第七話『風呂場のクラゲは毒クラゲ』
いつものように部活の時間がやってくる。
果報部の扉を開いた瞬間、夕河は言い知れぬ気分にさいなまれた。
先日の夕方までは、とんとなんでもなかったのだ。
部長の下僕として散々こき使われているおかげで磨きあげられた練達の掃除スキルが、多少の汚れなど簡単に消し飛ばしてしまう。
だからこそ、本当は汚れなどあっちゃいけないはずなんである。
戸棚に入っている皿の位置が変わっていたり、テーブルに置いてあるリモコンがひっくり返っていたりするだけで、いてもたってもいられない衝動に駆られる。
そんな性格になってしまったのだ。
無論、雑用のプロである夕河の目にゴミのひとつでも発見された場合には、イレギュラーな存在はたやすく淘汰されて然るべき。サーチアンドデストロイの精神で。
だと言うのに。
「…………おえっぷ」
室内を左から右までくっきり睨みつけて、正面を向いていたはずの視線がぐるりと上に引っ張られる。泡を吹くのも時間の問題。
逆さまになったティッシュ箱、割れたティーカップ。脱ぎ捨てられた服、空になった牛乳パック、食べかけのスナック菓子、山積みになったゲームソフト、マンガ、小説、教本、その他細々したゴミが所狭しと打ち捨てられている。
もうこれを汚いとかそこらへんから借りてきた言葉を用いて表現する気にもならない。
名状しがたい、したくない、させないで欲しい、だ。
きっかけは雨音が鳴る頃、なんてことのない理由で火乃佳と未憐が喧嘩したときだ。
最初は口喧嘩のはずだったのに、それがいつしか物投げ合戦になり、何故か自分は未憐の駒として前陣へ駆りだされ、裏切り者の始末として(研究費用への増資という名目で)火乃佳に雇われたルル先輩にツボのメッタ突きをされた。
その後も論争は繰り広げられ、雪はいつの間にかどんどんと部屋を汚し、またも物は飛び交い、この身は女帝達の生贄にされ、帰宅時間になった途端に火乃佳も未憐も怒って離散してしまった。
おかげさまで掃除をする気にもなれず放置して帰宅。
家で布団に入れば悪夢にうなされる。
ようやくトラウマが薄れかけてきた頃に部室へ。
そして、ご覧の有様というわけだ。
未憐も同じく雑用なのに、結局後始末をするハメになるのはいつも自分。
だが、部長がやってくる前に片づけておかないと、なにを言われるか分かったものではない。
彼女に常識など通用しないのだから。
「くそぉ……やってやる、やってやるぞおーっ!」
夕河は半ばやけっぱちになりながら、手当たり次第に片づけを開始した。
2
ぐったり。
煌びやかに光り輝いたフローリングに突っ伏して、夕河はゴキブリ奇天烈体験をしていた。
夕河本人は、はらほろひれはれと口にする元気もないが、室内はまさに壮観。
本来あるはずの美しい姿を完全に取り戻していた。
かなり燃えるゴミがでたので、袋にまとめてダストホールへ行き、帰ってきたところで綺麗なままを維持していた室内に安堵し、そのまま倒れ込んで今に至る。
しばらく床で寝ていたかったが、部室へやってきた火乃佳に『ようやくひれ伏す気になったのね、下僕っ!』とか言われるのが容易に想像できるので、能力者(?)に重圧系攻撃を食らったような状態の身体を必死に持ちあげ、なんとか両足で立つ。
そんなとき、ポケットのなかから音楽が流れてきた。
携帯電話をチェックする。
メール着信あり。部長からだ。タイトルは例の如く下僕へ。
『今日は遅れるから。それと室内はクリーンにしておきなさいよ。遅くなってもいいように紅茶用のデザートは時間を見て用意しなさい。あと……(以下省略)』
う~ん、いかにも部長だとはっきり伝わる文章。加えてなぜかいつもの怒り絵文字が。
夕河は内容を見てニヤリと笑う。
(ふ……残念だったな! もう部屋は綺麗にしてあるんだよなぁ……!)
