追放された宮廷パン職人ですが、聖女より「竈の祝福」を授かったので、辺境で焼きたてパンの香りを売って生きていきます。あ、王宮、もうパン焼けないんですね?
「貴様のパンは、もう要らぬ」
朝の光が差し込む王宮の食堂。居並ぶ貴族たちの前で、王太子レオハルト様はそう言い放ちました。
わたくし、ユイ=シュトレーゼが焼いたばかりのパンを片手に、彼は鼻で笑います。
「見ろ、この地味で茶色いパンを。平民じみた素朴な代物で、王家の威厳を損ねた。宮廷主席パン職人として、いや、婚約者として失格だ」
(……あら。今朝のライ麦パン、低温で十二時間かけてゆっくり発酵させた自信作だったのですけれど)
内心でそっと呟きます。けれど顔には出しません。出してたまるものですか。
レオハルト様の隣で、ふんわり巻き髪の令嬢が扇で口元を隠し、くすくすと笑いました。男爵令嬢・マリエル。
「あらぁ、こんな茶色いパン、平民の食べ物ですわよね? 王宮の朝食にふさわしいのは、こういう華やかなものですわ」
彼女が掲げたのは、宝石のように砂糖を散らした、きらびやかな菓子。見た目だけは、確かに美しい。
(見た目だけ、ね。噛めば小麦の甘みがじんわり広がる、わたくしの祈りの結晶ですのに)
わたくしは黙って、自分の焼いたパンを見つめました。深夜まで竈の前に立ち続けた、わたくしの祈りの結晶。
そう——前世から、ずっと。
前世のわたくしは、現代日本の町のパン職人でした。誰にも看取られず、竈の前で倒れて死んだ。最後に願ったのは、たった一つ。
『もう一度、誰かの「おいしい」が聞きたい』
その想いだけを抱えて、わたくしはこの世界に来たのに。
「聞いているのか、ユイ! お前は解任だ。婚約も破棄する。今日からマリエルが宮廷菓子職人を務める」
貴族たちがざわめきます。憐れみ、嘲笑、好奇の視線。
わたくしは、ゆっくりと一礼しました。喚きません。取り乱しもしません。
「かしこまりました。では、竈をお返しいたします」
それだけ言って、踵を返す。
「……それだけか? 喚きもせぬのか」
レオハルト様が、拍子抜けしたように声を上げます。
「ええ。お返しいたしますとも」
(——あなた方が、あの竈の本当の価値に気づかないまま、ね)
そのとき。末席に座っていた老齢の聖女アーデルハイト様だけが、わたくしの置いていったパンを静かに口にして——目を、見開いていたのを。
(……この味。祈りが、ちゃんと込められておりますね。なんと惜しいことを)
そんな呟きがあったことを、わたくしは、まだ知りませんでした。
◆
荷物をまとめて王宮を去る前に、わたくしは厨房の奥へ向かいました。
王宮の主竈。代々のパン職人が祈りを込めてきた、古い大きな竈。
そこには『古き竈神』が宿るという言い伝えがあります。けれど、その気配を感じる職人はもう、わたくししか残っていませんでした。
「おはようございます。……いえ、今日はお別れの挨拶ですね」
わたくしは竈に手を当てて、囁きました。
毎朝、欠かさず挨拶していました。火を入れる前に「おはようございます」、焼き終えたら「ありがとうございました」と。
他の誰も、そんなことはしません。「気味が悪い」と笑う者さえいました。
でも、わたくしには分かるのです。薪のはぜる音に混じる、温かな気配。ふくよかな小麦の香りに宿る、確かな何か。
「短い間でしたが、お世話になりました。あなたのおかげで、たくさんのパンが焼けました」
竈が、ほんの少し——温かくなった気がしました。ぱちり、と薪のはぜる音が一つ。まるで、名残を惜しむように。
(さて。これからどうしましょうか)
王宮を追われた身。婚約破棄された令嬢。普通なら、嘆き悲しむ場面なのでしょう。
でも、不思議と胸は晴れやかでした。
前世で叶わなかった夢が、ふと胸に蘇ります。
