ラッパのおっちゃんと夏休み
持病の網膜症が影を潜め、目の調子も良いようなので、短編をかいてみました。
よろしければご覧下さい。
昭和五十年代後半、世の中では「ファミコン」という最新のテレビゲームが流行していたが、僕のおこづかいで買える値段ではないし、家の中にこもってテレビの前にずっと座っているなんて不可能だ。折角の夏休み!貴重な時間を家の中で過ごすつもりはない。
僕は「田辺利樹」十二歳。ある田舎に住む小学六年生。友達には「きーやん」と呼ばれている。自分で言うのもおかしいが、勉強もスポーツもそこそこできた。自分ではいわゆる「標準」だと思っている。「お前はとても普通だな」と人に言われたことは無いけど、変わりモンではないと思う。
七月下旬、十二年間の人生で、一番不思議で一番変わった夏休みが始まった。
僕は長い夏休み、いかに楽しく過ごすかということに全てをかけていた。
夏休みと言えば、「ラジオ体操」と「夏休みの友」がつきものだ。「夏休みの友」とは、いわゆる夏休みを規則正しく過ごすため、総合学習を含めた夏休みの生活の指針がほと細かに記載されている三十ページほどの小冊子だ。
内容は国語、算数、社会などのドリルに始まり、夏の風景画、読書感想文、自由研究と多岐に渡った。自由研究のページには、僕と同年代と思われる少年が天体望遠鏡を覗き、月やら土星やらを観測している写真が載っている。「それをやれと言うならまず僕に天体望遠鏡を買ってくれ」と思った。
夏休みの「友」というが夏休みの「敵」の間違いではないのか?僕が楽しく夏休みを過ごせない障害の一つだ。
それに比べて「ラジオ体操」は良い。どうしても長期休暇だと疎遠になりがちな友達とも朝には会える。それに「ラジオ体操カード」と呼ばれるカードが学校から配られ、カードの裏には七月、八月のカレンダーが印刷され、ハンコを押すスペースあり、ラジオ体操に出席すれば、体操に立ち会っている保護者が、カードにハンコを押印してくれるのだ。
毎日ハンコが増えていくことで、なにかポイントが増えていくような楽しみがある。
時刻は午前六時。ちょっと早目だが、僕は愛車の自転車に乗り、ラジオ体操の会場となっている公園へと向かった。公園は僕の家から自転車で五分ほどのところにあり、周囲を少なめのポプラの木が囲み、野球ができる広さのグラウンドと、ブランコや鉄棒などの遊具がいくつかあり、ポプラの木が作り出した日陰は、僕らの憩いの場となっていた。
僕が到着する頃には、公園には早くも数名が集まっている。
「おはよう!みんな早えーなー!」
「よし!野球やろうぜ!おれピッチャーな」
僕らはラジオ体操の前に野球をするのが夏休みの日課になっていた。
一番に名乗りをあげたのは「佐藤正弘」、僕の同級生。僕に言わせれば完全に勉強以外で優秀な成績を修めるタイプだ。僕らはその傍若無人で天真爛漫な行動から敬愛を込めて「社長」と呼んだ。
「社長ずるいなあ。僕もピッチャーやりたかったのになー」
彼は「大塚学」、同じく同級生で、愛称は「まなっぷ」。押しが弱く、引っ込み思案。良く言えば遠慮深い。でもその性格ゆえに、社長のせいで迷惑を被るのは決まってまなっぷだ。
僕ら同級生三人はいつでも一緒に行動し、楽しい思いもつらい思いも、ついでに叱られるのも(まなっぷは社長のとばっちりがほとんどだが。)、みんな一緒に体験してきた。夏休みもこの二人といれば楽しめそうだ。
「まなっぷうるせえ。じゃあバッターやれよ」
「ダメ!バッターは俺がやるの!まなっぷは一塁か外野」
僕らのルールでは言ったモン勝ちか、押し切ったモン勝ちだ。
「ええ!社長もきーやんもずるいよ!一塁も外野も大変だからイヤなんだよな」
「仕方ない。清と秀坊もつけるから!」とバットで二人に外野へ行けと指示しながら社長が提案した。
清と秀坊は、いつも社長を取り巻いている後輩で、律儀にもこんな朝早くからでもちゃんと出勤している。彼らはさしずめ、まったく権限のない専務と常務といったところか。ワンマン社長に振り回されっぱなしで、少し気の毒ではある。
「えぇー俺たちも外野はやだー」
社長命令でも外野はいやらしい。外野はボールを追いかける頻度が多く、広範囲に守らなければならないし、一塁は、外野からの送球が暴投でもキャッチし、ランナーをアウトにしなければならないので、僕らの間で、一塁と外野は嫌われた。
とはいえ、そもそもこの野球はピッチャーとバッター以外は一塁か外野しかない。バックネットがキャッチャー代わりで、地面から高さ一メートルくらいまであるバックネットの基礎のコンクリート部分に当てれば自動的に球が戻ってくる。
ポジションも決まり、ラジオ体操までの間僕らは野球に興じた。
野球を始めたときには清々(すがすが)しかった空気も、ラジオ体操が始まる頃には、温度が上昇し、僕らは汗を流して野球をしており、ラジオ体操で体を動かし健康づくりというラジオ体操本来の目的は、形は違えど達成されていた。
ラジオ体操で整理運動を終えた僕らはラジオ体操カードにハンコをもらい、それぞれに帰宅した。
「じゃあなきーやん、まなっぷ。また後で」
「うん!後で」
○
「臭え!」
僕らは三十度以上ありそうな猛暑の中、涼を求めて、自転車で二十分はかかる学校のプールに来ていた。
まさに今、大プールの前に塩素消毒槽に入っていた。この塩素臭の効いた三メートル四方のミニプールの効能は、“消毒”である。プールに入る前に見えない細菌類を塩素で滅しようということらしい。どの小学校のプールでも当たり前に見られた。
これを抜ければ、天国のような大プールが待っている。「苦あれば楽あり、だ。」そんなことを考えながら消毒槽に浸かっていると社長が思い立ったように僕とまなっぷに言った。
「なあ、面白そうなことを考えついた。プールの帰りに行ってみようぜ」
「いいねぇ!」
僕はプール後の暇つぶしが出来ると思い賛成したのだが、乗り気ではない者が約一名
「え?それは危険?」
まなっぷだ。いつもそんなんだから社長に遅れをとるのだ。
「バカ、チョッとくらい危険なほうが楽しいだろ!」
「やだよ!危険なら僕は行かない!」
「大丈夫だって!行こうぜ!」
まなっぷは反対したが、社長と僕に押し切られる形で了承した、というよりさせられた。
消毒槽を出た僕らは、準備運動もそこそこに、まだ、誰も入っていない、波打っていないプールに勢いよくジャンプし、膝を折り曲げ両腕で抱え団子状態になって「ザッパーン!」と飛び込んだ。そのまま水中を進み、プールサイドで「ブハーッ」と息継ぎに上がる頃には、プール全体で水しぶきが上がり、僕らの他にも来ていた小学生たちが次々と飛び込んでいる。中には飛び込みに失敗し「ピシャーン」とお腹を強打し、開始早々(そうそう)、プールサイドに上がり休んでいる者がいた。
この夏休みにどれぐらい泳げるようになったのかを試す者もなく、仮にいたとしてもまっすぐ泳ぐことは不可能なほど、僕らはとにかく上がっては飛び込み、飛び込んでは上がり、また飛び込むということを繰り返した。他もやつらも一緒だ。たまに飛び込むのを止めたかと思うと、「やめてくれよ!」と言うまなっぷを捉まえ、「せーの!そりゃ!」と抱え上げプールへ投げ込んだ。
僕らがプールに入っていない時間は、強制的に設けられている十五分の休憩時間だけだった。その休憩時間にはプールサイドに寝そべり、水分を蒸発させ、体温の回復に努めるのだが、「痛てっ!」田舎のプールには“虻”がつきもので、音もなく飛んで来た“虻”が寝そべっている僕のふくらはぎにとまり「チクッ」とやったのだ。
痛さと痒さが同時に襲い掛かり「ちっくしょう!やられた!」と言いながらプールサイドを走り回り、虻を追う“ふり”をしてプールに飛び込み、プール監視に出勤してきている先生に「コラーッ!休憩時間延ばすぞ!」と叱られ、何かにつけプールに入ろうと試みた。
