キツネ系少女は今日も市場を駆け抜ける
たぬき派のあなたへ
ミオは、朝の人混みをすり抜けるのが得意だった。
まだ日が昇り切らない市場の通りには、魚の匂いと焼きパンの湯気が混ざり合い、路地裏の古い石畳を覆うように熱気が漂っている。
立ち止まった客の背中を縫うように進み、片手で吊るされた飾り紐をさっと直す。布地の端を結ぶ指は、長年の癖で迷いなく動く。
店主が「おや?」と振り返った時には、もう二軒先で桃を選ぶふりをしていた。
彼女は17歳。赤みがかった茶色の髪を肩で束ね、動きやすい服を纏っているが、その色や布の選び方には妙なセンスがあった。日焼けした健康色の肌と、琥珀めいた瞳は、いつでも相手を値踏みしているように見える。
孤児として育った幼い頃から、市場は彼女の庭だった。
行商人や裏稼業の人々の間をすり抜けながら覚えたのは、金のやり取りよりも「間合い」だった。盗むのも返すのも、笑って誤魔化すのも、全部が呼吸の一部。
「……お嬢さん、盗むより直す方が得意なのか」
低く落ち着いた声が耳に届く。
振り向けば、質素な外套の男。だが背筋の伸びた立ち姿と、近くで控える黒服二人が目に入る。市場の誰もが、この男がただの通りすがりではないと気づくだろう。
「人聞きの悪いこと言わないでくれる? 善行です、善行」
ミオは片眉を上げ、口元だけで笑った。よく「キツネっぽい」と評される笑み。
「名は?」
「教えない。あなたは?」
「レイナルドだ」
あまりにも簡潔で、むしろ嘘のように聞こえる。
その眉間の皺の深さに、からかってやろうという気持ちがむくむく湧いた。
「じゃあ、レイナルドさん。市場は初めて?」
「いいや。君みたいなのは初めてだが」
挑発に似た答えに、ミオは少しだけ目を細めた。
それから数日、不思議なほど彼とは出くわした。
路地裏のパン屋の前、噴水広場のベンチ、そして市場の花屋。
ミオは偶然を装ったが、彼の護衛はあきらかに避ける様子もなく、むしろ「ご自由にどうぞ」と言わんばかりの顔だ。
彼の方もまた、彼女に会うのを拒む気はないらしい。
「また会ったね」
「また会ったな」
短いやり取りでも、氷に触れる指先のように少しずつ温度が移っていく。
ミオは、彼の落ち着きに退屈せずにいられる自分に気づき始めた。
ある日、花屋で彼が白百合を手に取った。
その花弁の白さが彼の雰囲気に妙に似合うと感じ、ミオはひょいと覗き込む。
「誰にあげるの?」
「誰でもない」
「じゃあ私にくれてもいいんじゃない?」
「白百合は似合わない」
「失礼ね。じゃあ何が似合うの?」
「……柿」
一瞬、意味がわからず、ミオは吹き出した。
「何それ。花屋で柿って」
「君の色だと思っただけだ」
言い終えると、彼は白百合を元に戻し、背を向けた。
残されたミオは、笑いながらも、胸の奥に妙な熱を覚えていた。
柿色――秋の陽だまりのような、渋くて甘い色。
狐の毛並みに、よく似ている色。
ミオは危険の匂いを嗅ぎ分けるのが得意だった。
市場で育った者なら誰でも持つ感覚だが、彼女の場合、それは生き延びるための本能に近い。
彼には近づかない方がいい。
本能はそう告げていた
その日は市場がいつもよりざわついていた。
珍しい香辛料が入ったとか、遠国の布商人が来ているとか、噂は色々あったが、ミオの耳には別の話も届いていた。
「盗みがあったらしい」
「銀細工が消えた」
「犯人は若い娘だとか」
こういう話は、空気でわかる。
人混みの視線が、ほんの一瞬、ミオをかすめた。
ああ、まただ。こういう目には慣れている。
「……はあ」
心当たりはない。だが市場の顔役たちから見れば、俊敏で手癖のいい孤児上がりの娘など、疑うには十分だ。
過去に何度もあった。
全て無実だったが、毎回同じように囁きは広がった。
次の瞬間、肩を掴まれた。
「おい、そこの!」
振り向くと、銀細工店の親父が息を切らせて立っている。
「返せ、あの腕輪だ!」
「は?」
ミオは両手を広げて見せた。
「何も持ってないでしょ」
「隠してるんだろ!」
周囲の視線が刺さる。護衛やら物見やらが半歩ずつ距離を詰めてくる。
まずい、とミオの勘が告げた。
こういうときは、一旦逃げるしかーー
「待て」
低く、穏やかで、しかし場の空気を一瞬で変える声が響いた。
群衆が自然と道を開け、そこに現れたのはレイナルドだった。
その歩き方は急いでいないのに、妙な圧を持っていた。
「彼女は何もしていない」
「レ、レイナルド様……しかし、見た者が―」
「見間違いだ」
有無を言わせぬ口調。
護衛の一人が懐から銀細工の腕輪を取り出し、店主の前に差し出した。
「こちらで見つかりました」
「な……」
親父は口をぱくぱくさせミオの方を見たが、もう何も言えなかった。
レイナルドは一瞥もくれず、ただ「行くぞ」とだけ言って歩き出す。
ミオはしばらく呆然と立っていたが、結局その背中を追った。
路地を抜けたところで、ようやく口が動く。
「……あんた、なんで助けたの」
「冤罪は面白くない」
「面白いかどうか、で決めるわけ」
「君も同じだろう」
図星を突かれ、ミオは黙り込む。
本当は礼を言うべきなのかもしれないが、それを口にするのは妙に照れくさい。
レイナルドと別れたあと、ミオは市場の外れにある古い水路跡に腰を下ろした。
昼のざわめきが遠くにぼやけて聞こえる。
腕を抱え込み、しばし自分の膝を見つめた。
(助けられた、か……)
こんなことは滅多にない。
自分は自分で何とかしてきた。そうしなければ、幼いころにはとっくに市場の裏路地で朽ちていただろう。
それを、あんなにあっさりと他人が片付けてしまうなんて。
腹が立つような、胸の奥が温かくなるような――どっちつかずの感覚が居座って離れない。
思えば、孤児になってからの自分は、常に「役に立つか」「厄介か」で人に値踏みされてきた。
だからこそ、面白いか退屈かでしか動かないあの男が、わざわざ手を伸ばした理由が分からない。
もしかしたら、彼にとって自分は「面白い」に分類されているのだろうか。
そうだとしたら……悪くない。
ミオは自嘲するように笑い、立ち上がった。
少しだけ軽くなった足取りで、市場へと戻る。
翌朝の市場はまた、パンの香りと魚の声で満ちていた。
ミオが柿を見ていると、いつの間にかレイナルドが立っていた。
「……また会ったね」
「また会ったな」
そう言いながら、彼は柿を二つ買い、ひとつをミオに放った。
「……買収?」
「餌付けだ」
「狐に餌付けしてどうするの」
「懐かせる」
あまりにも淡々とした口調に、ミオは吹き出した。
「そんなの、もうとっくに懐いてるのに」
彼は答えず、ただ歩き出す。
ミオは柿を抱え、狐らしい笑みでその背を追った。