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和泉夕河の優雅で従者な学園生活  作者: モカブレンド
第一章『始まり編』
9/10

第九話『見えない道標』

 ──この世界は、きっと夢でできている。

 ふわりふわりとした浮遊感と、曖昧な方向感覚がそれを教えていた。

 夢のなかで目が覚めた。

 まだ自分が何者であるかを知らない。

 両手と両足を見つめる。

 小さかった。

 ふいに知識の塊が頭のなかに流れ込んできて、名を知る。

 和泉夕河と呼ぶらしい。

 空間全体が白一色で構成されている。

 どこまでも続く広大な世界。

 この場所にいる理由はまだ分からなかった。

 目的地はない。

 また、目的もない。

 歩こうという考え方が、まだ分からない。

 とりあえずここにいよう。

 それだけしか浮かばなかった。

 少しの間そこにいて段々と退屈になってきた。

 ふと、すぐそばを見る。

 赤い花が咲いていた。

 今、気づいたのではない。白い世界に点々と花が生まれ始めたのだ。

 遠くを見れば、赤、青、黄と一輪ずつ花が咲いていた。

 特に考えることはなかった。

 することがないから歩きたくなった。

 それだけを理由にして、その先へと歩いて行った。

 大分歩いた頃、歩くことは疲れるんだと知った。

 すると真っ白な世界のなかに色鮮やかな花畑が浮かんできた。

 とても綺麗だ。

 なんとなくそう思って、嬉しいと感じる。

 花畑のなかに一人の女の子がいた。

 純真無垢そうな白いワンピースを着込んで花畑のなかで遊んでいる。

 話しかけてみたくなった。

 足を踏み込んでみる。

 ザッと花を踏みつける音が鳴り、その瞬間に花畑は散り始めた。

 いくつもの花が宙を舞いどこかへ消えていく。

 少女が振り返った。

「あなたはだれ?」

 急に声をかけられる。

 何故だか恥ずかしいと感じていた。

 返事に困って、目の前でふわりと浮いている花を手に取る。

 何色だったのだろうか。

 目で見えるのに、色が分からなかった。

「これをきみに」

 一輪の花を差しだす。

 少女は不思議な顔をしていた。

 でも、すぐに笑った。

 どうしてなのか。そんなに面白かったのだろうか。

 可笑しくなって自分も笑った。

「わたしは────。あなたの名前は?」

 少女が尋ねる。

 花が宙を舞っていた。

「ぼくは……」

 そのとき。

 白い世界が、大きくて暖かい光の波に飲み込まれていく。

 全てが真っ白になった。

 やがて、光のなかに色が生まれてくる。

 少しずつ形があらわになっていく。

 身体が明確に伝わってくる重たさを感じ始める。

 空間のなかに電灯のようなものが見える。

 胸のなかにある気持ち悪さが、喉元までせりあがってくるようだ。

 でも、頭だけはとても心地よかった。

(────だ、寝──────よ)