——いつか、自分の小さなパン屋を持ちたい。
深夜まで他人の店の竈の前に立ち続けて、ついに叶わなかった夢。
「……今度こそ、叶えてもいいですよね」
竈に背を向け、わたくしは歩き出しました。
背後で、薪のはぜる音が一つ、ぱちりと鳴った気がしました。まるで、行ってらっしゃいと言うように。
◆
辿り着いたのは、辺境の寂れた宿場町。
人通りもまばらで、空き家ばかり。けれど、わたくしの目に飛び込んできたのは——一軒の古い、廃れた竈のある家でした。
「これだわ。長く火を入れられず崩れかけて……でも、骨格は確かに『良い竈』のもの」
ひと目で分かりました。なけなしの蓄えで買い取り、何日もかけて修復します。前世とこの世の知識を総動員して、レンガを積み直し、煙道を整え、火床を作り直す。
そして、修復を終えた夜。
わたくしは初めての火を入れ、湯種で仕込んだパンを焼きました。もちもちの携行食になる、素朴で力強いパン。
焼きたての香りが、寂れた町の通りへとふわりと流れ出した——その時でした。
どん、どん、と地響きのような足音。
戸口に、巨大な影が現れました。身の丈は二メートル近く、褐色の肌に竜の鱗の名残。額には小さな角。背には引き締まった尾。
(……竜人? それも、ものすごい強面)
戦場帰りらしい武装の偉丈夫。初対面なら誰もが震え上がるでしょう。
その彼が——焼きたてのパンを見つめ、目に涙を浮かべていました。
「……この香り。なぜ、こんな辺境に」
声が、震えています。
「あの、お客様……?」
「俺はガルド。辺境伯軍の将軍だ。……この香りに、釣られた」
わたくしは焼きたてを一つ、手渡しました。
「焼きたてです。よろしければ、どうぞ」
彼は巨体に似合わぬ仕草で、それを大事そうに両手で受け取り、一口かじって——。
「……っ、この、もちもちは、なんだ。罪深いな……」
強面の竜人将軍が、パンを抱えて子どものように目を輝かせている。
「湯種、という製法です。お気に召しましたか?」
(あら。可愛らしい方)
「……今日も、また来ていいか」
今日も。まだ一度しか来ていないのに。
「今日も。……ふふ、まだ一度しか来ていらっしゃらないのに。ええ、お待ちしております」
わたくしは思わず微笑みました。前世から願い続けた、誰かの「おいしい」が——確かに、ここにありました。
そしてその夜、わたくしのステータス画面に、見慣れぬ称号が灯っていたことに、まだ気づいていませんでした。
◆
「【竈神の寵児】……?」
翌朝、ふと視界に浮かんだ称号を見て、わたくしは首をかしげました。
効果欄には、こう記されています。
『焼いたパンの香りが、食べた者の心の傷を癒やす』
(いつの間に、こんなものが)
思い当たるのは、廃竈を修復した夜のこと。火を入れた瞬間、確かに——あの王宮で感じたのと同じ、温かな気配がしたのです。
考え込んでいると、戸口でカサリと物音がしました。
振り向くと、痩せた少女が一人。パンに手を伸ばしかけて、固まっています。元孤児でしょうか、警戒心むき出しの目をしていました。
「ぬ、盗んでなんか……」
「いいのよ。お腹が空いているなら、食べなさい」
わたくしは焼きたてを一つ、差し出しました。
少女はおずおずと受け取り、かじりつき——そして、ぴたりと動きを止めました。
「……あったかい」
「焼きたてだもの」
「ちがう。お腹が、じゃなくて……ここが。あったかい……なんで、なんで涙が……」
少女は胸を押さえて、ぽろぽろと涙をこぼしました。
(——これが、竈の祝福。前世で報われなかったわたくしの祈りが、この子の心を温めている)
胸が、熱くなりました。
「あなた、お名前は?」
「……ニナ」
「ニナ。よかったら、ここで働かない? わたくし一人じゃ、手が足りないの」
