Elysia 目が覚めるまでの話
ある日見た夢が、ずっと頭に残っていました。
その夢に、自分の記憶や気持ちを少しだけ重ねて、
ひとつの物語にしてみました。
短いお話ですが、どこかで何かを感じてもらえたら嬉しいです。
ジリジリと焼けるような夏。テレビからニュースの音が流れている。
日本で初めて、安楽死用の薬が開発された。
画面の中では、偉そうなおじさんや専門家のおばさんが、若者への影響や危険性について、途切れることなく話し続けている。
それは自殺を助長するものではなく、他人を巻き込む死を防ぐための対策だと、何度も繰り返されていた。
私は、ただぼんやりとそれを聞いていた。
私は動物看護師だった。
動物が好きで、助けたいと思って、この仕事を選んだ。
小さい頃から、おばあちゃんの家には犬やインコがいて、動物がいることが当たり前だった。
大学に通い、国家資格を取った。
授業も楽しくて、友達にも恵まれて、どこにでもいる普通の大学生だった。
春。ずっと憧れていた職業に就いた。
けれど現実は、思っていたよりもずっと重かった。
どれだけ医療が発達していても、救えない命がある。
腕の中で、静かに消えていく命がある。
ある日を境に、電車に乗れなくなった。
理由はわからない。
ただ、あの音が怖かった。
ゴトン、ゴトンと響くたびに、何か巨大なものが迫ってくるようで、逃げ場がない気がした。
眠れなくなった。
夜が来るのが怖くなった。
ようやく眠れても、夢はいつも悪いものばかりだった。
ある日、職場で息ができなくなった。
これが死ぬということなのかもしれない、と思った。
それが、最初のパニック発作だった。
医師から告げられたのは、「うつ病」という言葉だった。
笑顔が取り柄だね、と言われ続けてきた自分が、
そんなものになるなんて、思いもしなかった。
何より、自分自身が受け入れられなかった。
やがて休職し、家にいる時間が増えた。
時間だけが過ぎていく。
世界から色が消えた、という言葉を、どこか他人事のように思っていた。
でも今は、それがどういうことなのか、よくわかる。
そんなある日、いつものようにメンタルクリニックを訪れた。
「少しお話があります」
そう言われて通された部屋には、見知らぬスーツの男がいた。
次の瞬間、空気が変わる。
「おめでとうございます。あなたは、今年開発された安楽死薬の適用対象となりました」
頭が、うまく働かなかった。
その後の説明は、どこか現実味がなくて、
気がつけば、すべてが決まっていた。
──場所は、お寺。
集団安楽死が行われるという。
一日目。
広い部屋に、同じような人たちが集められていた。
誰も、深く関わろうとはしない。
明日にはいなくなる人間同士だと、どこかで理解しているから。
二日目。
最初の薬を飲む日。
案内された部屋で、お坊さんと向かい合って座る。
優しそうな、年老いた人だった。
机の上には、丁寧に用意された食事。
他愛もない会話をしながら、それを口にする。
好きなもの、苦手なもの。
まるで、普通の食事みたいだった。
薬を飲む。
何も変わらない。
ただ、いつもの睡眠薬と同じような感覚だけが残った。
三日目。
今日で終わる。
そう思っていた。
名前が呼ばれる。
同じ部屋。
同じお坊さん。
同じように、話をする。
そして、薬が差し出される。
──その時だった。
ふと、意識が引き戻される。
このまま、終わるのか。
家族の顔も見ずに。
友達にも何も言わずに。
もっと、できたことがあったんじゃないか。
もっと、違う選択があったんじゃないか。
後悔が、一気に押し寄せる。
手が、震える。
飲めない。
どうしても、飲めない。
喉の奥で、何かが詰まる。
気がつけば、泣いていた。
お坊さんの手が、背中に触れる。
ゆっくりと、優しく、撫でる。
その温もりだけが、やけに現実だった。
結局、私は飲めなかった。
荷物をまとめて、お寺を出る。
空は、何も知らないみたいに青かった。
後から知った。
あの薬は、安楽死のためのものではなかったらしい。
──生きることを選ばせるための、薬だったのだと。
ぴっ、ぴっ、ぴっ……
どこかで、音がしている。
遠く、深い水の底から浮かび上がってくるみたいに、
かすかに、規則的に、響いてくる。
さっきまで、ここには確かに何かがあった。
言葉にできないけれど、
大切で、あたたかくて、
触れたら壊れてしまいそうな、何か。
それが今、少しずつほどけていく。
音が近づくたびに、景色がにじむ。
輪郭がぼやけて、色が溶けて、
まるで最初から存在しなかったみたいに消えていく。
──待って。
そう思ったはずなのに、
何を引き止めたかったのかが、もうわからない。
確かにここにあったのに。
確かに、自分の一部だったのに。
音が、はっきりとした形になる。
現実が、静かに押し寄せてくる。
目を開ける。
見慣れた天井。
朝の光。
鳴り続けるアラーム。
胸の奥に、ぽっかりとした空白だけが残っている。
何かを失った気がするのに、
それが何だったのか、もう思い出せない。
アラームを止める。
静けさ。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をゆっくり満たしていく。
遠くで車の走る音。
隣の部屋の生活音。
いつもと変わらない朝。
体を起こして、顔を洗って、服に袖を通す。
何も変わらない一日が、また始まる。
──それでも。
ふとした瞬間に、胸の奥がわずかに揺れる。
理由は、もうわからない。
ただ、何かがそこにあったことだけが、
かすかに、確かに、残っている。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この物語は、ある日見た夢から生まれました。
目が覚めたあとも、なぜか心に引っかかり続けて、忘れられなかったものです。
書いているうちに、自分の経験や気持ちが少しずつ重なっていき、
気づけば「終わりの話」ではなく、「選ぶことの話」になっていました。
生きることは、ときどきとても苦しくて、
何も感じられなくなることもあるけれど、
それでも、ふとした瞬間に心が揺れることがあります。
この物語の中で描いたものも、
きっとそんな小さな揺れのひとつなのだと思います。
もしこのお話が、誰かの中にほんの少しでも何かを残せたなら、
それだけでとても嬉しいです。
ありがとうございました。