 どこかから声が聞こえる。

 とりあえず眠かった。

 なんとなく安心感のある響きが耳にこそばゆい。

 身体のだるさが少しだけ和らいで、深い眠りが呼んでいた。

 もう一眠りしよう。

 少年はふたたび、どことも知れぬ世界に身を投じた。


   2


「────ッ!」

 夕河は飛びあがった。

 瞬間、ドゴンという激しい音が鳴り響いた。

「ぎゃあああああああああ! い、いいい、和泉ぃぃ~……!」

「痛ててて…………み、未憐か」

 唐突にもたらされた刺激によって、少年は眠りから一気に覚醒した。

 同時並行でやってくる鈍重な痛み。

 夕河は黒髪の美少女と正面衝突していた。

「あれ、もしかして俺、寝てた?」

 目を数回ほどぱちくりとさせ夕河は周囲を見渡す。

 そこはいつもの部室だった。

 長椅子と長椅子の間にある見慣れたテーブル。

 制服姿でパソコンをしている雪の後ろ姿。

 本棚の前で丸椅子に腰かけて読書をしているルル先輩。

 ちょうど横で痛みを堪えている未憐。

 ──そして、対面の長椅子に座っている果報部の部長、天門院火乃佳。

 彼女は普段と同じように両足を組んで、ティーカップを片手に紅茶を飲んでいる。

 どれも、変わらない。

 目に映る全てが夕河にとって馴染みのある光景。

 少年には既に、ここは居心地の良い空間になっていたのだ。

 ふと耳に入ってくる音を探すと自分の真上に柱時計が。

 そうして居場所を認識する。

 今の自分が座っているのは、いつも火乃佳が腰かけているほうの長椅子だということだ。

 理解したところで、火乃佳が先立って行動していた。

 立ちあがった火乃佳は、かつかつと歩いて正面にやってくる。

「ねえ下僕、邪魔なんだけど。いつまで占領しているつもりなのっ」

 火乃佳が怒る。

「……そうだな、悪い」

 夕河は謝罪しながら、むず痒くなって後頭部を掻いた。

 ふん、と鼻息を荒くしたお嬢様はすぐさま自らの定位置にお尻を置く。

 まだ意識が鮮明でないが、手前の席に残留している彼女の傍若無人さは見えるようだ。

 頭に触れて夕河はなにかを感じる。

(なんだ……頭が少し暖かい?)