ニナは涙を拭いながら、何度も頷きました。
それから店は、見る間に賑わいはじめました。香りに惹かれて客が集まり、冒険者ギルドと提携して保存の効く堅焼きパンや、湯種でもちもちの携行食を開発。ガルド将軍は毎日列に並び、隊員たちの心まで癒えていく。
寂れていた宿場町が、焼きたての香りで活気づいていったのです。
「師匠のパン、世界一だかんね! あの王宮ってとこ、見る目ないわ!」
ニナが頬を膨らませて憤るたび、わたくしは笑ってしまいます。
「ふふ、ありがとう、ニナ」
(でも——王宮は今頃、もっと困っているはずよ)
そう。わたくしが去った王宮では、今——とんでもない異変が起きていたのですから。
◆
——その頃、王宮では。
「なぜだ……なぜ、膨らまない!」
厨房に、レオハルト王太子の苛立った声が響いていました。
何人もの職人が交代で薪をくべ、生地を仕込む。けれど——どんなに火を入れても、王宮の主竈は、パンを一切焼かなくなっていたのです。
膨らまない。焼けない。火さえ、まともに通らない。
生地はべったりと潰れ、焦げ、あるいは生のまま。それが、ユイが去ったあの日から、ずっと。
「マリエル! お前の菓子はどうした!」
「で、できておりますわ! ほら、こんなに美しく……」
マリエルが得意げに掲げた砂糖菓子は、確かに見た目だけは華やか。けれど。
供された貴族たちは、一口食べて顔をしかめました。
「……甘いだけだな」
「見た目は良いが、心に響かぬ」
「以前の、あの茶色いパンの方が……いや、なんでもない」
ざわつく食堂。マリエルの顔から、笑みが消えていきます。
そして迫りくるのは、王家の威信をかけた建国祭。各国の賓客に、最高のパンを供さねばならない、その日が。
「竈が、なぜ……」
青ざめるレオハルトの傍ら。
末席の聖女アーデルハイト様だけが、静かに目を伏せて呟いていました。
「……竈神様が、お怒りなのですよ。職人を侮辱し、祈りを踏みにじったこの場所を、見限られたのです」
その声は、誰にも届きませんでした。
古き竈神は、もうこの王宮にパンを焼く資格はないと、静かに裁いていたのです。
(——毎朝挨拶を欠かさなかった、たった一人の職人を。あなた方が、自ら追い出したのだから)
◆
建国祭を目前に控えたある朝。
わたくしの店の前に、立派な身なりの使者たちが、馬車を連ねてやってきました。
そして——驚いたことに、彼らは深々と頭を下げたのです。
「ユイ=シュトレーゼ様。どうか、王宮へお戻りください。建国祭のパンを、あなたに焼いていただきたいのです」
店先で焼きたてのパンを抱えていたニナが、目を丸くしました。
「なに言ってんの? 師匠を追い出したくせに、今さら——」
「ニナ、いいのよ」
(やはり、聖女様は最初から気づいていらしたのね)
聞けば、聖女アーデルハイト様が進言なさったとか。『竈の祝福を授かりし者は、ただ一人。辺境にて』と。
わたくしは焼きたてのパンを片手に、静かに前へ出ました。怒鳴りもせず、責めもせず。ただ、静かに微笑みます。
「あら。王宮はもう、パンが焼けないんですね?」
使者の肩が、びくりと震えます。
「そ、それは……」
「平民じみた素朴なパンで、王家の威厳を損ねた——そう仰って、わたくしを解任なさったのは、どなたでしたかしら」
「それは、その……」
「平民じみたパンしか焼けないわたくしには、王宮のお仕事は荷が重うございます」
わたくしは、手にしたパンを、ちぎってみせました。湯気が立ち、ふくよかな小麦の香りが辺りに広がります。
使者たちが、思わずその香りに、うっとりと目を細めました。心の奥が、ふっと温かくなったように。
「ご覧の通り、この竈は今日もよく焼けますの。——王宮の竈とは、違って」
沈黙。
わたくしは一礼しました。あの日、王宮を去った時と同じように。
