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砂漠のコギト

作者: 河灯 良平

 砂漠のコギト

         1


 仕事を終えて帰宅した前田茂雄は、そこで見た光景に驚愕した。

 二十年間、慣れ親しんだ我が家。家具や食器、先日購入した大型の液晶テレビも傷一つなくそのままである。では、家のどこかに彼を驚かす何かがあったのだろうか? 

 いや、そうではない。二階建ての一軒家、外装、構造、何一つ変わっている様子はない。もっとも二階まで知りうることはできないが、恐らく変わりはないだろう。更に述べると、毎月返済を続けているローンもなくなりはしていないはずだ。

 それにも関わらず、彼は驚愕したのだ。それは何故か?

 彼が帰宅した家には見たこともない女がいたのだ。

 女はシンプルな赤いエプロンを着用し、少しも緊張感を漂わせずに(むしろ馴染んでいた)食器を配膳していた。まるで自分が住んでいる家であるかのように。女を確認した時、泥棒ではないかと思ったが、泥棒が食器の配膳などしないであろう。

 しかし、その女は妻の友人などではなかった。妻は自宅に友人をあまり招くような人間ではないし、その数少ない友人を彼は把握している。そのつもりだ……

「――おい」

 茂雄の口から出た言葉は、その状況を理解できない戸惑いから気の抜けた声だったが、女の耳には届くには足りていた。

 女は野菜が盛りつけられた皿をそっとテーブルに置き、ゆっくりとこちらを見る。人工的な明かりが女の顔半分を照らす。

 やはり知らない顔だ。

「あら、あなた、おかえりなさい。今ちょうど夕食の準備が出来たところですよ」

 女の黒く艶のある長い髪が揺れる。その毛先を無意識に目で追い、すぐに視線を女の顔に戻す。

 女の思いがけない発言に、思考が混乱し体が重力を失い、口元が釣り糸で引っ張られていうように引き攣っているのが分かる。

「お、お前は誰だ!」

「何です? それは」

 口元にそっと手を当てて、小さな声で笑う。

「何のご冗談です?」

 女は笑みを浮かべたままエプロンを外し、こちらに近づきながら再び言った。茂雄は右手に持っていた鞄を床に落し、ゆっくりと後ずさりをする。

「お前は誰だ! 何故私の家にいる!」

 叫び声は薄暗い廊下を抜けて奥の闇に消えて行く。女の顔からは笑みが消え、一瞬の間全ての感情が消え去り無表情になったかと思うと、その表情は怒気の様相を帯び、鋭い眼差しは茂雄を突き刺した。

 眼光に怯むと同時に、彼には新たなる問題が頭をよぎる。妻の事である。

「さ、さ、沙織はどこに……私の妻をどこだ」

 女はさらに怒気を顔に表す。

「ご冗談は止めてください」

 有無を言わさぬ声で続ける。

「あなた、私をからかってらっしゃるの? それとも何ですか? あなたは妻の顔を忘れたとおっしゃるのですか」

 女の声は先程より低い。

「何を……」

 予想せぬ返答に茂雄は閉口する。女が何の事を言っているのか理解できない。

「妻の顔を忘れるものか! 沙織をどこへやった!」

「いい加減にしてください! 沙織は私です! そんなたちの悪い冗談は止めてください!」

「お、お前は、沙織ではない! 何を言っている! お前は一体――誰なのだ!」

 実際、女の顔は妻のそれとは似ても似つかないものである。この女が異常な事はもはや疑いようのないことだ。そして、ここで問題なのが妻の所在である。

 茂雄は混乱する頭を必死で落ち着かせ考える。まず考えられる事は、この女は妻をどこかに監禁されているのではないかという事だ。

 ――誘拐。しかし、それならば何故この女はこの家に留まり、妻のふりをしているのだろうか。そう考えると彼の頭は再び秩序を失い、思考が四方に飛び散り混乱した。

「もう止してください……沙織は私です。冗談だとしても酷すぎますわ。私はあなたが仕事から帰ってすぐにお食事が取れるように、準備をしていただけですのに……私が何をしたって言うのです? どこか気に入らない所があったと言うなら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください。いっそ叱ってもらった方が、この様な仕打ちを受けるより数段ましと言うものです。それにしても酷すぎます」

 そう言うと女は床に膝をついて両手で顔を覆い、泣きだした。この様子を見て茂雄はさらに混乱した。女の言っている事は未だに一片たりとも理解できない。どうやら誘拐犯では無いようだが、それはそれで気味が悪い。この女は何者なのだ?