 手のひらを眺めて残滓のありかを探す。

 が、なにも見えなかった。

「なぁ未憐」

「あ? ンだよ。ぶつかっといて謝りもしないで……」

「お前って膝枕とかするのか?」

「ハ、ハァ!? ななななななな、なに言ってやがんだ!?」

 未憐が顔色を真紅に染めて大声をあげた。

 目は焦点が合わず、口はパクパクさせていて、まるでエサをねだる金魚だ。

 ようやく落ち着いたかと思えば、今度は妙にしっとりな雰囲気で瞳を潤わせ始める。

 視線はどこか遠くの床辺りを向きいじらしげに髪の毛を弄んで。

 そしてささやく。

「……ンもうっ。そんなにして欲しいんなら、いつでもオレが……」

「わーっ! できましたーっ!」

「う、うわあああああーーーーーーーっ!!」

 突然の叫びに、未憐は前のめりになって転んだ。

「やりました。ついに新しいツボを発見しましたよ!」

「ふぅん。やるじゃないルル。どういうのよ?」

 火乃佳が興味の対象を変えて、ぱしっと読んでいた本を閉じる。

 ルルは喜び勇んで伏した未憐に近寄る。

 どうやら、彼女を研究材料として認めたようだ。

「えいっ!(ブスリ)」

「ふにゃあああああああああんっ!!」

 死んだように倒れている未憐の背中を一突き。

 猫のような撫で声をあげて未憐がばたばたと暴れだす。

 やがて、本当に死んだように活動を停止した。

 そして数秒後。

「…………」

 未憐がのっそり起きあがる。

「ホ、火乃佳、オ、オオ、オジョ、オ嬢様」

 なにやら機械的な音声。

 瞳孔を全開にしたままの未憐が、無機質な動きで火乃佳の前に行く。

「な、なにようっ……」

 良く分からない威圧感からか、さすがの部長も怯えている。

 影で覆うように懐まで接近した未憐は、火乃佳にまたがって大きく開口した。

「ホホ火乃佳オ嬢様アッ! オレハ、ズット貴女ノコトガ大好キデデデシデシデシ!!」

「ひ、ひいっ!」

 未憐は強引に火乃佳の身体に抱きついた。

 舌先を突きだし、そのほっぺたをペロペロと舐めまくる。

「ポ、ポチ! ふざけないでやめなさい! こら……ッ! は、離れなさいッ!!」

「火乃佳オ嬢様火乃佳オ嬢様ァアア火乃佳オ嬢様アアアアオオオン!!」

 野獣と化した未憐は一心不乱に部長の顔面を舐め回す。

 おでこが終われば耳たぶを。その次はあご、首筋、そして鼻の先端にチョン。

 そこで未憐の動きが止まった。

「あ、あるぇ~? オレはいったいなにを……???」

 放心する未憐と身を震わせる火乃佳。

 火乃佳は激昂した。

「~~~ッ! ポチ! なんてことするのよ! これは重罪よ! 誰にも舐められたことなんてないのに、よりによってポチなんかに……!!」

「な、なに言ってやがんだ! ただでさえ大っ嫌いなお前を舐めるだと? ンなこと、するワケねぇだろうが! 紅茶ばっか飲みすぎて脳みそ腐ったんじゃねぇのか!?」

 我に返った未憐が火乃佳と喧嘩を始める。

「ふふふ……! このツボは一時的に相手を洗脳して、その方の嫌いなものと好きなものを反転させることができます! ただし効き目は一分しかないようですねぇ……」

 ルル先輩が人差し指を振って自慢げに説明する。

 この部で喧嘩が勃発するのは日常茶飯事だ。

 彼女達がこうして喧嘩をするのも、なんら変わり映えしない日常の裏返しであり、世界が滞りなく廻っていることの証明だろう。

 平和だからこそ幸せを堪能し、そして非日常を求める。

 ──そう。これは日常だ。

「あはははっ。今日も楽しそうだね」

 回転椅子を動かして、喧騒の元を静観する雪。

「そうだルル。少し肩が凝っちゃったんだ。揉んでくれるかい?」

「は~い! かしこまりましたあ!」

 ぱたぱたと足を弾ませて、ルルは雪のもとへ駆ける。

 雪はルルのマッサージを受けて、お腹の底から声を響かせていた。

 これも、いつもの日常だ。

「ヒ、ヒック……うえ~ん……好きでもないヤツを舐めちゃったよぉ~……!」

「うるさいわねえっ! 私のほうが泣きたいわようっ!」

 喧騒が一転してしんみり模様が室内に広がる。

 いつもの日常だ。

 これが和泉夕河という人間を取り巻く環境である。

 天門院火乃佳が下僕を使役し、未憐は部長に抗って立ち向かい、雪は無関心でパソコンに妄執し、ルルがマッサージの研究をする。

 果報部は果報部として機能し、延々と刺激と退屈を繰り返す。

 どうしようもなく些細で変わらない普遍性を保った。

 いつもの──日常でしかなかった。

「こらぁ、下僕! 黙って立ってないで新しい紅茶を用意しなさいよ!」

「和泉ぃぃ~! 火乃佳に傷モノにされちゃったよお~!」

「俺は……」

 夕河は立ち尽くす。

「あ~気持ちいいよルル。もっと上のほうを……」

「ここですか?」

「俺は……!」

 夕河はこぶしを握り締めて立ち尽くす。

「ちょっと下僕! 聞いてるのっ!?」

「和泉いいいいいいいっ!!」

「俺は……!!」

 夕河はわなわなと握り締めたこぶしを震えさせて立ち尽くす。

 室内で飛び交う全ての音がノイズに聞こえた。

 頭が白くなって、ずきずきと痛む。

 強く唇を噛み締めた。血がでそうなほど噛み締めた。

 それ以上に、全身に力を込めたとき。

 何故だか無性に虚しくなった。


「俺は……この部を抜ける」


 自分自身の声が室内に伝わり、反響する。

 夕河がその言葉を口にした瞬間、部屋が静まり返っていた。

 全員の動きが止まる。

 ただ、静寂。

 誰一人。誰一人として。

 その声に反応するものはいなかった。


   3


 鈍い音が響いた。

 夕河は身体を仰け反らせ、地面に吹っ飛ばされた。

「ハァ……ハァ……!」

 未憐が激しく呼吸を乱れさせて強く右手を振り下ろしている。

 倒れた少年の頬が赤く腫れていた。

「おい、立てよ和泉!」

「…………」

 未憐は強引に襟元を掴む。

 目つきを鋭くさせて睨みつける少女から、少年は顔を背ける。

 夕河はなにも言わなかった。

「お前、言ってたよな。果報部にいるのは自分の意思だって。自分が好きで決めたことだって。お前はオレに嘘をついたのか? ついてないよなぁ。お前が本気でそう思ってたからこそ、オレはこの部にくる決心をした。あんときのお前は本当にいい顔をしてた。自分自身を肯定して、ひたむきに正面からぶつかって、オレと向き合ってくれて……」

 未憐が襟元を掴んでいる手に力を込める。

 夕河は目をそらしていた。

「オレはなぁ、お前に憧れてたんだ! 口では馬鹿みたいなこと言ってても、真っ直ぐにオレのことを見つめて理解してくれる。一緒に肩を合わせて歩いていたら、いつかお前に近づける。そう思ってたんだよ! なのに、それなのによっ……!!」

 少女の手は震えていた。

 怒りと悲しみを同時に閉じ込めたような表情で、震えていた。

 当然だろう。当然に違いない。当然の報いだ。

 少年は彼女の気持ちを裏切ったのだから。

「おい、なんとか言いやがれ!」

「やめなさい」

 未憐の怒りを静止したのは火乃佳だった。

「うるせえ止めるな! オレはこいつに聞いてるんだよ!」

「やめなさいと言ったのが聞こえなかったの? まったく、今日のポチはよく吠えるわね」

「……ンだと、くそっ!」

 言葉を吐き捨てて未憐は夕河を突き放す。

 上半身を起こしても、少年の瞳は虚ろなままだった。

 軽蔑の眼差しで未憐が言う。

「オレだって最初は馴染めなかった。いや、今でも果報部なんていう意味の分かんねぇモンは好きじゃねえよ。でも、ここで過ごしていく内に気づいたんだ。オレは火乃佳が大嫌いだが、コイツが理想としていたのがどんなモノだったのかをな。むしろ、それはお前が一番感じてると思ってたんだが、どうやらオレの勘違いだったようだな」