「お引き取りください。わたくしは、この町でパンを焼いて生きてまいりますので」
喚かず、淡々と。けれど、それは何よりも雄弁な拒絶でした。
使者たちは、すごすごと帰っていきました。
ニナが隣で、ぽかんと口を開けています。
「師匠……かっこよすぎ……」
「ふふ。さあ、開店の準備をしましょう。今日もお客様が待っているわ」
そして、建国祭当日。
わたくしを捨てた王太子が、国中の前で、何を失ったのかを——思い知る日が、やってきたのです。
◆
建国祭、当日。
各国の賓客が居並ぶ、絢爛たる祝宴の広間。
そこで供されるはずだったパンは——どこにもありませんでした。王宮の竈は、最後までパンを焼かなかったのです。
苦し紛れに運ばれてきたのは、マリエルの砂糖菓子。
うずたかく盛られた、宝石のような砂糖細工。けれど。
がらり。
運ばれる途中で、それは音を立てて崩れ落ちました。所詮は見た目だけの飾り。支える芯も、技術もなかったのです。
「な……っ! そんな、崩れるなんて……!」
マリエルが青ざめます。賓客たちのざわめきが、広間を満たしました。
「これが、王家の威信か? 噂に聞いた、心を癒やすパンとやらは……」
やがて、真相が囁かれ始めます。
——王太子は、唯一無二の『竈神に愛された職人』を、自ら追放した。
——的外れな罪状で、本物を捨て、虚飾を選んだ。
——その結果が、この体たらくだと。
「ち、違う! これは何かの間違いだ!」
レオハルトが叫びます。けれど、もう誰も彼を見ていませんでした。
マリエルは砂糖細工の腕すら偽りだったと暴かれ、わなわなと震えながら口走ります。
「わ、私は悪くない! 王太子殿下が望んだのよ! 私はただ……!」
他責に走る令嬢を、誰もが冷たい目で見ていました。彼女はその日のうちに、実家へと送り返されたといいます。
そしてレオハルトは。
「なぜだ……なぜ竈が……ユイを、ユイを呼び戻せ! あの女がいれば!」
狼狽し、醜態をさらすその姿に、賓客たちは静かに席を立っていきました。
失ってから、ようやく気づいたのです。
地味だと切り捨てたあのパンこそが、本物だったと。
王太子は廃嫡寸前まで失墜しました。
すべてを見届けた聖女アーデルハイト様だけが、末席で静かに微笑んでいたといいます。
「……パンには、祈りが込められておりました。それを、あなた方は見ようとしなかった。ただ、それだけのことなのですよ」
◆
建国祭から、しばらく経ったある日。
聖女アーデルハイト様が、わたくしの店をお忍びで訪ねてこられました。
白髪を結い上げた、穏やかで静謐な佇まい。あの解任の朝、末席でわたくしのパンを口にしていた、たった一人の方。
「お久しゅうございます、ユイ」
「聖女様。……あの竈の祝福を授けてくださったのは、あなたですね」
アーデルハイト様は、静かに頷きました。
「正確には、わたくしは仲立ちをしたにすぎません。あなたに祝福を望んだのは——古き竈神様、ご自身です」
わたくしは、焼きたてのパンをお出ししました。彼女は一口かじり、目を細めます。
「……ええ。この味。祈りが、ちゃんと込められておりますね。あなたの前世の祈り、この世界の古き竈神様が、確かに聞き届けたのです」
「前世の……?」
「竈の前で倒れ、誰にも看取られず逝った、あなたを。竈の神が、愛したのですよ。だから、この世界へ導いた。もう一度、竈の前に立てるように」
胸が、震えました。
誰にも看取られず、過労死した前世。最後に願ったのは、たった一つ。
(——『もう一度、誰かの「おいしい」が聞きたい』。あの祈りを、聞いていた存在が、いた)
「王宮の竈が火を失ったのは、あなたを侮辱したから。辺境の廃竈が蘇ったのは、あなたが祈りを捧げたから。すべては、竈神様の御心です」
わたくしは、そっと竈に手を当てました。
