第十話『花は仄かに、そして優雅に咲き誇る』
暗かった。
扉の隙間と上部の小窓から漏れでる採光だけが、室内の明かりだった。
胃のなかがスースーしていた。
ついでにお腹や肩の辺りも少しスースーする。
数人の男どもが呻きにも近い豚のような笑い声に酔っている。
正直、うっとうしくて堪らない。
動くことはできなかった。なんにしても耳が痛くて不快極まりない。
でも、とりあえず今のところ文句を訴えるなら。
湿っぽい上に異様に周囲が汗臭くて、鼻がざわつくこと。
なによりも紅茶が飲みたいことだった。
「おい」
急に声がした。
ちらりと視線だけ上にあげると、いかにも汚そうなみすぼらしい男が、本当に汚い口元で薄汚い笑みを浮かべている。正直、うっとうしくて堪らない。
「聞いてんのかコラァ!」
ぱしんっと、耳に音が響いた。
少しだけ頬がじんじんして、痒くなってくる。
なにか反論をしてやりたいのだけれど。
残念ながら、面倒でがさつな男に語る舌は持ち合わせていない。
それに声がでない。
まったく、非常に口惜しいわ。
そのまま黙っていると、急に周囲の明かりが増える。
携帯電話のライトだった。
それが幾つにも重なって光を強くしている。
「へっへっへ。いい眺めだなぁ、天門院火乃佳さんよぉ……」
「…………」
用具室にもたらされたライトの光が少女を照らしていた。
一枚のマットが床に敷かれており、そこに両腕を縄で縛られて座らされている。
背中まで伸びる美彩なロングヘアーは用具室の埃にまみれて汚れ、留め具をはずされた制服の奥には美少女の胸を惜しげもなく包み込む桃色の下着が見える。服はするりと落ちて肩を露出し、へその目立つお腹周りは呼吸に合わせて規則正しく動いていた。
口元にはハンカチが巻かれ、薄く唾液の染みがある。
天門院火乃佳は男達に捕らえられていた。
そこには恨みを募らせているのだろうか、険しい表情をした男や、ただ純粋に欲望を丸だしにしたような、だらしない顔で舌なめずりをする男など、そんな連中が大量に少女を見下している。
本来であれば、生気を失って茫然自失とするところだが、彼女は違う。
目だけでさえ重低音のように分厚く鋭く、他者の心を締めあげるような威圧感が。
そして、切れ味が鋭くシャープに歪んだ眉根。
火乃佳の全身から燃えあがるオーラは、弱気になった者のそれではなかった。
男達は一瞬だけ気圧されていたが、それ以上の兆候は見られない。
この状況では、強がり以外の何者でもなかったからだ。
「なんだよその目は。さすがお嬢様は違うなぁ。こんなときでも俺らは自分より下の人間ってか?」
一人の男が火乃佳に近づく。
火乃佳は睨みつける目に力を込めた。
だが眼力にも怯まずに、男は用具室に置いてあった細長い棒を手に取り、それを自分の眼前へ差し向けてくる。
「~~~~ッ!」
いきり立って火乃佳は暴れた。
「おうおう怖えなぁ。まるで獣だぜ。こりゃあ手をだしたら噛みつかれそうだ」
「でも、そんな女だから、犯すのが楽しみなんだろ?」
「ははっ! 違いねえ!」
男が隣にきた男と笑い始める。
そのとき、後ろにいた及び腰な三人組、その内の一人が話題を切りだしてきた。
「う、上手く行きましたね先輩!」
「あん? あぁ、そうだなぁ」
ご機嫌をうかがうように、手を擦りあわせている。
「お前らは用具室の外で待機してろ。誰にも見つからないようにな。まぁ、そうはやるな。後でお前らにもいい目を見させてやるからよぉ」
「は、はいっ!」
期待した様子で、三人組は外へ飛びだしていった。
「ま、嘘だけどな! はははっ!」
男は高笑いした。
「さぁて」
自分の手に数回ほど棒を当てた男が、火乃佳に顔を向ける。
すると急に、目の前に棒が伸びてきた。
(くっ……!)
火乃佳は屈辱に心を捩った。
身体に棒の尖端をあてがわれ、舐めるようにして這いずらされる。棒は、あごの裏からゆっくりと下降していき、喉仏を下り、鎖骨を掠め、二つの膨らみの間でぴたりと止まる。
「ちっ、身体だけは綺麗にしてやがるな」
「でもこいつ性格は最悪だからな。直接触ると汚くなるぜ」
男共の笑いと喝采が広がる。
棒がまた動きを見せた。
今度は上半身を離れ、スカートの裾に引っかかる。
赤を基調としたチェック柄の布地が、硬質な棒でめくられていく。
こつり。太ももに当たる冷たい感触に火乃佳の身がびくんと跳ねる。
「はははははっ! このお嬢様は一人前に大人の色気をだしやがるっ! たまんねえぜ!」
スカートのなかに棒が侵入していく。
(もうっ、なによこれ……気持ち悪いわっ!)
火乃佳の脳内は不快感でいっぱいになっていた。
この室内にいる誰もが彼女を助けない。
味方などいなかった。ただ、火乃佳がすがるのは誰かに察知して駆けつけてもらうことだけ。
最中に、脳裏を巡る少年の顔。
(そうよ……下僕が駆けつければいいんだわ。それがいいに決まっているわ!)
けれども、その答えはノーでしかならず。
下僕は解雇してしまったのだ。
先日まで部室でふてくされながら、そこそこ美味しくなった紅茶をテーブルまで運んでくれる下僕は、もうどこかに行ってしまった。
未憐をなだめておきながら、である。
本心だって自分は止めたかったが止められなかった。
あの少年、和泉夕河から嫌われている火乃佳のもとに、駆けつけてくれるヒーローは、もうどこにだっていやしない。帰ってこないことは重々承知している。でも、少年の笑顔を思いだしたら、それにすがりたくなってしまったのだ。
(夕河……!)