「……それは」

 夕河はそこで言葉に詰まった。

 少年自身、下僕生活を強いられて思っていたが、火乃佳は他人の人間関係に対して深く言及をする人物ではなかった。彼女の発言の全てが本心だとは思えなかったのだ。もちろん、これで火乃佳の性格に納得できるわけではないが。

 なんだかんだ言っても、火乃佳は単純に仲間が欲しかっただけなのだ。

 それは、彼女と一緒に過ごしてきた短い時間のなかで、十分に理解できることだった。

 火乃佳に対して愚痴はあっても不満はない。

 ただひとつ、悩みがあるとすれば……。

「──もういいわ」

 火乃佳が空気を断ち切って話す。

「和泉夕河。貴方は十分に任期を満了したものとして、今日をもって私との関係を解消する。以降、部の敷居を跨ぐことは許されないわ。貴方は元々、この部の住人ではないのだから」

 冷たい声だった。

 なんの感情の余地もない言葉に、自分の立場を深く実感する。

 夕河は立ちあがって、おぼつかない足取りで扉に向かう。

 その様子を全員が見つめていた。

「……世話になったな」

 その言葉を残して、夕河は部室を後にする。

 天門院火乃佳、最後の最後まで底意地の悪いやつだったな。

 未憐、雪、ルル先輩……ゴメン。

 少年は廊下の奥へと霞のように消えていった。


   4


 その翌日。

 放課後になって、夕河は理由もなく廊下を歩いていた。

 大人しく帰る気になれず、かといって部室へ行くこともできず、ただ気を紛らわせるためだけの行為として、散歩することを決め込んだのだ。

 あの同好会が解散するまで、あと三日しかない。

 しかし、部長のルールに従えば部が成立するまでに人はこないだろう。

 下僕がいなければ勧誘そのものができないのだ。

 最後の五人目は結局、揃わなかったと判断していいだろう。

 夕河が部を抜けた理由の背景にはこれもある。

 数日前、夕河は提案をしていた。

 一時的にでも自分が仮入部してしまえば、果報部は成立するのだと。

 その提案を火乃佳はいともあっさり破棄した。

 もちろん、日頃の鬱憤が募っていたこともある。

 だがそれもこの提案も抜ける理由ではない。

 大変だったとはいえ、それなりに楽しめたのは事実なのだ。

 悩みがあった。

 それは、日常を楽しめば楽しむほど、十年前に出会った少女との夢を見るようになったことだ。

 忘れたはずの想いが日増しに強くなり始めた。

 気づいた頃には、自分は後戻りすることを望んでいた。

 それが正解だったのかは分からない。振りだしに戻ることで、失い始めてきたなにかを捨てなくてもいいのなら、それがきっと良いことのように思えた。それだけだった。

「──よぉ」

 ふいに、後ろから声をかけられた。

「お前は……」

 一度だけ見たことがあった。ルル先輩が捕まっていたときに首謀者として活動していた人物。忘れるはずもない。

 研磨したような鋭い瞳と優等生が崩れたような顔立ち、そしてボサボサした金髪が特徴的な男子生徒だ。一見は理知的。背格好に秀でたものはない。強いて言えば常にポケットへ手を忍ばせた態度がふてぶてしいといったところか。

「やぁ、こんにちは。和泉くん」

「……ウニもいたのか」

 男の横には、かつてのウニ男もいた。

 糸のように細い目線でこちらを見つめ、相変わらず爆発したヘアスタイルをしている。身長は隣の男子生徒と比べても二回りほど大きく、正面で向かい合うと圧迫感がある。ただ、彼が持つ穏やかな表情がそれを打ち消していた。