夕河は嫌味ったらしく口角をあげる。
いつも憎らしい彼女の先手を打てたことで、少年の歓喜っぷりは心のなかで飼っている妖精が小躍りするくらいに見事なものだった。なんならドジョウすくい芸でも披露してやりたいくらいだ。
(しかしあれだな……結構、汗かいちまったな)
心なしか、いけ好かない臭いがする。
ワイシャツが前も後ろも汗でびっちり張りついて気持ちが悪い。なによりここで掃除するようになって以来、精神衛生上をやたら気にするようになった。
(どうせ誰もきてないし、いいよな)
夕河はその場でシャツを脱ぎはじめた。脱ぎづらかったので、袖がまくれて裏返ってしまう。それもきちんと直して、上半身裸の格好でバスルームへ向かう。
今までずっと思っていた。
ここにバスルームがあるんだから、自分にも使わせて欲しいと。
未憐は同じクラスだが、掃除やら委員会の都合だったり、つまらない男連中をたしなめる仕事も残っているらしく今日は遅くなるそうだ。
だから、部室に早くやってくる可能性があるのは雪とルル先輩だけ。
おそらく部長以外なら見て見ぬふりをしてくれるだろう。
そう考えて、鼻歌交じりに風呂場へ入る。
ちょうどなかに洗濯場があり、ここでよく雪の服を洗濯している。ここには高性能の衣類乾燥機も常備してあるので、雪が帰る頃には大抵乾ききっているのだ。
服をバスケットに放り込んで浴室へ。
なかに入ると、むわっとした熱気のある湯煙が少年の全身を包んだ。
じつは普段、いつ部長が風呂に入っても大丈夫なよう浴槽に湯を張っているのだ。これもひとえにかいがいしい自分の気配りが成せることだと胸を張る。
というよりメールで向こうが勝手に指示してくるだけなのだが。
それはさておき、今日はあの憎き部長の行動が全て裏目にでている幸運な日だ。
神が少年の日頃を鑑みて与えてくれた祝日に違いない。ようこそ新世界。ようこそ新しい自分。マイネームイズユウガイズミ。コンニチハ、マイニューワールド。アナタガワタシノキョウデスカ?
夕河は心底嬉しそうな表情で湯船に浸かった。
どばぁぁぁと流れる勢いのある湯。身も心も溶け込ませて、この暖かい海でひとつになる。
名づけて湯船で人類補完計画。
ここで新世界のアダムにはイヴがいて欲しいのが一般的な男子高校生の切なる願いだ。たまにイヴとイヴなんてのもあるが、アダムとアダムだけはまじで御免こうむる。
「あ~……ぎもぢぃぃぃなぁぁぁ……」
「そんなにキモチイイのかい?」
「うん、すっげぇ癒されるうっ……」
目が沈む寸前まで湯に浸かり、この極楽と幸福感に酔いしれる。
ふと薄霧のかかった世界を見ると、同じくらいの高さで浮いているクラゲのようなものがいた。
(……あれ、俺おもちゃなんて入れたっけ……クラゲ小隊長?)
どうしてか、妙にそのクラゲと意識がシンクロし向き合ってしまう。
ジト目でこちらを直視してくるクラゲに負けじと見つめ返す。
そうすると、相手が風呂のなかで泡をぶくぶくさせてきたので、同じように交戦する。
さすればこちらは両手で水鉄砲の形状をつくり、お湯を含ませて発射。
ぴゅ、ぴゅっぴゅっ、ぴゅ!
お湯の弾丸は、見事にクラゲの頭部に命中した。
クラゲは眉をひそませて怯んでいる。どうやら効果はあるようだ。
ぴゅっ、ぴゅーーーっ!
余裕ぶっかましていた隙をつかれて、高圧縮されたお湯の弾丸が眉間を直撃した。
くそ……やりやがったなクラゲ!
ぴゅっ! ぴゅっぴゅっ、びゅうーっ!
ぴゅ、ぴゅ、ぴゅ、びゅるっ!
ぴゅううううーっ! びゅく、びゅく、びゅくん!!
びゅるるるっ! びくん、びくん……ッ!
(はぁ……はぁ……)
夕河は疲弊する。
こいつは相当な手練だ。妹と風呂に入ったときに鍛えた技が通用しないなんて……。
ふと下を見ると、水面下でゆらゆらと細長いものが動いていた。
反射的に本能が自らの危機を察知する。
(まさかこのクラゲ、勝負がつかないと踏んで触手で本体への攻撃に転じたのか!?)
小波と一緒に影が近づいてくる。
(くそっ、そうはさせるかっ!)
触手が自分の心臓を捉える前にヤツの行動を停止させる!
夕河は果敢に両腕を伸ばした。クラゲの触手を捕まえ身動き出来なくしてから本体を叩く!
だが、触手は動きを止めて外側へと離れていく。
(しまった! 読まれていたか……ならば!)