「さっきから何を訳の分からないことを……お前は沙織ではない。何が目的なのだ!」

「あなた……」

 女はなおも座り込んで泣いている。茂雄はそれを見て警察に通報する為に、スーツのポケットから急いで携帯電話を取り出す。

 しかし、ボタンを押す指は焦りの為に逸れ、違う番号を押し、更なる焦りを引き起こし、携帯電話は彼の手から滑り落ちた。

 即座に拾い上げようと手を伸ばし、もう少しで掴むところで携帯電話に何かが覆い被さった。それは女の手であった。

 女は携帯電話を拾い上げてこちらを見る。乱れた黒髪の間から覗く目は赤く充血している。

「どこに電話をする気です? もしかして警察……」

 女は絶句したまま細く長い指を使い携帯電話の電源を切る。電源が切れたことを知らせる電子音が、沈黙した空間でやけに大きく聞こえた。

「か、返せ……私の電話を返せ!」

「嫌よ! 返すとあなたは警察に通報するでしょう!」

 恐ろしい剣幕の女を前にして茂雄は言葉を発することができないでいる。

「あなたが通報すると警察が家に来ます。そうなるともちろんご近所にも知れて、あなたの気が狂ったと思われてしまうわ!」

 ますます茂雄の頭は混乱した。この女は通報されると困るのは自分ではなく茂雄の方だと言うのである。確かにこの女が私の妻であるなら、気が狂ったと思われるかも知れない。

 しかし、この女は沙織ではない。妻ではないだ。

 恐らくこの女こそ頭がおかしいのであり、偶然か故意か知らないが、この家に入りこみ、自分は私の妻であると思い込んでいるのであろう。

 女は誘拐犯の様ではなく、さらには丸腰で強盗犯の様でもない。

 何よりも私に危害を与えようとする意思を全く持っていないのである。そう思うとこの女を一層気味悪く感じたが、身の危険を感じるような恐怖は少し薄らいだ。

 まず何よりもこの女に私の妻ではない証拠を示せば、この問題は即座に解決するのかもしれない。そしてこの女を精神病院なり刑務所なり、詳しくは分からないが(何故なら私が今後全く関わりないであろう場所であるからだ)然るべき施設に隔離すればいいのだ。

「お前は沙織ではない。そして私の妻でもない」

 震える声を何とか抑え、落ち着いている様子を装う。自然と声は低くなり、腰の位置も低く身構えていた。

「あなた……」

 女は眼を一杯に見開き涙を流す。

「あなたと呼ぶのは止めてくれないか。そう呼ぶのは妻の沙織だけだ」

「沙織は私です! あなた一体どうしたって言うの? まさか本当に気が狂ってしまったの!」

「私は気など狂ってはいない。それはお前の方だ!」

「あなたが何を言っているのか私にはさっぱり分かりません!」

 これでは堂々巡りである。どうしたら良いのか分からず、狂気じみた女の目から思わず視線をそらす。その時、リビングの棚の上に置かれた小さな写真に目がとまった。

 ここからは光が反射の具合で何が写っているか分からないが、それは数週間前に妻と箱根へ旅行に行った時の写真だ。何の変哲もない旅行の写真だったが、沙織は大層気に入ったようで、それを飾ったのだった。