少女は祈る。
今の自分にできることは、それしかなかった。
2
「時間がない、行くぞ!」
夕河は意を決して声高らかに宣言する。
「へへ……これであいつに借りがつくれるぜっ!」
「ルルさんも、火乃佳お嬢様には良くしてもらってます。受けた恩はちゃんと返しませんとっ!」
二人はそれぞれの思惑で気合を入れていた。
「雪はどうする?」
「ぼくはここに残るよ。部屋を片づける人がいないとね。それに……いや」
雪はそこまで口にして喋るのをためらっていた。
しかし、すぐに顔をあげていつもの落ち着いた表情で微笑んでくれる。
「行ってくる!」
「いってらっしゃい、ゆうが、みんな。気をつけてね」
部室の扉を開けて廊下に踏みだす。
夕河は躊躇することなく、真っ直ぐに玄関へと向かう。
「本当に外なのかよっ!」
後ろから未憐の声がする。
「ああ、外なのは間違いない。後は外のどこかだけど、きっと体育用具室だろう。あの場所以外に人目を凌ぐ場所がない。この学園の用具室はグラウンドとは死角になっているし、時間稼ぎをしてたってことは、遠くに行くつもりがないってことだと思う」
「それを信じるしかないってことですねっ……!」
ルルの言葉に軽い返事をする。
玄関を抜けた三人は校舎の横側にある用具室へと急ぐ。
少年の視界に、真っ赤に染まった夕焼けの日差しが入り込んできた。
緩やかな風を切って走っていく。
と、そこでポケットのなかにある携帯電話が震えていた。
時間がなかったのでしっかり確認するつもりはなかったが、メールの送信相手を見た夕河の瞳孔が自然と大きく開かれた。
「部長からのメールだ……!」
振動に震える手で、夕河は内容を確認する。
『私の大切な夕河君へ。私は今、好きでもない男の人に囲まれています。今まで下僕として扱ってきてごめんなさい。本当は私、ずっと貴方のことが……』
文章はそこで途切れている。
「くそっ!」
夕河は舌打ちした。
未憐が横から声を投げかけてくる。
「これはどう見たって、あいつのメールじゃねえな」
「だろうな……周りにいる連中が面白がって部長のケータイを使ってるんだろ。俺のことはともかくとして、別に俺のことを好きでもない部長の気持ちに茶化を入れるようなことしやがって……!」
「……和泉」
夕河は走り抜ける。
と、そこにまた次のメールが届いた。
『私はちょうど今、上着を脱がされました。携帯電話を大量にかざされ、男達の熱くて濁った眼差しに目のやり場を失っています。私の──』
唇を噛み締めて、忌々しげにメールを閉じる。
すると、さらに新しいメールが。
『恥ずかしい。私の身体を、冷たい鉄の棒が這いずっています。これが、近いうちに熱い──』
夕河は顔をそらして携帯電話をポケットに放り込んだ。
その後も、ズボンのなかで微弱な振動を繰り返している。
少年は強く念じる。
(待ってろ部長……! 今、助けに行くからな……!)
3
「痛ってぇぇぇ……!!」
携帯電話の光が散らばっている室内。
男が人差し指と中指、その二本をもう片方の手で押さえながら悶絶していた。
床にハンカチが落ちている。
そこには、口元を解放されて睨みを利かせる火乃佳の姿が。
「くそ、思いっきり噛みやがって……血がでてるじゃねえか!」
「はははは! 指処女か? だらしねぇな!」
近くにいた男が、男を笑う。
男は泣きながらハンカチを拾い、自分の指に巻く。
「ちくしょう……ちょっと口を弄んでやろうと思ったら……どういうことだよ!」
ハンカチをきゅっと結んで、男が火乃佳に訴える。
火乃佳は冷笑でもって迎えた。
「あら、ごめんなさいね。私、昔から癖が悪いの。指を突っ込んでも別に構わないのだけれど、きっと今度は骨まで届くわよ」
不敵に微笑む火乃佳の挑発。
「ちくしょう、ちくしょうちくしょう……! そうやっていつも人を馬鹿にした態度で……!」
男が歯ぎしりをしながらにじり寄ってくる。
鼻筋寸前まで詰めてきた男の顔に、火乃佳は嫌そうな表情で顔をそらした。
「ねぇ、ちょっと気持ち悪いわ。いいえ、かなりだったかしら。貴方の不細工な顔を見てるとストレスが溜まるのよね。素人のつくった工芸品でも、もっとセンスいいわよ」
「な、な、な、なにおうっ……!」
男が後ずさる。
火乃佳の発言に、周囲の連中が失笑するのを堪えていた。
顔を真っ赤にした男は、鬼面をかぶったような醜い表情になる。
だが、その顔色は少しずつ変化し、隣にいた男からケータイを受け取ると同時に、ぱっとふてぶてしい笑顔を咲かせた。
「おい見ろよ。お前の『元』下僕に、お前のケータイから大量のメールを送りつけてやったぜ!」
男がメールの内容を見せつけてくる。
火乃佳は、その自分の文体とはあまりにも性質の違う内容に鼻で笑った。
だが、雑破な性格なのか男はそれを見逃す。
