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古井咲コノハの9日間  作者: 式織 檻
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6日目⑥「妹」

 めちゃくちゃ怖かった。

 以前東北に旅行に行った時に長くて細い吊り橋を渡ったことがあって、その時も高いやら不安定やらでだいぶおっかなびっくりだった覚えがあるけれど――この透明階段は、それとは比較にならないくらいの恐怖だった。

 そりゃそうだろう。

 何と言ってもまず、手すりがまったくないのだ。万が一バランスを崩した時に守ってくれるものが何もない。一応、前にラスティさん、後ろにウェツァさんという布陣で歩いており、もしもの場合はラスティさんの背中に掴まる格好になるのだろうけど……。もしラスティさんまでバランスを崩してしまったら、もうどうしようもない話だ。

 それにそれだけじゃなく、足元が透明だから、数メートル下の激流がそのまんま見える。その景色が相当に恐怖を煽ってくる。段の高さも正確にはわからないから、つま先がつっかからないか、一歩一歩戦々恐々と進んでいかざるを得ない。極めつけは、下から吹き上がる飛沫のせいで足元が少し濡れているのだ。ゆっくり歩かないと、滑って転んで真っ逆さまなのである。

 まさに命懸けだ。

 比喩でもなんでもなく、私の命が原寸大で懸かっている。

 弟がやっていたゲームでは、確か、キャラクターたちはロープの上でさえもすいすい歩いていた気がしたけれど……。実際問題、普通の人間にあんなのは無理だ。九割九分九厘、落っこちる。


 結局、たかだか数十メートルの距離を私達は二、三十分かけて渡った。


 もし渡っている途中に魔物に襲われたりなんかしたら相当なピンチだったけど、一応それは回避できた。それだけは、運が良かったんだろう。

 ようやく透明でない普通の地面に降り立ったが、


「さあ、出口は近いし、早くここを出よう。また魔物が出てくる前に」


 ラスティさんが休む間もなく言ってくる。


「ここだって、足場が十分なわけではないし。次また襲われたら、倒せる保証はないからね」

「……あの、気になってたんですけど」


 私は挙手して聞いてみた。


「私が見てた感じだと、その、途中から、ウェツァさんがなんか青い湯気か煙みたいなのを出して、その後はナマズの魔物を圧倒してたようだったんですけど……あの魔法は、あんまりたくさんは使えないんですか?」

「ああ、あれは魔法じゃないのさ」


 笑顔で答えてくれるラスティさん。その後、ちらりとウェツァさんの方を見た――多分、自分が答えていいのか、という確認なんだろう。

 ウェツァさんのノンリアクションを『問題なし』という返答ととった(のだろう)ラスティさんが、言葉を続けて、


「あれは『闘気』さ」

「……とうき?」

「ああ。魔力は消費しない、どちらかというと気合とか気力に近い力さ。呪文なり呪文書なりは必要ないけど、代わりに、基本的には自己強化か疑似的な物理攻撃にしか使えないものだよ」

「気力……ってことは、使うと、すごく疲れるんですか? だからあんまり長い時間は使えない、みたいな」

「というより、ほとんどアンコントラーブルなのさ。ウェツァ(こいつ)も、通常出来るのは、斧に少しばかり闘気を流し込んで強化する程度。あそこまで解放するのは、相当な気持ちの高ぶりがないとできない」

「気持ちの高ぶり?」

「そう――あの時は君が傷を負ったもんだから、要はこいつもキレて、あれだけの闘気が一気に解放されたわけさ。……そりゃあ、また君がピンチになれば、もう一回同じことができるかもしれないけれど――俺達だって、また君をあんな目に合わせるつもりはないからね。だから、あれを勘定に入れたりはしないのさ」

「……そ、そういうことですか」


 ようやく納得した。

 そろりとウェツァさんの方を見ると、仏頂面のまま、ふんと鼻を鳴らした。


「……あんなところで不覚を取って、お前にもしものことがあれば、妹に顔向けできないからな」


 私から視線を外しながら、小さく呟くウェツァさん。

 ――ウェツァさんの、妹さん。

 馬車での雰囲気からして、あまり私が突っ込んでいい話題ではないかもしれない。部外者が立ち入っていいことではないのかもしれない。けれど私としては、ウェツァさんの中にその妹さんに対する覚悟みたいなのがあったから結果救われた、という部分はあるのだろう。


『よく馬車酔いするやつが、昔近くにいたんだ』


 馬車の中での会話。過去形で語られていたことから、何も推し量れないほど、私も能天気ではない。

 あまり深く立ち入らない、けれどウェツァさんの心情にも少し寄り添えるようにと、


「……妹さん、大切な方だったんですね」


 と言葉を掛けた。似ているかどうかはさておき、ウェツァさんは私にその妹さんを重ね、結果あれだけの力が出たということなんだ。ウェツァさんが彼女を大切に思っていた。これは間違いではないだろう。