 茂雄は素早く駆け、写真を掴むと女の方へ突き出す。

「これが証拠だ! ここに写っているのが私の妻だ!」

 女は写真を見る。空間が凍りつき沈黙が支配する。女は血色を失った能面の様な顔で立ち尽くす。

 どれ程の時が経ったのだろうか。それともほんの一瞬であったのだろうか。女の視線が写真から私の顔へと移るのを見て、元の時間の流れに戻される。

「何を言っているのよ。あなたの妻はそこに写っている私よ」

 女の言葉こそ何を言っているのか分からなかった。しかし、一抹の不安は茂雄を支配し、焦りを掻き立てる。そして、ゆっくりと写真の方へ眼をやる。

 体中の感覚が鈍り、冷たくなっていくのが分かった。空間が歪み自分の輪郭がぼやけて行くような錯覚に包まれ、倒れないように踏ん張ろうとする足は震えている。

 写真に写っている女性は目の前にいる女であった。

「あ……」

 口から出た音は言葉をなしてはいなかった。それ以前に何を言うべきかさえ頭には浮かんでいなかった。自分と女が写る写真が信じ難かった。

 しかし、さらに茂雄を混乱させるものがその写真の中には写されていた。

 写真の中には茂雄と女の間に、小さな男の子がいるのだ。七、八歳といった感じのその子は二人の手を取りにこやかに笑っている。

 もちろん、茂雄には子などいない。しかし、写真に写る三人はどう見ても、父、母、子といった様子である。そもそも、この二人とは以前に会った事もないし、ましてや一緒に写真を撮る事などあるはずもない。

「お父さんおかえりなさい」

 突如、聞こえた声に茂雄は反射的に身構える。少し高く幼い声は、二階から聞こえていた。

 階段を急いで下りる音が聞こえた。女は明らかに狼狽しているようで、「健吾、部屋で待っていなさい!」と叫ぶ。

 しかし、女の呼びかけは功を制さず足音は次第に近づき、茂雄のすぐ後ろまで来た。意を決し恐怖と混乱に怯える体に振り返り、その正体を確認する。

 そこにいたのは写真に写っている男の子であった。男の子は明るく笑っている。

 驚愕する反面、やはりなと言う気持ちが少しあった。写真を見た時点でこの男の子もこの家にいるのではないかと少し心の隅で思っていたのだ。女に健吾と呼ばれた男の子も、やはり見た事はなかった。

「お父さん、お母さん、どうしたの?」

 男の子は私達の異様な雰囲気を察した様で、先ほどの明るい笑顔は一瞬の間に凍りつき、青ざめて行くのが分かった。

「き、君。お母さんと言うのはこの人のことかい?」

 髪を乱してこちらを呆然と見つめる女を指差す。それに対して男の子は、何の反応も示さず立ち尽くす。男の子の顔から明らかに戸惑っているのが分かった。

「あの人が君の母親と言うのは分かっている」

 茂雄は女を指差す。男の子が少し頷いたように見えた。

「では、お父さんと言うのは誰の事だ? ここには君のお母さんと私しかいないじゃないか、お父さんはいないよな。だけど君は先程、お父さん、お母さんと言った。おいおい、まさか私の事を父親などと言うのではないだろうね! 冗談じゃないよ! 君! 健吾君と言ったかな、黙っていたのじゃ分からないじゃないか……何か言いたまえ!」

 男の子の掴み、強く揺らした。彼は悲鳴を上げ、体を小さく震わせながら涙を流しだす。一瞬、見えた彼の瞳の奥底にはっきりと恐怖が刻まれていた。茂雄の体中に冷たいものが走る。

「止めてください! 健吾に暴力なんて! 止めて!」

 知らぬ間に思考が停止していた茂雄は、女の割れんばかりの叫び声を聞いて、はっと気づく。その時には女がすぐ近くに来ていた。女はどこにその様な力があったのだろうか、私の腕を掴み物凄い力で男の子の体から引き離し、庇う様にして背を向けて男の子に覆いかぶさった。