その休憩時間にリラックスしすぎ、プール再開と同時に飛び込もうとして滑って転び負傷して退場していく愚か者もいた。僕らに言わせれば、プールは格闘技だ。油断すればしっぺ返しを食らう。
僕らはプールの終了時間まで遊び、唇が紫になりながらも、最後まで目を洗う蛇口を噴水にして遊んでいたのだが、先生に早く着替えて帰るよう促され、ようやく更衣室に入ったが、そこでまた社長がまなっぷのスカート状のバスタオルを捲り上げたりと、いつまでも騒いで着替えない僕らは、流石に待ちきれなくなった先生に「さっさと着替えて帰れ!」と叱られ渋々(しぶしぶ)着替えてプールから出た。
冷えた体には、午後の暑さも、ぽかぽかと気持ちのよい暖かさに感じた。五分もすれば元の暑さに戻るのだが。
○
僕らは自転車にまたがり、社長が言う「面白そう」なところに向かった。もう額には汗がうっすらと浮かんできている。さっきまで「暖かい」と感じた空気は、今はもう「暑い」に変わっている。
「なあ社長。面白そうなところってどこ?川原?橋の下?廃車置き場?」僕は自転車を社長に並ぶように加速しつつ、思いつく楽しそうな場所を言ってみたがどれも違った。それも悪いほうに予想を裏切られた。
「お前ら町のはずれにある、ぼろ屋敷知ってるか?あそこに行ってみようぜ」
「ええ!あそこ?!あのぼろ屋敷はまずいよ!社長もきーやんもあの話は知ってるだろ?」
「ああ」と答えた。
そう、僕だって知りたいと思っているわけじゃないが、これだけ皆が話しをしていればどうしたって耳に入ってしまう。
その問題のぼろ屋敷は町はずれにあり、数十年前のいつ頃か良くわからないが、僕らが物心の付く前に残忍な殺人事件があってから、誰も住んでいない。だからぼろ屋敷になってしまったのだ。という話しが実しやかに噂されていた。
「だからその話が本当かどうか、俺たちが解くんだ。どうだ?楽しそうだろ?」
「楽しくないよ!どうして僕らが謎を解く必要があるのさ!」
残念ながら僕の意見もまなっぷと同じだった。この話しのどこにも「面白そう」な要素はまったく見つけられない。社長はこの話しのどこを聞いて「面白そう」と思ったのか?危険な噂の絶えない屋敷になぜ潜入しなければならないのかいくら考えても疑問だ。ましてや相手は殺人事件だ!僕らは少年探偵団でもなんでもない、怖くなった僕は社長に「やっぱり帰ろう」と提案したが「うるせっ!2人とも行くぞ!」と僕の意見にまったく耳を貸さず、自転車を漕ぎ続け、僕らは行く、行かない、の話しをしている間に問題のぼろ屋敷のすぐそばまで来てしまった。諦めずに「社長考え直せって」と言ってみたものの社長は聞く耳を持たず、自転車を止めるとずかずかと敷地内に入っていってしまった。
ここまで近くでぼろ屋敷をまじまじと見るのは初めてだ。「ぼろ屋敷」と一口に言っているが、実際は敷地内に建っているのは屋敷だけではなく屋敷前にはぼろ小屋もあるようだ。昔はニワトリかウサギかわからないが、小動物を飼っていたのであろうか、ぼろ小屋には破れた金網が直されることなく放置されたままの飼育小屋が設置されている。
その脇を進み、ぼろ小屋の入り口と思われる場所から中をを覗いていた社長が高揚した声で言った。
「おいっ!2人とも来てみろ!!見てみろよ!」
中を覗いたまま右手で僕らを呼んだ。
なんだなんだこの男は何を見つけたのか?まさか事件性のあるヤバいものではないだろうな。と思いつつも僕とまなっぷは、社長の言葉に引き寄せられるように、飼育小屋の脇を抜け、ぼろ小屋に駆け寄っていた。
少しだけ開いた入り口の隙間から中を覗き込むとそこには、白くてピカピカに磨かれた場違いなバイクがあった。
「おぉ!お宝だ!」
「うん!確かにお宝だ!」
僕ら三人はバイクに見とれてしまい、なぜバイクがそこにあるのかまでは考えが及ばなかった。というよりは、完全に思考が停止し何も考えられなかった。
その時、急にピカッと光り「ゴロゴロゴロッ!」と雷が鳴り響いた。
「うわっ!光った!」
夏の天気は変わりやすい。辺りが薄暗くなってきている事にも気づかずにいた。夏の午後はいつも決まって雷雨だ。
思わず僕らは振り返り、空を見上げ、内部でピカッと光ながら、もくもくとまだまだ成長している積乱雲を見つめた。すでに空の半分以上は灰色の雲で覆われている。
ぽつぽつと降り始めた雨は雷の音が大きくなるのと同時に、すぐにザーザーと雨足を強くした。強烈な雨がトタン葺きの屋根を叩き、壊れた雨どいは屋根から集まった雨を一箇所に集め、壊れた部分から滝のように地面に降り注いだ。ビタビタと音を立てながら地面の泥を跳ね上げている。
「あー…カミナ…だな…」
不意にぼろ小屋の奥の暗がりから声がした。雷と雨音でよく聞き取れなかったが、誰かが喋ったように聞こえた。僕らは恐怖で硬直した。
「な…だ…前ら。何し…る」
恐る恐る振り返り、薄暗い小屋の中を見渡すと、バイクの向こうに、白いランニングの、無精髭の男が雷の光で浮かび上がった。
「!!」
「うわーっ!」
慌てた僕らは、どしゃ降りの雷雨の中自転車を押し、あぜ道の泥を跳ね上げ、靴をどろどろにし、全身びしょ濡れになりながら一目散に逃げ帰った。
○
翌朝、ラジオ体操の時間が終わり、ハンコを貰った後
まなっぷにより真相が明らかにされた。
「じゃあ、あの家は人が住んでいるのか!」
「うん、お父さんはそう言ってた。白井なんとかって人が住んでるって」
「なら、殺人事件はどう説明するんだよ!あの髭の男は?!どうみても犯人だろ!」
「そう思って僕も聞いたんだ。そしたら、殺人事件なんてない!失礼な話しだ!とんでもない!って怒られたよ!なんで僕が怒られなきゃいけないんだよ…」
「ンだよーっ!殺人事件はーっ!」
社長にとって、まなっぷが親に怒られたことなどどうでも良いようだ。「殺人事件ー!」と言っているが社長だって本気で事件を望んでいるわけではないだろう。真相を知って、残念がると言っては不謹慎だがちょっと強がっているだけなのだ。
「よし!朝飯食ったらもう一度集合な。遅れるなよ」
「ええ!」
またなにか思いついたようだ。僕はいいが、例により約一名が渋っている。
「朝ごはんの後って九時前じゃないか。十時前に外出したら…」
「いいから!面白そうなこと思いついたんだって!」
夏休みの規則では十時前の外出を控えるよう注意している。まなっぷはそれが気になるらしい。
そして、また社長の「面白そう」が出た。
「面白そう」なだけで、本当に「面白い」かどうかはやってみなければ判らない。でも僕らはそんな「面白そう」な話しに、毎回のっている。二十回に一回くらいは「面白い」ことに出くわすからだ。
今回の企みは大体予想できる。その白井なんとかさん家に行こうとでも言い出すのだろう。
「もう一回行ってみようぜ」
ほら。予想通り。でもこの一言が、後に起きる不思議な出来事に遭遇させてくれることまでは予想できなかった。
○
朝食を終えた僕は集合場所にした駄菓子屋の前にいた。その駄菓子屋の前はバスの停留所になっており、僕は待合用のベンチに座り社長とまなっぷを待った。
ベンチに座ったままで、駄菓子屋の入り口に設置してあるガチャポンをボーっと眺めながら、「次のガチャポンはアタリが出るかもなあ」などと考えていた。
しばらくすると、長いヒモの付いた懐中電灯をたすき掛けにした社長が、昨日の雷雨で泥んこになった自転車に乗ってやって来た。「汚い自転車だな」と思い自分の自転車に目をやると僕の自転車も泥んこだ。
「まなっぷは?!」
「まだ来てない」
「あいつ、遅れるなって言ったのに。まなっぷ!」
今来たばかりの社長は、自分のことは棚にあげて、まなっぷの遅刻は許せないようだ。
「そう言うなよ社長。十時前だとまなっぷも出づらいんだろ」