瞬間的な判断に応じて、触手ではなくこちらも本体を狙っていくことにする。両腕を最大限まで伸ばし、本体に近づき、その行動を封じる!
ふにゅん。
よし、捕まえた!
それと同時に、
「…………ん、ふぁぁ……っ」
(な、なんだっ……クラゲの、声!?)
本体の動きを止めるやいなや、触手の活動が停止した。
夕河はクラゲに勝ったのだ。
だと言うのにも関わらず、夕河はどこか心で複雑な気持ちをはらんでいた。
「ん、ふぅ……あぁン、く、ふぅンァア……ッ!」
ふにふに、ふにふに。
ふにふに、ふにふに。
「ゆ、ゆうが……それ以上は……んああっ……!」
ふにふに。
ふにふにふにふに。
ふにふにふにふにふにふに、ふに……?
気づけば、沈没して髪の毛らしきものを湯上に散らせるクラゲの姿があった。
しかもなんか、丸みを帯びた色艶の良い肩みたいなものを露出させて一定間隔で震えている。
(大丈夫かクラゲ……? いや、もしかしてクラゲじゃないのかも……?)
途中でクラゲが自分の名前を呼んでいたような気がする。
ゆうが、と。そしてその声には聞き馴染みがあった。いつも部室で聞いている落ち着いた表情の女の子みたいな感じで、ちょっと世話の焼けるだらしない妹系美少女みたいな。
もうひとつ馴染みというか、懐かしい感覚にも似た存在が。
なんていうか、まず初見の印象でいくと、柔らかい、っていうのかな? こう、ぐっと丘を駆けあがるように膨らんでて、触り心地がスウィートで、餅とパンの中間くらいな? 耳たぶ? ハンバーグの生地をこねているような? それよりも、噂で耳にする女子の二の腕的な?
ずっと触れていたくなるほどの高揚感を抱かせるソレは、多分だけど自分も知っているもので、前にも似たようなことがあった気がして、背中のほうからぞわぞわくる謎の背徳感があって。
夕河がとりあえずクラゲ(?)のなんか名状したら一線を超えそうなものを両手でひとつずつ掴みながら髪の毛(?)を見下ろしていたら、可愛い女の子の声(?)が聞こえてきた。
「んっ……と、とりあえずきみの触っているものから……はぁ……説明してあげんふぅ、と、それは確実に、ぼくのおっぱい、だよ……」
「え……お、おっ、ぱ、い……? おっぱ、い……おっぱい……おっ……!?」
脳内で摩訶不思議な単語が集約されていく。
最初はおもちゃだったはずのクラゲが、起きあがってほんのり赤く染めた顔を見せる。
その女の子は夕河を見るなり、
「ゆうがって意外と不意打ちが得意だよね……」
と申してきた。
百パーセント見覚えがあった。記憶とクラゲが合致した。
宝石ならアクアマリンをイメージするだろうか。奥底まで見通すような澄んだ瞳があの美少女と対照的だ(第一話引用)。ボディラインは湯船に浸かっていて見えないが、いつもの下着姿から察するイメージと照らし合わせて、なおかつこの両手に収めているサイズを照合すれば、かつての事件が脳裏で思い起こされる。
「そ、そそそ、そそぎさささんじゃあ、ないですか……」
うん、と頷くクラゲ少女、天門院雪さん。
つまり、あれですか。
状況的に現在、自分は今、彼女の胸を揉んでいるなう?
