第四話『信じる心と可憐な盗賊 前編』
夕河が果報部で雑用をするようになってから、一週間ほどの時が経過していた。
日を増して上達していく服の折りたたみ方。本棚の整頓技術。
この短期間で、夕河の従者としてのスキルは確実に向上しつつあった。
「どうですか……部長」
長椅子に座ってソーサーとカップを手に抱えている火乃佳が、優雅に香りを楽しんでからグイッと唇の奥に紅茶を流し込んだ。
胸をどきどきさせて、双眸を閉ざしている彼女の反応を待つ。
す、と無音を保ったまま唇からカップが離れる。
数秒の間が空いた後、三日月が並ぶように美しく揃えられた少女の睫毛が、ゆっくりと時間をかけて持ちあがった。
そして一言。
「まずっ」
「…………」
夕河は何も言えなかった。
「なにをどうしたらこんなにマズくなるのようっ! それに、ぬるいわ! 発酵させた茶葉は沸騰したお湯じゃないとしっかり抽出されないんだから、適温は守りなさいよねっ」
「む、むぐぐ……」
お嬢様型リボンつき毒吐き機がなにか言っているようだ。
なんてことを頭のなかで吐き散らす。
人に淹れさせておいて、よくもまぁそんな大胆発言ができたものだと、少年は胃のムカつき加減を抑えきれなかったが、この女に常識が通用しないのは百も承知なのだ。
「ねえ、ちゃんと返事を聞きたいのだけれど。それともなに、また復唱させられたいの?」
「…………失礼いたしました! 本官はただちにカップならびソーサーを回収してこの場を撤収し、新しい紅茶を用意する次第であります!」
「なんか気に入らないけど、いいわ。早めに頼むわね」
「は、かしこまりました!」
表情に一切の余念を持たず、夕河はビシッと敬礼する。
(大安吉日にでも死んでくれ!!)
などと考えるも仏頂面を決め込んで、いそいそと台所へ駆け込む。
コンロのスイッチを入れてお湯を沸かす。
「フフ……ゆうがも大分この生活に慣れてきたね」
そんな声が、火乃佳のいるテーブルを挟んだ向こう側から聞こえてくる。
この部室の二番目の部員である天門院雪。
傲岸不遜品性下劣慇懃無礼厚顔無恥な果報部の部長である天門院火乃佳。その妹だ。
もう授業が終わって放課後になったからか、当然のように服を脱いで下着姿のままパソコンと睨めっこしている。もちろん衣類は床に放置だ。
さらに、放っておくと彼女はすぐ口元から牛乳を零すので、注意深い観察が必要になる。
まずはテーブルの箱ティッシュが空になっていないかの確認。大事があればポケットティッシュを多分に常備しておくなど、状況によって適切な判断ができればグッド。
火乃佳は火乃佳で、紅茶が切れるとすぐに怒りだすし、特定の時間に特定のテレビ番組を映しておかないといけなかったり、録画を怠っていた日には目も当てられない。
とにかく、この部室において和泉夕河という存在は必要不可欠であり、彼にとって彼女達は厳重に注意して然るべき対象なのである。
ただ、雪の言うこともあながちはずれてはいない。
(まったく……慣れとは恐ろしい。最初は嫌でしょうがなかったのにな)
なんだかんだで、夕河はこの状況を受け入れていた。
嫌には違いなかったが、なにもない生活よりはましだと考えることにしたのだ。
少なくとも、中学校生活よりは刺激のある日々を送れている。そう考えれば、今の苦痛もいずれは矜持に変わっていくのだろうか。
まずはそう思うことにしようと少年は一人納得し、ガスコンロを止めて紅茶を用意する。
紅茶をテーブルに運んだのち、何故か火乃佳が不敵に笑いだした。
「ふふふふ、どうよ下僕。これを見なさい!!」
(……下僕って言うなよな)
呆れつつも悪心をたしなめて、火乃佳につき合う。
ぎんぎらぎんだけどさりげない輝きを放って、銀色と白色の混ざった光が瞳に吸いつく。
目の前に差しだされたのは一本のスプーンだった。
「スプーンだな」
「そう、スプーンよ! でもねでもね、これは少し違うの。なにが違うって、この世にただひとつしかない特注品。ダイヤモンド製の超高級スプーンよ!!」
「ダイヤモンドぉ!?」
あまりの驚きに後ずさる。
確かに理事長の娘でお金持ちなのは知っていたが、まさかダイヤモンドとは。
