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星屑シネマの七番スクリーン

掲載日:2026/04/14

雨の降る夜だけ、路地裏に現れる映画館がある。


古びた赤レンガの壁。

金色の文字で、かすれながらも確かにこう書かれている。


星屑シネマ


都内のどこにあるのか、地図には載っていない。

けれど、人生で一度だけ「別の選択をした自分」を強く思い浮かべた人の前に、その映画館はひっそり姿を見せるのだという。


大学生の 秋人 がその映画館を見つけたのは、二十二歳の春だった。


第一志望の音大を諦め、就職活動の準備を始めた帰り道。

コンビニのガラスに映った自分の顔が、ひどく知らない人のように見えた夜だった。


「もしあの時、諦めなかったら」


そう呟いた瞬間、見慣れた商店街の脇に、あるはずのない細い路地が伸びていた。

吸い込まれるように進むと、雨粒の向こうにネオンサインが浮かぶ。


星屑シネマ 今夜上映:あなたが選ばなかった人生


秋人は冗談だと思った。

けれど、ガラス扉を開けた途端、甘いポップコーンの香りと、古いフィルムの焦げるような匂いが鼻をくすぐった。


ロビーには客が誰もいない。

カウンターには、銀色の蝶ネクタイをした老人が一人だけ立っていた。


「いらっしゃいませ。お客様は、初めてのご来館ですね」


「ここ……普通の映画館、ですか?」


老人は少しだけ目を細めた。


「ええ。上映するのは映画ではなく、可能性ですが」


秋人は笑おうとしたが、老人の声には冗談の色がなかった。


「七番スクリーンへどうぞ。今夜のお客様の作品は、ちょうど始まるところです」


差し出されたチケットには、題名の代わりにこう印字されていた。


『秋人/音楽を捨てなかった世界』


胸がざわついた。

逃げ出すべきだと思った。

けれど、指先はそのチケットをしっかり掴んでいた。


七番スクリーンの扉を開けると、中は驚くほど広かった。

まるで夜空そのものを切り取ったような天井に、星のような小さな灯りが散っている。

座席は古いビロード張りで、ひとつ座るたびに小さくため息のような音を立てた。


やがて場内が暗くなり、幕が開く。


映し出されたのは、見慣れた自分の部屋だった。


ただし、そこにいる秋人は、今の自分とは違っていた。


ギターケースには無数のステッカー。

机には楽譜と録音機材が積み上がり、壁にはライブハウスのフライヤーが貼られている。

画面の中の秋人は、眠そうな目をこすりながら、歌詞カードに何かを書きつけていた。


——あの日、就職を選ばず、音楽を続けた自分だ。


秋人は息を呑んだ。


スクリーンの中の人生は、想像していたよりずっと泥くさかった。

小さなライブハウスで数人の客の前で歌い、アルバイトを掛け持ちし、安いカップ麺をすすり、深夜に一人で曲を書き直す。

華やかな成功などすぐには訪れない。

SNSの再生回数は伸びず、事務所からの連絡も来ない。

恋人とすれ違い、親とも何度も喧嘩していた。


「なんだよ……」


秋人は思わず呟いた。


「もっと、うまくいってると思ってた」


スクリーンの自分は、今の自分が勝手に夢見ていた“輝く別世界”とはほど遠かった。


だが、ある場面で、秋人の心臓は強く打った。


狭いライブハウス。

観客は二十人ほど。

ステージに立つ“もう一人の秋人”は、汗だくのままマイクを握り、震える声で歌っていた。


上手くもない。完璧でもない。

それでも、その顔には、今の自分が長いこと失っていたものがあった。


必死さと、歓び。


一曲歌い終えたあと、客席の片隅にいた女子高生が、ぽろぽろ泣きながら拍手をしていた。

その子はライブ後、震える声で言った。


「今日、死のうと思ってたんです。でも、あなたの歌、もう少しだけ生きてみようって思えました」


スクリーンの中の秋人は、何も言えず、ただ深く頭を下げた。


場内の暗闇で、現実の秋人は指を握りしめていた。


その一言のために。

たった一人に届くその瞬間のために。

あの世界の自分は、報われない日々を耐えていたのかもしれない。


映画は続いた。


三年後。

少しだけ有名になった“向こう側の秋人”は、小さなワンマンライブを成功させる。

だがその代わり、家族と過ごす時間を失い、大切な人の最期にも間に合わなかった。


五年後。

ようやく夢が形になりはじめた頃、彼は舞台袖で一人、泣いていた。


「選んだんだろ。だったら、全部抱えるしかない」


そう言って、自分で涙を拭う姿が映る。


秋人はその時、ようやくわかった。


どの世界にも、失うものがある。

どの選択にも、痛みがある。

“別の人生”は、“もっと楽な人生”ではないのだ。


ただ——

その痛みを、自分で選んだという違いがあるだけで。


上映が終わると、場内に淡い明かりが戻った。


スクリーンは白く消え、何も映していない。

秋人の隣の席には、いつの間にか例の老人が座っていた。


「いかがでしたか」


秋人はしばらく答えられなかった。

喉の奥が熱く、胸のどこかが静かに軋んでいた。


「羨ましいと思うかと思った。でも……違いました」


「ほう」


「たぶん、あっちの俺も、こっちの俺を羨ましいと思う瞬間がある」


老人はゆっくり頷いた。


「その通りです。お客様方は皆、勘違いをしてご来館される。別世界には“正解の自分”がいると思ってしまうのです」


「違うんですね」


「ええ。あるのは正解ではなく、別の代償を払った自分だけです」


秋人は空になったスクリーンを見つめた。


不思議と、後悔が消えたわけではなかった。

音楽を諦めた痛みは、まだちゃんと残っている。

でもその痛みを見ないふりは、もうできなかった。


「……まだ間に合いますか」


老人は少し首を傾げる。


「何に、でしょう」


秋人は笑った。

今夜初めて、ちゃんと自分の顔で笑えた気がした。


「少なくとも、ゼロに戻ることじゃなくて。

今の人生に、捨てたはずのものを少しだけ戻すことに」


老人は立ち上がり、出口を示した。


「それは映画館の仕事ではありません。

現実で上映してください」


ロビーへ戻ると、雨はもう止んでいた。


カウンターの上には、半券と一緒に小さなフィルム缶が置かれていた。

蓋には手書きでこうある。


“未上映作品:これからのあなた”


「これは?」


秋人が顔を上げると、もう老人の姿はなかった。

代わりに、壁の時計だけがカチ、カチ、と小さく鳴っている。


映画館の外へ出た瞬間、ネオンサインの灯りがふっと消えた。

振り返ると、そこにはただの煉瓦壁しかない。

路地もなく、入口もなく、まるで最初から何もなかったみたいだった。


秋人はしばらく立ち尽くした。

それから鞄の中に入れっぱなしだった、昔のメモアプリを開いた。

高校時代に書きかけた歌詞の断片が残っている。


いつか別の空で生きる僕へ

そっちはちゃんと笑えていますか


秋人はその続きを、ゆっくり打ち始めた。


通行人は誰も、彼が今、人生の上映時間を少しだけ変えたことに気づかない。


けれどその夜、

どこにもないはずの映画館の七番スクリーンでは、

まだ存在しない未来のフィルムが、かすかに回り始めていた。



この作品を読んでいただきありがとうございます。

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