「んん仕方ないなー」
そう言って社長は僕の隣に座り落ち着いた。そしてガチャポンを見ていた社長が「このガチャポン。次にアタリとか出るんじゃね?」ボソッと言った。
十分ほど待つとまなっぷが来た。やはり、ばあちゃんの見張りがキツく外出しづらかったらしい。午前中はどうしても監視の目がきついので仕方がない。
「で、社長。どうするんだ?」
僕は昨日の反省から、きっとなにか考えていると思い聞いた。
「別に。そーっと忍び込む」
まさかのノープランだった。
「えー、昨日は怒られなかったけど、今日は判んないぜ」
「なんだよ、じゃあきーやんは良い考えがあるのかよ?」
「ない…」
「まなっぷは?」
「…」
慎重な協議の結果、僕らはまたしてもこっそり忍び込むことになった。
昨日の反省から、今日は自転車をぼろ屋敷から百メートルほど離して止めることにした。
そこは道の分かれ道で少し広くなっており、自転車を止めておいても通行の邪魔にはならない場所だが、雑草がひどく生い茂っていた。幸いな事にぼろ家の方からはちょうど目隠しになりそうだ。
今日は小さな虫が妙に多く、僕らの周りを「プーン」と飛んでいる。「雨でも降るのかな?」と僕は思った。
反省が活かされたのは、自転車を遠くに止めることと、こそこそと小さくなって歩くことぐらいだ。こそこそと小屋の入り口まで来た。細心の注意を払い、息を殺して、昨日と同じ隙間から中を覗いた。中には昨日と同じくやはりピカピカに磨かれたバイクが止めてあった。
昨日と違ったのは、男がこちらに背を向けバイクの前で仁王立ちしていた。その右手にはトランペットが握られている。
「いらっしゃい」
僕らは黙ったまま、お互いに顔を見合わせた。男は僕らに話しかけたのだろうか。まさか?うしろ向きで?
「遠慮してないで入れ」
また顔を見合わせた。さすがの社長も額に汗がにじんでいる。まなっぷにいたっては、青ざめて倒れそうだ。多分僕も冷や汗をかいているのだろう、垂れた汗が眉毛を乗り越え目に入る。
「おい。お前ら聞いてるか?」
男はどうやら僕らに話しかけているのに間違いない。僕ら三人は覚悟を決めて、立て付けの悪い木製の引き戸を「ガタガタ」と開け中へ入った。男は振り返り「やあ、今日も来たな」と言った。昨日の雷が鳴る薄暗い状況でもしっかり顔を見られていたようだ。
「あのー…どうして僕らが来ると判ったんですか?」
直立不動の僕の質問に男はこう答えた。
「んーっ、その前にこんにちは、お邪魔します。だよな?お前らあいさつもろくにできんのか?」
少し怒ったような口調に「こ、こんにちは!お、お邪魔します!」と僕らは半ベソで答えた。
「あのな。虫の知らせって知ってるか?まあなんだ、お前ら来るのが畑から見えた」
男が指さした家の前にはキュウリとピーマンなどが一列ずつ並んだ小さな畑があった。確かにあの畑からなら僕らが置いてきた自転車まで見渡せる。でも雑草が目隠しになって、相当目が良くても見えないと思うが、この男は目が良いのだろう。
もしかして、視力が五・〇くらいあるのかもしれない。
僕らは、見つかっているとも気づかずこそこそと歩いて来たのだ。昨日の反省を活かす作戦だったはずなのに、作戦は完全に失敗だ。この男の視力の良さまでは計算できなかった。
それにしても虫の知らせとはなんだろう?
「で?なに?何か用?」
男は当然と思える質問を僕らにした。
「あの…バ、バイクを…見せてもらいたくて…」
社長がかすれかすれではあったが、やっとのことで声を出した。
「バイク?あーバイクね。どうぞ。コケないように気をつけて見な」
今の今まで来た事を後悔していたのに、予想外の言葉にビックリした。だが僕らは、持ち前の忘れっぽさで、後悔していた事を忘れ、良く言えば前向きな精神で、バイクに走りよった。バイクは遠くから見た以上に綺麗にピカピカで、タイヤのスポークまで磨かれている。
まじまじと見ていたが、男が「またがってみろよ」と言ってくれたので、僕らは遠慮なくまたがってみた。まるでテレビヒーローになったような気分で、行く先々で爆発する爆弾を見事に避けながら疾走する姿を妄想し、バイクに突っ伏してみた。
僕らがまたがっても、子供一人分サスペンションが沈んだだけで、ほとんど揺れることもなく、そのとき本物のバイクがこんなに重いものだと知った。
どのくらい経ったのか、町の公民館前に立っているスピーカーから正午を知らせるチャイムが鳴り、今度はちゃんとお礼を言って帰った。
自転車を止めた分かれ道のところまでの足取りは来る時とは違いどことなく軽やかだった。
「いい人だったな!」
「うん。いい人だった。社長、犯人とか言ってなかった?」
「言ってた言ってた」
「ばーか、言ってねーよ!二人とも適当なこと言うんじゃねえよ」
自転車まで歩きながら会話をしていた。僕は今年の夏休みは楽しくなりそうな気がしていた。僕らは自転車につくと午後のプールの約束をして解散した。
不思議と自転車の周りには、来るときには飛び回っていた虫がいなくなっていた。
ラッパのおっちゃんは、帰り際に「いつでも遊びに来いよ」と言ってくれた。
僕らは「白井さん」ではなく、衝撃的だったトランペットを持った後ろ姿から、安易に「ラッパのおっちゃん」と呼び、夏休み中遊びに通うことになった。
○
通っていくうちに、ラッパのおっちゃんのことが色々とわかってきた。
おっちゃんの格好は、初めて会ったときと変わらず、白髪混じりの長髪と無精髭、白いランニングシャツにラットズボン。ベルト代わりに黒い帯紐を締めている。草履を履き、畑仕事のときにだけ長靴に履き替える。僕ら以上に自由人らしく、午後にならないと起床しない。職業は多分農業。結婚はしていない。
年令は不詳だが、僕と社長の父親を「シンキ、ノブオ」と呼び捨てにしていることから二人の父親よりは上だが、まなっぷの父親は「タカユキさん」と「さん」をつけるので、まなっぷの父親よりは下だろうと予想できた。
それから町の人の間では「変わりモン」と言われていること。こんな町はずれで、ぼろぼろの一軒家に一人で住んでいるのだから変わりモンと呼ばれる資格は充分に満たしていると思えた。
家の前の小屋には僕らの好奇心をかき立てる、普段の生活の中ではお目にかかれないアイテムが数多く並んでいた。もはや「ぼろ小屋」ではなく、僕らにとっては「宝小屋」であった。ただ、地面はコンクリート敷きではなく土間だったため、何気なく座ると非常にお尻が汚れた。また、割れた窓ガラスをガムテープで貼って補修してあったり、建てつけの悪い小屋の引き戸は、ときたま開閉できず開かれっぱなしになっていたりした、その点では間違いなくぼろ小屋と言えた。
だが、ピカピカのバイクとラッパもそうだが、おっちゃんの生活とイメージの結びつかない物ばかりだった。
なんと言っても、僕らの興味を一番引いたアイテムが「エアガン」で、一番農家の小屋には似つかわしくないアイテムだった。
いわゆる「鉄砲」と呼ばれる形状ではなく「ライフル」形状で、プラスチックの丸い弾の換わりにバドミントンのシャトルを五ミリ位に縮めたような小さな鉛製の弾を発射することから、子供向けの玩具ではないことは僕らにも理解できた。
「ピシユ!」鋭い射出音とともに発射された鉛弾は「キャコンッ!」という音とともに五メートルほど離れて棚に並べた、水の入ったジュースのスチール缶を弾き飛ばした。
缶は、弾の直撃した場所とその真裏の場所からダーダーと水がこぼれた。「スゲーッ!ぶち抜いた!」その命中精度とスチール缶を貫通してしまうほどの弾の威力を見て僕らは驚嘆の声を上げた。
おっちゃんは、絶対に僕らに貸してくれなかったが、その尋常ではない威力から僕らも借りて玩具にしてよい物ではないと感じた。
農業の前は猟師でもやっていたのだろうか?
