嘘患い
さっき医者から、ありとあらゆるものを嘘ではないかと疑ってしまう『嘘患い』という病気にかかってると言われたけど、正直僕はそんなの嘘だと思ってる。確かに僕は人より疑り深いところはあるけど、そんなの人それぞれだし、人の個性に勝手に病名をつけて医療費をふんだくろうとする医療業界の罠という気がしている。
いや、僕は人より疑り深いって前提で話したけど、そもそも僕が人より疑り深いだなんてことも確信をもっていうことはできない。そもそも他の人の心の中なんて誰にもわからないし、本当は疑っていても信じてるって口にすることはできる。僕は他の人と同じくらいに疑り深いのかもしれないし、ひょっとすると人よりも真に受けてしまう性格である可能性だってある。少なくとも僕には僕が疑り深いかどうかなんていう断言をすることはできない。
医者からは継続的な通院を勧められたけど、嘘つきの医者の言うことなんて信用できないし、二度と病院に行くことはないだろう。病院から帰った僕は、荷物を置き、そのままソファへと腰掛ける。ふと視界の隅にあった電子時計には、今日の日付が表示されている。そこに表示されているのは11月19日という日付だったが、僕は首を傾げる。本当に今日は11月19日なのだろうか?電子時計が故障で違う日付を表示していることだってあり得るし、時計が表示している数字をそのまま鵜呑みにしてしまうのは思考停止に近い。
僕はスマホを手に取ってカレンダーアプリを起動する。そこにもやはり11月19日と表示されていたけれど、僕のスマホが故障していたり、何か障害が発生していて、間違った日付を表示していることだってありえる。僕はどうにかして本当に正しい日付を確認したいと思ったけれど、よくよく考えてみれば、今日が何月何日だということを今すぐに確認しなければならないというわけでもなかったので、これ以上深追いすることはやめた。
そしてそのタイミングで携帯にメッセージが届く。相手はバイトの後輩の女の子で、暇ならどこか一緒に遊びに行かないかというお誘いだった。この女の子は以前、メッセージで僕のことが好きだと言ってきた。だけど、彼女が僕のことを本当はどのように思っているのかはもちろんわからない。対面でさえ本当のことを言っているのかなんてわかるはずもないんだから、メッセージで送られてきた言葉が本当にその子の気持ちであるかなんてどうやって保証できるのだろうか? 僕をからかっているという可能性だってあるし、罰ゲームか何かで僕にそういうことを伝えなければいけない立場になっているのかもしれない。少なくとも、それがわかるまで、僕は彼女と仲良くなるのはやめておこうと思っている。だから、僕は彼女に当たり障りのないお断りの言葉を返し、そのまま携帯を机の上に置く。
玄関のチャイムが鳴る。誰だろうと思いながら立ち上がり、玄関のドアを開けると、そこには人の良さそうな見た目をした三十代後半くらいの男性が立っていた。
「先日隣の203号室に引っ越してきた佐々木です。引っ越しのご挨拶に来ました」
それから目の前の男性が世間話を始める。適当な相槌を打ちながら、僕は目の前の人について考えを巡らせる。この人は203号室に引っ越してきたと言っているが、それは本当だろうか? 確かに彼が言っている203号室はずっと前から空室で、昨日か一昨日に引っ越しのトラックがアパートの前に停まっていて、そこへ荷物が運び入れられているのを見た。しかし、だからと言って、目の前の人物がその引っ越しを行った人物と同一人物であるとは断定できないし、実際に引っ越してきた人と違う人が面白半分に引っ越しの挨拶に来ているだけなのかもしれない。そういえば、昨日ちらっと見た引っ越しでは、女性っぽいソファが運ばれていたような気がする。もちろん彼が彼女と同棲しているとかそういう可能性はあるが、その事実は彼が本当に引っ越してきた張本人であるという信憑性を揺らがせてしまう。
「大島さんは普段、この時間帯はお家にいらっしゃるんですか?」
男の問いかけに相槌を打ちながらも、僕は目の前の人物を観察し続ける。佐々木と名乗ったけれど、本当にこの人が佐々木だってことも僕には信じられない。免許証も見てないのに、彼が佐々木という名前なのかを信じてしまうのは愚かだ。適当にでっち上げた名前を言っているだけかもしれないし、引っ越しの挨拶のふりをしているのであれば引っ越しの本人の名前を勝手に使ってるのかもしれない。僕はできるだけ愛想良く振る舞いながら、この得体の知れない男と長く話し続けるのは危険だと心の中で考えた。ちょっと用事があるのでと僕は嘘をつき、そのまま挨拶の品を受け取って玄関のドアを閉めた。