そのとき、ふいに事実確認をしたくなって、そっと指先に力を込めてしまう。
ふに。
「んぅ……! こらぁ……触りすぎだぞ……!」
などと口にしている雪の顔に余裕ありげな含み笑いあり。
しかし、夕河。
みるみるうちに現実が出現し、顔が青ざめて、いや、すぐに赤くなっていく。
自分が触っていたのは、雪の──。
「う…………もう、ダメだ……」
そこまで考えたとき、恥ずかしさと風呂の熱で意識が遠のいてしまう。
ぶくぶくと泡を吹いて、夕河はまたもゴキブリ奇天烈体験へと誘われるのだった。
3
「落ち着いたかい?」
「半分ほど……」
意識を取り戻した夕河は、湯船からあがってバスチェアに腰かけていた。
当然、腰にはタオル装着済み。
雪はバスタオルを巻いて風呂に入っていた。
まだ頬は赤い。
それと同時に深い後悔の念が押し寄せてくる。
部長の件で嬉しすぎた反動か、全く気づかなかったのだ。もちろん言い訳にはできないし、一度犯した過ちを二度も繰り返す(しかも今度はヤバイレベルで揉みまくったうえに、なんか変な声をださせてしまった)のは、もはや情状酌量の余地もないだろう。
ああ……お父さんお母さん、二人が大切に育ててくれた息子は犯罪者となって社会の恥を晒してしまうことになりそうです。長女、次女、三女……ごめん。特に三女ごめん。もう一緒にお風呂入ってやれそうにないよ。お兄ちゃん、お風呂でやらかしちゃったよ。痴漢だよ。強制わいせつだよ。
「ゆうが」
「うっ……!」
ナイーブな気持ちになりながら髪の先端をいじめていた夕河は、浴槽に浸かっている雪が口にした抑揚のない声にビクンと身体をこわばらせた。
「ゆうが」
「ハイ、スイマセン。承知しております……けど、あともう少し、もう少しだけ……シャバの空気を味わっていたいんです……」
「ゆうが、こっち向いて」
どうやら彼女は許してくれなさそうだ。
諦めて雪のほうへと身体を向き直し、視線を合わせる。
雪は浴槽の縁に両腕を降ろしてこちらを見ていた。
その表情はいつものように至ってクール。
故に怖い。
「ゆうがには責任を取ってもらおうかな」
「はい……」
雪が平坦な声で喋る。
「正直に教えてね」
「はい……」
早速、取り調べだ。
「ぼくの胸は気持ち良かったかい?」
「はい……えっ?」
突然の質問に、夕河は顔をあげて聞き返してしまう。
雪は目と口だけで微笑んだ。
「いやぁ……ぼくは男の人にあれだけ激しく揉みしだかれたのは初めてだけどね、胸を」
これでもかと倒置責めをする雪。
「ごめん、本当に分からなかったんだ。てっきりクラゲかと……」
「フフ……そういうことにしておくよ」
雪の口ぶり的には、自分がわざとクラゲだと言い張って弁解したと思ってるように聞こえる。
いや、普通そうだよな……クラゲに見えたんだもん……。
「で、どうなんだい?」
追求される。
「いや……その……」
「無言は肯定だよ」
そんなことを言われる。
かなり答えづらい質問だった。正直に言うと、めちゃくちゃ気持ち良かったです!
なんてことを臆面もなく力説できるほど少年は女性慣れしていないのだ。
「……し、しゅごかったですぅ」
「なるほど」
曖昧を貫いた結果がこれである。逆に変な回答を口走ってしまったのぜよ?
雪は何度か納得するように頷いた。
落ち込む夕河に雪が言う。
「ああ断っておくけど、別にぼくは怒ってないからね」
「そうなのか?」
「責任は取ってもらうけどね」
「う、やっぱり……」
夕河はもう一度しょげた。
「俺はなにをすればいいんだ? できれば、警察は勘弁して欲しい……」
「そんなことしないよ。もうひとつ質問に答えてもらうだけさ」
「質問……?」
フフと声を漏らした雪が、片手をあげて人差し指を立てた。
「選択肢その一」
「ぶっ!!」
それ、ものすごい聞き覚えあるぞ。
「選択肢その一、いいや! 限界だ押(し倒)すね!」
「選択肢その二、この女とゲームのワンシーンを再現してやる」
「選択肢その三、しゃぶれ…………………………」
指を三本立て終えた雪は満足そうだ。
「…………」
一方、夕河はなにも喋ることができなかった。
むしろなにを言えと仰っているのだろうか、この着想を手がけた御仁は。シナプスの伝達を最大限に発揮して無様に死ねと、そう考えられているのではなかろうか。
一度でいいから脳みそのなかを覗いてみたいものである。
そんなことを考えて時間稼ぎをしてみたが、やっぱり意味が分からない。