ホワイトガソリンと呼ばれる燃料を使用する照明器具、ランタン。燃料タンクは殺虫剤の缶を縦に押し潰したような形と大きさで、燃料の注ぎ口横に付いた細長い棒状のポンプを何度も出し入れすることで内圧を高め液体の燃料を気化させ使用するらしい。おっちゃんは調子の悪いポンプを「シュコシュコ」と一生懸命出し入れしていた。内圧が上がらず、燃料はなかなか気化しないようだ。
「いいかよく聞け、ここでしっかり圧力をかけてやることで、気圧と気温の低い冬山での使用も出来る!覚えておけよ、使用するときに困らないようにな」
「うん。わかった」と返事をしながら見ていたが、この先の人生、ランタンを使う機会はあるだろうが、これを冬山で使う場面はちょっと想像できない。しかもいざという場面で今のようにポンプの調子悪かったら…でも、一生懸命説明するおっちゃんを見ているとそんな場面があるかもしれないと思えてきた。
そしていよいよ、僕は、あのピカピカに磨きこまれたバイクに乗る機会がやってきた。
今日も、僕らはラッパのおっちゃん家、正確には小屋に来ていた。既に定位置となった小屋の脇に自転車を止め、建てつけの悪い引き戸を開け、ピカピカと輝くバイクを見ながらおっちゃんが起床してくるのを待っていた。おっちゃんを待っている時間は、「今日は何を見れるのだろうか?」という期待する気持ちと「起きてこなかったらどうしよう。午後の部のプールに行ったほうがよかったかも」という不安な気持ちで軽く葛藤をするのだが、起床して頭をぼりぼりとかきながら、小屋に入ってきて「お。今日も来たな」と言ってくれた瞬間に「待ってて良かった」と思えたのだ。
「お前ら毎日毎日来るのは良いが夏休みの宿題はちゃんとやってるのか?」と今日に限って気になる事を言われた。僕と社長は蚊の鳴くような声で「うん」と答え、小さくうなずくだけだったが、まなっぷだけは「大丈夫!午前中プールに行く前には“夏友”やってるよ」と宿題に不安のなさそうな、模範的な返事をした。“夏友”とは勿論「夏休みの友」のことである。でも、言い訳ではないが、夏休みの前に校長先生は「夏休みにはプールで遊んで真っ黒になって、そして、二学期には元気に登校してきてください」と言っていたではないか。
宿題の事もちょっとは言っていた気はするけど…
続けておっちゃんは「毎日バイク見てて飽きないか?どうだ乗ってみるか?」と言ったのである!僕らは「乗る!」と息を吹き返し元気に答えた。「よし!なんだ元気になったな?ただし条件がある」と言った。その条件とは庭の草むしりであった。今の僕らにはお安い御用だったが、おっちゃん曰く「何かが欲しければ、それに見合った代償が必要」らしい。で、バイクに乗るには庭の草むしりなのだそうだ。
小一時間ほどで庭の草むしりは終わったが、正直畑が家の前にあるせいで、庭の分なのか畑の分なのか境界が分からなかったが、おっちゃんが「よし」と言ったのだからいいのだろう。そこから、手を洗い、順番にツーリングに連れて行ってくれると思っていた。ツーリングと言ってもせいぜい街中を一周する程度だろうが。
なぜかおっちゃんは「お前ら良く見てろよ」と言っておもむろにドライビング教室を始めた。どうやら自分で運転するようだ。
願ってもないチャンスだが、僕らの愛車はまだ自転車でおっちゃんの言っている意味がわからないことだらけだった。「これがセルで、こっちがクラッチ。エンジンがかかったらこのクラッチを切って、この左足のステップでギアを入れたらゆっくりアクセルを開けながらクラッチを繋ぐんだ。ゆっくりな」もう理解が出来ない。
「やってみろ」
実際にバイクを渡されハンドルを握るとその重量にビックリした。こんなもの倒したら自分で起こすのは無理だと思った。しかしおっちゃんの見よう見まながらもバイクにまたがりセルを押した、「キュル」と軽い音がしたあと「ブオン」とエンジンがかかった。
僕は自分でエンジンをかけたのかと思うと、いいようのない感激に包まれた。しかしまだ走り出したわけではない。おっちゃんの講習を思い出しながら「アクセルを開けながら、クラッチをゆっくり…なんだっけ?」その瞬間「フォン」とエンジンが鳴り、バイクがガクンとしてエンジンが切れた。クラッチを繋ぐタイミングが悪かったらしい。二度目はクラッチの繋ぎ方も成功し、そろそろと走り出した。今のところ爽快感はない。走り出してみるとあの重さも消え失せて、そのシ車重が逆に安定して走る事に貢献している。「よし!そのまま道路に出てみろ」とおっちゃんは言ったが、「道路に出ていいのか?」ととっさに町とは逆の方向の道路に進んだ。砂利道が続く、田んぼ道だ。このまま行けば河川の土手まで行けるがどうしたらいいのかわからず、暫らく道なりに進むと後ろから「ビィーン」という音がして、おっちゃんが五十シーシーの原付バイクに乗って追いかけてきた。
そういえば、いつもはこのピカピカのバイクに見とれていて気にも留めなかったが、このバイクの陰に隠れて止めてあった。「あのバイク動いたんだ」などと考える余裕も出てきて、僕に並走したおっちゃんが「おい。そのまま土手まで行ってみよう!」と叫んだ。「それからギアを上げるのを忘れるな!ずっと低速で走ってるとエンジンが焼き付いちまう!」とも言った。
おっちゃんの言われるままに1速から2速3速とギアを上げてみた。バイクは「フォーン」という気持ちのいい音と共に加速した。おっちゃんの原付バイクは「ビィーン」とつらそうな音を上げやっとやっと着いてきている。
土手に着いた僕は、道端にバイクを止め、バイクの気持ちよさに感動していた。少し遅れて到着したおっちゃんが隣に止まり「どうだ?気持ちいいだろ?」とにやにやしながら言った。こくんとうなずく以外に返事のしようがなかった。おっちゃんは、たたみかけるかのように「この土手、バイクで降りてみようか」と無理な注文を言った。しかし僕は、ここまでバイクを乗りこなしてきた。と調子に乗って土手を降りてみる事にした。
土手をバイクで降りることにまったく意味はなかったのだが、成功したら「格好いい」と思っただけなのだ。
実際に土手の下を向きバイクを止めてみると、結構急で、かなりの恐怖感がある。僕は意を決してバイクを進めてみた。「ガタンガタン」と揺れたが、バイクのサスペンションが揺れを吸収してくれた。「意外と平気だ」と徐々に加速したバイクが下まで残りわずかという所で、草の陰に隠れていた大きな石にぶつかり、前輪が石を乗り越えられず、前のめりに突っ込み前輪のサスペンションが大きく沈み込むのと同時にの後輪が浮いたのがわかった。「あっ!!」咄嗟に声が出たが僕の体はバイクごと前転しそうになっていた。