「ヒャハハハ! こいつ、今頃どう思ってるんだろうなぁ!? お前みたいな最低強情女のところでへえこらしてたヤツだからなぁ、お前のことが大好きだったかもしれねえなぁ! いや、それとも普通に見限って、嘲笑っているかもしれねえしなぁ!?」
「フフ、フフフフッ……!」
「なに笑ってやがる!」
肩を震わせて笑う火乃佳に、男の表情から明るい色がまた絶えていく。
「いいえ。あまりにも的外れすぎて面白いだけよ。どうせメールは返ってきていないのでしょう? 彼が私のことを気に留めているわけもないし、その逆もないわ。アレは優柔不断だから、きっとなにもせずにそのまま帰っているだけよ」
そうよ。
そうに決まっている。
火乃佳は表情には見えないところで、自分に毒を吐いた。
花壇の水やりを終えてから、なんの気なく落ちていた白い花を拾ってきて、それが偶然目印の役目を果たしたけれど、そもそも下僕が部室に戻ってくることなんてないのだから。
だから、あれは無意味。
気丈な自分自身の招いた、一瞬の気まぐれでしかあり得なかった。
「…………?」
静かな状況を不思議に感じて、火乃佳は上を向く。
自分では疑問の余地を残さないほどの看破だと思っていた。
それなのに、どうしてか男は確信を得たような怪奇な笑みを浮かべていたのだ。
男は乾いた笑い声を含んで言った。
「やっぱりてめえはどこまで行っても、お嬢様だよ」
「おい、時間がねえ。とっととやることやって退散するぞ! いずれ誰かが騒ぎに気づいて駆けつけてきちまうからな」
「ああ……そうだな」
男は問答無用で肩を掴んできた。
外気に晒しすぎて少し冷えてきた自分の肌が、男の湿った手のひらで押さえられる。
火乃佳は男を見た。
さっきまであったはずのつけ入る隙が、失せていた。
冗談が一切、混じっていなかった。
ただ自分の欲望に忠実で、そこにあるはずの善とか悪とか、そういうものを超越していた。
もうこの男が、自分と対話することはないのだろう。
相手の目が訴えていた。そして、正面にいる男も、周りの男も、もう天門院火乃佳という一人の人間を見ていない。純粋に女性のカテゴリーに含まれる──女の身体だけを見つめていた。
「ちょ……やめて! 離しなさいよ!」
身の危険を感じた火乃佳が暴れだす。
しかし、火乃佳自身も知っていた。こういう連中は、こちらのほうから抵抗を始めた瞬間に、身勝手に昂ぶっていくことを。そして、それを悦だと感じることも全ては、自分の行いのなかで、他者に優劣をつけることに対して共感と嫌悪感を覚えた、その経験があるから。
だからこそ小さなものを平気で踏みにじられる人を軽蔑し、まやかしの権力で屠ってきたのだ。
けれど今、それが仇になっている。
なにかが足りていなかったのかもしれない。
だから、自分の足りていないものを、誰かに求めていたのかもしれない。
でも、もう遅い。
自分の蒔いた悪の種に花が咲いてしまった。
その結果として、自分の身体で花を摘み取らなければ。
許されない世界なのかも──。
4
夕河達は走っていた。
そして夕河は嫌な予感を胸に抱いていた。
途中から、携帯電話にメールの着信がこなくなったからだ。
反応がないということに一抹の恐怖を感じる。
今でも十分に全速力で目的地に向かっている夕河に、これ以上はできない。
もう駄目かも。
そんな言葉が心中で毒のように広がっていく。
「…………!」
携帯が震えた。
夕河は相手からの挑発メールかもしれないと思ったが、どうしても火乃佳のことが気がかりになってメールを覗いた。すると、
「おい和泉、外に誰かいるぞっ!」
唐突に響いた未憐の声に反応して、夕河は彼女が指差す方角を見る。
寸前までに見えてきた用具室の入口。そこに三人組の男が立っていた。
夕河には、その連中に見覚えがあった。
初めて部長と出会ったときにいた、あの三人組だ。
(そうか……あいつら、まだあんときのことを根に持ってたのか……!)
最初は入学テンションで浮かれすぎて気づかなかったが、あいつらは確かに花壇の花を踏んでいたのだ。理由なんてあるのかはわからない。とにかく綺麗な花を見るのが嫌いだったとか、そんな大した理由でもないだろう。
そんなロクでもない動機でしか行動できない相手には、怒りよりも憐れみが浮かんでくる。
だが、部長を襲ったとなれば話は別だ。
もしかしたら、部の人間ですらない自分がこんなことをするのはお門違いなのかもしれないが、それでも彼女を汚そうとする連中を許すことはできなかった。
やっとのことで用具室の前にたどり着く。
「おい、お前ら! 俺は絶対に……!」
「ウ、ウウァ……ッ!」
バタッ。
ドサ、ドサドサ、ドササッ。
「絶対に許さ…………あ?」
夕河がこぶしを正面に突きだして宣誓しようとした瞬間、三人組が白目を向いて倒れた。
どうやら既に、死に体のようだ。
よくよく見れば顔面が赤く腫れあがっている。
(他の誰かが、やっつけたのか……!?)
