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2018年/短編まとめ

空泳ぐ鯉幟にも水泳ぐ鯉にも成れない人へ

作者: 文崎 美生

鯉幟だ、と思った。

黒から白へと綺麗なグラデーションを作っている空には、何匹もの鯉が浮き、空という海を泳いでいた。

赤や黒、それから青に水色、橙や黄色。

カラフルな鯉の体が、空を縦横無尽に飛び回る。


気付いた時には、何やら造りの良い真っ黒な橋の上にいた私は、ただぼんやりと空を泳ぐ鯉幟を見上げた。

幟、とは言うものの、幟らしい糸も棒も無いのだが。

それでも濡れた空気を孕んだ体が艶めかしく揺れ動く様を眺め、長い息と共にこれは夢だと確信する。


何の支えもない鯉幟が、空を泳いでいるのだ。

それも全て同じ方向を向き、同じ方向を目指している。

奇妙で奇天烈。

私は数回瞬きをした。


白いシャツと黒いパンツという軽装中の軽装の私は、シャツの襟を直し、それから歩き出す。

手は、なるべく手摺に置いて、その滑らかな感触を確かめながら。

足は、なるべく強く橋板に押し付けて、軽やかな足音を響かせながら。


身を隠す必要を感じないこの場所は、肩肘を張る必要が無く、堕落を感じる。

大きく息を吸って、吐き出す、そんな行為すらも私を堕として、落とす、貶める。


無意識に空いた左手を胸元に寄せるが、求めていた感触は存在しなかった。

ヒヤリとした金属のそれが存在しない。

やはり、ここは、私を貶める。

ふと顔を上げると、空を泳いでいる鯉幟の一匹と目が合った。


大きな赤い体を艶めかしく揺らした鯉幟は、金色の瞳で私を射抜く。

オイ、ヤメロ、そんな目で私を見るな。

奥歯を噛み締めれば、上下の歯が擦れて削れるような鈍い音がした。


布で出来上がった体をしている癖に、動きだけは人間の女のように媚びた空気を纏い、前へ前へと泳ぐ。

ギョロリとした目は、ゆっくりと私から視線を離し、自分の進むべき方向へと向く。


可笑しいと思う。

何がと問われれば、全て、と答えなくてはいけないが、今は何よりも布で出来上がった鯉幟が私を見た事が、だ。

幟なのだ、体が動き回るのは良い――例え糸や棒等の付属品が無くても。

ただ、目玉が動くのは気持ちが悪いし気味が悪い。


眉根を寄せ、空を見上げれば、色取り取りの体が空を埋め尽くしていた。

増えている、確実に増えている。


無防備にも口を開いて空を見上げた私は、何て間の抜けた状態なんだろうか。

そんな私を嘲るように、空を泳ぐ色取り取りの鯉幟達は、一斉に体同様に色取り取りの瞳を私に向けた。

ギョロギョロ、ギョロリ、奇妙で奇天烈、奇特で奇異で、気味が悪くて気持ちが悪い。


体を固め、手摺を握り締めた私に、一匹の鯉幟が身を翻して寄ってくる。

糸も張られていないのに、ぽっかり開いた口が私に向けられた。

左右前後に落ち着きなく動き回る金色の目玉を見て、コイツ、さっきの奴じゃ無いのか、と思う。


そう思っている間にも、開いた口は近付き、そのまま私を飲み込むように――ガッ、何かが私の右手を掴んだ。

「は、っ?」呼吸なのか、ただの間の抜けた呟きなのか、そんな曖昧なものが私の口から飛び出し、否が応でも足を前へと突き動かすことになった。

引っ張られる、引き寄せられる。


すっかり危機感の抜け切った頭を回し、現状把握の為に自分自身の目を使った。

足を進める方向へと視線を向ける。

そこには、私の腕を引く人影が一つ、やはり私を先行して走っていた。


真っ黒で短い髪が揺れる。

濡れた空気の匂いしか感じなかった筈だが、その人影からは鼻を突くような薬品の匂いがした。

ひらり、視界の隅で白が揺れる。

揺れたそれを追いかければ、目の前の人影の足元で揺れる白衣で、薬品の匂いの出処もそこだった。


「ねぇ、君……」


とったかたかたか、とっとことことこ、足音が軽やかに二人分重なったり外れたりして響く。

私の声が届いているのか、否、この距離で届いていない筈が無い。

無い、のだが、返答も無い。


私の腕を引く手は力強く、グングン前へ進む。

濡れた空気が湿っぽい風になり、頬を撫でて行くが不快感が残る。

空に視線を移せば、先程の鯉幟は何処ぞへ紛れ込み、すっかり分からなくなっていた。


同じ方向へ揃って向かう。

足並み揃えて、ワン、ツー、さん、し。


「帰るんだ」


私達に視線を向けなくなった鯉幟の腹を見上げていると、淡泊な声がした。

声の方へと目を向ければ、細かく揺れる黒髪があり、その隙間から覗く耳は存外白い。

振り返ること無く、迷うこと無く足を前に進めるその人影に「何処に?」問う。

純粋な疑問だった。


「此処じゃ無い所に」

「夢は覚めるものだからね」

「だから帰るんだ」


目の前から吐き出される言葉の語尾が強くなるのを感じ、私はほぼ反射で足を止めた。