「日常生活に支障が出たり、息苦しさを感じて、どうにかしてここから抜け出したいと思ったらもう治療の対象なんですよ」
僕に『嘘患い』を診断した嘘つきの医者はそう言っていた。医者という立場であるから、心から患者を気にしているような言葉を使わないといけないのだろう。本心で何を思ってそう診断したのかもわからないし、そもそも『嘘患い』という病気だって、本当にそんなものが存在するのかも疑わしい。様々な可能性を考え、きっとあの医者はヤブ医者だろうと結論づけたそのタイミングで、再び携帯にメッセージ通知が届く。相手は例の後輩で、大事な用事があるので今から会えないかという誘いだった。
僕はそのメッセージを読み、少しだけ迷った。いくらメッセージで僕のことを好きだと言っていても、彼女が僕のことを本当に好きである可能性なんて限りなく低い。少なくとも彼女の言葉が本当だなんて信じられるはずがない。人間はいくらでも嘘をつける生き物だから。それでも、お互いに同じ職場で働き、日頃から接する機会の多い相手である以上、険悪な関係になることは避けたかった。その板挟みに心が沈む。僕はようやく決意して、会いにいくよを彼女に告げる。それから数回メッセージを交わし、落ち合う場所を決めた後で、僕はゆっくりと立ち上がった。
家を出て、電車に乗り、彼女が指定した場所へと向かう。僕は電車に揺られながら、目に映る全ての嘘くさい景色を眺め続けた。あのマンションだって、立体的に見えても本当は目の錯覚でそう見えているだけで、本当はぺらっぺらの一枚の絵なのかもしれない。雲ひとつないあの青空だって、僕だけ青く見えているだけで、他の人には全く違う色に見えているのかもしれない。向かいの座席に座ってる中年サラリーマンは、外面的には人として振る舞っているが、意識を持っていないゾンビのような存在なのかもしれない。生まれた時から僕が存在し続けていることだって嘘で、偽の記憶を植え付けられたまま5分前に作られただけなのかもしれない。
世界がそんなに嘘で溢れてるわけがないじゃないか。以前、自分の考えを知り合いに伝えたとき、彼はそう言って笑った。彼が何をもってそのように言ったのかはわからない。この世界は嘘で溢れているし、彼だって、その事実を知りながらも、僕を欺くためにそのように言っただけなのかもしれない。この世界は嘘で溢れている。この世界に絶対はないけれど、僕はその可能性が高いと考えている。電車が目的の駅にたどり着く。僕は人の波に流されながら電車をおり、そのまま駅の改札を出て、駅前の広場へと出る。駅前にそびえたつ商業ビルの側面に取り付けられたモニターには、夕方のニュース番組が映し出されていた。
『ニュースです。現在、特定キャリアの携帯端末において、カレンダーアプリに誤った日付が表示されるという障害が全世界的に発生している模様です。復旧は未定であり、各社はユーザに対して注意喚起を……』
後輩の女の子から指定されたのは、駅から少し離れた場所にある小さな公園だった。携帯で彼女に電話をかける。彼女がいる場所を教えてもらい、そこへと歩いて向かう。彼女は公園の奥にあるベンチにいて、近づいてきた僕に気がつくと、少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべて手を振った。
「うわっ! 本当に来たよ」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには僕と後輩の子が働く職場の違う同僚二人が立っていた。それから二人はにやにやと僕を嘲るように笑って、勘違い君かよと僕に吐き捨てる。
「ごめんなさい。大島さん。好きだって言ってたの……罰ゲームだったんです」
その言葉を皮切りに、同僚二人が声を出して笑い始める。後輩の女の子が申し訳なさそうな表情を浮かべ、それから二人につられて少しだけ笑みが溢れる。
「知ってたよ」