前回よりカオス度が飛躍的に向上した内容に思わず唸りをあげる。
そのとき夕河は時の流れを思いだす。
一緒に風呂に入っている場面を誰かに見られたら大変なのだ。
「そ、そうだ……ルル先輩がきちまう……!」
「おや、メール見てないのかい? ルルも遅れるって、姉さんのメールに書いてあったんだけど」
「マジか……」
部長にしてやったのが嬉しすぎて全く見ていなかった。
ということは。
「しばらくは誰もこないよ」
「な、なんてことでしょう……!?」
夕河はショックのあまり変な裏声をだした。
どうあがいてもこの気が狂ったような選択肢に答えなきゃいけないらしい。
元より、自分に選択権はないわけではあるが……。
「じゃあゆっくり一番から解説していこうか」
屈託のない笑顔で答える雪。風呂の熱でほんのりと赤みのさした頬がちょっと可愛い。
言ってる場合じゃない。
「選択肢その一、いいや! 限界だ押(し倒)すね!」
「今だッ! じゃなくて、だからその、誰がなにを押(し倒)すんです?」
「ゆうがが」
「うん」
「ぼくを?」
「WHY? 日本語に訳すと、わけがわからないよ」
「ちょっと違うと思うよ」
「うん、俺もそう思う。っていうか、どうして疑問系なんです?」
「だってさ」
「うん」
「押し倒したいでしょ?」
「え?」
「違うの?」
「俺が?」
「うん」
「なんで?」
「気持ち良かったんだよね?」
「なにがです?」
「ぼくの胸?」
「まぁ……」
「じゃあ、そういうことだよね」
「いや、脈絡がなさすぎる。もっと正当性が欲しい」
「だってさ」
「はい」
「限界だ! って入ってるじゃん」
「それはお前が勝手に入れただけだろ」
「イれたいんじゃないの?」
「待て。なんかちょっと変だぞ」
「最初に、いいや! がついてるじゃない」
「いいや、意味が分からないね。どうして否定から入ったの?」
「葛藤じゃないの?」
「もしかして、俺の?」
「そう」
「どうして俺は葛藤していたの?」
「限界だからじゃない?」
「なにが限界なんだ?」
「ぼくに言わせる気なの?」
「じゃあ、誰が言えばいいんだよ」
「それはゆうがが、自分の身体で証明してくれないと」
「どうして俺が身体を使うんですかねぇ」
「だって、ぼくの身体を使いたいんでしょ?」
「全くもって意味不明なんだが」
「ほんとうに?」
「ああ、ホントだ」
「ほんとうにほんとう?」
「ホントにホントだ」
「じゃあさ」
「ん?」
「意識を失ってる間、ゆうがの海綿体がいい感じになってたのは、どういうことなの?」
「すいません完全に俺が悪かったです。このような息子で大変申し訳ございませんでした」
論争は完全決着を迎える。
夕河はバスチェアから下りて深々と土下座した。
「ま、まじか……」
「うん」
少年の頬が灼熱の渦に巻き込まれた。
土下座ポーズのまま硬直する。
家族全員ごめんなさい。強制わいせつプラスわいせつ物陳列罪でした。どうしようもありませんでした。どうかこの馬鹿息子をお許しください。
崩壊するマイニューワールド。
もはやこの図は、懺悔する愚者と聖職者の関係だった。
「うんうん。ゆうがの気持ちが伝わってくるよ。もういいから次いこうか、次」
「ウッス……」
「選択肢その二、この女とゲームのワンシーンを再現してやる」
「…………」
やばい。まったく分からない。
とりあえず、もう自分に恥も外聞もないことだけは理解できた。ここまできたら、いっそのこと開き直るしかないと思うんだ、うん。
「質問はあるかい?」
「ある。とりあえず、ゲームのワンシーンを再現ってのはいい。内容自体はロクでもなさそうだが、俺にも伝えたいことが分かる」
正座した夕河は誠心誠意しっかりと向き直る。
「この女とは?」
「だからさ、ぼくのことじゃないの?」
「そうなの?」
「うん。いや、この会話の流し方、どこかからクレームきそうだから二度目はないんだよ。さくっと進めるよ」
「あ、ああ……(クレーム?)」
「もう質問はないかな?」
「待て! この女は雪? なんで雪は男……なのか? に、そんな扱われ方をしているんだ?」
「この男はゆうがだよ」
「俺なの!? じゃあ、後半部分の再現してやるの、してやる、も俺が言ってるのか?」
「そういうことになるね」
「どういうことなの……」
「分かってるくせに知らないふりをするんだね。ゆうがはえっちだなぁ」
「○ラえもんみたいな言い方はやめてください!」