私よりも体付きが幼く小さな人影は、少年らしく私が足を止めれば自分の足も止めてしまう。

素直な行動だと思った。

それでも振り返らない理由は何なのか。


「何処に?」


もう一度、同じ問を。

自分の眉が形を歪めて下がるのを感じる。

私の腕を握る手に力が「帰るべき場所に」込められて「帰るべき場所が帰りたい場所とは限らないでしょう」私は腕を引く。

解けそうになった手を、強く、強く握られ、ギシリと骨の軋む音を聞いた。


空気が乾く。

それから、泳いでいた鯉幟達が一斉に動きを止め、私達を振り返った。

しかし、私の目の前のその少年だけが振り返らず、丸く整えた爪を私の肌に突き刺す。

何が何でも離さないという意志が見え隠れしている。


ふわり、目の前に赤が割り込んで来た。

安っぽい鱗が描かれた体の鯉幟で、また、金色と目が合う。

鯉幟達が動きを止めたのはほんの一瞬で、次の瞬間には動き出しており、何故かぐるぐる、私達の周りを泳ぐ。

回遊という言葉を思い出したが、字面は合っているが意味は少し違う。


「帰って来て」


縋り付くような声とは裏腹に、その手は離され、そうして突き放された。

ドン、いつもは潰している筈の胸も、夢の中では健在で、それを押されれば骨に振動はないものの、快感でも不快感でもない違和感。

帰って来て、その言葉の割に、押し返されているのだが。


体が浮く。

酷く心許無い感覚に、うっ、と息が詰まる。

私は生憎、人間で、鯉でも無ければ鯉幟でも無く、最低限泳ぎは出来るが空は飛べない。

橋から突き落とされた私は、真っ黒な橋と色取り取りの鯉幟が遠ざかるのを見た。

これは夢、夢だ。


橋の上で私を見下ろした黒目が二つ。

その瞳の奥で赤い光が薄ぼんやりと見え「あっ」と声を上げて、終わり。


***


「……嗚呼」


目を開ければ見慣れた白い天井があった。

赤黒い染みを見付け、それもまた、見慣れたものだと体を起こそうとする。

しかし、胃の辺りが重く、痛い。

「何?」眉を寄せ、何とか首だけで自分の体を見下ろした。


真っ白なシーツの上、黒い髪がまとまりなく広がっている。

決して特別長い訳でもない髪を見て、その隙間に見えた目元で歪む眼鏡に溜息が漏れた。

私の腹を枕にして眠っている男は、私が多少身動ぎをしても目を覚ます気配は無い。


仕方無く腕を抜き、痺れの残る指先を動かして黒く太い縁で出来た眼鏡を抜き取る。

薄っぺらなレンズが頼りなく見えた。

一度、二度、と眼鏡を上下に振ってから、壊れていない事を確認してベッド脇の机へと置く。


その際に見下ろした自分の腕は、白い包帯でぐるぐる巻きになっていた。

「うわっ……」自分自身の体の事だが、かなり引き気味の声が漏れる。

痛みはほぼ無い、と言うより麻痺していて痛覚を感覚として通していない上に認知もしていない。

その割に、白かった包帯は私が数回腕を動かしただけで、じわりと赤黒い液体を見せる。


恐らく、シーツの下に埋めた体そのものも腕とほぼ同じ状態だろう。

浅く溜息を吐き、私の胃を押し潰すように眠っている男が身動ぐのを見る。


それから、ベッドへと体を横たわらせる迄にあったであろう記憶を探し出す。

「確か任務で……」着慣れた軍服を思い出し「ナナと一緒に……」同じ部隊の人間も思い出す。

続いて思い出したのは手に握ったハンドガンの感触で「あの時通信が入って……」更に思い出すのは耳を劈くような同じ舞台の人間の声だった。


「嗚呼、ヘリを撃ち落としたのに巻き込まれたのか」


最後に思い出すのは、地響きを起こす爆発音とそれ故に跳ねる赤だ。

黒煙もあったな、と思う。

無事に思い出したものの、爆発に巻き込まれ記憶も意識も吹っ飛ばしていたのは、なかなかに情けない話だ。


「私は軍人。特殊部隊隊長。これさえ覚えていれば無問題か」


緩く指先を胸元に引っ掛ければ、チェーンの冷ややかな感触が伝わる。

見下ろす胸元では、鈍く光るドッグタグが揺れた。

それから男を再度振り返り、彼が元特殊部隊の隊員で今は軍医をしている事を確認する。


――忘れていない、大丈夫。

ふぅ、短く息を吐き、彼の前髪があらぬ方向へ跳ねているのを見る。

指先でそれを撫でるように直しながら「ただいま」と短く声を掛けた。


ベッド脇の机の上には、使い慣れたハンドガンが二丁とナイフが二丁置いてある。

嗅ぎ馴れた火薬の匂いが何処からか運ばれて来て、薬品の匂いと混ざり合う。

白衣、黒髪、薬品の匂い、それから、と私は男の前髪を掻き上げた。


私の細かく動く気配に気付いたのか、伏せられていた睫毛が、瞼が持ち上がる。

その奥から覗いた黒い瞳の奥には、ゆらり、赤い光が宿っていた。

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