哲学と文学についての考察
私は、文学は好きだが、哲学というものが好きではない。
哲学、例えば「あるから見えるのか見えるからあるのか。」私からするとどうでも良いの一言に尽きる。確かに見えない(存在を認識できない)からないと言われればそこまでだが、確かに物はそこに質量をもって存在する。
勿論、暴論だが、今貴方が読んでいるこの駄文を写すスクリーンがまばたきをした次の瞬間に無くなるということはないだろう。認識できない物はないのかもしれないがそんなことはどうでも良い。あるものはあるのだ。
哲学とは、基本的に答えが無いように思える。考えたところで少なくとも私には、行き着く先が見えない。哲学者達は何を思ったのだろう。もし、私がアリストテレスと同じ時代、彼の友人だったなら、彼の哲学を聞いて答えがないと馬鹿にするだろう。
文学、これもまた行き着く先が見えない。文学だけでなく芸術全般に言えることだろう。私自身かなり芸術についての理解度は低い。だからゴールを見ることができないのかもしれない。
例えば、印象派の画家モネの「睡蓮」や印象「日の出」は彼が比較的若い頃の作品である。彼は晩年、彼の庭の絵を描いた。印象派というよりは抽象である。彼が若かりし頃ルノワールと供にアトリエで描いていた絵の方が繊細だ。しかし晩年の絵の方が迫力があった。これは細々としたいらない要素を省いて最小限の芸術にした為なのではないか。彼は究極というゴールをみていたのではないかと考察した。
貴方が思う文学とは?多くの人は「文学」について文豪や著名な作家を思い浮かべるだろう。文学のゴールについての考察をしたい。まず構想だ。これに関していえば複雑であったり独創的であったのなら面白いのだろう。次にセンテンスについて。上手い文と言えば無駄がなく伝わりやすいということだ。これだけの要素であると、機械的な文章が上手い文章ということになってしまう。
センテンスについてもう少し考察を深めてみる?例えば"I love you"というセンテンスについて。私はあなたを愛しています。たかだかこれだけの文章でもいろいろな訳ができる。「大好き」「愛してる」「好きだ」まあ、いろいろと訳すことができる。たとえばいろいろなシチュエーションを考えると。「結婚してくれ」「大嫌い」まあ、好き以外の意味が含まれることもあるだろう。この訳で「月が綺麗ですね」というのがある。素敵だと思う。
この例で言いたいのは「月が綺麗ですね」には無駄が多いということだ。7割は無駄なのではないだろうか。他の芸術と違い文学とは無駄を追い求めるのだ。
哲学は先の見えないものを考える。文学は無駄の追及。この2つに類似性をみた。
だが、哲学と文学は圧倒的に違う。哲学の究極は無駄の中から真理を探すことであり文学は、真理からよりキャッチーな無駄を当てはめることだ。
よって私は哲学と文学は似ていながらも対極のものと考察する。