「しょうがないなぁ、ゆうがくんは……」
「だからさぁ!」
「もう、締め切るよ?」
「待った待った!」
「はい、だ~め。次いくよ。選択肢その三」
「待て待て! 早い、早いってば!!」
「選択肢その三、しゃぶれ…………………………」
「…………」
脳天直下のジェットストリーム○タックに、頭がどうにかなりそうだった。
「その……余韻は、なに?」
「えっと、恥ずかしいけど、ゆうがが考えている余韻を表現してみました……ぶくぶく……」
雪は照れくさそうにクラゲに戻る。
いや、おせえよボケ。
「余韻なんだね……コレ……」
「うん……ニンジャ風にシリアス顔でキメたゆうがをイメージしたんだよ……」
「うん、うん、そうなんだ……うん、すごいよね、ニンジャすごいよね、うん……」
感動して涙がでてきた。
夕河は自分のささやかな人生を振り返る。
この世のなか。辛いこと、言いたいことはたくさんあるけれど。
でも、そんなことはいいんだ。いいんだよ。
だって本当は、ただ生きていたいだけなんだもの。
だからいつだって、声を大にして笑顔で言えるんだ。
そうさ。
もうどうにでもな~れ。
「しゃぶるってやっぱりしゃぶっちゃうの? しゃぶしゃぶしちゃうの……?」
「うん……強引にね、口をこじ開けられて、動かされて、喉の奥のほうがね、真っ白なエキスで、すごく熱く焼けるの、それがね、とっても濃厚で、苦くて、びっくりするほどたくさんでてきて、手のひらにこぼれて、受け止めきれなくて、どろっとね、落ちるんだけども、それをね、──くんがね、舐めろって、飲み込めって、怖いの、でもね、がんばってね、勇気をだして、飲んだらね、優しく褒めてくれて、白い歯を剥きだしにして、剥きだしになったすごいので、まだまだ平気そうで、だから大丈夫だねって言ったら、言い終わる前にすごいのがね、また強引にね、喉の奥のほうにきてね、気づいたら、おかしくなってたの……」
「そうなんだ……人間の神秘って、本当にすごいよね……」
現在、和泉夕河は白目かもしれない。
ものすごい勢いで置き去りにされたような気がする。
が、特に気にもならない。
気にしたら負けかなと思っている。
「ハクションッ!」
背筋が震えてぞくぞくしてきた。
どうやら、しばらく濡れたまま正座していたせいですっかり湯冷めしてしまったようだ。
「俺、ちょっと寒い……」
「そうなんだ……いい方法があるよ」
恥ずかしクラゲになったままの雪が、喋るときだけ器用に口をだして答える。
「選択肢その二、この女とゲームのワンシーンを再現してやる。をやればいいんだよ……」
「なにをすればいいんだ?」
がたがたと震えながら尋ねる。
「とりあえず、こっちにおいで……」
「うん……」
言われるがまま、手招きされるほうに向かう。
身体が浴槽のなかへ。
奥までずっしりと浸かり、対面のクラゲと目が合う。
そうだ。こいつはクラゲだった。
どうして今まで、そんな大事なことを忘れていたんだろうか。
「ああ……湯船のナカあったかいナリ……」
「でも、まだ身体の芯から温まってないでしょ……?」
「そうかも……どういうシーンをやればいいんだ?」
とりあえず寒かった。
暖かくなるならなんでも良かった。
「ぼくのプレイしてるゲームだとリアル兄妹の二人がいて、妹がお風呂のなかでお兄ちゃんの日頃の疲れを癒すためにスキンシップを取るんだよ。ちなみに二人とも十八歳以上だよ。ほんとだよ?」
クラゲが年齢確認だけを強く実施して、懇切丁寧に話を教えてくれる。
昨日の敵は今日の友という。
このクラゲは、じつはとてもいいやつだったのだ。
「へぇそうなのか……それで?」
「うん……それでね、妹の優しさとエロさに発情したお兄ちゃんがね、温めるためにこうするの」
クラゲはとてもいいやつだ。
だが、一部の言葉の意味が霧がかったように理解できない。
なんらかのエラーメッセージだろうか。
特に気にする必要はない。
クラゲがとてもいいやつだからだ。
「こうするって、どうするんだ?」
「お兄ちゃんが両手を広げて」
「うん、こうか?」
両手を広げる。
「妹の両腕を捕まえるの」
「ほうほう」
クラゲの両腕を捕まえる。
手首みたいな触手の一番細い部分を握りしめる。
「妹との距離をじりじり詰めていくの」
「ふむふむ」
クラゲとの距離が近づいていく。
顔をだしたクラゲの頬が熱のせいか赤く染まっている。