「ああ、それはそうだ。世界一の妹だ」


 ウェツァさんは頷いた。

 世界一――妹を可愛がる兄というのは、比喩でもなんでもなしに、こう思っているものなんだろうな。

 ウェツァさんは顔を上げ、天井を見上げて、


「散歩が好きなやつだった。森でも山でも分け入って、小一時間歩いて回る。小さい頃には、俺に花冠を作ったり、四葉のクローバーを探してきてくれたりした」


 本当に、仲が良かったんだ……。


「パンを作るのが好きで、日曜の昼間にはあいつが一週間分の朝食のパンを焼くのが決まりになっていた。最初は焦がしたりもしたが、ものの数か月で店に並べられそうなものになった」


 色々と思い出があるんだ……。


「その後お菓子なんかも少しずつ作るようになって、友人を集めてお茶会もよくやっていた。クッキーやマフィンだけじゃなく、シフォンケーキなんかも作るようになって――昨日の手紙では、最近はマドレーヌに凝っているらしい」


 ………………………………昨日?


「朝は強いが、夜はすぐ眠くなるやつで、八歳まで一度も夜更かしをしたことがなかった。それが、家族全員にマフラーを編むと言って、夜も頑張って編み続けて、結局居間で寝てしまうことが何度かあった。それを寝室まで抱えていくのが俺の役目だったわけだ。結局そのマフラーも冬の終わり頃にようやく完成したが、赤と橙のすこぶるデザインの良いものだったから、俺も夏の初めくらいまで巻いて外出していたものだ。恥ずかしいから止めろと照れ隠しで言っていたが、実際だいぶ注目されていたし、きっとあいつも満更ではなかったはずだ。この前、今も使っていると手紙に書いたら、昨日の返信では、十年も前のだからいい加減捨てろと言っていた。相も変わらず照れ隠しが下手な奴だ」


 ……えと、昨日とか最近とか、どういうこと? というか、無口なはずのウェツァさんが、いつの間にか口上が止まらなくなっている。一体これは何がどうしたのか、もしかしてこれはウェツァさんの偽物かしらと、ラスティさんの方を見ると、


「………………ッ」


 額に手を当て、がっくりとうなだれている。

 あからさまに、やってしまった、という表情。


「この間、ウフェールの魔工学専門学校の入学試験を受けて、見事合格したそうだ。千人に一人しか受からないというあのウフェールに一発で受かったというのだから、あれはとんでもない天才だ。昔からそうではないかと思っていたが、ようやくあいつの優秀さが世間に知れ渡っただろう。将来は学者か、それこそこのレイドの魔学の学長になっても何も驚きはない。世界中の学者があいつにかしずく未来が見える。世界の歴史に名を残すのは既定として、あとは何歳くらいで教科書に名前が載るか、といったところだろう。俺としては三十前半と予想しているが、もしかしたら二十代前半、いや、あと数年でそうなっていてもおかしくない。そうなったら、あいつの経歴が正しく記載されているか、俺がしっかり校閲しなければ――」


 延々とウェツァさんの一人しゃべりは続いている。

 私はラスティさんの方に近づいて行って、


「……あ、あの、ラスティさん? これって、その、どういう……」

「……こうなるから、オレも、こいつに妹の話題を振るのを避けてたんだよね」


 嘆息するラスティさん。


「……誤解してたのかもしれないけど、こいつの妹は今も健在さ。レイドの北の方にある、ゼーベっていう村で今もご両親と暮らしてるよ――ただ、こいつは昔から妹に過保護というか、溺愛し過ぎててね。妹を噛んだ隣家の犬に対して円形脱毛症になるまで延々と説教をしたり、村の運動会で妹が走るレーン以外の至る所に前日に落とし穴を掘ったり、妹が買い物に行ったら必ず値引きするようにと近所の肉屋に圧力を掛けたりと、そんなことばかりして、村でも問題になっていたらしい。それを見かねて、こいつが十三の時に妹直々に実家を出禁にされて、それから一度も実家の敷居をまたげてないそうだ。年に二、三通来る妹からの手紙がこいつの人生の唯一にして最上の幸せになっているわけさ」


 そ、そんな背景が…………。


「こうなると、もう、冗談でもなんでもなく、日が暮れるまでこいつは止まらない。魔物に見つからないようにとかはもう無理さ。……とにかく、オレ達だけでも周りを警戒しながら進もうか」

「わ、わかりました……」


 私はゆっくり頷く。

 もう一度ウェツァさんの方を見たが、まだ話は続いている。九歳の時に、勉強を教える立場から教わる立場になった話をしている。

 私は大きく息を吐く。

 そして心内で思いきりツッコむ。



 ――生きてるんかいッ!

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