ショックを受けてもいいですか?
「みなさんに大事なお話があります。このクラスの担任である佐々木先生が昨日、亡くなりました」
臨時担任として教壇に立つ黒江先生が佐々木先生が自殺をしたと告げたとき、教室にはとくに波紋は広がらなかった。
佐々木先生がいずれ死ぬことはわかっていたし、自殺をするタイミングを教えろとまで言っていたのだからむしろ当然の流れだった。
そのなかでぼくは少し動揺があって、本来ならぼくが言うべきことを別の誰かに言われてしまったというショックを否定することはできなかった。
これまでの時間を返せと言うほどではなかったけれど、鈍い重りみたいなものが胸にのしかかっていた。
誰が佐々木先生に自殺宣告をしたのだろう。
教室を見回しても、そんな感じの人は見当たらなかった。
見た目でそんなことがわからないというのは百も承知ではあるけれど、ぼくの目にはクラスのみんなが同じ型で作った人形のように思えて、能動的な行動を取るタイプはひとりもいないようなイメージがあった。
クラス以外の人もこのことは知っているから、もしかしたら先輩とかの可能性もありはする。
何年か前に佐々木先生が担当した生徒が恩返しのつもりで伝えたのかもしれない。
どちらにしても、ぼくにできることはなにもない。
悔しいとか憎いとかそんなんじゃなくて、軽い衝撃が通りすぎたあとはぽっかりと胸に穴が開いたような虚無感に襲われた。
この時点で確認できたのは、ぼくは案外、佐々木先生の死に真剣に向き合っていたんだなと言いうことだった。
流れ作業的なものではなく、ぼくの人生の一部として心に刻み込まれている。
ひとつの大きな疑問。
佐々木先生はまだ本格的なゾンビ化には到っていなかった。
顔色が悪い程度で、それぞれのパーツは判別てきるレベルのままだった。自殺宣告をするには早すぎる時期で、じゃあその人はどうしてそんなことをしたのだろうかとぼくは内心で首を傾げた。
考えても仕方のないことなのかもしれない。佐々木先生は自殺をし、ぼくがやるべきはずの仕事がひとつ失われた。それだけのこと。たぶん。