「ひどいなぁ。ウニはとても美味しいんだよ……いてっ」

「いちいちお喋りしてんなよ。俺達はこいつらの厄介者なんだよ。自覚しろっての!」

 ウニは男に殴られていた。

「……なんの用だ。俺はお前達がルル先輩にしたこと、忘れたわけじゃないぞ」

「部から消えた野郎がそれを言うってのか?」

「……お前」

 男は挑発していた。

 口元をこれみよがしに歪めて、夕河の反応を待っていたのだ。

 へっ、とあからさまな啖呵を切って男が言う。

「お前にはあんときの恨みがあるからなぁ。天門院の傘下から離れたって言うんなら、この場でお前をノしてやるのもいいかと思ってな」

「……上等だ。こっちもストレスが溜まってたんでね」

 夕河の言葉に、即座に平坦な笑いを見せる。

「場所は前と同じ空き教室でいいだろ。普段は使わない場所だ。ジャッジはこいつがする」

「よろしくね」

 ウニが白い歯をちらつかせて微笑んだ。

「この馬鹿に関しては心配するな。こいつは中学のときに空手部の主将をやってたほどの腕前だ。レギュレーションにはとことんこだわる」

「分かった」

「さて、お喋りはここまでだ。行くぞ……」

 お互いに目だけで了承を交わして、どちらからともなく足を動かし始めた。

 夕河は男の背中を追って、流れるように廊下から廊下へ消えていく。


   5


「クソ……やるじゃねえか、天門院の犬だった癖によ……」

「お前こそ、温室育ちの面構えの割に粘っこい当たり方しやがって……」

 二人は教室の地面でダウンしていた。

 夕河のほうは仰向けで荒々しく呼吸を乱し、優等生崩れの男はうつ伏せで小刻みに震えている。

「うん、これは引き分けだね」

「馬鹿野郎っ……僕はまだ、負けてない……!」

「俺もだ……こんな奴に……!」

 言葉を吐きだした後、再び同時に倒れる。

 判定は完全に分けのようだ。

「数日前の傷が完全に癒えていたら、僕は負けなかったのに……!」

「ふん、下手な言い訳しやがって……」

 負け惜しみを口にする男に夕河は悪態をつく。

 男は言った。

「本当だよ……数日前、学園から停学処分を受けた直後、僕は今まで従えてきた連中に食いモノにされたのさ。お前だって分かるだろ……世のなかは弱いヤツが強いヤツに屈服する。このルールを変えることはできない。だから、弱いヤツは他人の機嫌ばかりを見て自分の居場所を守る。僕はそんな人間が嫌いで、同時にそんなルールを振りかざしてまで高いところにいた自分が嫌いだったのさ」

「……つまらないな。そんなことを俺に聞かせて、同情でもして欲しいのか?」

「やっぱりお前は馬鹿だな。僕の言いたいことが分からないのか」

「なに……?」

 夕河の額にうっすらと青筋が浮かぶ。

 男は焦燥しても変わりなく夕河を罵倒する。

「上の立場に恨みを抱えている人間は、たくさんいるってことだ。その人間が傲慢であればあるほどな……少数の理解者がいたところで、それはあくまでも身内に過ぎない。外の生き物は、初めから理解するつもりもないってことだ……天門院は、どうだろうな」

 痛みが落ち着いたのか身体を起こす男。

 夕河も同じく起きあがった。

「お前は知らないだろうが、天門院は学園や生徒会の事情に深く精通している。もちろん、それ以外でも恨みは買っているだろう。果たして、あいつは卒業まで無事でいられるのかな? おっと、もうお前には関係のない話だったな……」

 埃を払って、男は表情を落ち着かせていた。

 やることも終わって、先に男のほうが去ろうとする。

 夕河も部屋をでようとした。

 その矢先。

「おおお~いっ!! 和泉いっ、どこだ!!!」

 突風とともに、未憐が空き教室にその姿を現した。

 扉に手をついて息を切らす少女は、汗で濡れた長い黒髪を乱れさせてなお、はっきりと意思のある瞳で少年を捉えていた。夕河も思わず、その様子に目を合わせてしまっている。

「……そうか、お前にはまだ仲間がいたんだったな」

 男は小さい声でそんなことを呟いていた。

「い、和泉いいいいいっ!」

「未憐……うわっ!」

 少女は塩気のある水を双眸に溜めて、夕河に身を寄せていた。

 頭と両手を少年の懐に預け、女の子らしい細身の身体を震えさせている。

 彼女は泣いていた。

「和泉……ごめん。オレ、昨日ついカッとなってあんなこと言っちまったけど、本当はお前に残っていて欲しかったんだ……。それなのに、自分が裏切られたと思ったのがショックで……」