瞳が湯気のせいか僅かに潤いを帯びている。
特に気にする必要はない。
クラゲがとてもいいやつだということを知っているからだ。
「最後に、俺……ずっとお前のことが好きだったんだ。って言って唇を近づけて、キスするの」
「俺……ずっとお前のことが好きだったんだ」
一字一句間違えずに言い切る。
そのとき、クラゲはどこかきゅんとした表情でこちらを見ていた。
クラゲはいいやつだ。そして可愛いやつかもしれない。
とにかく、キスをすれば暖かくなるようだ。
クラゲ……。
暖かな波に押し流されるように、じんわりと距離を詰めていく。
クラゲの鼓動が、とくんとくん……すぐそばまで聞こえてくるようだ。
既に世界が、クラゲと自分だけのものになっていた。
爪先でそっと引っかきたくなるようなクラゲの掠れたため息。憂いを帯びた瞳が、とろんと虚ろになっていく。クラゲの唇から垂れる透明な粘液が一筋の線を描いてあごへと伝う。
心なしかクラゲが震えているような気さえする。
いや、震えていた。ゆっくりと吐きだす呼吸に、クラゲの戸惑いが残留しているようだ。
物欲しそうなクラゲの表情を見たとき、両腕を掴む力が強まった。自分でも抑えられない心臓の高鳴りとクラゲ自身も理解していなさそうな震えの大本を探そうと、じっと瞳を見据える。
クラゲは一度だけ自分の唇を噛んだ。喉奥をごくりと鳴らすように唾を飲んでいる。それが実感としてわかるほどにクラゲとの距離は寸分をたがわず、もはやゼリーのようにぷるんとした唇が、自らの唇と接触しそうなくらいだ。
震える二人の呼吸。せめぎ合う吐息の反乱。
クラゲが小刻みに震えながら吐きだすうわずった吐息を吸い、吐き返してやる。
自分のものとは違う生温い感触に驚いたのか、クラゲは目をつむって迫りくる感覚にびくんと肩を跳ねあげて身悶えさせていた。クラゲは反射的に後ろへ逃げる。
でもほんのちょっぴりだ。クラゲが思うほど距離は開いていなかったに違いない。
クラゲは覚悟したのかひときわ大きく息を吸うと、強く双眸を伏せた。
唇の潤いを確認してか、上唇と下唇の先端を交わせてから再び開いてきゅっとすぼめる。
その行為に心臓の高鳴りという熱い律動を覚える。情熱的なリビドーが全身に行き渡って、クラゲを抱きしめたいという感情が痛覚のように敏感さを訴える。
クラゲの唇を食べてしまいたい。その欲求に抗う術がなかった。
差しだされた赤い唇に狙いを定めて、今度こそクラゲの唇を確実に捉える。
既にこの感情の交差は、ただ単純にクラゲの唇に唇を重ねるだけでなく、胸のなかで攪拌する情熱のシンパシーを受け止めるための契なのだ。その想いを唇というパスに閉じ込めて、クラゲの唇の奥に繋がっている感情的炉心の深い部分へと流し込んでいく。
クラゲと自分の唇で想いを確かめ合うのだ。
鼻先と鼻先がこつりと当たる。
上下に開いた唇と唇が接合する瞬間。
ざばぁ!
──突然、夕河は頭からお湯をかけられた。
「あ……? あ……?」
雪の両腕を掴んだまま夕河は唖然とする。
あれだけ朦朧としていた意識が、急に鮮明になっていく。
今まで、自分はなにをしていたのだろうか。
「ゆうが……後ろ後ろ」
いつの間にかクラゲはいなくなっていた。
どうしてか目の前にいる雪に声をかけられて振り向く。
そこには火乃佳がいた。
「あ~ら、部長じゃないですか。こんなところでなにやってるんですかあ?」
部長に挨拶しておこうと思ったので、口当たりの良いフレンドリーな言い回しで伝える。
火乃佳はずっと夕河を見ていた。
見ていた、は果たして正しいのだろうか。
顔が引きつっていた。口元で僅かに歯ぎしりの音がする。瞳孔が開いている。
果報部の美少女部長は、もしや睨んでいるのか?
この夕河を。
世界の幸運を掌握した、この和泉夕河を!
「……和泉。オレはお前のことを信じてたんだぞ。それなのに……こんな、強硬手段を使ってまで欲望を抑えきれない獣だったなんて……」
「未憐?」
火乃佳の後ろから、ひょっこり未憐が姿を現した。
「わぁ、素敵なスキンシップですねえ~。ハダカのおつきあい、って言うんでしたっけ??」
もう一人、ルル先輩がでてきた。
火乃佳、未憐、ルル。
この三人が浴室でどーんと立ち尽くしていた。
ふーむ、いつ頃からいたのだろう?
「下僕……どういうことか説明してみなさい」
「へっ?」
なにを説明すればいいのだろう。
記憶を探る。
……クラゲがいいやつだと、そう伝えればいいのか?