慌てた僕は、自転車のブレーキ感覚で左手のクラッチを何度も握っては切り、アクセルを握っている右手は勢い良くひねってしまった。その瞬間バイクのエンジンは「ガォーン!」とすごい唸りを上げ「ガコン」と前輪は石を乗り越えた。そのまま前に出て、浮いた後輪が地面についた瞬間左手はクラッチを離し瞬間的にギアのつながった後輪は「ガガガガ」と勢い良く地面を掘った。着地と同時に着いた左足を軸にしてコンパスのようにバイクは回転し、後輪が地面に半円を描くと「ブスンッ」とエンジンが停止した。
「大丈夫か?!」おっちゃんは原付バイクを土手の上に転ばしたまま、すごい勢いで駆け下りてきた。「うん!大丈夫!」とは言ったものの腕も足もガタガタと震えている。自信はないが、多分怪我はない。「転ばなくてよかったよ!!凄いバランスだったな!!」正直自分でもどうやったのかわからないし、もう一度やれと言われても出来ない自信がある。
バイクを広い方に動かし、おっちゃんに手伝ってもらい、バイクを止め、エンジンを見てみた。「キンキンキン」とすごい熱気で顔を近づけると熱い。エンジンが焼けているのがわかったが、何かが吹き零れている様子もない。逆さまになってアクセルを開け「ガォーン!」とエンジンが吼えた瞬間、黄緑色の“もや”らしいものが目の前を飛んだので、エンジンが壊れ何か内容物が飛んだのかと思ったのだが…特に変化はないようだ。エンジンが少しさめる頃に落ち着きを取り戻した僕は、再びおっちゃんと並走しながら家に戻った。
おっちゃん家では「二人とも遅せーよ!!今度は俺の番だ!」と社長とまなっぷがご立腹で待ちくたびれていた。
○
僕らは町の人がなぜラッパのおっちゃんのことを「変わりモン」と呼ぶのか、良くわからなかったが時折変なことを言ったりはした。
「痛い痛い!おっちゃん痛いよ!」僕の肩を揉んで、肩甲骨の辺りを親指で押して「うーん。最近の子供たちは勉強が大変だからかな?大分肩がこっているな。あと、シンキ…お前の親父さん椎間板ヘルニアで腰痛いって言ってたな?お前も同じ骨格だ。気を付けろよ」僕は別に肩もこっていないし、腰も痛くはなかったのだがおっちゃんは整体師もやっていたのだろうか?第一に僕の父親の骨を触診でもしたことがあるのだろうか。なぜ同じ骨格だと言えるのか?そりゃまあ親子だから同じような骨格だろうが…。
それから、おっちゃんは健康には相当注意しているようで、それは僕らへの健康講座といいう形で周知が図られた。
僕らを壊れそうなイスや林檎などを入れるプラスチックのコンテナを裏返しにして、座らせては「いいか、煙草は体に悪い!絶対に吸うなよ!イタズラでもダメだ!煙草にはニコチンとタールが含まれていて、吸うと肺の肺胞という部分が…」と切々(せつせつ)と煙草の有害性を説いて聞かせた。
でも僕らは、小屋の奥の部屋には、銘柄はわからないがタバコの”空き箱“が山ほど散乱しているのを知っていた。なので、おっちゃんの言葉にまったく説得力を感じなかった。
またある日は、畑仕事中に一人で笑いながらうんうんとうなづいていた。「どうしたの、おっちゃん」と聞いても「いやいや。面白い事言うからな、つい笑っちまった」と意味不明なことを言った。おっちゃんは畑の野菜たちと話しでもできるのだろうか。
○
今日も朝から気温の上昇が激しく午前中から猛暑になった。
僕と社長とまなっぷは、午前中の決まりごとになっていたプールの帰り道、自転車を並走させながら午後の相談をしていた。
さすがに一週間ぶっ通しでラッパのおっちゃん家に行けば、僕らもちょっとは遠慮しようという気になった。
「おっちゃん家も面白いんだけど、俺ちょっと面白そうなこと見つけたんだよ」
社長はプール帰りに買ったジュースを自転車のかごから取り出し手放し運転で「ゴクリ」とやりながら言った。
また社長の「面白そう」がでた、と思ったが、おっちゃんとの出会いも社長のおかげだ。少し期待してしまうのは当たり前だと思う。社長は僕とまなっぷにその案をいかにも面白そうに語った。例により一名不安な顔をしているが知らんふりで社長は話を続けた。
「ほら、最近プールからの帰り道色んな場所に顔のポスターが貼ってあるだろ(明日の国民のために)とか(皆さまの一票が未来を変える)とか書いてあるポスター」
確かにここ一週間で、変なポスターが設置されている。最初は数字が書いてある板だけだったが、二、三日で一番から順に埋まっていって、今では男性と女性のポスターが、十三番まで貼られている。それがどうしたと言うのだろうか?多分僕らには関係のないものだろう。
「あれな、実は“りんごの木の枝”で勢い良く叩くとなあ、ピシュッってまっぷたつに斬れるんだぜ。スンゲー気持ち良いの」
なぜりんごの枝と言ったのかちょっと気にはなったが「絶対いやだ」と言いそうなヤツが喋る前に、僕は「じゃあそれに決定。午後のプールの後で良いよな」とその場を仕切って午後の行事を確定させた。「ええー!やだなあ」やはり一名の反対者が出たが、僕は「うっせ!まなっぷ!」と、僕らの、言ったモン勝ち、押し切ったモン勝ちのルールを遂行した。
集合場所はお昼ごはんを食べ終わると、庭の物干し竿に干した海水パンツとバスタオルはぱりっと乾いており、少し熱いくらいだ。干していない海水パンツや生乾きのものは、最悪の匂いと履き心地だと僕は思っている。それにしても暑い。昼食時に飲んだ麦茶が汗となって流れでる。
手早く取り込み、プール袋につめると自転車のかごに放り投げ、集合場所にした公園に行くともうまなっぷが来ていた「暑すぎるな!」まなっぷと並び、ポプラの僅かな日陰に入り社長を待った。
「おーい!」と社長が立ち漕ぎで来た。「キーッ」自転車の後輪をズザーと滑らせて目の前で止まった。
「やばい!やっちまった!」
「なにがやばいの?なにをやっちまったのさ?」
かごから取り出したプールバッグをまなっぷに突き出した。
「まさか干さなかった?」
「ああ!忘れた!」
突き出した透明のビニール製のプールバッグの内部は、海水パンツとバスタオルから蒸発した水分が細かい水滴となってビニール袋の内壁を白く曇らせている。
「うぇー。それ絶対生ぬるくて、臭いよ」と、まなっぷと僕はあの気持の悪い履き心地を思い出し不快感をあらわにした。「うっせー。プールに入れば同じだ!早く行こうぜ。暑くてしょうがねえ」と言っているし、まあ、本人が気にしないなら問題ない。僕らはまた二十分かけて学校のプールへと向かった。でも、更衣室で社長は「臭っせー!気持ワリー!」と大騒ぎだった。
僕らはこの後の予定を考え一時間で上がろうと約束したのだが、プールの魔力か、それとも僕らの意志が弱いのか、一時間の予定が二時間も入ってしまい、結局十五分の休憩時間までプールで遊んでしまった。
休憩時間で一呼吸おいたことで、この後の予定を思い出した僕らは、珍しく静かに、そして手早く着替えを済ませた。
自転車のかごにプールバッグを放り込んだ僕らは、まず、社長の言う“りんごの木の枝”を拾いに行くことにした。
りんごの木の枝はプールの帰り道にあるりんごの果樹畑で入手できる。
自転車を走らせ、五分も経たないうちに果樹畑が見えてきた。