薪のはぜる音が、ぱちりと一つ。まるで、応えるように。
「……ありがとうございます。竈神様。そして、聖女様」
アーデルハイト様は、温かく微笑みました。
「王宮はあなたの復帰を望んでおりますが」
「お断りいたします」
即答でした。
「……即答ですね」
「わたくしの居場所は、ここですもの。前世から、ずっと夢見ていた——自分の、小さなパン屋。やっと、叶ったのですから」
窓の外では、ニナが客を捌き、ガルド将軍が今日も列に並んでいます。
この温かな場所を、もう手放したりしません。
◆
朝。
焼きたての香りが、辺境の町いっぱいに満ちていきます。
ガルド将軍が、今日も律儀に列の先頭に並んでいました。小さなクリームパンを、巨体には不釣り合いなほど大事そうに、両手で抱えています。
「……今日も、うまかった」
「ふふ。ありがとうございます、ガルド様。……あら、口の端にパン屑が」
「……っ。み、見るな」
ぶっきらぼうに、それだけ言って去っていく。でも、口の端についたパン屑を慌てて拭うその姿が、わたくしには可愛くて仕方ありません。
子どもたちが、焼きたてを頬張って笑っています。
傷ついた冒険者が、遠征帰りに一口かじって——ふいに、涙ぐむ。
「……なんだ、これ。心まで、満たされる……」
ニナが店先で、元気に客を呼び込んでいました。
「いらっしゃーい! 師匠のパン、世界一だよ!」
かつて警戒心の塊だったあの子は、今では立派な看板娘。
誰もが、笑っている。誰もが、温かい。
わたくしは、そっと竈に手を当てました。
前世では、誰にも言われなかった言葉。深夜まで竈の前に立ち続けて、最後は誰にも看取られず逝った、あの日々。
でも、今は。
「ごちそうさま!」
「おいしかったよ、お姉ちゃん!」
「また来る!」
(前世であんなに欲しかった言葉が、毎日、毎日、返ってくる)
わたくしは竈に頬を寄せて、囁きました。
「……今日も、いただきます」
薪のはぜる音が、ぱちりと一つ。温かな気配が、確かに応えてくれました。
(もう、独りじゃない。この香りが続く限り、わたくしは——きっと、ずっと幸せです)
◆
その日の夕暮れ。
店じまいの支度をしていたわたくしは、ふと、戸口に立つ人影に気づきました。
上等な仕立ての旅装をまとった、一人の少女。
フードを目深に被り、素性を隠しているようでしたが——立ち居振る舞いの端々に、隠しきれない高貴な気配が滲んでいます。
(……お忍び、かしら。それも、相当な身分の)
少女は、ゆっくりとフードを外しました。気品ある、けれどどこか切実な表情。
「この香り……探していました。あなたが、竈の祝福を授かりし、ユイ=シュトレーゼ様ですね」
澄んだ、凛とした声。
「……ええ。何か、ご用でしょうか」
少女は、まっすぐにわたくしを見つめました。その瞳には、何か大きなものを抱えた者の、覚悟のような光が宿っています。
「不躾なお願いとは、承知しています。ですが——」
彼女は、深く頭を下げました。
「あなたのパンでなければ、ならないのです。折り入って、頼みたいことがございます」
夕日が、少女のシルエットを赤く縁取ります。
まだ語られぬ、彼女の事情。お忍びの理由。そして——「あなたのパンでなければ」と言わしめる、頼みごとの正体。
わたくしは、ニナと顔を見合わせました。
(また、何か始まりそうな予感。でも、不思議と胸は躍っていました)
だって、わたくしのパンを必要としてくれる人が、また一人、現れたのですから。
「……どうぞ、お入りください。焼きたてのパンと、温かいお茶でも。お話は、それからゆっくりと」
竈の方から、ぱちり、と薪のはぜる音。
まるで、新しい物語の始まりを告げるように。
(——さあ、次はどんな「おいしい」を、誰に届けましょうか)