夕河は口を開く。
「いや、だからその、掃除して祝日だったから、クラゲと遊んで、キスしようと思っただけだろ」
「は? クラゲ?」
火乃佳がなに言ってるのコイツという顔でこちらを見ていた。
仲間にしますか?
いいえ。
「じゃあ目の前にいるのは誰よ」
夕河は振り返る。
クラゲがいたはずの場所で、雪がぼーっと見つめていた。
「雪だな」
「クラゲは?」
「いない。でもいいやつだ」
「下僕はトチ狂ったの? それとも馬鹿なの? 死ぬの?」
「俺は死なない! 俺が死んでも、クラゲとの絆は決してなくならないんだ!」
なぜクラゲがいいやつだとわかってくれないのか。
話の通じない部長に力説してやる。
すると火乃佳は眉間を数回指で叩いて苦悶の表情を浮かべた。
「……貴方がなにを見たのか知らないけれど、クラゲはその子だったんじゃないの?」
「え……クラゲが、雪……?」
思わず雪の顔を見る。
過去の記憶が少しずつ蘇ってくる。
入浴、水鉄砲、胸、反省、選択肢、クラゲ、雪。
そう考えれば確かにつじつまが合ってくる。
もしかするとクラゲという存在そのものが虚構から構築され、初めから非言語的認識が創造した一種の幻だったのかもしれない。しかし、この手のなかには間違いなくクラゲとの記憶が残っている。あのときの記憶が嘘だったとは自分にはどうしても思えない。
いや、しかし、目の前にいるのは雪だ。
だがクラゲは……。
そこまできて夕河は、ようやくことの発端を思いだした。
雪そのものが、ある瞬間を境にクラゲになったのだと。
そして間違いなく自分は、風呂場で雪と対面したということを。
「そ、雪……」
どうしようもなく、雪と顔が合わせづらくなる。
「なんだい、ゆうが? それよりも腕痛いんだけどね」
ハッとなって夕河は両腕を離した。
そうしてせりあがってくる脊髄からの恐怖心。
脳内が正常に物事を考え始めた証拠なのか。途端に汗が止まらなくなった。
火乃佳が見下してくる。確実に軽蔑の眼差しだ。
夕河は焦った。
焦らなくてはいけないと思った。
「ち、違うんだ……これは、その……」
夕河が慌ててそのセリフを口にした瞬間。
雪が顔を両手で隠して叫びだした。
「うわああああんっ! ホントは、ホントはぼく一人で入浴を楽しんでただけだったのに、ゆうががこれみよがしに『棒』をアピールしながら全裸で入ってきて、勝手にクラゲ扱いしてきて、散々ぶっかけられまくった挙句、無理矢理三つの選択肢をだしてきて強引にキスを……!」
すいません。完全に思いだしました。
これと同じケースを過去に一度体験していました。
家族のみんな、一族のみんな、地球のみんな、本当にごめんなさい。
自分は自覚症状もないくらい強引に女性を襲おうとした真性のド変態です。
生きていて申し訳ありませんでした。
(……で、まとめられるわけがないだろーーーっ!!)
意識を取り戻した夕河は烈火の如く怒る。
「違う! おい、ふざけんなよ! 半分以上は捏造じゃねーか! 全て思いだしたぞ!」
「全て思いだしたのなら話は早いよね」
「なんだと……!?」
「ぼくの胸揉んだよね? しかも正直に、しゅ、しゅごいですぅって言ったじゃんか」
「……………………」
少女は含み笑いをした。
やっぱりそうか。
自分は都合よく騙されていたのだ。
嘘は事実がなければ真実味を帯びない。
夕河は、完全に自首した犯人の立場になっていた。
「もう言い訳は終わりかしら?」
待機していた火乃佳が唇から冷たい声を発する。
夕河には、いつもより部長の存在が異常に巨大化して映っていた。
諦めて覚悟を決める。
(──もう少し、時間があれば良かったのにね)
ふいに耳を伝わって、そんな言葉が聞こえてきた。
しかし、聞こえたのは一瞬。
声が小さすぎてそれ以上聞き取ることはできなかった。
それから先、物凄い勢いで浴びせられる暴力から逃れる術はなかった。
ひとつだけ学んだことがある。
風呂場でクラゲと出会ったら速やかに逃走しろ。
あれはただのクラゲじゃない。毒クラゲだ。
もう一度警告する。
風呂場のクラゲは毒クラゲだ。
近づいてはならない。
けれど。
もし、それでも近づく勇気があるのなら。
そのときこそ、少年の望む新世界は門を開くかもしれない──。