」鍋をタワシでこすりながら竜輝は心配そうに言った。

 「大げさだよぉ、飛行機のミサイルや機銃なんて痛くもかゆくもないわぁ。」そういいながらママは竜輝の背後を取った。「んーでも心配してくれるなんてかわいい、よちよち。んーんー。」ママは後ろから竜輝に抱き着くとぐりぐりと頬ずりをした。竜輝はうーうー唸っているが、抵抗はしなかった。ベッドにワイシャツ一枚の姿で寝そべっているテスタメントは、その様子を見ていられないというように視線を天井に移した。

 「ほんでは、いってきま。」ママはそういうと竜輝から離れ、木製のドアへと歩み寄った。ドアノブに手をかけ、ガチャリと回すとドアはそこら辺にあるものと何ら変わりのないもののようにギィと開いた。だがドアの外の風景は大いに違っていた。そこは地上からはるかに高い雲の上、宇宙からの放射線と低酸素濃度によってどんな生物の存在をも許さぬ成層圏の真っただ中だった。ママは扉の敷居に足をかけると、下に体を傾け、一気に蹴った。ビュンッと鋭い音がし、ママの体は空気の壁を突き破った。そして、白い空気のリボンを伴いながらはるか下の地面へと猛進した。眼前に厚い灰色の雲の層が迫ると、ママの背中からは6つの天使の翼が展開され、それらは直ちに地面と平行の角度をとった。すなわち、グライディングの姿勢を取ったのだ。しかし、グライディングに限らず翼の角度を調整しながらジェット気流を受けることで、ママは自由自在に空を飛ぶことができた。久しぶりに風を受けてご機嫌なのか、ママは縦横無尽にあらゆる曲芸飛行をし始めた。すでに見回りという目的はどこ吹く風、満月の光を受ける満面の笑みはまさしく10代の少女のそれだった。白銀の髪も、月光を迎え月色に輝いている。

 しばらく飛び回り、彼女は下に黒雲の層を見つけると、大きく縦に一回転し鋭角に厚い黒雲の中に飛び込んだ。それはこの季節には珍しいほど発達した雷雲で、今にも爆発しそうなくらいの電気を蓄えていた。ママの姿は雲に飛び込むなり、青白く光る稲妻と化した。そしてまさに光の速さで一閃、グイグイと雲の中を突き抜けた。雲を走る雷が恐れるようにして稲妻ママを避けた。こうして1秒の間におおよそ100㎞程移動したところで雷雲は途切れ、その途端にママの姿は人へと戻ったのだった。

 「あははっ、久しぶりだからみんなはビックリしちゃったかしら。」いたずらっぽく笑むママの空色の瞳にはまだ稲妻の青白さを、頬には薄紅の火照りを残していた。

 5秒間地面を背にして自由落下に身を任せると、身体を反転させ再びグライディングの姿勢に戻した。ママの飛行している高度は出発当初よりもずいぶんと低くなっており、すでに街の明かりや様子がはっきりと見えるほどだった。だが、このあたりの高度は人間の生活圏と重なっていた。つまりあらゆる形で人間と接触する可能性があるエリアなのであった。そして人間からみれば、まさしくUFOなママは常に攻撃される恐れがあった。竜輝が心配していたことはまさしくそれだったのである。しかし、このようなリスクを承知で空を飛ぶのはやはり人間社会の監視がそれほど重要だというワケがあるからだ。特にここ百年間、ママにとって人々は様々な面から考えても自滅の道を進んでいるように思えてならなかった。したがって監視を強め、必要であれば彼らに団結を促すような試練を与える必要があるかもしれないとも考えていた。それも多くの犠牲を払わざるをを得ないような。進化と淘汰、そして一つの星に住む住民としての調和をつかさどることもママの役割なのだった。

 しかし、いつしかママの目は明かりのない地域ばかりに向けられていた。その地域は真っ暗だったが、時おり散発的に大小の光がぽつぽつと光っては消えを繰り返していた。

 「・・・愚かね・・・。」ママの記憶が正しければこれらの光は数十年もの間、点滅を繰り返していた。一時は収まったように見えた時もあったが、またすぐに新たな光が現れたのだった。それらは争いの光だった。これが意味することは、つまり人は過ちを繰り返すということである。しかし、ただ繰り返されるわけではなかった。光たちは時代を追うごとに大きくそして多くなっていくのであった。ママはそれらを見るたびに呆れながらも焦っていた。人間たちが破滅の道を歩んでいることも心配だったが、竜輝の言っていた迫りくる外星からの脅威が近いことをママは感じていたし、それは何よりも大きい不安の種だった。これまでママは幾度となく星の守護者として奴らを退けてきたが、悪いことにヤツらの力は退ける度に大きくそして強くなる特徴があった。いつしかママの力はそれらのものと比べ、これまでのように絶対的な優位性を持っているとは言えないくらい平凡なものと化していた。したがって、脅威に対抗するためには人間たちの団結を強固なものとし、この地球の住民として共に戦ってもらう必要があった。だが、今のままでは団結のために与える試練が人間を滅ぼす可能性もあった。もし確実に彼らが試練を乗り越え力が得られるならば、ママは悪役になることに躊躇はなかった。人間たちの輝きを歴史の中で何度も目撃してきたから。名もなき英雄たちのおかげでこの星の危機は何度も救われてきたから、人間を信頼できたのだった。だが少なからずママの中でここ百年間の人間の評価はかなり堕ちたものとなっていた。信じたいという気持ちとおそらく人間たちは生き残れないだろうという猜疑心がママの葛藤となっていた。だが決断の時は着実に迫っていた。


 紛争地域をみつめるママの表情からはいつもの明るさと優しさが消え失せ、氷山のように険しく冷たかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