少年が気になって扉のほうを向く。
がらがら、と扉が開いた。
「…………遅いぞ、和泉夕河」
「お前は……!」
小一時間ほど前に喧嘩した、優等生崩れの男だった。
「フン。この程度の数、目じゃねえな……」
「お、おい!」
そう言いながら、男はよろめいて地面に突っ伏した。
男の身体から疲労の色が見て取れる。
顔にできた傷は痣になっていて、白地のワイシャツは、カッターかなにかで刻まれたように線状の穴が開張し、そこからわずかに出血していた。
眺めていると、今度は扉から一斉に人が飛んできた。
「うわっ!」
夕河は勢いで回避する。
「ぐはあっ!!」
それは大量の男子生徒だった。
スクラップ同然までボコボコにされた男子生徒の集団が山積みされる。
優等生崩れの男の上に。
「おい、大丈夫か……?」
未憐が心配してしゃがみ込み、下敷きになった男を見守る。
男は眠そうな笑顔で言った。
「フ……レースの純白パンツか……嫌いではな──ぐはぁ!!」
「よーし、そのまま死んどけー」
未憐は立ちあがって男の顔面に数発の蹴りを打ち込んでいた。
ぱんぱん、と未憐が手の埃を払う。
「ったく、人の傷心中にふざけたこと言いやがって。これは和泉と仲直りした後、いざって場面にでくわしたケースを踏まえて用意してた──」
「傷心……? 大丈夫か、未憐」
「だ、大丈夫だよ! あんまし気にすんじゃねえ!」
「そうか?」
未憐はぷいとそっぽを向いてふてくされた。
なんだ。変なやつ。
「さっきぶりだね和泉君」
「ウニもいたのか」
用具室から姿を現したウニ。
外見的に怪我はなく、お馴染みの糸目と笑顔と狂ったような髪型が印象に残る。
「ウニさん……」
ルルは、やってきたウニと目を合わせた。
(そうだった。ルル先輩には因縁があったな……)
きょとんとした感じで目をくりくりさせているルル先輩と、ただの糸くずか、裂いたチーズのほんの一片なのか、はたまたキレのいい細麺なのか、とにかくウニの双眸が彼女の視線と一致した。
(これは一悶着あるか……)
夕河の主観で、重苦しい空気が漂う。
「ま、待て……!」
それを破ったのは優等生崩れの男だった。
「はははーなんだーまだ生きてたのかー」
「い、痛いっ! あ、ああんっそこらめぇ!! じゃない……待て、話をさせろっ!」
げしげしと山積みになって動けない男の身体を蹴る未憐。
しかも笑顔で、さらに言葉が棒読みなので怖すぎる。
「はやく死ね!!!」
「アオオオオオオオオオオオオオーウッ!!」
未憐、怒りのローキック。
男は爆ぜた。
(なにしてんだよ……)
夕河はため息を吐く。
いいから先に進ませてくれ。
「ウニさん……」
ルルはウニ男をまじまじと見つめた。
「ま、待て……!」
それを破ったのは優等生崩れの男だった。
ただ、その顔はあまりにも凄絶に(未憐によって)打ちのめされていて、見るに堪えない。
「そいつだけは許してやってくれ……」
男はルルのほうを見て語った。
「その男は、別にあんたを襲おうとしていたわけじゃないんだ。そいつは重度の筋肉フェチで、一度でも理想の筋肉を拝むと止まらなくなってしまう病気なんだ!!!!!」
「ああ~~九条さんの筋肉は締りが良くて素晴らしいんじゃあ~~」
ウニ男が身体をくねくねし始める。
その場が静まり返った。
(いや、言い訳になってねえよ……)
夕河は頭を悩ませた。
ルルの視線に絡まったウニ男の頬が紅潮している。
後は、彼女の心次第だが。
「別にいいですよぉ~」
ルルはあっさりと笑顔で許した。
(いいんかい!)
もう、突っ込むのも疲れてきたぞ。
少年が胃のなかで飼っているキリキリ虫と格闘していると、用具室の奥からガンガンという激しく扉を叩くような音が聞こえてきた。
(そうだ、部長!)
夕河は扉の前に駆け寄った。
「部長! 大丈夫か!」
中途半端に開いている扉を両手でこじ開けて、室内にいるはずの火乃佳に声をかける。
と、若干の間を置いて、
「うおわあっ!?」
勢いよく扉が閉じられた。
夕河は鉄の塊にサンドイッチにされる瞬間、自分でも驚くほどの危険察知能力と動物的回避能力を発揮して後ろに飛び退いていた。気を動転させて、ほんの小さな隙間もなくなった扉の中間を呆然と見つめてしまっている。
首筋に流れる冷や汗を手の甲で拭う。
そして室内にいるはずの火乃佳へ言葉をぶつける。
「いや、いやいや、いやいやいや、危ねえよ! 今の、マジで冗談抜きで、ドアと顔が触れ合うゼロ秒とコンマ一秒前だったぞ! ほんっとうにギリギリだったんだぞ!」
しかし言葉は返ってこなかった。
代わりに、夕河の携帯電話がメールを受信した。
「…………」
内容を見た夕河は、つーんとした顔になる。
『紅茶飲みたい』
画面下に大量の空白を残すメール内容。
そこに記載されている文章は、あまりにも少なかった。
なんて面倒臭いやつだ……。
夕河は思わず顔を渋くさせてしまう。
仕方がないので、メールで文章を返してみる。
『おい、このマヌケお嬢様。みんなが心配してるんだぞ。はやくでてこい!』
送信して待ってみる。
すぐに返事がきた。
『うるさい』
と、だけ書いてあった。
イラッ。
夕河は火乃佳のあまりにも不遜な態度に、つい苛立ってしまう。
自分だけじゃない。未憐だって、ルルだって、それに妹の雪だって心配しているんだ。なのに、一人だけ意地張って閉じこもって、頑なに話を聞こうとしない。
いったい、部長はなにを考えているんだ。
痺れを切らした夕河は、ぽちぽちと急いでメールを打つ。
『いい加減にしろ。いつまでそうしてるつもりだ』
メール送信中の文字が画面内で小気味よく踊る。
送信完了。
夕河はむすっとした顔で待つ。
さっきよりも遅れてメールが返ってきた。
『貴方の紅茶が飲みたい』
そんな内容だった。
少年の怒りが空回りに終わる。
なんとなく、その文章に小さな寂しさが残っているのを感じて、ああだこうだと文句を言う気が削げてしまったのだ。
夕河は、ため息をついて口を開く。
「なぁ……もうでてこいよ。ここには未憐やルル先輩だっているんだぞ。お前だって女の子だろ。捕まったって聞いたら、そりゃ心配するさ。みんな、ここでお前のことを──」
夕河は振り返る。
「あれっ、誰もいねえし!!」
そこには人っ子一人、存在していなかった。
積まれていたはずの人間の山さえ、既に撤収させられている。
遥か後方を見やれば、未憐やルル達の後ろ姿が見える。意識を取り戻して気を落としている男連中は先生方に連行されていた。多分だけど、雪が連絡してくれたんだろう。
「……お?」
扉がわずかに開いた。
とは言っても十センチ程度だ。
ただ、その間に指を差し込んで強引に開けることはできる。
今しかない!