「な、何なのだ、これは? お前たちは誰だ? こ、これではまるで私が悪者ではないか……」

 茂雄は混乱した。今起こっている全ての事が理解できないでいる。

「あなた!」

 女の声が聞こえる。

「止めろ! 黙れ! 勝手に私の家に侵入してきて何が目的だ! さっさと出ていけ!」

 茂雄はなおも考えがまとまらないまま、叫ぶ。そもそも、理解できぬものを前にしてどうやって、考えをまとめると言うのだ。

「お父さん……」

 男の子の声が聞こえる。

「黙れ、この餓鬼! 私に子供などいない。お前の様な餓鬼は知らん!」

 茂雄はさらに混乱する。

「金が欲しいのか? 残念だな、お前らにやる金など一銭もありはしない。分かったら、妻を返してさっさと消えろ!」

 茂雄は全くもって解決の糸口を見つけることができずに、さらにさらに混乱の沼に沈んで行く。これは一種の絶望である。

「な、なんだよ。何とか言えよ! そ、そんな目で私を見るな! ま、まるでそれでは私が……」

 固く抱き合った女と男の子は、茂雄を見据え恐怖と憐れみが同居する瞳を涙で潤わせている。

「まったく、頭がいかれている連中は何をするか分からない。こ、こういう奴は然るべき施設に入れて、出さないのが一番なのだよ。うん、そうだ。出さないのがいいのだ。早く、連絡を……施設に連絡。連絡、連絡。あ、携帯電話……携帯電話を返せ!」

 先ほど奪われた携帯電話は女の手には握られていない。そして、女の足元に落ちている携帯電話を発見する。茂雄は二人が先ほどから抱き合って全く動かないのを見て、ゆっくりと女の方へ近づく。二人は茂雄が向かって来るのを見てさらに強く抱き合った。

 その時、茂雄は足もとで何かが割れる音を聞き、足元に僅かな痛みを感じた。驚いて足を飛び退けると、そこには先ほど私と女と男の子が写った写真があり、その写真立てのガラスの部分が割れて足に小さな破片が刺さっていた。

 写真立てを持ち上げて見遣る。そこにはやはり、私と女と男の子が写っている。

「それがあなたの家族です。私があなたの妻で、健吾はあなたの子供です」

 女ははっきりと言った。茂雄はそれを聞いた瞬間、体が軽くなったよう感じがして、頭が真っ白になっていった。

 気づいた時には写真立てを頭上に上げていた。そして、それを振り下ろす。ステンレスの写真立ては十分な加速を得て、女の頭を強打する。茂雄はそれをまるで映画のワンシーンを見るように無感情な眼差しでその光景を見ていた。

 短い悲鳴ともに女は倒れ、それを見た男の子は目を見開いて大声で叫んでいる。女の頭からは血が流れている。茂雄はそれを見て、これくらいの出血では命に別条はないな、などと冷淡な気持ちで考えていた。どうやら女は気を失った様で、目を閉じたままである。

 頭が真っ白な状態で女が倒れている姿をいくらの時間かみつめてした。そして急に我にかえり、もしかして殴打の衝撃によって殺してしまったのではないと不安がよぎる。茂雄はしゃがみこみ女の手首を取って脈を測り、生きている事を確認すると安堵した。

 一刻も早く、警察に通報しなくてはならない。死んでしまっては大ごとなので救急車も呼ばなくてはならない。法律には詳しくないが、この場合は正当防衛であろう。これでやっと、問題は片付いた訳である。

 その時、茂雄の後頭部に鈍い衝撃を感じた。そのまま床に倒れて、何も出来ぬまま視界が徐々に暗くなっていく様を僅かに残る意識で感じ、そして完全なる闇に包まれた。


         2


 朦朧とした意識の中で茂雄は目覚めた。目を開けると一面が白色で死んでしまったのかと僅かに思ったが、定まらぬ視点でよく見ると天井の様だった。しかし、視界も水中で目を開けた時の様にしっかりとした輪郭を持たず、どの様な建物の天井かなどは分からない。そして体はだるく何かに固定されているように力が入らず、動かすことができない。

 まとまらぬ思考でゆっくりと現状を把握しようとしていると、視界に人が写る。しかし、女性であること以外分からない。何か話しているようだが、その声はエコーがかかった様に頭の中を反響し、聞きとることができない。何とか聞こうと耳に神経を集中させようとしてみる。