 未憐の身体は弱々しかった。

 少年を殴ったときの勢いなど露ほども見せず、儚さに自らの身をなじっている。

「未憐……悪い。俺もちょっとどうかしてたかもな」

 知っていたつもりだったけど、まるで理解していなかった。

 自分がいなくなることで悲しいと思う人間がいるのを、初めて見たのだ。

 いや、もしかしたら、そんな大切なことを忘れ去ってしまうくらいに、頭が熱くなっていただけかもしれない。

「俺、部長のところに行って、もう一度雇ってもらえるように話してみるかな……」

「和泉……?」

 顔をあげた未憐が見つめていた。

 彼女はきょとんとした表情をしていたが、やがていつもの調子を取り戻して笑顔になった。

「なんか楽しそうだなお前ら」

「「うわっ!?」」

 夕河と未憐は一緒になって奇声を発した。

 その様子を優等生崩れの男が眺めていたのだ。

「なんだてめぇは……ハッ! あら、ご、ごきげんよう……」

(いや、もう遅いだろ……)

 取り澄まして淑女をたしなんでいるが手遅れだ。男が呆気に取られている。

 だが、すぐに表情を戻して、男はウニを連れ立って教室から歩きだす。

「もう用は済んだ。僕は消えさせてもらう」

「じゃあね和泉君」

 やっと問題が過ぎ去る。

 ほっと一息つこうとした瞬間、目の前で未憐が叫んだ。

「そ、そうだ! そんな場合じゃねえ! 雪が、雪がさらわれたんだ!」

「なんだって!?」

 予想外の発言に夕河は驚く。

「どういうことだ、未憐!」

「さっき部室にいったらルルがいて、それで……じゃなくて! 手紙があったんだよ! 一年の天門院雪をさらうって! 携帯に電話してもでねえし、このままじゃ……!」

「まずいな……」

 夕河が汗を滲ませて唸った。

 その様子を見ていた優等生崩れの男が、やがて背を向けて教室をでようとする。

 男は去り際に口を開く。

「本当に性格の悪いヤツは品性まで醜く歪んでいる。早くしないと取り返しのつかないことになるかもしれないぞ」

「お前……」

「勘違いするなよ。僕は罪滅ぼしのつもりで言ったわけじゃない。単純に性格の悪い人種ってヤツが嫌いなだけさ。じゃあな和泉夕河」

 男はそれだけを残して廊下に消えていった。

 教室が静かになり、この空間で未憐と二人きりになる。

「一度、部室にこいよ和泉」

 未憐が廊下にでようと足早に駆ける。

「待ってくれ!」

 それを夕河は声で静止した。

 疑問符を浮かべて立ち止まる少女に、照れた顔つきで答えた。

「その、さっきはありがとな。それと昨日の右ストレート……結構効いたよ」

「……へへっ、次やったらもう一発お見舞いしてやるからな!」

 未憐は屈託のない笑顔で言った。

 夕河も笑った。

 そして、自分がいない間に起きた事件を解決するため部室へ向かう。

 少年は歩幅を強くして教室をでた。


   6


「これか……」

 部室に入った夕河は、手紙の内容を見て戦慄した。

 詳細だけ言えば、書かれた三つの場所の内どこかに雪がいる、ということだった。

「部長はどうした?」

 夕河の質問に反応を見せたのはルルだ。

「えっとお、まだきてませんねぇ」

「そうか……」

「どうするんだ?」

 未憐が尋ねる。夕河は目をつむって思索に殉じ、

「……とりあえず、部長には伝えないでおこう。それに伝えてる暇もない。まずは雪の搜索だ。三つの場所のどれかって書いてあったな」

 ルルと未憐がそれに頷く。

「ちょうど三人だし、一人一箇所担当するか?」

 未憐のだした提案に夕河は首を振った。

「いいや。誘拐犯が単独かどうか分からない。もし誰かが捕まってしまったら、それこそまずい。時間が惜しいが、全員で一箇所ずつ潰して行こう」

 夕河が二人に目配せをする。

 どうやら、両人とも同意のようだ。

「あ……」

「和泉? どうかしたか?」

 首を傾げて未憐が目を白黒させている。

「……未憐。お前はここに残っていてもいいんだぞ。学園内を探すとなったら、もしかしたらお前の性格もバレちゃうかもしれないだろ。そうなったら居づらくなるだろうし──むぐっ!」

 急に言葉がだせなくなる。

 そこまで喋ったところで、未憐に口元を手で押さえられていた。

「オレはオレの性格を受け入れてくれたお前やルル、雪に目を背けてまで自分を保っていたいなんて思わない。大丈夫だ。オレはお前達と一緒に過ごして、自分にも大事な仲間がいるってことを信じられるようになったんだ。だから、大丈夫だ」