果樹畑の脇まで来た僕は「社長。どの枝だよ?」と聞くと「これだ」と社長が拾ったのは地面に落ちている細長い枝だった。社長のいう“りんごの木の枝”とは太く育った立派な枝の事ではなかった。剪定されたりんごの「若枝」のことで、僕らはそれを簡単に拾う事ができた。若枝は長さが五十センチほどで、一番太い根元の部分で太さが一センチくらいで、先に行くほど細くなっていた。若枝とはいえさすがに果樹の枝だけあってすごく丈夫で僕らが力を入れて振っても折れることなく、“ムチ”のようにしなってピュンッと空気を切り裂いた。
僕らは果樹畑でお目当ての“りんごの木の枝”を手に入れ、次の目的地「ポスター掲示板」へと向かった。掲示板は五百メートルから二キロメートルおきにまばらに設置されていたが、道路沿いであったり、道路幅の広くなっている場所であったり、共通しているのは、どれも道路の脇に立っており、僕らは苦労することなく近づく事ができた。
りんごの枝を拾って三分で一つ目の“獲物”が見えた。掲示板まで十メートルと言うところで先頭を走っていた社長は、左腕で、僕とまなっぷに止まれと合図し止らせた。
そして振り向き、ニコッと笑いながらこう言った。
「おい!見てろ!俺が手本を見せてやる!」
そう言った社長はそれまで右手に持っていたりんごの枝を左手に持ち直すと、大きく振り上げ自転車のペダルを踏み込み加速させた。僕とまなっぷはそこで立ち止まり社長の様子を見ていた。
加速させたまま掲示板とすれ違いざまに振り上げた左腕を勢い良く横から振りきった。ポスターからはピシュッと音がして、社長はキーッと自転車のブレーキをかけ自転車はズザーッとタイヤを滑らせて止まった。社長は「成敗っ!!」と、なにやら時代劇の雰囲気たっぷりに言った。
その台詞が言い終わると同時に、まんなかから横一文字に切られたポスターの下半分は、上の支えをなくし、ピラっとバナナの皮を向いたようにめくれ、下の画鋲に支えられお辞儀するかのように止まった。
残された上半分には鼻から下を失った男性の顔が、それでも笑っているような目でピラピラと風にはためいていた。「おぉ!」僕とまなっぷは何ともいえないその格好良さに、不覚にもしびれてしまった。
「見てたか?やってみろよ。スンゲー気持ち良いから」
「でも怒られないか?」
「大丈夫だろ。風で切れてるポスターとかもあるし」
「そうだな。まなっぷやってみよう!」
まなっぷに声をかけたときにはもうまなっぷはポスターの前でピシュッとやっていた。
「きーやん、これ!気持ちいいよ!」
珍しくまなっぷが乗り気だった。まなっぷは毎日午後五時からやっている「痛快時代劇劇場(再放送)」を観ていると告白した。何となく納得した。多分印籠を出しては事件を解決してしまう正義の時代劇ヒーローにでもなった気分なんだろうと思った。
まなっぷは右手に持ったりんごの枝を左脇に抱え、「はっ!」と居合いの真似事でポスターを切っている。
掲示板は一箇所につきポスター十三枚も貼ってあるのだから、切り放題だ。五枚ほど切ったところで“こつ”をつかんだ。
力任せにポスターを叩いても、枝の先端がぶつかったところだけが破れるか、まったく切れないこともあった。“こつ”は、掲示板とポスターの隙間の少し浮いた場所を狙って、横からシュッ!とやるのだ。それからあまり上のほうを切ってしまうと、ポスターがピローンとめくれてしまい上手く切れない。
それにしても、このシュっと切れたときの快感はなんだろう。一瞬の間があって、ポスターがピラっと前に崩れ落ちる感覚がたまらなく気持ちが良い。
「そりゃ!」「タァーッ!」「死ねッ!」と思い思いの台詞を言いながら僕らは切りまくった。すべてのポスターを切り終わると、次の“獲物”を求めて愛車の自転車にまたがった。
「よし!次にいくぞ」
「おし。次だ」
僕らは、正義の味方気取りだったはずが、いつの間にかポスターを切りたいだけのアウトローになっていた。
僕らは、家に帰るまでに二箇所の掲示板を“成敗”というより蹂躙し、三箇所目の掲示板を“成敗”しているときだった。「おいお前ら!何してる!」とふいに声をかけられた。
聞きなれた声に振り返ると、白いバイクに乗ったラッパのおっちゃんがいた。「おっちゃん!いつの間に!」バイクの音は気付かなかった。「ここは天下の往来だ。俺が走っててもおかしくはないだろ。お前ら、そんなことして後が楽しみだ」と気になる捨て台詞を残して商店街の方に走り去って行った。
僕らはその一言で我に返った。流石にやりすぎたと思ったがもう遅かった。掲示板のポスターは、一枚残らず切ってしまい、大半がペロンとめくれうなだれている。中には画鋲とその周辺部分を三角形にわずかばかり残して、地面に落ちているものもある。
「どうしよう…どうしよう…」
ポスターに負けずにうなだれている者が一名いた。まなっぷだ。普段は僕たちを止める役なのに今日は一番ノリノリだったのに、ひどい狼狽振りで、おっちゃんの一言だけでもう顔が青ざめている。
「まずいよね…叱られるんじゃない…」
「まなっぷ!びびりすぎ!お前が一番切ってただろ!」
「だって…」
社長の言うとおり、まなっぷが一番張り切っていたではないか。何を今更。とも思ったが僕は言わなかった。これ以上言うと泣き出しそうになっていたから。
これ以上の続行は無理と判断した僕らは、それまで大事に携帯していたりんごの枝を、掲示板の裏に捨て、帰る事にした。
「まなっぷ!大丈夫だ。心配するな!俺達がやったのを見たのはおっちゃんだけだ。ばれないから安心しろ!」
「社長のいう通りだといいけど」
「でも面白かったな!」
社長は一切心配していないようだった。
僕の右手はりんごの枝の薄皮がこびりつき、滲み出た樹液で手がべたついて早く手を洗いたかった。
その日の夕方僕ら三人は親と一緒に公民館に呼ばれた。そこには警察のパトカーが止まっていて、僕が親に連れられついた頃には社長とまなっぷがいた。
社長はうつむきながらも、僕をみつけうつむいたまま、左手だけで「よう」とあいさつした。まなっぷは既に「ごめんなさい」と泣きながら謝っている。
そのただならぬ雰囲気に、なぜ呼ばれたのか、このメンバーを見て一つしか思いつかなかった。あのポスターのことだろう。僕は社長に右手でりんごの枝を振り下ろすジェスチャーで尋ねると社長も頭を「うん」とした。
あのポスターは、なんとか選挙の立候補者のポスターで破ったりすると、なんとか選挙法という法律で逮捕されるらしい。
それを聞いた僕も焦ったが、今回は子供のしたことでもあるし、全部で破られたポスターも“十三枚”と各候補者一枚ずつなので、厳重注意ということで、事なきを得た。が、僕と社長は公民館の和室で正座させられ、それぞれの親に「このばかたれが!!」と頬っぺをどっちに行った?!というほどびんたをされたし、一年分くらいまとめて怒られた。
でも、なぜ僕らがやったとばれたのだろうか?
