第十四話 長い夜の始まり
リリア公女と共に書架の入り口まで近づくと、禍々しいオーラが漂っていた。
「やはり……なにか恐ろしい危機が」
そっと入り口のドアに耳を当てると、何とも言えない腐臭が鼻を突き、「クスクス」と笑う、男たちの声が聞こえる。
「いったいなにが?」
俺の背筋に今まで感じ取ったことのない、不気味な悪寒が走る。
「考えてたってしかたないわ! 踏み込もう」
リリア公女が勇ましくフライパンを構える。
ここまで来る間に、リリア公女には事の概略を説明した。
途中、キャサリンやアンジェリーナについて話すと「ふーん」とか「へー」とかいって睨まれたが、大旨の理解は得られたと思う。
俺はリリア公女に頷くと、書架のドアを蹴破った。
そして目にしたのは……。
■ ■ ■
「うむ、これは我の失態じゃ……誠に申し訳ない。しかし来るなといったじゃろうに……なぜ駆けつけた」
テーブルの上で土下座する師匠を眺め、俺は深くため息をついた。
「来るなといわれて、行かないわけには……。あー、それより、事情を説明してください。混乱していて……」
書架の研究室いっぱいに、キラキラ眼の美少年たちが浮遊している。
全員なぜか半裸で、キャッキャ、ウフフと抱き合ったりしていた。
「禁じられた書架の、さらにその奥には、それはそれは恐ろしい呪いの書が、数多く秘蔵されておってのう。これはその中のBLと呼ばれる蔵書の怨念が顕現した物じゃ」
「はあ、BLですか」
「そうじゃ、その中でもこれは最も危険視されておる『二次創作のうっすい本』じゃ」
土下座する師匠の前に積まれた『うっすい本』を一冊手に取る。
表紙には俺に似たイラストの男が笑いながら、半裸の男を抱きしめていた。
リリア公女が眉根を寄せながら、俺の隣でそれを覗き込む。
「そうそう、グレッグ王子の裏ルートってそっち系だったわ。二次創作もいっぱい出てたし」
反省する師匠の横で、キャサリンも頬を赤らめながらうつむいているのが、なぜか不安でたまらない。
「なかなか予言の書が進まぬゆえ、なにかヒントがないかと探ってみたのじゃが……こやつらの執念というか、情熱というか。ちょっと見くびっておったわ」
師匠の話では、このうっすい本を読んでいたら、突然登場人物が飛び出し、書架で暴れはじめてしまったそうだ。
「そんな事って、起きるんですね」
まだ浮遊する美少年たちを眺めて、俺が今日何度目かのため息をつくと、
「書架に存在する呪気が不安定でのう、こんなのは我も初めてじゃ」
師匠も深くため息をついた。
「まあ、大きな実害が出てなくて良かったじゃない。それじゃあ、こいつら無視して本題に入りましょう」
リリア公女はそういって、浮遊する美少年たちを無視して、テーブルにまとめられていた最近反応を示した『予言の書』をつかみ取る。
「こっちはあたしが関連してる『ドキ学』で、こっちの鬱ゲーがキャサリンちゃんで、この商売成り上がり系のヤツが、アンジェリーナが関連する攻略本かな」
そして三冊の中から『青い夜の無限ループ 攻略本』と書かれた本を開いた。
「キャサリンちゃん、お話しするのは初めてよね。安心して、あたし医学部で内科専攻だったの。心療医学も学んだし、こっちに来てから回復や精神操作系の魔術は一通り学んだわ」
リリア公女はキャサリンに笑いかけると、俺が説明したアンジェリーナの仮説を語り始めた。
「心的ストレスによる一時的な記憶の混乱。本当の記憶を取り戻す勇気はある?」
キャサリンは驚いた表情でリリア公女を見つめ、――師匠はわかっていて黙っていたのだろう。辛そうな表情で、小さく首を左右に振った。
「……それが、王子の助けになるのでしたら」
キャサリンが決意したように頷くと、師匠が慌てて制止する。
「急ぎすぎてはならん! 心など、簡単に壊れてしまう物じゃ」
「後回しにしすぎてもダメよ。それにお師匠様? でしたっけ、なにか知ってるんじゃない?」
リリア公女は師匠に視線を移して微笑む。
「あー、うむ。他に策はないかと探しておったのじゃが……リリアは『医聖』の加護を得ておるようじゃし。うむ、それが最良か」
師匠は苦虫をかみつぶしたような顔で俺に視線を送る。