夕河のリアクションに火乃佳は大変満足したようで、
「驚くのも無理はないわね。普通スプーンひとつにダイヤモンドなんて使わないもの。凡人の貧困な想像力では、やはり追いつかないものなのね……!」
と、熱弁する。続けざまに火乃佳の口が動く。
「やっぱり貴重さもさることながら魅力的なのは光沢よね。結婚指輪とかもプラチナだって綺麗だしそれでもいいのだけれど、エタニティで飾るならダイヤモンドのほうが……」
話の内容が良くわからないうえにイマイチ要領を得ない脱線に脱線を重ねる喋くり女子特有の自己展開型感情論を延々と語られる。
なあなあに話を聞き流しながら、頭のなかで思いだせるだけ並べてみた百人一首の和歌もいよいよネタ切れになってきた頃、聞き馴染んできた鐘の音が響いた。
「あら、もうこんな時間なのね。もう少し語りたかったのだけれど」
(やっと終わったか……)
夕河は精神的苦痛からの解放感を味わって深くうなだれる。
「下僕、ここに置いておくから棚にしまっておきなさい。無論、丁寧に扱ってね」
「へいへい……」
火乃佳と雪は、いつものように鍵を任せて部室を後にした。
「しまっておくって言われてもねぇ」
剥きだしで放置されているスプーンを手に取り、夕河は表裏を眺める。
角度を変えて、入口とは反対方向にある窓に向けて照らしてみたり、穴が空きそうなほどまじまじと睨みつけたりしてみた。特になんの変哲もない。
一見すると、どこにでも売っている市販のスプーンに見える。
素人目に見れば、そこそこ光り具合が強いような気がしないでもない。
凡人代表の自分に鑑定は無理のようだ。我ながら目利きが悪いと自嘲して、すぐにスプーンを棚に持っていこうとする。
コンコン。
突然、扉のノック音が室内に響いた。
思わず夕河は、持っていたスプーンをテーブルの同じ位置に戻す。
「あのぉ~……」
しどろもどろな印象のある、弱々しい声がした。
「誰だ?」
夕河が振り向くと、そこには扉を少しだけ開いて室内を覗く女子生徒の姿があった。
隙間からは、潤んだ瞳と扉を掴む指先、そして長い黒髪がわずかに見える。
女子生徒が今にも消え入りそうな羞恥のある声で言った。
「道に……迷ってしまって、その……」
「あぁ、ここらへんは通る人も少ないしわかりにくいからね。ってあれ、小田桐……さんだよね? ウチのクラスの」
「あ、えっと、そうです……」
がらがらがら。
遠慮した力加減で、ゆっくりと部室の扉が開いた。
夕河の視線に女子生徒の全体像が映る。
──なんていうか大和撫子。
まずその印象でもって、少年の脳は女子生徒の姿を認識した。
髪は女の命とはよく言ったもので、柔らかさの伝わってくる様が、ふんわりと風に揺れるウェディングベールのようだ。背中よりも腰まで伸びている髪もさることながら、お姫様みたいに均等に切り揃えられた髪の毛も一段と彼女の魅力を引きだしている。
顔立ちは繊細とでもいうべきだろうか。
やや日本人離れした天門院姉妹の主張の激しい容姿とは違って、淑やかとか清純などの単語が浮かんでくる感じこそ彼女の美しさのベクトルなのだろう。
少し釣り目だが、それもまた似合う。
加えてその仕草だ。
手を手で押さえていたり、入ってくるときにぺこりとお辞儀をしたり、スカートの下で自然と足が内股になっているなどの要素が、どれを取っても可憐すぎる。
学校内を探してもこれほどの美少女は少ないはず。
少年が雷に打たれるような錯覚を体験するほどに可愛いのだ。
「覚えて、くれてたんですね。小田桐未憐です……和泉君」
──和泉君。
心臓に吐息をかけるような甘い声。
そんな声で喋る美少女が自分の名前(※苗字です)を呼んだことにドキッとしてしまう。
思わずハッとなって、夕河は失いかけていた正気を取り戻した。
「いやいや。小田桐さんこそ、よく覚えてましたね……って、そりゃそうですよね」
はたときて、夕河は自分自身の環境を思いだす。
火乃佳の下僕となって以来、夕河は教室内どころか学園中で『天門院の犬』という扱いを受けているのだ。それを考慮すれば少年は彼女からも嫌われている可能性のほうが濃厚。
