2日目③「述懐」
私がこの『世界』に来てから、実に二十時間。
ようやくこやく、自由な時間が来た――まあ、この『二十時間』という数字も『この世界』の一日が二十四時間だったらの話だったが、宿や食堂にかけられている時計を見る限り、時間については元の世界と変わらないはずだ。ちゃんと一番上に『12』というアラビア数字が描いてあった(数字だけは、この世界も同じようだった)。
現在時刻は夕方五時。
つまり、私がこの『世界』に降り立ったのは昨日の夜九時ということであるが、そこはわかっている。ちゃんとわかっている。ノーラさんの懐中時計を見せてもらったおかげで。
思い出すだけで身震いする。
本当にわけのわからない状況だった。
約二十時間前、病み上がりでまだ万全と言えない状態で、私は近所のスーパーへ出かけた。そして夕飯の弁当を買い、帰路を歩み、自分の家の玄関のドアを開けた――ところで、わたしはぱちくりと瞬きをした。
目を疑った。混乱した。なんせ、そこにはもう――
――玄関がなかったのだ。
下駄箱がなかった。スリッパがなかった。傘立てもなかった。電気のスイッチもなかった。壁に飾ってあった風景画もなかった。棚の上に置いていた中学の修学旅行でお土産に買ってきた小さい京人形の置物もなかった。
ただただ、森が広がっていた。
後ろを振り返っても、開けたはずのドアもない。やたらと高い広葉樹が立ち並んでいるだけだった。膝下くらいまで届く雑草が所狭しと生え広がっていたが、私が立っているところは獣道のど真ん中のようで、私の足元には土が盛ってあるだけだった。
――唯一幸運だったのが、目の前に人が一人いたことだ。
呆然自失でつっ立っていた私を、その人はぽかんと見上げていた。高い鼻筋にきりっとした目元。そしてだいぶ薄い栗色の長髪。なんともエキゾチックな、外人さんの顔立ちの女性だった。
そんな人が、ぱちぱちと燃える小さい焚火に金属のコップをかざしていた。どうやら飲み物を温めているところらしかった。真っ暗闇の中、周囲の風景が見えたのも、この焚火の明かりのおかげだった。
「――――――」
その女の人が話しかけてきた。が、何を言っているのかさっぱりわからなかった。何の前準備もなしに聞いたのでは、英語と念仏の区別もつかない私である。どこの国の言葉かもわからなかった。
「……あ、あいむ、ふろーむ、じゃじゃ、じゃぱん」
と、この人が私の(死ぬほど拙い)英語を理解してくれることを祈りながら答えてみたが、この人は首をひねるばかり。伝わった様子は全然ない。
どうしたもんかといよいよ困窮していると――この女の人は、おもむろに足元のカバンを拾い上げた。そしてごそごそと中をまさぐる。
取り出したのはシルバーのネックレスだった。そして私の首にかちゃりと掛けてくる。
――と、
「どうだい? これでわかるかな?」
と、女の人がいきなり日本語を話してきた。
「へぅぇっ?」
と驚いていると、
「はっはっは、これは翻訳魔法がかかったネックレスだよ。どこの言葉でも、話さえすれば通じるようになるんだ」
と笑いながら答えてくれた。そして、
「……というか、こんな森の中に、女の子が一人でどうしたんだい? よければ話聞くけど?」
と水を向けられ、私はとにかく自分の状況を(あなたも女性一人では? というツッコみを我慢しつつ)一生懸命説明した。
これが、私とノーラさんの出会いである。
ちなみに、話している最中に一度、乗用車くらいはあっただろうとんでもなく大きい犬(狼?)が私たち二人に襲いかかってきた。
私は、
「……ふゅへーっ!」
という悲鳴を上げて腰を抜かすばかりだったが、ノーラさんはまったくと言っていいほど動じる様子はなかった。あくまで冷静な表情で、忍者が使いそうな巻物みたいなものを腰元から取り出し、ばさりと広げた。
途端、その巻物から火の玉が出てきた。
運動会の玉転がしで使う玉くらいの大きさの、やたらデカいものだった。
犬(狼)にはさらりとかわされてしまったが、威嚇にはなったのだろう、グルルルとしばし唸った後、諦めたように遠方へ歩いて行った。
自分は真に追い込まれたらこんな情けない悲鳴を上げるのかと頭の片隅で愕然としつつも、ノーラさんが出したあれはなんだったのかと聞いてみた。
ノーラさんはあっけらかんと、
「魔法だよ」
と。
――魔法っていうのは、あれか、小さい頃見ていたマンガで、変身する女の子が使うやつ。
――私は、不思議の国や鏡の国に迷い込んだどこぞの少女Aよろしく、魔法の国に迷い込んだということだろうか?