夕河は指先を隙間にはめ込んで開こうとする。
「がはあっ!」
扉が閉まったわけではない。
その代わりに、膝がなにかの棒で突っつかれていた。
「痛い! なんの棒だよ! 痛い、痛いぞ!」
つんつんつん。
暗闇のなかから棒だけが伸びてくるのは、妙な光景だ。
「よし!」
「…………あっ」
夕河は棒を捕まえて、室内にいるスナイパーから奪い取る。
微かに漏れる少女の声。
それは確かに夕河が普段聞いていた火乃佳の声だった。
「なんだよ、ちゃんといるじゃねえか。ったく、柄にもないことしやがって……」
「…………」
向こうからの言葉はない。
少年もなにも口にせず、そっと扉に手をかける。
「……怖かった」
少女がそう呟いた。
扉を開く手の動きが止まる。
「私、貴方はきてくれないと思ってたから」
「あっ……」
夕河は肝心なことを思いだす。
火乃佳を助けるという熱さですっかり忘れていたが、少年は先日に部長から主従関係の解消をされてから一度も会っていないのだ。それに、さっきの話も部長には秘密にしたまま、という体で進んでいたので、彼女からしてみれば夕河が現れたこと自体、急すぎる事柄なのだ。
「すまん……その……」
言葉にしづらくて、ぽりぽりと後頭部を掻く。
なにを伝えたらいいのか、迷ってしまう。
下僕に戻してください。
これはなにかが根本的に変だし、そもそも多分、きっと、いや……間違いなく、もう元の鞘には収まらない。二人は元の関係に戻れないだろう。
確証はないが、直感的に少年はそう感じていた。
「……お前でも怖いと思うことがあるんだな」
そんなことを述べてしまう。
いや、なにを言ってるんだ……。
夕河は、あさっての方向に飛んでいった自分の発言に混乱する。
案の定というか言葉が返ってこない。
夕河は悩んだ末、話題を変えることにした。
「あのさ……これ返すよ」
懐をまさぐって、少年は一輪の白い花を取りだした。
隙間に晒すと暗い室内に花が吸い込まれる。
「なんだその……無事だったのは安心したよ。助けにくるのが遅くなって悪かったな。さっき届いたあのメール見たぞ」
夕河は見えているか分からないが、受け取ったメールの文面を見せるように携帯電話を隙間の前にかざした。
あのとき、じつは送られてきた最後のメールを見て間に合わなかったと思っていた。
文面が、
『さようなら夕河君』
と表記されていたからだ。
だが、その内容がおかしいことに後から気づく。
文章の末端に、部長がいつも使う怒りマークの絵文字がついていたのだ。あの最後のメール以外には一切として使われていなかった。ということは、携帯を取り戻した部長からのメールであることが予想できたのだ。
これも日常での部長とのやりとりが生きた結果だと考えている。
ただ、心残りがあるとすれば、その絵文字が文面のかなり下方部にあったので、読み逃してしまいそうになったことだ。改めて、天門院火乃佳という女王の性格の悪さを理解した瞬間だった。
「……ふふふっ、良く気づいたわね」
「アホか……言っとくけど、俺だって心配したんだぞ。その、関係は解消しちまったけど、それでも放っておけなかったからさ……」
携帯電話をズボンのポケットに戻して、夕河は壁に腰かけた。
そのまま内に手を忍ばせる。
「まぁ、お前みたいのだって、怖いときは怖いだろ。お前の育てた花、綺麗だよな。慰めになってないかもしれないけど、それ見て元気だせよ」
今、部長はどういう表情をしているのだろう。
天を仰ぎ、夕焼けに流れる雲の動きを目で追い駆ける。
大分、時間が経っているのだろう。空に広がる夕焼けは強いオレンジ色で満たされ、少年の腰かけている用具室ごと、滲むような日照りで包んでいた。
もう四月も終わりに近づいてきた。
今日は少し暖かく、ここで惰眠を貪ることさえできそうだ。
あの雲はどこに向かうのだろう。
自由に空を泳いでいく雲の塊が妙に羨ましい。
思えば、あのときもこんな空だった。
顔も名前も思いだすことのできない少女は、元気にしているだろうか。
過去の記憶という夢のなかで会った少女に、自分は何色の花を渡したのだろうか。
会えるのなら、もう一度会いたい。
会って、自分は──。
「十年くらい前かしらね……丘の上にある公園で、男の子と出会ったの」
火乃佳がふと、そんな話を切りだした。
「私はそのとき一人で、公園で遊んでいたの。というより家に帰るのが嫌で、人気の少なかったその公園を自分だけの遊び場にして、夕焼けの空の下、ずっと花を眺めてた」
火乃佳は話を続ける。
「親の都合で海外への引っ越しが決まってね。今までの環境を全部捨てて、別の場所に行くことを考えたら、急に寂しくなって誰とも接点を持ちたくなくなった。だからせめて、一人で楽しめる遊びをしようと思って、そうやって一人で花を鑑賞していた。それしかできなかったの」
隙間から聞こえる声を、夕河は黙って聞く。
「綺麗な花が咲いていたわ……赤、青、黄色、白に紫。吹きつける風がたまに花びらを飛ばして、それも綺麗で楽しかった。でも、ふと考えたの。こんなに綺麗なのに、誰からも見てもらえない花は、どういう気持ちなんだろうって」
「…………」
夕河は考える。
孤独。きっと孤独を感じていたのだろう。その少女は。