何がですか? と彼女が尋ねて、嘘なんじゃないかと疑ってたんだと僕は答える。強がんなよ。二人のうちの一人がそう吐き捨てて、僕は何も言えなくなる。確かに彼らにとってみれば僕が本当のことを言っているかなんてわかるはずもない。だから僕はそれ以上何も言わず、そのまま踵を返して、立ち去った。
この世は嘘で溢れてる。今日の日付も、好きでもないのに好きだと言ってくる異性も、この世界の全てが嘘で塗りたくられている。女の子から呼び出された数ヶ月後、僕が夕方に自分のアパートへ戻ると、アパートの前には数台のパトカーと野次馬が集まっていた。野次馬の一人に何があったんですかと尋ねると、殺人があったらしいよと教えてくれる。殺害現場は203号室で、殺されたのはそこに一人で住んでいた佐々木という名前の女性。犯人は数ヶ月前から彼女に付き纏っていた狂信的なストーカーで、数日前からここら辺をうろついて、犯行の機会を窺っていたらしい。しばらくするとパトカーの周りが騒がしくなり、奥から警官に囲まれた犯人が現れる。じっと下を向いた犯人の顔は、まさしく数日前に、佐々木という名前で僕の家を訪れた男だった。
僕は連れて行かれる犯人を眺めながら、彼との会話を思い出す。
「大島さんは普段、この時間帯はお家にいらっしゃるんですか?」
この世は嘘で溢れている。今日の日付も、好きでもないのに好きだと言ってくる異性も、そして、突然引っ越しの挨拶にやってくる隣人も、全てが嘘で、でたらめだ。電話が鳴り、僕はそれに出る。相手はこの前僕を『嘘患い』だと診断した医者で、そろそろ診療に来ないかという働きかけだった。僕が『嘘患い』という病気にかかっているとは到底思えないし、そもそもその病気自体が医者のでっちあげだ。僕に電話をかけてきている医者も、医師免許を持っていないヤブ医者で、適当なカモを見つけてはお金を騙し取っている悪人かもしれない。僕が電話越しに医者にそう伝えると、彼は少しだけ沈黙した後で、僕にこう言った。
「ええ、騙してしまって申し訳ないんですが、実は大島さんの言う通りなんです。私は医師免許を持っていないですし、嘘患いという病気も実は私が適当に考えた病気です。咄嗟に出てきた病名としては言い得て妙だとは思いませんか?」
さらに医者が言葉を続ける。
「でも、あなたの症状……いや、症状といったら語弊がありますね、その性格を少しでも改善することはできますよ?」
「改善ではなく、改悪の間違いではないですか? 少なくとも、私は間違ってませんでした」
「全てを疑っていればもちろん一つも間違えずに済みます。でも、何も間違えない生き方というのも、それはそれで間違ってるんです」
医者が本当は何を考えているのかは僕にはわからない。いや、医者は何も考えていないのかもしれないし、こうして喋っているように思えても、実はあらかじめ録音された音声を流しているだけで、本物の医者は全く別の場所で全く違うことをしているのかもしれなかった。いや、そもそも僕は携帯で電話をしているけど、それ自体が嘘なのかもしれない。幻聴で着信があったと錯覚して、そのまま誰かとの会話が幻聴で聞こえ続けているだけで、全ては僕の頭の中でだけ完結しているのかもしれない。いや、そもそも僕の頭の中とはなんなのだろう。こうして今何かを考えているけれど、それ自体が僕の勘違いに過ぎなくて、僕には元々意識というものが存在していないのかもしれない。ぐるぐると思考が周り、まるで船酔いのような気持ち悪さを感じ始める。いや、この気持ち悪さと言ったけれど、それは果たして本物なのだろうか?
「全てを疑うあなたに言っても仕方ないかもしれませんが、もう一度言います。私はあなたのその考え方を少しは改悪することができます。日常生活に支障が出たり、息苦しさを感じて、どうにかしてここから抜け出したいと思ったら、うちのクリニックに来てください」
電話が切れる。僕は気持ち悪さのあまりその場でゲロを吐く。胃液の混じった自分の吐瀉物をぼーっと眺めながら、目の前にぶちまけられたものが果たして本当に自分の口から出てきたものなのだろうかと疑いの目を向ける。先ほどの医者の言葉が僕の頭でリピートする。医者を信用することなんてできないけど、自分を信用できるかと言われたらそれはそれで疑わしかった。
僕はフラフラになった足で立ち上がる。それから。大丈夫ですかと本心で言っているのかわからない人々を押しのけて、僕はあの医者が待つクリニックへ向けて歩き出した。