まっさきにおっちゃんのことを疑ったが、おっちゃんは「俺は知らん、誰かに見られてたんだろ?」と言っていたし、警察の人も「女の人からの通報で、オレンジ色の服を着た少年が…」と言っていたし、僕と社長のことを喋ったのは、実際まなっぷだった。逮捕と聞いて怖くなってしまったらしい。あの日まなっぷは、派手なオレンジのTシャツを着ていて目だった。「ばか!そこは友達を思うなら知りません。だろう?」と社長は勝手な事を言っていたが、社長でも僕でも多分喋ってしまっただろう。わからないのは“十三枚”しか破られていなかったことだ。最低でも三箇所は切ってまわったし、警察が見落としたとは考えられない。ポスター事件は謎が残ってしまったが、逮捕もされず、破ったポスターも枚数が減っていたし、何ともラッキーだった。
○
「はぁはぁ、きーやん!!まなっぷ!!大変だ!!」
珍しく、午後のプールにも行かず、まなっぷ宅の広い庭に建っている「蔵」の中で読書をしている時だった。もちろん、活字の並んだ文学書などではない、翼竜や妖精が当たり前に生息する架空の世界で、激しい戦いを繰り返す魔法騎士の「漫画」だ。僕とまなっぷは、午後の暑さを避けて、まなっぷ宅の「蔵」にいた。土蔵造りのため、外壁が厚く、外の暑さを通さず、快適に読書をすることができた。この暑さを回避できるだけでありがたい。少し埃っぽく、お漬物の臭いが漂っているのは仕方ないだろう。自宅では扇風機を回しても、いやな生ぬるい風が送風されるだけで読書どころではない。それを考えれば埃っぽいことや臭いなど“まし”と言える。
そんな快適な読書タイムをぶち壊すかのように息せき切って社長が飛び込んできた。「ガシャガシャン!」と外で音が響いたことから想像すると、自転車のスタンドを立てている余裕もなかったのか、立てる気が無かったのか、自転車が倒れたのだろう。
「どうした社長!何があった?!」
「大変だ!一小のやつらが攻めてきた!!」
「一小?何のために!」
「野球やるからお前らグラウンドを開けろって言ってやがる!」
「そんな馬鹿な!一小近くにだって野球の出来るグラウンドくらいあるだろう!」
「俺に言うなよ!知らねーよ!」
一小とは、町立第一小学校のことである。僕らの町は、大きく七つの地区に分かれており、小学校も地区に一つで、僕らは町立第六小学校に通っている。中心市街地に近いほうから第一小学校、市街地から一番遠い地区が第七小学校になっており、第六小学校の僕らは随分山際に近い小学校だ。一小のやつらは山際に近い六小や七小の生徒を馬鹿にしているのが僕は気に入らなかったし、そんなやつらと仲良くなんて出来ない。
「今、秀坊達が戦ってる!」
「よし!まなっぷ行こう!」
僕の呼びかけに予想通りの反応が返ってきた。
「ええ!やっぱり僕も行くのか…」
「ばか!グラウンドとられてもいいのか?!」
「それは困るけど…」
いつもの通り乗り気ではないまなっぷを無理やり引きつれ、僕らは自転車に乗って公園のグラウンドへ向かった。それにしても暑い。一小のやつらはこんな日に野球をやるつもりなのか?少しだが、こんな炎天下で野球はやらないよな?一小のやつらにくれてやってもいいか、などと考えてしまった。
第一、野球をしたいからと、こんな遠くまで遠征してくる一小の行動も理解できない。
このような真夏日の午後はプールと、大体の相場は決まっている。何も好き好んでこんな日に来なくても良いだろうに。今日でなくてはならない理由でもあるのか。今日、野球をやらないと死んでしまうとか?
そんなやつはいないだろうし、そんな病も存在しない。
「やってる!」
社長が右手で指した方を見ると清たちがグラウンドの中に、一小のやつらがバックネット裏に陣取り、あろうことかお互いに投石している!古代ギリシアの戦闘シーンでも見ているかのようだ。いくらなんでもエキサイトしすぎだろう。
僕らは、グラウンドのずいぶん手前から迂回し、グラウンドの一番奥に流れる幅二メートルほどの川の方から進入することにした。その川はコンクリートブロックで護岸されていて、高さも二メートルほどだが、砂利が溜まり水は十センチほどの深さで流れている。河川レベルではなく小川クラスの小さな川だ。
しかし道路と平行に流れており、ホームランを打つと、飛びすぎたボールが流されたりする。誰が設置したものかわからないが、古い木製電柱を二本並べた橋が架かっていて奥からグラウンドに入ることができた。飛んでくる石に注意しながら清たちと合流した。
「清!なんでこんなことになってんだ!石を投げたら危ねえだろ!!」
社長は石に注意を払い、清の方を見ることなく強い口調で尋ねた。
「わかんねえ!秀が投げたらこんな風になっちまった!」
どうやら秀坊が原因らしいことはわかった。
「ひ・で・ぼー!!」
相変わらずバックネット裏から飛んでくる石に注意しながら叫んだ。
「あん?なにー?正弘くーん」
社長の呼びかけに秀坊はなんとも間の抜けた返事をした。
「秀坊!お前が石を投げたのか?」
「そーだよ、だってあいつら口で言っても帰んないんだもん!」
「ばか!だからって石は危ないだろ!」
「大丈夫だって。当たんないから」
そう言って秀坊が社長を見たときだった。弧を描きながら飛んで来た親指大の石が秀坊の左のこめかみに直撃した。秀坊は「うっ」とうめき声を上げると、こめかみを押さえ、その場にしゃがみ込んでしまった。「秀っ!」僕らは走り寄った。一小のやつらも
その様子を見ていて、一瞬たじろぎ、投石はやんだのだが、秀坊がすぐに立ったのを確認すると再び石を投げ始めた。
「待て!一人負傷した!やめろ!」
「うるせえ!立ったじゃねえか!時間稼ぎはやめろ!」
社長が大声で休戦を申し込んだもののあっけなく決裂した。投石は秀坊に当たる前よりひどくなった。実際秀坊はたんこぶになっていて痛そうにしていた。
「時間稼ぎじゃねえ!とにかくやめろ!やめろって!」
社長が叫んだ瞬間だった。ブワッっと強烈な風が吹いたかと思ったら、グラウンドに置きっ放しになっていたグローブやボールをグラウンドの砂ごと巻き上げた。
それと同時に一小のやつらのボールやグローブも同時に巻き上げ、百メートルくらい上がって小さくなったと思ったら急に落下し始め、グラウンドの外をながれる川に「ドボッ、ドボンッ」と次々と落ちていった。
その場に居た全員がそのおかしな風のせいで野球の道具がすっかり水浸しになってしまい、野球どころではなくなった。
○
今日も今日とてプール通いの僕らだ。
すっかり肌も小麦色に焼け、というより既に小麦色など通り過ぎ、ビターチョコレート並の黒さになって、焼けていないのは多分、海水パンツをはいているおしりの部分くらいだろう。
あの選挙運動妨害事件から、早十日も経ってしまった。
おっちゃん家通いも復活し、ここ三日ばかり連続して行っている。
「社長、まなっぷ、午後はどうする?ラッパのおっちゃん家に行く?プールに行く?」
「正直に言うと父ちゃんに、あんまり白井さん家に入り浸るんじゃない!迷惑だろ!って言われてんだよな」
「僕も同じかな」
「実は俺も。じゃあおっちゃん家は無しだな」
「じゃあプールか?」と僕が言うと「いや!今日は釣りに行こうぜ」という社長の提案に僕とまなっぷは反対する理由もなく賛成した。
町のはずれには「鶴亀川」という中規模な川が流れており、ハヤやフナがよく釣れる場所があった。
公園前に集まった僕らは、まずは餌となるミミズを捕るために、川へ向かいながら通り道の途中にある畑の堆肥置き場へよった。
「持ってきたか」
社長の質問に僕とまなっぷは当たり前!とばかりにこう答えた。
「カンカラな!」
僕らの言う「カンカラ」とは捕まえたミミズを入れる空き缶のことだ。
捕まえたミミズは、綺麗に洗ったサバの水煮の空き缶に入れて持ち運ぶのが僕らの間では当たり前だった。
「臭っせー」
「社長我慢しろ」
「わかってる!釣りのためだ」
僕らは畑の堆肥置き場の近くの土を掘り起こし、ちょうどいいサイズのミミズを空き缶いっぱい捕った。
釣竿を担いだ三人組は自転車に乗り意気揚々(いきようよう)と釣り場に向かい、途中、駄菓子屋によって、飲み物の購入も忘れなかった。
川に着いた僕らは、自転車を土手に倒し、自動車の通行を妨げないように配慮した。というより、釣りの邪魔をされたくなかったので、自然とその止め方になった。
葦の間から、水の淀んだ場所が狙える、絶好の場所に三人は一メートル間隔で並んで座った。三人組は慣れた手つきで浮きを付け、釣り針に、取ってきた餌のミミズを付け、思い思いの場所に釣糸を垂らした。
「よーし!来たよー!」
まなっぷの浮きはピクピクとしたあと、「ひゅん」と勢い良く水中に引き込まれた。
「俺も!」それに続くように、僕と社長にもピクピクとアタリがあり同じように「ぴゅっ」と浮きは水中に消えた。それに合わせ、竿を上にあおると、竿は大きく弧を描き、釣り糸が水を切り「きゅん」と鳴った。「でかいかも」そう思い暴れる魚をいなしながらようやくあがってきたのは二十センチをゆうに超えるフナだった。「よし!」三人組は揃って一匹目はフナだった。
フナは社長が持ってきた魚籠に入れた。
魚籠は水辺に生えている葦に結びつけ、入り口だけ水面に出し沈めておいた。
その日は入れ食いだった。「凄いなー。釣れ過ぎだよ!」
「まなっぷ!喋ってる暇があったら釣れ!こんな日ないぞ!」
糸を垂らすたびに魚が釣れた。こんなに日の高い時間帯に入れ食いになることも珍しかったが、タイミングが良かったのだろう。
公民館前のスピーカーが午後五時をしらせるチャイムを鳴らすころには、三人合わせて五十匹以上は釣っただろうか、既に魚籠の中にはフナ、ハヤ、ナマズ、コイ、ヘラブナがごちゃ混ぜで泳いでいる。
だがその入れ食い状態は、夕方に魚が活発に餌を食べる「夕マズメ」と呼ばれる時間帯に重なり、さらに加速した。
「社長!俺、もう餌がない!」
「僕も無いよ!」
「その辺の土を掘ってみろ!ミミズ出てくるだろ!