一人きりになるのが嫌で、自分でもそれを知っていたのに、大きな波のうねりに逆らえなくて、それでも気を紛らわせようとして……そうやって、孤独と向き合っていたのではないか。
落ち込んだ彼女の声が、夕河の心に刺さる。
言葉はなおも続く。
「女の子は泣いてたわ。公園の脇で花に身を隠して座り込んで、肩をすくめて両腕で膝を抱えながら誰にも聞こえないように、ひっそりと涙で頬を濡らしてた。そんなとき、ザッと草むらを踏みつける音がして遠目をやった。そこに男の子がいたの」
思いだしたように火乃佳がくすりと笑う。
「多分そいつ馬鹿だったんでしょうね。公園でたまたま会っただけなのに、特に理由もなく話しかけてきたのよ。しかも第一声が、つまらなさそうなことしてるな、お前、って」
懐かしいのか、火乃佳の喉をくすぐるような声は止まらない。
うん……馬鹿だ。確かに馬鹿だ。
馬鹿だと思う。
ただ、その『馬鹿』は、本当に今も馬鹿なのか。
馬鹿のままでいられているのだろうか。
「それで、どうしたんだ」
「うん。それでね……怒ったわ。人の気も知らないで、ふざけたこと言わないでってね」
夕河は深く感銘し頷く。
まったくもって、その通りだ。
仮に自分が同じ立場だったとしても怒る。
けれど、少年のことを話す彼女の言葉に刺は見当たらない。
それどころか、いつもの部長よりも声が明るく弾んで、その気持ちが扉越しにでもハッキリと伝わってくる。幼気のある純朴な笑い声で、とても楽しそうだ。
「そうしたらそいつ、急に困ったような顔をして、そっぽを向いたの。自分から話しかけてきた癖に嫌そうな表情で上を向いててね、それでね」
「……なぁ、聞いていいか?」
火乃佳の会話に水を差す。
夕河は訪ねた。
「男の子は、花を渡さなかったか?」
夕河の全身がひときわ強い夕日に照らされた。
用具室の隙間からぼんやりと、体育座りをする少女の横顔が見える。
「……渡したわ」
少女はそう答える。
学園の初日、夕河は火乃佳に白い花を渡した。
もし自分の記憶が正しければ男の子は十年前、夕焼けの滲む公園のなかで、泣いている少女に白い花をプレゼントした。
だが、火乃佳の答えは違っていた。
「多分ね、その男の子はもう十年前のことなんて忘れてるのよ」
「え?」
夕河は素っ頓狂な声をだす。
「そいつ、女の子を助ける自分かっこいいみたいな顔して、なにをしたと思う?」
「う~ん……」
夕河には答えがでなかった。
「慰め方を知らなかったのか雑なのか知らないけれど、近くにある花を手当たり次第に引っこ抜いてそれを束にしてこっちに突きだしてきたの。これをくれてやるから泣き止めよって、怒るどころか呆れたわ、お前のじゃないでしょとか、ダサくてかっこわるいとか、そういうのを全部通り越して、なにも言えなくなったわ」
「むう……」
夕河は押し黙ってしまう。
「でもなんていうかね、そんなやつのことを見てたら、今までずっと悩んでいた自分がまるで本当の馬鹿みたいに思えてきたの。どっちも馬鹿ならしょうがないかなと思って、たくさんあった花のなかから一輪だけを受け取ったわ。白い花をね」
「そうなのか……」
火乃佳の頷くような声が聞こえてくる。
「その後、少年と少女は別れ際にお互い言葉をかわした。もう一度会ったときのために」
もう夕河は理解していた。
彼女こそが、十年前に出会った少女に違いないと。
聞かなければならない。
聞いて、確かめなければ──。
「あのさ……俺は」
「待って!!」
そのとき火乃佳の叫ぶ声が響いた。
「私ね、本当は十年前に会った少年のことを……忘れようと思ってたの」
声の主は淡々と喋る。
夕河は黙って聞くことにした。
「……怖かったから。自分は時間が経つにつれてどんどん変わっていく。十年前に会った少年と再開しても、きっと嫌われるだけだって思ったから」
火乃佳の声は掠れていた。
多分、あの頃の少女とは違っている。
言葉のなかに混じっている不安とか自信、期待や恐怖などの感情が、十年前の少女の存在を頑なに否定していた。
「今、その人と会っても……合わせる顔がないから」
ぽつり。
用具室のなかから聞こえる微かな音を、少年は聞き逃さない。
十年。この歳月はあっという間のようでいて、思い出を蘇らせるにはあまりにも長い……ほんの少しだけ会った少女との約束など、数多と降り注ぐ情報の雨に流されて、身体に染みついた記憶はもはや自分だけがそうあって欲しいという自己解釈で美化されてしまっている。
あのときの少女の外見、あの日の風に運ばれてくる香り、なにが理由で公園に寄ったのか、渡したはずの花の色さえ、もう少年のなかには残ってすらいなかった。
ただ唯一、少年が忘れずに抱えていたもの。
それはあの少女が悲しんでいたという事実だけだ。
菓子箱を開けた瞬間のように、お菓子の形や甘い香りは覚えていないけれど。
でも、その少女を助けてやりたいと思ったことだけは、まだ覚えている。
もし……もしも現在、叶うなら。
あのときの少女が泣いていて、助けてやりたいと思ったら。
あのときの少年なら、なんて答えるだろうか。
あのときの二人は、どんな気持ちで別れたのか。
──思いだすんだ。
過去の記憶を巡り、手を伸ばし、少年が言った『ずっと待っている』という言葉の……いや。
果たして、本当に自分はその言葉を伝えたのだろうか?