「あなた」

 女性がそう言ったのだけは、しっかりと聞き取った。そうか、沙織の声か。やっと本当の妻が帰って来たのだ。安堵すると、また視界は暗くなり眠りに落ちた。


        3


 茂雄は砂漠にいた。そしてそれが夢の中である事を自覚していた。眼前に広がる広大な砂の海は自らが意思を持っているかのように一つの集合体として蠢き、茂雄を飲み込もうとしている。夢の中であるのに激しい渇きに襲われ、体は水分を求める。その体に降り注ぐ太陽の業火の如く射光は、無慈悲に身を焼いていく。

 熱い砂に足を取られながらも歩く目の前に都合よく表れるオアシス、あぁあれは蜃気楼であるに違いないと茂雄は思う。 しかし、その幻を追わずにはいられない。幻のオアシスは当然の如く姿を消した。歩き疲れ、砂の上に倒れこむ、砂の熱は皮膚から体内部まで進攻しようとし、蠢く砂の群は彼に覆いかぶさる。茂雄は眼を閉じた。

 茂雄は眠りの中で声を聞いた。それは優しい女性の声だった。その声は茂雄の心を落ち着かせ、安心させる。声は海の様に辺りを包み揺らめき、その声に抱かれながらさらに深い眠りへと誘われた。


        4


 明るい光を瞼の裏に感じ目覚める。まだ頭は重いが以前と比べると意識ははっきりしている。窓のカーテンから漏れる光が顔に当たっている。どこか見覚えのあるカーテンだ。少し経って、自分がいる部屋が自宅の一室である事に気づいた。どうやら、全ては解決し自宅でこうして横になっているようだ。

 その時、鈍い後頭部に痛みを感じて顔をしかめる。明瞭な記憶はこの後頭部の痛みで終わり今に至る。頭の後ろに手を当てようとして初めて、腕が動かない事に気づいた。重たい頭を動かして見て、茂雄は驚いた。彼の腕がベッドにロープでしっかりと縛られているのだ。

 事態が理解できず、足元を見ると手と同様に足も縛られている。これは一体何なのか。この様な経験はもちろん初めてだ。長い間気を失っていたようなので、ベッドから落ちないようにとの配慮であろうか。

「誰か。沙織、沙織いないか」

 反応がない。茂雄の声は壁に吸収され、部屋に満ち満ちる静寂に不安が募る。

「沙織、沙織」

 今度は声を大きくして呼んでみる。さすがに主人がこのような姿になっているのにそのままにして、いなくなると言う事はないであろう。その時、遠くから急いでこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。沙織、沙織と頭で反芻する。どうやら、このまま放置された訳ではないと分かり胸を撫で下ろす(もっとも腕は縛られている為実際に胸を撫で下ろすなど不可能なのだが)。足音は大きくなりドアの前で止まる。少しの間があってドアノブがゆっくりと回転し、無音でドアが開く。

 しかし、そのドアから入って来たのは、妻ではなく気が狂っているあの女であった。

「あなた、気分はいかが?」

 女は恐々とした様子で尋ねる。何故か怯えの色が見て取れる。悪夢はまだ終わっていなかったのだ、完全にこの女の問題は解決したと思いこんでいた茂雄は絶望と恐怖に慄いた。その様子を見て女の表情は更に強張る。女の頭には包帯が巻かれその上からネットを被っていた。そうだ、自分が女を写真立てで殴ったのだった。

 復讐される! 茂雄は必死に逃げようと試みるが、四肢はベッドにくくりつけられ上体を起き上がらせることすらできない。気が狂いそうな恐怖に怯えながら、懸命に逃れようと体を捻る。