僕とまなっぷを振り返ることもなく言った。
「暗くなってきたし、そろそろ帰ろうぜ」
「そうだね。帰ろう社長!」
「きーやんとまなっぷは先に帰れ。俺は餌があと少しだけあるから、無くなったらやめる」
「ダメだよ!やめろって!一人じゃ危ないって」
「大丈夫!餌もあと五匹しかいないからすぐにやめる」
僕とまなっぷがやめろといくら言っても社長は「餌が無くなったらやめる」と言って聞かなかった。僕とまなっぷは仕方なく先に帰ることにした。
「じゃー社長!すぐにやめろよなー!」
「先に帰るよー!」
「おぅ!気を付けて帰れよー!」
社長は大きく左腕を挙げバイバイしていた。
僕とまなっぷは途中で別れてそれぞれの家に帰った。
○
夕飯も食べ終わり、お風呂の時間を気にしながらゆっくりテレビを見ている時だった。
近くに住む後輩の父親が慌てた様子でやって来て玄関先で僕の父親と話している。
「ノブオさんとこのせがれ帰ってねーんだと!」
「何?そりゃ大変だ!もう暗いぞ。おーい利樹!ちょっと来てみろ!」
すぐに僕が呼ばれ、社長のことを聞かれ、一緒に釣りをしていたことを伝えた。居間に戻るとすぐにまなっぷに電話した。
プルルル…ガチャ
「はい、大塚です。」
一回目の呼び出し音が終わる前にまなっぷが電話に出た。
「まなっぷか!」
「きーやん!」
「おい!社長のこと聞いたか?!」
「うん!帰ってないって!魚釣りのこと話したらお父さんたち川の方に行ってみるって!」
「俺たちも行ってみようぜ!」
「うん!」
「行く前におっちゃん家集合!」
「どうして?!」
「いいから!」
「わかった!」
僕の気迫に圧されて、まなっぷは詳細も聞かず承知した。僕はおっちゃん家の小屋にアメリカ映画で警察が使っているような巨大なシルバーのライトが有ったのを思い出したのだ。
電話を切り、家を飛び出すと自転車のライトの発電機をタイヤ側に倒し、全力で立ち漕ぎした。
発電機の歯車はジィージィーと音をたて、発電能力の限界点で発電しているようだった。
途中同じく立ち漕ぎで全力で走って来るまなっぷと合流し、おっちゃん家に向かった。
玄関先に自転車を倒し、おっちゃんに声をかけた。「おっちゃん!おっちゃん!ライト貸して!」
「どーしたこんな時間に?」
玄関先に突っ立ったままで僕とマナップは社長のことを話した。
二人とも慌てながら喋ったせいで、何度も言葉が被り、聞き取り難かった。
しかし、おっちゃんはうんうんと聞いていたが、二人が話し終わると「まあ、少し落ちつけ」と言って草履を履くと外に出た。
つたつたと畑の前まで歩くと立ち止まり「ふぅーっ」と長く深く息を吐き、こう言った。
「お前ら頼むな。利樹と学は家に帰れ!ライトも貸さないし、家の人が心配するぞ!」
僕は不思議な光景を見た。ラッパのおっちゃんが息を吐き出すと薄い黄緑色の”もや“が空間から沸くように庭に広がり、庭の畑のキュウリの陰から一匹、ピーマンの陰から一匹、と次々と野菜の陰からピカピカと小さく光る何かが十匹ほど空中に飛び出し、川の方に向かって飛んで行った。その小さな光は僕には蛍に見えた。僕はこの黄緑色の“もや”を前に一度見た事かあることを思い出していた。
そしてピカピカ光る何かは三十秒ほどで戻ってくるとおっちゃんの周りを一周し、「ぱっ」と散り散りに消え失せた。
「よし、もう大丈夫。二人には帰れと言ったよな?帰れ」結局ライトを貸してもらえず、おっちゃんの「家に帰れ」という言葉にはナゼか拒否出来ず、僕とまなっぷはラッパのおっちゃん家を後にした。
不思議と焦りは無くなっていた。ガタガタとしたあぜ道を抜け、帰り道に公民館の前を通ると、公民館の前には数人の大人が集まり、話し声が聞こえた。
「おい!ノブオさんとこの坊主いたってよ。釣竿持って土手を歩いてたらしい」
「まったく人騒がせな坊主だよ」
「まったくだ!まあ、何もなくて良かったよ!」
それを聞いた僕とまなっぷはお互いの顔を見合わせニコッと笑い、うん。とうなずくと「バイバイ」と言ってそれぞれの家へ帰った。僕は黙って家を飛び出してきたのを思い出し少し急いで帰った。
○
次の日、初めて社長はラジオ体操に来なかった。
僕とまなっぷは心配になり、午前中のプールを中止して社長に会いに行った。 うつむきかげんで奥から出てきた社長を見て僕とまなっぷは驚いた。
「社長!どうしたその顔!」
「なんか…すごいことになってるね!」
「う、うるせー!」
顔中赤く腫れていた。社長の話しだと蚊に刺されたらしいが、明らかに蚊に刺されたとは違う腫れがあった。頬っぺたの腫れだ。おそらく両親のどちらかか、両方にビンタされたのだろう。
「どうしたの社長?頬っぺも赤いよ。風邪でもひいたんじゃない?」
どうやらまなっぷは気付かないらしい。「うるせえ!うるせえ!」社長は頬っぺの件から早く話しをそらせたいようだ。
何はともあれ、元気な姿を見てホッとした。社長は昨日の話しを始めた。
「最後の最後に釣れたコイ!アイツ凄かったぞ!糸を切って浮きをつけたままドンドン上流に上がって行きやがった!それを追いかけてるうちに辺りは真っ暗になっちまって。でも不思議なんだ、蛍みたいな何かが何匹か飛んで来て俺の周りをグルグル回って…ボーっと後をついてったら、いつの間にか土手の上を歩いてた」
「ラッパのおっちゃんだ!」
僕とまなっぷはいっせいに。社長に昨夜見たことを話し、三人でおっちゃん家に行ったが、相変わらず午前中は寝ていた。僕らは真相を知りたい一心で午後まで待ってもう一度行って、昨夜のことを聞いてみたのだが「そんな不思議体験、俺がしてみたいわっ!」と言ってまったく相手にしてくれなかった。それ以降不思議なことは体験していない。
○
僕らは残りの夏休みも何度となくおっちゃん家に通った。今年の夏休みは社長の「面白そう」が最高に「面白い」だった。
夏休みも残りわずかになったある日おっちゃんは言った。
「お前らそろそろ二学期始まるんだろ?おっちゃんは一年中休みだからな。おっちゃんの夏休みもそろそろ終わりだからな。ぼちぼち秋休みの準備しなきゃな。その後は冬休みで冬眠しなきゃならんしな」
僕は思った。おっちゃん、どこまで本気なんだ、自由すぎるだろ、と。
毎年恒例になっている、夏休み最終日の宿題の徹夜作業を以て、僕らの不思議で、すてきで、変な小学校最後の夏休みは終わった。
その年は、九月に入っても暑い日が続き、おっちゃん家の周りに育つ栗の木ではミンミンゼミがまもなく到来する秋を拒むかのように「ミーンミンミンミンミー」と精一杯、力強く鳴いていた。