──思いだせ。
記憶の底に深く眠っている真実の答えを。
別れ際に少年の目に焼きついた、本当の少女の笑顔を……!
「……違う! 絶対に違う!!」
夕河は心の底から叫んでいた。
用具室の奥にいる火乃佳が言葉に反応している。
「そいつは、女の子を泣かせるために手を差し伸べたんじゃねえ! 一人で佇んでいる女の子が寂しそうに見えたから……放っておけないと思ったから声をかけたんだ! その馬鹿は、まだ変わってねえ! あんときの少女の笑顔がもう一度見たくて、交わした約束を果たしたいと思っていて、今だって忘れてたはずの、『戻ってきたらずっと待っててくれ。俺が必ず、探しだしてやるから』って言葉を必死になって思いだしてるんだよ! そんな馬鹿が、たった十年くらい会わなかっただけでそいつのことを嫌いになんて、なるわけねえだろうがっ!!」
「…………ッ!」
息を呑むような少女の声。
その声の後に、押し殺すような咽び声とすする音が混じり始めた。
「……お前はちゃんと、覚えてるんじゃねえか。花のことも、約束も……お前だって変わってねえ。大事なところはその馬鹿よりもしっかり覚えてるだろ。その少年も少女も人間なんだ。同じ場所にいられることもないし、変化も避けられねえ。俺は、やっと気づいたんだ……その少女に大事にして欲しいと思っていたのは、永遠に進み続ける『今』という時間だってことにさ。だから、俺が男の子、その少年の代表として伝える。お前は、一人じゃない……ってな」
夕河は伝えた、少年の答えを。
火乃佳からの返事はない。
ただ聞こえてくる少女の嗚咽。途中でがちゃりと落ちる音。室内の隙間から天井に向けて伸びる携帯電話の光が見えていた。
そっと腰かけていた扉から離れる。
「……部室、結構汚れてたから。多分あの様子だと時間かかりそうだし、手伝ってくるよ」
多分、言葉は聞こえていたと思う。
夕河は火乃佳に語りかける。
「なんだ、その、下僕でもなんでもいいから、もう一度考えてみてくれないかな。それと、あれだ、いや……もう行くよ。これ以上、あの女の子が泣いているところを、見たくないから……」
言葉だけ残して夕河は駆ける。
夕焼けが、走る男子高校生の姿を色濃く映しだしている。
世界がより静かに、日常を育んでいる。
用具室のなか。
携帯電話の光。薄暗い室内で体育座りをしている少女。
腰を曲げ頭を伏せるようにして組まれている両腕。
少女は震えている。
その指先のなかで一輪の白い花が。
有無を言わさないほど、優雅に咲いていた──。
5
「うーっす」
夕河は、がらがらと扉を開けた。
「よう、やっときたか和泉!」
「未憐か、早いな」
室内にいた小田桐未憐の言葉に返事をしてから、夕河は近くにいた別の少女に尋ねる。
「入口のプレート変わったんだな」
「そうみたいですねぇ~。新鮮な気分です」
九条ルル……ルル先輩が笑顔で答えた。
入口には元々『特別室』と掲げられた、なんのために使っていたのかわからない名前のプレートが設けられていた。それがさっき見てみたら『果報部』という名前に変わっていたのだ。
「フフ……五人の部員が揃ったからね」
少年の気持ちに反応するように声をかけてきたのは天門院雪。
クールな表情がいつも絶えない少女だ。
果報部はそもそも、定員が揃わない果報同好会だった。
だが、それは昨日までの話。もう既に、果報同好会という存在は心のなかだけに残り、新しく生まれ変わった部活名。果報部として本日から活動を開始するのだ。
五人目の部員はもちろん和泉夕河だ。
ただ、それには条件があった。加えて部の方向性に関してもそれなりの調整が行われた。というより、初めから少年が知らなかっただけなのであるが。
「……しかし前々から思っていたが、下僕に果報を持ってきてもらうなんて馬鹿げた申請が通ったのはそういうことだったのか」
夕河は忌々しげに口にして、室内の隅に鞄を置く。
雪が不敵に笑った。
「まぁ、最初から気づかないゆうがもゆうがだと思うけどね。下僕を取り入れたシステムなんてあるわけないじゃん。あれは姉さんが勝手に言っただけの方便だよ。実際には趣味などを部員同士で積極的に行うことでコミュニケーションを図るただの課外活動の一環だね」
手に持っていた牛乳パックの口を開けて、雪はラッパ飲みをする。
「そうだ。火乃佳は?」
「外で花に水やりしてるよ。迎えに行ってきたらどうだい?」
「……しょうがねえなぁ」
頭を掻いて、入ってきた入口にUターンする。
「お、おいっ!」
「ん?」
そこで急に未憐が声をかけてきた。
「オレの名前を呼んでくれっ!!」
「はぁ?」
なぜか顔色を変えて問い詰めてくる。
その切迫した雰囲気に負けて夕河は呟くことに。
「……未憐?」
小刻みに肩を震えさせる未憐。
だが、やがて力が抜けたように暗い表情になる。
「もう一回、もう一回だ!」
「なんなんだよ」
「いいからはやくっ!」
「未憐」
「もっと!」
「未憐」
「も、もう一回!