できれば、彼女からは嫌われたくない。
夕河は内心に爆弾のような緊張を抱えながらも平静を装って苦笑いする。
「覚えてますよぉ。だって、和泉君はクラスでも、かっこいい、ほう、だし……なんて」
「えっ……」
予想外の言葉だった。
夕河は心臓が高鳴ると同時に、どう反応していいか分からず言葉に詰まった。
実感するのは、じ~んと切なく響く五文字のアルティメットワード。
生まれてこの方、女の子に『かっこいい』なんて言われたのは高校受験の合格発表の際、嫌がる一番下の妹の口から強引に喋らせて以来だと、少年は感慨深く言葉を噛み締める。
(……はっ、いけない、いけない……道に迷ってるんだったな)
つい自分の世界に入り込んでしまう。
ぶんぶんと首を振り、頭のなかで広がっていく妄想に栓をする。
すると、入口の前で立つ女子生徒が室内を見渡し始めた。
「……すごい。この学園に、こんなところがあったんですね……」
口元を手で押さえて、しげしげと周囲に目を凝らしている。
それもそのはず、この室内は本来あってはならないような私物ばかりで、一種のファンタジー世界のような雰囲気を構築しているのだ。更にはバスルームや台所が備わっているなど、完全に住居と化している室内である。驚かないわけがない。
「そ、そうだ! 道に迷ったんですよね! 大丈夫ですか、良かったら案内しましょうか!」
あくせくして答えたせいか聞こえなかったようで、いつの間にかテーブルまで近づいていた少女は興味津々で部屋の物を眺めたりしていた。
なんの気なしなのか、部長の置いていったティーカップを持ちあげている。
「きゃっ」
ぱりん。
金属質のある高音がフローリングの床で鳴り響いた。
「ご、ごめんなさい……どうしましょう……」
慌てる様子の女子生徒に近づくと、部長愛用のティーカップが大きく分けて二等分、細かいものは数知れずという状態になっていた。
それを見た夕河は……。
(間違いない! 部長め、日頃の行いだざまあみろ!)
と、思っていたが口にはださないのである。
「小田桐さんのせいじゃないですよ! これはウチの部長が片づけもしないでさっさと帰ったから、罰が当たったんです。ああ、危ないですから。これは僕が片付けるんで置いといてください!」
テーブルの下にしゃがみ込んでティーカップの欠片を拾い集める。
「だいじょうぶ、ですか……? 素手だと手を切っちゃうから、危険ですよっ……!」
女子生徒が、チワワのようなつぶらな瞳に潤い度数増し増しで少年の安否を気遣っていた。
「なあに平気ですよ。痛いのはここの部長のせいで慣れてますからねっ!」
わずかに和らいだ頬の筋肉を使って、精一杯はにかむ夕河。
まずは大きなものから順に集めることにする。
かちゃかちゃ、かちゃかちゃ……。
本当に細かいものは後でガムテープなどにくっつけて取るとして、まずは一段落。
安心する夕河は、大きくお腹から息を抜く。
割れたカップを一度ソーサーの上に置いて、夕河は立ちあがる。
「道案内でしたよね。玄関のほうでいいんですよね?」
「あ、や、だだ、大丈夫、ですっ! 道を、思いだしましたのでっ!」
「え? あ、小田桐さんっ!?」
夕河の呼びかけにも応じず、慌てるように彼女は部室を出て廊下を走っていった。
本当に大丈夫なのだろうか。
心配するも声は届かない。
残されたのは直前まで彼女が居たことを想起させる、ほんのりとした石鹸の香りだった。
(う~ん。それにしても可愛かったよなぁ……小田桐さん)
今もなお、さきほどの言葉が少年の胸をくすぐっている。
小田桐未憐。道を間違えなければ、彼女みたいな子と学園生活を送りたかった。
夕河がそんなことを脳裏によぎらせれば、思考の反対側から突如出現する悪鬼のような顔をした、天門院火乃佳嬢の御姿が。
ぶるる! と夕河は身をすくみあがらせた。
半開きの目で割れた火乃佳のティーカップを覗き、現実の不遇さを呪う。
(ああそうだ。スプーンもちゃんとしまわないとな)
夕河は思いだしたようにスプーンを握り、ソーサーと一緒にひとまず台所へ向かうのだった。
2
(う~っ! トイレトイレ!)
