口直しには兎を所望します。
朝のちょっとした攻防を書きたかっただけです。
ぼやけた思考の中で何か物足りなさを感じる。ふっと意識の浮上するまま目を開けてみると、隣にあるはずの柔らかい温もりがなかった。珍しいこともあるもんだと思いながら身体を起こす。この一か月は休日返上で仕事に追われ、今日は久しぶりの休みでもある。眠りに落ちたのはそんなに早い時間ではなかったはずだが、気分はすっきりしていた。ぐっと固まった身体を伸ばして、目元をこすっていると、日曜の朝にしては騒々しい物音に気付いた。それと同時に思うのは、その物音の原因が隣にいないあいつであること。今度は何をしてんだか、と呆れつつベッドから足を下ろし、寝室の扉を開けた。名前を呼んでみれば、途端に騒がしい音が止む。代わりに、ばたばたとした足音が近付いてきて、頭のてっぺんなんて俺の胸あたりにしかない、エプロン姿のあいつが現れた。ゆるく二つに結ばれた髪が揺れる姿はもはや兎。ただの兎にしか見えない。
「おはよ」
「お、おはよう、起きるの早かったね…」
わずかに汗で張り付いた前髪をはらってやれば、“私いま動揺してます”とありありと書いてある顔で、これまた焦ったような言葉が返ってくる。そして、妙な匂いに、自然とキッチンへと視線を向けると、両手を広げて通せんぼをされる。
「だめ!」
「なんで?」
「だ、だって、ほら!あんまり眠れてないから疲れてるでしょ?に、二度寝したらどう?」
その小さな体で止められると思ってるのか。一生懸命腕を広げて背伸びをして訴えかけてくる姿がちょっと可愛いと思ったなんては絶対には言わないけど。でも、可愛い。
「全然疲れてないから大丈夫」
「え、あ、ちょっ!」
じたばたぎゃあぎゃあ騒ぐ体を押しのけてキッチンへ行ってみれば――、そこは予想通りの荒れた惨状であった。
食材やら調理具の無惨な姿にむしろ感心してしまう。何をどうすればこういうことになるか聞いてみたいが、初めてのことではないので、無駄な質問はしない。
「またこれは派手にやったなー」
感嘆するように言葉を溢すと、いつの間にか背中にくっついた小さな体がぴくりと震えたのが伝わったきた。何かをもごもごと言っているが、それはもはや言葉ではなく音でしかない。背中にくっついたままの兎をそのまま好きにさせておき、床に零れているあれこれを踏まないようにのんびりと歩く。すると、オーブンの近くに煙のような湯気のような、とにかく焦げ臭いものを発している原因らしきものを見つけ、顔を近づけてみればそれは、何かのお菓子だと思われる、チョコレート色というより黒に近い物体だった。
「なんで?」
そのままの姿勢で後ろに声をかけてみれば、「…だって誕生日だし…チョコレート類は好きでしょ…?」と、もごもごとした返事が返ってきた。
--なるほど、今日は俺の誕生日らしい。見事に忘れていた。まあこの年になると誕生日なんてそんなものだろう。そんな空気を感じ取ったのか、やっぱりね、という言葉が後ろから聞こえた。
しかし、物凄い挑戦をしたものだ。ホットケーキすら焦がしてしまう人間が、それ以上のものを自分で作ろうとは。
「……よく頑張ったなあ」
「ほ、ほらっやっぱり馬鹿にする!だから見てほしくなかったのに…っ!もうやだ!」
馬鹿にしたわけでなく、本当に感心して言ったのにどうも伝わらなかったらしく、背中にぐりぐりとマッサージ機のごとく頭が押し付けられた。振り返ったときに見えた耳は真っ赤で、どうやら恥ずかしいようだ。それで頭が禿げないといいけど、と思いつつすぐそこにある引き出しからフォークを取り出す。
「え、まさか食べるとか言わないよね?」
「食べなくてこれどうすんの?」
「え、わっばかー!!!」
腕に飛びついて騒ぎだした彼女を無視して、フォークを突き刺し(なにか不気味な音がしたのは気にしない)一口分その物体を口にいれた。そして、口に広がるのは、予想よりさらに苦めのチョコレートのようなそうじゃないような、石焼きイモのような不思議な味だった。
「なにしてんの!?吐き出せー!」
さらに口に運ぼうとした手からフォークは取り上げられ、流し台へと見事に投げられた。
「なにしてんだよ」
「それはこっちのセリフだってばー!」
涙目で、ふるふると震えながら見上げてくる姿は、ちょっとなにかくるものがある、うん。なんだろうこの兎は。
「せっかくの誕生日なのにぃ…もう…」
「別に食べれなくはなかったけど」
「そんなこと言われても嬉しくない…穴があったら入りたい…」
ぐすぐすと、涙目どころか雫をこぼしながらそう言う兎から、言葉のまま穴に入る姿を想像してしまって、思わず笑いがもれた。
まあ確かに美味しいとは言えない、苦味しか口の中にはない。いまだ、悔しげにピンクの柔らかそうな唇を噛んでいる兎の姿に、目が離せなくなった。こちらの唇は大いに緩む。昨晩あれだけ貪ったのに俺にはまだまだ足りないらしい。誕生日なんかいつもの日常と変わらないのに、なぜか特別に思えてくる。そうだ、兎だ。兎がいるじゃないか。甘いものはいつでもそばにいるわけで。
「じゃあ口直し」
「え?……っ!?」
そっぽを向くように壁を睨んでいた兎の顔をぐっと上に向かせ腰をかがめ、両手で挟み、ゆっくりと…それはもうゆっくりと柔らかいそれを堪能して、目は潤みくたりと力を失ったのを見届けてからそっと唇を離した。兎のお前が悪い、そう心の中で呟いて。
「昨日結構頑張ったはずなんだが…まさかお前が早起きできる元気があるとは思わなかったなあ」
わざとらしく、そう声に出すと、何かを感じ取ったのか腕の中の彼女は体を強ばらせた。
「え、いや、あの、え?」
まさか?と目で訴えかけてくる彼女をもちろんそのまま抱きかかえる。
「お誘いを受けたことだし言われた通り二度寝しようか、口直しさせてもらわないとな」
耳元に囁くように言葉を落すと、目の前の耳どころか首まで真っ赤に染まって、その姿に満足する。
「~~っ!エロ魔神!ばか!変態!」
「お腹いっぱいにさせてくれるよな?誕生日なんだから」
「……っ!?」
――さあ、楽しい誕生日の始まりだ。
もちろん、地獄と化したキッチンの片付けもすることになるのだが。
fin
ここまで読んでいただきありがとうございました。ちょっとでも楽しんでもらえたらいいなーと思います。感想待ってます。