「来るな!」

「あなた。まだ私が分からないの」

 女はドアの前で戸惑った様子のまま立ちつくしている。その両手は強くロングスカートを握りしめている。

「ロープを外せ! 私はお前など知らん!」

 尚も体をひねり続ける。ベッドの軋む音が部屋に響き渡る。その時何を思ったのか女は恐る恐るこちらに近づいて来た。茂雄は恐怖のあまり女から顔をそむけ、「近寄るな」と叫び続ける。そうでもしないと恐怖で発狂しそうだったのだ。刹那、振り返って女を見ると、女は涙を流しながらすぐ近くに立っている。尚更恐ろしくなり、再び顔を背ける。

 女が手を押さえるのを感じた。あまり突然のことだったので、何もできず身を硬直させていると腕の関節辺りに小さく鋭い痛みが走る。思わず体をのけぞらせ痛みの部分を見ると、小さな血がぷくりと出ている。驚いて女の方に見ると、その手には無機質で何かを拒絶するかのように注射器が握られていた。

「何をした! 俺に何を注射した!」

 女はまだ泣いたままで、黙っている。その様子を見ながら、急に感情の高ぶりが萎えてきた・女の顔をぼんやりと見ながらすっと意識を失った。

「あなた」

 そう小さく呟く声だけは、しっかりと聞こえていた。


         5


 再び朦朧とした意識の中で茂雄は目覚めた。重たい瞼を開いたその先に最初に映ったのは、男の子だった。男の子は泣きながら謝っている。

「ごめんなさい。ごめんなさい。頭は大丈夫?」

 声が揺らぎながら頭に響く。男の子が言う頭が大丈夫であるかの意味を理解するのに、少し時間がかかったが私の後頭部の傷のことであろう。頭をこの男の子が殴った事に対しての謝罪だ。今まで、誰が殴ったのかなど考えなかったし、その様な余裕はなかった。あの状況で私を殴る事が出来たのはこの男の子だけだ。

 その時の状況を思い出す。床に倒れた女。女から流れる血。その血が付いた写真立て。私は攻撃な人間ではないが、あの時は女の頭部を物で殴った。茂雄も少し異常であったのだ。それに恐怖してこの幼い男の子は私を殴ってしまった。そしてそれを今、謝罪している。涙を流しながら。それを見ると何故だか、被害者であるのにこちらが申し訳ないような気もしてしまう。

 しかし、相手は頭の病気か何か知らないが、不法な侵入者であることには変わりなく、それに私はベッドに縛り付けられて、得体の知れない物まで注射されている。そう思うと怒りが湧いてきそうなものだが、薬のせいだろうか。気だるさを残し、考えがまとまらずただ現状を把握しようとしてみるだけで精一杯で、気持は不思議と落ち着いている。

 何か言おうとするが、上手く声を出すことができない。それでも喉から音を絞り出そうと苦心する。

「健吾」

 口から出たその言葉に、男の子は驚いた表情を浮かべたが、それ以上に声を出した本人である茂雄が驚いていた。なぜ名前を呼んだのだろうか? そもそもこの子は誰なのだろうか? あの女は? 分からない事が多すぎる。そもそも向こうは私の事を夫であり父親であるという。これではまるで私が異常者みたいではないか。ベッドに縛られているのに、魂は空虚に浮かび上がり所在なく飛び回っているような、所在の無さを感じながら再び眠りにつく。


           6


 部屋の中に漂う香りが私の飢えた体が私を呼び起こす。すぐ近くに女が立っている。その手にはトレイに乗った暖かい湯気を出している器と透明のコップに入った水があった。

 茂雄の体は食べ物を欲していた。口には甘い唾液が次々と湧き上がり、胃は芋虫のように蠢いている。

 女は私の枕元にトレイを置き、髪を掻き上げ容器の横にある匙に手を伸ばす。茂雄は必死に容器に顔を近づけようとするが、僅かに届かない。女は茂雄の額にそっと手を当て、枕の凹みに再び彼の頭を戻す。

 匙で器に入ったものをゆっくりと掬うと、愛おしそうに息を吹きかける。僅かなさじの傾きから、その中に米粒が入っているのが分かる。その米粒が目に飛び込んで来たのと同時に鼻孔に甘い米の香りが入り込み、あらゆる神経を刺激し虜にした。かつてこのようにまざまざと食べ物の匂いを嗅いだ事があっただろうか。