「未憐……」

 間近で見た少女の瞳は輝いていた。

 それはもう、過去の自分とは決別を誓った目。

 未憐だって一歩一歩努力して、確実に前に進んでいるんだ。

 少年は理解した。

 すっと、二人の間にルルの手が伸びる。

「大丈夫です。自分が心の底から変えたいと思うものは変えられるんです。ルルさんも皆さんも、これからが本番ですよっ」

 手の甲を見せて突きだしたルルの手に、未憐の手のひらが被さった。

 次に、夕河の手のひらが上に被さる。

 心は既に一つだった。

「行くか!」

 夕河達は雪を探すために部室を飛びだし、早速一番最初の目的地へと向かう。

 まずは二階にあるコンピュータ室だ。

 廊下を全速力で駆け抜ける三人の姿を見て、わずかに残っている生徒が振り返る。

 だが気にしてはいられない。

 躊躇をして雪の身になにかあってはまずいのだ。

「クソ……ここじゃないか……!」

 コンピュータ室の前まできた夕河が中を覗く。

 が、一直線に並んだパソコンの隙間のどこを見ても、人の姿は見当たらなかった。

 迷っている暇はない。

 一呼吸を大きく口に蓄えて、また走りだす。

 次は調理室だ。滅多に行く機会のある場所ではないが、果たしてどうか。

 風を切って疾走するなか、後ろで息を荒くする未憐が口を開いた。

「ハァ……ハァ……! 和泉っ!」

「どうしたっ!?」

「相手の目的はなんだと思う!?」

 夕河は間髪入れず答える。

「雪は人の恨みを買って困るような性格の人間じゃない。多分、部長絡みの一件だろうな!」

 その夕河に、呼吸の乱れを全く意識しない動きのルルが口で割り込む。

「火乃佳お嬢様は、嫌われているんですかぁ?」

「…………」

 そこから説明が必要なのか……。

 言葉に詰まって、夕河は素知らぬ顔で話題を戻す。

「とにかく、雪をさらった奴らを捕まえて吐かせれば分かると思いますよ!」

「なるほどぉ」

 走っている間に、二番目の場所に到達していた。

「やっぱりここにもいないか……!」

 調理室はもぬけの殻だった。

「くそっ! こうしている間にも雪は……」

「焦るんじゃねえ! 和泉夕河はどんなときでも優雅に進むんだろ!」

「未憐……」

 顔色を青くする夕河に未憐が力強い微笑みを見せた。

 そうだ。嘆いている場合じゃない。

 少年は三番目の場所、生徒指導室へ向けて歩を進める。

「やはり、部長への要求が目的なのかねっ!」

「だろうな! でなきゃこんな回りくどい手は使わねぇはずだ!」

 目的地のある一階へと降りて、途中で図書室などを通過し生徒指導室にたどり着く。

「雪!」

 夕河は叫ぶ。

 だが、室内には誰もいなかった。

 しーんと静まり返っている。閑散とした空間、漂う無力感。

 思わず、壁を叩いた。

「くっそおおおっ、滅茶苦茶だ! 最初からあの手紙を書いた奴は、居場所なんか知らせる気はなかったんだ!」

 明滅をともなう道標は、闇のなかに消えて溶け込む。

 そして影も形も完全に消滅した。

 もう行き先は分からない。後はしらみ潰しに探すだけ。

 夕河は激しい後悔の念に囚われる。

 もし自分が部から離れなければ、この事件は回避できたかもしれないのだ。

「──なにやってるの?」

 そのとき、ふいに後ろから声が聞こえた。

 かつんと響き渡る靴底の音。

 華奢そうな体躯を廊下に立たせ、パッと映える女子制服のスカート。

 両手に大量の本を抱えた雪がそこにいた。

「そ、雪……無事だったんだな!?」

 夕河はよろめいて雪に近づく。

「なんのことかわからないけど、もしかしてぼくを探してたの?」

「えっ……?」

 夕河は雪の発言に驚いた。

 相変わらずクールな表情をした少女。

 彼女は少年が初めて出会ったときと同じような顔つきで言った。

「ぼくは今日も天門院雪だよ。依然変わりなくね」

「そうか……良かった」

 どうやら、あの手紙の内容は真っ赤な嘘だったらしい。

 夕河も他の二人も雪の様子に安堵する。

「というより、ぼくは前もって伝えておいたんだけどね」

 雪がそう口にしてルルに目を合わせる。

 数秒ほど目をぱちぱちさせた後、ルルが笑う。

「あっ! そう言えばそうでした! 昼休みに偶然廊下でお会いして、そのとき図書館に行くってお聞きした覚えがありますねぇ!」

 てへっと舌をだしてルルは弁解する。

「ンだよ……ってことは、オレ達の勘違いだったのかよ……」

 未憐は落胆する。

「少し話を聞かせてくれないかい?」

 とりあえず夕河は手紙の話をすることにした。

 今までの経緯を淡々と伝える。

 すると雪は、急に旗色が悪くなったように渋い表情で悩み始めた。

「まずいね」

「どういうことだ?」

「ぼくに直接関係ないっていうことは、つまりその手紙は別の行動を暗に示したものである確率が高いってことだね。仮にぼくがいなくなったことを仲間が知れば、その人物はぼくを探し始める。それを利用された可能性があるってことだと思うよ」