翌日の昼休み。
夕河は四時間目終了の鐘を聞くのが早いかでるのが早いかという勢いで、すぐさま手洗い場に向かって教室を飛びだした。
ちょうど清掃をしていたらしく、やや小太りで目のきついおばさんが清掃中と書かれた看板を置いてモップを抱えていた。やはりどの世界、どの環境においても清掃のおばさんと言えばそれで通じるはずだ。無論、完全な偏見ではあるが。
どうして昼間に清掃しやがるんだろうと苛立ちを募らせるが仕方ない。
ほかの場所は終了しているとのことで、やむを得ず夕河は別のトイレへと向かう。
やっと辿りついた男子の花園空間へと駆け込んで用を足す。
全身から抜けるような脱力感を受け止めながら夕河は目的を果たした。
洗面台で念入りに手を洗っていると、ポケットのなかにある携帯電話が着信の振動を響かせる。
メールのようなので、とりあえず中身を確認。
差出人は天門院火乃佳。
件名──下僕へ。
内容を噛み砕いて言うと、すぐに部室へ来なさい、という通達だ。
ちなみにメールアドレスと電話番号は、数日ほど前に『貴方はこの天門院火乃佳の下僕なんだから知りうる全ての情報を差しだすべきだわ!』という女王様特有の爆弾発言により、発言権ごと携帯電話を取りあげられて強制的に登録させられた。
余談だが、送られてくるメールの文章末端には常に怒り表現の絵文字がついている。
(あまりいい予感はしないな……)
夕河はため息を吐いて部室へと向かった。
3
「スプーンが……偽物!?」
部室で長椅子に座っている火乃佳の前で、夕河は驚愕の声を漏らした。
「ええ。どこかですりかえられた可能性があるわ」
「そんな……」
火乃佳は偽物のスプーンを指先で弄び、冷ややかな視線で少年を見つめている。
「ティーカップの件はいいわ。安物だしね。それになにより、私の沽券には関わらないから。でも、スプーンは別よ。盗んだ犯人は必ず仕留めないと。それとも貴方が犯人?」
盗んだ記憶はないので夕河は大人しく首を横に振る。
火乃佳はじっと睨みつけていたが、犯人でないことに納得したようだ。
「貴方、昨日ちゃんと鍵を掛けて帰ったんでしょうね」
「ちゃんと確認はした。それは間違いない」
「ふぅん。じゃあどうしてここに偽者のスプーンがあるの?」
「…………それは」
夕河は言葉に詰まる。原因が自分にもわからないからだ。
先日の一部始終を思い返しても、問題になりそうな場面は浮かばない。
ふと、ある記憶が蘇る。
彼女……そう、小田桐未憐が部室に入ったことだ。
けれど、少年のなかでその答えはあり得ない。
起きてはならないことだった。
あのとき見た少女の笑顔が脳裏にフラッシュバックする。おっとりした雰囲気で、華奢で可憐で繊細で可愛くて。とてもスプーンを盗みだすような人間には見えない。
混乱する少年を見据えるのは、落ち着いた表情の火乃佳。
そんな彼女は、今まで少年でさえ見たことのないような冷たい目をしていた。
少なくとも夕河には、そんなふうに映っていた。
「なにがあったのか詳しくは知らないけれど、簡単に人を信用しないほうがいいわよ」
「ち、違うっ! 小田桐さんはそんなことをする人じゃあ……ッ!!」
夕河は唐突に目を丸くして立ち止まってしまう。
今の発言。火乃佳によって引きだされたものであることに気づいたのだ。
彼女はやれやれと首を振って両腕を組む。
「この件に関しては、貴方の軽薄さを見抜けなかった私の監督不行き届きでもあるわ。けれど、貴方がそのとき発見した疑問は、必ず後の自分に対して悪影響をもたらすことになる。そうならないためにもすぐに解消してきなさい。でなければ、私が直接手を下さざるを得なくなるから」
「……分かった」
自分のせいだと理解はしていた。
しかし夕河は、どこまでも冷静な火乃佳を睨みつけずにはいられない。
火乃佳は夕河に目もくれず、ただどこか一点だけを眺めていた。