「ん……もう行くぞ?」
「お願い! あ、あともう一回だけ……!」
瞳をうるうるさせて懇願してくるが、理由が不明瞭なので怖い。
夕河は気味が悪くなってスルーすることにした。
「やめなよ、見苦しい」
雪からの突っ込み。
「う、うわあああああんっ! チクショー!」
「大丈夫だよポチ。今回は負けたけど、まだまだチャンスはたくさんあるさ」
そんなことを言って、未憐を慰めている。
(……悪いもんでも食ったのか?)
大変だな未憐も。
「あのぉ~」
「どうしたんですか先輩?」
本を読んでいたルルが呆けた顔をして聞いてくる。
「未憐さんは、どうしてポチって呼ばれてるんですかあ?」
「…………」
どうしよう、なんて返せばいいのかわからない。
とりあえず笑っておけばいいのか。
「じゃ、行くよ」
改めて夕河は取っ手を掴む。
「夕河さん。ちゃんと戻ってきてくださいね」
「先輩……」
ルルの言葉に立ち止まる。
「夕河さんには、これからも秘孔の研究につき合ってもらわないといけませんからっ!」
「ははは……(ついに秘孔って言っちゃったよこの人……)」
両手でガッツポーズをして闘志を燃やしているルル。
(やれやれ。この部にいると退屈しないな)
内心でくすりと笑って扉を開く。
夕河は室内をでた。
廊下の窓からは地面いっぱいに咲き誇る花畑が映しだされている。
そのまま玄関まで向かい、靴を履き替える。
外にでると、夕焼けの日差しが全身を熱く照らした。
入口にあるわずかな階段を降りて、花壇のどこかにいる少女を探す。
「あっ……」
すぐに見つかった。
中央にある花壇、その外側で火乃佳がジョウロを片手に放水していた。
「よう」
夕河は火乃佳に近づいた。
「ふんすっ!」
「ぐえ!」
その途端、チョップをお見舞いされる。
(くそ……手加減なしかよ)
頭を押さえて痛みに耐える夕河。
いつにも増して改良されたお嬢様型リボンプラスジョウロ装備の高性能毒吐きマシンが、ジョウロを小脇に抱えたまま両腕を組んでふんぞり返る。そして、その小さな口でやかましいほどに高い声を撒き散らした。
「下僕! 貴方がやらないから、この天門院火乃佳が水やりをしちゃったじゃない!」
「…………従者です」
そもそも水やりの約束などしていないが、まずはそこから文句を言うことにした。
従者というのは、果報部に入るための前提条件のことである。わがままなお嬢様は夕河が普通に入部することを認めず(どうも果報部の部員は、部長自身が有益なスキルを持つ人物を主観で選別するらしい)、さらには一度下僕を放棄した人間を再雇用するのはルールに反するだとか、意味不明なことを言ってのけたので、じゃあ従者と言葉を変えたところ、すんなりオッケーがでた。
なんだかんだあっても、面倒な性格は変わっていないらしい。
「私にとって、下僕は下僕よ!」
ふん、と鼻息を鳴らして結論づける自由気ままなハリケーン。
いやそのりくつはおかしい。
「……まぁ終わったんなら部室に戻ろうぜ、火乃佳」
そう口にして、火乃佳の持っているジョウロを取る。
踵を返して夕河は歩く。
「待ちなさい」
その声に足を止める。
「……本当は、貴方に言ってもどうしようもないのだけれど、貴方しかいないのだからそうするしかないわよね」
そんな謎に満ちた台詞を投げかけてくる。
「だから……伝えておくわ」
ふいに、風に乗って花びらと妙に懐かしい風の香りが運ばれてきた。
振り返って彼女の姿を見る。
とても綺麗だった。
夕焼けを背にして髪をなびかせる火乃佳。
両腕を風に揺れるスカートの後ろに組んで、少女は言った。
「私のことを見つけてくれて──ありがとう」
その澄んだ表情は、今まで人生で起きてきた悪いことなんて全て消し去ってしまうほどに柔らかく温かさがあって。
そう……それはまるで、いつか出会った少女のように晴れやかだった。
だと言うのに。
「……なに笑ってるのよ」
「す、すまんつい」
夕河は笑っていた。
その言葉を口にした人間が、あの鬼畜お嬢様の火乃佳だということを考えると、ついつい笑いたくなる衝動に駆られてしまったのだ。
当然、火乃佳は怒る。
「下僕の癖に良い度胸じゃない! 人の思い出話を笑うなんて! いいわ、わかったわ。貴方がそこまで主に対して忠誠心がないのなら、今日からは前よりもみっちりと働いてもらうんだから!」
「だから、下僕じゃないって言ってるだろ!」
「うるさい! 私の言うことに文句をつけるんじゃないわようっ!」
近づいてきた火乃佳に、持っていたジョウロを奪われる。
「貴方なんて、こうしてやるんだから!」
「お、おい! ふざけんなっ!」
火乃佳はまだ中身が残っていたジョウロで、夕河に水を浴びせた。
夕河は逃げる。
二人のやり取りを夕日が映す。
入学当時に望んでいた学園生活とは多少違っていたが。
これはこれでいいかと、少年は思うことにした。
日常は変化する。残るものは残り、変わるものは変わった。
けれど、それが自分の生きる道なら、今はそれで十分なのだと納得する。少なくとも十年前に誓った優雅に生きるという気持ちだけは、変わっていないのだから──。