「お主、どこかで『災厄の魔女』と出会ったであろう。そもそもお主の不調はそれが原因じゃ。そして誰かにそこを突かれた。覚えはないか?」
――心当たりは、確かにある。
俺は舞踏会の夜に出会った不気味な呪いと、リリア公女の屋敷で気を失い、『虫』と出会った事を説明した。
「まったく、そのようなことが……。キャサリンの心を蝕んでおるのも『災厄の魔女』じゃろう。お主の身体の中で、取り込んだ災厄の魔女の力が随分なじんできておる。それを利用すれば、上手く行くかもしれぬな」
「どういうことですか?」
あまりのことに思考がついていかず、聞き返すと、
「じゃあお師匠様、手伝ってくれるの?」
「リリアといったな、預けた鍵を出せ。我がフォローしてやろう。それからキャサリン、先にグレッグから必要な物を抜き出す。手を貸してくれ」
勝手にリリア公女と師匠とキャサリンが意気投合してしまった。
悪い予感しかない。
リリア公女が鍵を取り出すと、師匠がそっと手を触れる。すると『医聖』の文字が輝きを増した。
「なんか力がわいてきたわ!」
悪そうな笑顔のリリア公女が迫ってくる。
「なにをする気だ!」
「オペよ。安心して、研修中もいい腕だって、教授に褒められたんだから」
わからない用語が多いが、それがむしろ不安を煽る。
その後ろで頷く師匠とキャサリンの表情も、なぜかちょっと楽しそうだから、不安でしかない。
「それって、問題ないの?」
師匠に問いかけたら、
「たぶん大丈夫じゃろう」
そんな素敵な言葉が返ってきた。
「男の子なんだから、覚悟を決めなさい!」
リリア公女の顔が迫ってくる。
ゴクリと唾を飲み込むと、「じゃあ麻酔」と呟いたリリア公女に、師匠がフライパンを差し出した。
「ちょっと待って!」
反対の意を表したが……。
「ガツン」という鈍い音と共に、俺の意識は奪われた。
■ ■ ■
この記憶は、半年前のものだ。
俺は荒らされた薬草畑の前で佇んでいた。
兄たちの誰かか、王家に不満を持つ貴族の子なのか。
時折、嫌がらせを受けることはあったが、薬草畑を狙われたのは初めてだった。
母の実家から手に入れた希少な薬草や、魔力が存在しないため、雑草として見向きもされないハーブと呼ばれる薬草たち。
最近ポーションを飲んでも体調が治らないと愚痴っていた、父上のために育てていた薬草たちが、見る影もなく踏み荒らされていた。
「ねえこれ、ハーブだよね。この世界で育ててる人、初めて見た」
その言葉に驚き目を上げると、太陽のような微笑みを称えるリリア公女がいた。
「ああこれ、父上のために……育ててたんだ」
俺が驚いて、ついつい本音を漏らすと、
「凄いわね! 国王陛下もお年だから、生活習慣病かもね。あれは回復魔法もポーションも効かない病だから」
彼女は感心したように頷いた。
「俺のことを知ってるの?」
「もちろんよ、あたしはリリア、よろしくね。じゃあ早速、なんとかしましょう!」
リリア公女はそう宣言すると、近くにあった鍬を片手に、ドレスの汚れも気にせず、ずかずかと畑に入り込む。
あっけにとられていたら、
「あたし農家の娘でさ、子供の頃から作業を手伝わされてたのよね」
そんな妙な話をする。
公爵家の長女がそんなバカな……と、思っていたが、堂に入った作業は、みるみるうちに荒れた畑を整えていく。
土にまみれ、汗をかく彼女は美しかった。
首の大きく開いたドレスで、しゃがんで作業をする姿などは……瑞々しい大きな二つの膨らみが、今にもはみ出してしまいそうで、目のやり場に困ったが。
俺がそんなリリア公女との出会いを思い返していたら、
「どこ見てんのよバカ!」
頬を赤く染めたリリア公女に後ろから蹴飛ばされた。
「あれ?」
「お師匠様が、『心の支えになる大切な思い出』の中にいるだろうって言ってたけど……へー、あれがそうなの?」
もう一度振り返ると、リリア公女の胸元をチラチラ盗み見ている、鼻の下を伸ばした俺がいた。
「いやこれ、誤解だから!」
俺が慌てふためくと、リリア公女は苦笑いしながら、
「言い訳は後から聞くから、急いで移動しましょう」
俺の手を取り、歪んだ空間の隙間へと走り出した。