 少年の顔は蒼白になる。

 つまり、この事件はまだ終わっていないということになる。

「手紙の主が一年であることは確定だろうね」

「なぜだ?」

 夕河は問いかける。

「だって、この内容はぼくの行動を理解してないとできないはずだよ。この時間にぼくがいないことを知っていて、なおかつ果報部の人間をバラバラにさせてまでしたいことがある人物。ぼくは今日、一年生の教室がある一階から移動していないから、ほかの上級生がいた確率はとても低いんだよ」

 なるほどと夕河は口にする。

 続けて雪は言った。

「また、その人物は一人じゃないと思うね」

「どうしてだよ」

 今度は未憐が質問する。

 雪の口元に笑みが浮かんだ。

「フフ……だって、こんな遠回りなことをする人間が、単独行動できるほど器量のある人物だと思うかい? それに、直接ぼくをさらいにこなかったことから見ても、それは明らかだ。時間が経てば、ぼくが無事なことはバレるだろうし、わざわざ場所を三つも指定するなんてことしないはずだよ。そんな大がかりな仕掛けを単独で行うとは思えないかな。イタズラだったら、なおのことね」

「じゃあ、なにが目的なんですかぁ?」

 ルルの発言に、雪ははっきりと答える。

「姉さんの誘拐だろうね。仮にこの手紙の内容をそのまま実行したとしても、向こうにとって大事だったのは、『天門院火乃佳を一人にすること』だと思うから」

 そのとき夕河は直感し自戒する。

 自分が火乃佳になにも伝えなかったこと。

 それによって、重大なミスを犯してしまったことに。

「……最初からそれが狙いだったのか」

「ゆうが。落ち込んでる場合じゃないよ。すぐに部室へ戻らないと」

「そうだな……」

 頷いた夕河は、合流した雪とともに四人で部室へと戻る。

 全身に疲労を感じながらも、走る速度を落とさない。

 廊下を走り続けていると、なんとも言えぬ浮遊感がまとわりついてきた。

 どうして部をやめるなどと言ってしまったのだろう。

 あのとき見た夢の内容。

 過去にこだわる自分が、価値観を歪めてしまったのか。

 ふと、後頭部になんらかの意思を感じた。

 それは、眠っている間に伝わってきた酔いしれそうなぬくもりだった。

 まだ覚えている。

 部長と出会ったあの日のできごとを。

 下僕として過ごした、この数週間に巡った記憶を。

 苦痛だった。あの傍若無人な性格を優しいなどと思うことはなかった。

 それでも、彼女の時折見せるなにかを感じたのは事実だった。

 今はなにをどうしたいのかも、これからどうなるのかも分からない。

 ただ、自分にはまだ彼女に伝えきれてないことがあるはずだ。

 だから、探して見つけなきゃいけない。

 後戻りする暇なんてないんだ!

「ハァ……ハァ……!」

 部室の前まできた夕河は、勢いよく扉を開放した。

「うっ……ンだこりゃ!!」

「これはひどいね」

 部室のなかは散々に荒れ尽くしていた。

 テーブルはひっくり返り、部長愛用のティーカップは茶色い中身をさらけだして、床で染みを広げている。ついでにと言わんばかりに食器棚や本棚も中身が床に散乱しており、強盗に押し入られた後の光景だった。

 ただその静寂を、正面奥にそびえる柱時計の針が伝えていた。

「遅かったか……!」

 未憐が真っ先に苦渋を表現して、近くにあったゴミを蹴っ飛ばす。

「手がかりが、ありませんねぇ……」

「こうなったらもう、探すのは難しいよ。きっとケータイも通じないだろうし」

 ルル先輩と雪が、珍しいほどに表情を暗くしていた。

「くそっ、どうしたら……!」

 夕河も現実を直視できず、苦痛をあらわにする。

 ふと、地面に転がっている、『ある物』が目についた。

「……いや、まだ道標は残されているかもしれないぜ」

 夕河は腰を落としてそれを拾いあげる。

 指先で転がす。

 それは、一輪の白い花だった──。

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