 女は程よく熱を失った匙の中身を口へ慎重に近づける。茂雄の口は抗うことなく、口を開き受け入れる。茂雄が食べたものは粥だった。まぎれもなく粥であったが、なんとも表現しがたいほど美味な粥だった。そして、その後は雛鳥の様に女に粥を要求し、呑み込むとすぐにこれ以上ないほど口を大きく開いた。粥はすぐなくなり、満腹に達しはしなかったが、茂雄は満足していた。

 米粒を付けた口元を女は薄いピンク色のハンカチで拭う。そのハンカチは茂雄が妻の沙織にプレゼントした物だ。

 茂雄は女の顔を見る。女の顔は美しく、そして穏やかだった。この時、茂雄の中で何かが弾けた。初めは小さな気泡の破裂の様なものだったが、隣接する気泡の破裂を誘発し、次第に大きな破裂の渦となり、茂雄を揺さぶる。

 はたしてこの美しく、穏やかな女性が異常者であると言えるのか? 私の思い違いでない確証はどこにあるのか? それは勿論、私自身の記憶である。しかし、その記憶が確かであると誰が保障するのであろう。いや、誰も出来やしないのではないか? そうに決まっている。自身が自身の中にある記憶を疑った時点で、それは不確かな物になってしまうのだ。そして、実際に私は自身の記憶を疑っている。自分の記憶が正しいと言う確固たる確証を持てないのだ。私だけが記憶の差異を感じている今、私は漆黒の闇に一人放り出された宇宙飛行士の様に孤独である。しかし、私の記憶が間違っていた事を認めたならば、この孤独から解放され、再び暖かい現実、家族の元に帰れるのだ。

「すまない」

 そう言った茂雄の目からは涙が流れていた。すべて自分の思い違いであったのだ。どこか暗い洞窟に迷い込み、道を間違えたのだろう。まだ、本当の出口には辿り着いていないが、きっと目の前にいる女性を受け入れる事がこの長い迷宮の終着点なのだ。

「沙織、すまなかった」

 嗚咽を漏らしながら、繰り返す。女はなおも優しく微笑んでいるが、瞳には涙が浮かんでいる。その時、左腕に何かが動くのを感じた。女がロープと解いている。ロープは思いのほか強く結ばれていたようで解くのに戸惑っている。しかし、しばしの時間をおいて茂雄の四肢は自由を得た。そして、まるで解放を歓喜する様に手足の血管は血液を押し出している。

 女はそっと茂雄の半身を起し抱擁する。温い吐息がうなじを湿らせ、豊満な胸から伝わる鼓動が伝わる。これで良かったのだ、自分のただ僅かな記憶の誤解がこの様な事態を生み出したのだ。この美しく女神の様な女性と、心優しい息子、この状態のどこに不満があろうか。私はどうかしていたのだ。幸福に感じている今を壊す必要はない。

「もういいのよ。あなた」

 抱き合ったままの女は茂雄の耳元でそう呟くと、唇を歪め、声を出さずに笑った。


 その目には、もう涙は浮かんでいなかった。

最後の結論は読んでいただく方に委ねました。

皆さんはどの様に感じたでしょうか?

女が正しい?間違っている?

それとも二人とも?


皆様がどのように感じたのか非常に興味があります。


まだ未熟なので至らない所があると思いますが、そこは厳しく批判していただきたいです。


この度は読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 評価承りました、ユメミヅキです。 ・まず、帰宅して家の中を描写しているシーン。「家具や食器〜」とありますが、食器は少し苦しいかも知れません。 茂雄さん目線で書いてあると思うのですが、食器ま…
[一言]  ども、近藤です。  文中、人称が入り混じっているのは何かの仕掛けでしょうか。これは茂雄のモノローグ、これはいわゆる地の文であろうと判別は付くのですが、何となくもったいない気がしました。  …
2009/02/21 23:19 退会済み
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