3日目③「遭遇」
「へ……ほ……へ……ほ……へ……ほ……」
私は息を上げながら、森の中を歩いていた。
元々私は体育の成績も学年で真ん中より上だし、履いている靴も軽いスニーカーだ(単に、家から出る際、足元が覚束なかったので履きやすいのを選んだというだけだが)。一時間やそこらのウォーキングなど、私にはたいした問題はないだろうとたかをくくっていたのだが――森の中の道というのは、そうそう甘いもんじゃなかった。
山でなくとも小さな高低はあるし、木の根につまずきそうになるたび踏ん張るし、大きな石も飛び越えていかなければならない。十分歩いた時点ですでに膝が痛くなり、その後はただただ我慢するばかりになっていた。
…………何で私は、ついてきてしまったのだろう?
あの「エイネ渓谷」と書かれた書置きを見つけた後、とにかくそこへ行ってみようという話になった。ラスティさんが行くのはまあ当然だが、女将さんと旦那さんにはお店がある。そして私も一応、お店を手伝わなければならない。
だから、ラスティさんと町の警備団の人が行くもんだと思っていたのだが、
「正直、女性に苦労を強いるのは俺としても不本意この上ないのですが、コノハには同行していただけるとありがたいのですがね――というのも、この書置きを見ると、シオン様は『あなた』に伝えたかったのではないかと思えてしまって。『エイネ渓谷』へ行くと、ね」
とラスティさんが言い出したのである。……まあ、確かにそれは、疑問っちゃあ疑問だ。
どうしてシオンちゃんが日本語を知っていたのかわからないし、どうしてこれを日本語で書いたのかも謎だ。純日本人である私が偶然(?)ここにいる以上、私に関係してるのかもというのは、的外れな予想でもないはずだ。
しかし、そもそも私は、腰を悪くしている女将さんのサポートのためにここで働いているのだ。それを入って二日目でいきなり離れるのは問題だろうと思い、私は女将さんの方を見たのだが、
「ん? ……ああ、店のことなら心配はないよ。昨夜立ち仕事を代わってもらったおかげで腰もだいぶ良くなったし。元々この店は、私と旦那の二人で切り盛りしてたわけだしね」
と女将さんは微笑みかけてきた。
それを受け、ラスティさんは
「よかった! 決まりですね」
と手を叩く。
女将さんはエプロンのひもを結び直して、、
「あ、じゃあ、ちょっと待ってな。簡単に弁当作ってくるから。まだお昼食べてないんだろう?」
「重ね重ねありがとうございます、ご婦人」
「まあ、料理の残り物詰めるだけだから、あんまり期待するんじゃないよ」
と、女将さんと旦那さんはいそいそと階段を下りて、厨房へと行ってしまった。
「どんなお弁当か楽しみだ」
とラスティさんは私ににこりと笑いかけてきた。が、私は正直それどころじゃなかった――ただただ、私にもあるはずの『拒否権』というものが一体どこへ行ってしまったのか、逡巡するばかりだった。
――その後、警備団の人も後追いで現地に来てもらうという段取りをしつつ、弁当を受け取り、森の中を三十分歩いて、今に至るというわけだ。
ぜーひー言いながら小脇にあった立て看板に寄りかかっていると(ミシっと言って少しヒビがいってしまった)、私の数メートル先を行くラスティさんが私の方を振り返ってきた。
「コノハ、大丈夫かい? ……無理そうだったら言ってくれ。いつでもおんぶするから」
「…………超遠慮します」
私はぼそりと答える――この歳になっておんぶとか、冗談じゃない。
……いくらか話していてわかってきたけど、このラスティさんは一応サギ師ではない(みたいだ)し、どうやら単にお世辞を誰彼構わず言いまくる人というわけでもないようだ――ようは、女性に優しくする自分に酔っぱらう類の人なのだ。
ジェントルマンであるに越したことはないが、少しはこっちの心情も考えてほしい。セクハラまがいの言動に対応するだけで、こっちは疲れるのだ……。
まったく、足も痛いし、気疲れもする。
いい加減、休めるところにたどり着きたい。
「エイネ渓谷」まで歩いて二十分と女将さんは言っていたが、どうにもなかなか到着しない(渓谷の中心部には避難用の小屋があるとのことだった)。私の足が遅いせいで時間をくってるんだろう。こうなるなら、本当に、私が来る意味はなかったんじゃないかと思えてくる。
私はよろよろと歩きながら、
「……あの、シオンちゃんがこうやっていなくなることは前にもあったんですか?」
と、気晴らしのつもりでラスティさんに聞いてみた。
さっき、シオンちゃんが城から抜け出した時の状況を聞いたときは教えてくれなかったし、答えてくれるかは五分五分だと思っていたが、
「いや、こんな遠方まで来るのは初めてだね」
と、この疑問については教えてくれた。
「ただ、城の中でちょこちょこ姿をくらますことは、これまでも何回かあったよ」
「……ああ。きっと好奇心が旺盛なんですね」
「まあ、そういう部分もあるかもしれない――そもそも『巫女』に選ばれていると言っても、単に体内エーテルの量が多いからという理由だけだからね。それ以外は普通の子供と何ら変わらない。特に『巫女』として、特別な教育を受けられているわけでもないしね」
言いながら、ラスティさんは何かを憂うように、空を見上げた。
「……しかし、たまに感じることがある。シオン様は、『何か別の存在の意思』によって突き動かされているところがあるんじゃないか、と。……まあ、これは俺の私見だ。確証があるわけでもないし、逆にそう見える部分があるからこそ、シオン様の神秘性が際立っているとも感じているよ」
「はあ……」
私は気のない相槌を打つに留まった。……言っている内容が少しわからなくなった。……タイナイエーテルって、何?
「さあ、少しペースを上げようか。日が暮れる前には戻らなければならないし」
「……そうですね」
「おんぶは、まだ大丈夫?」
「…………永遠に不要です」
私は低い声で答えつつ、気合を入れ直して再度歩を進めていく。
木の根をまたぎ、石を乗り越え、雑草をかき分け、いくつ目になるかわからない立て看板を横切りながら……。
ふと気になって、聞いてみた。
「あの、ラスティさん、この看板、何て書いてあるんですか?」
「ああ、それは『魔獣注意』だね」
「ま…………魔獣っ?」
私は思わずのけぞった。
「…………え、こ、ここ、ま、魔獣が出るんですかっ?」
「? そうだけど?」
「魔獣、って、あの、大きい犬か狼みたいなやつですかっ?」
「まあ、そういうウルフ系もいるし、ベアー系もいるね」
「く、熊系っ? ……な、何でそれ先に言ってくれないんですかっ!」
「え、いや…………そりゃ、森なんだから、いるのは当たり前じゃないか……」
ラスティさんはぽかんとした顔で言ってくる。……あ、当たり前っ?
「まあ、その辺りは魔獣の中でも危険度の低い方だし、問題はないよ。俺が君を守るから」
どんと胸を叩くラスティさん――狼系の危険度が低いって、そりゃつまり、ノーラさんと出会ったときに出くわしたあの狼も弱い方ってこと……?
いやいやしかし、そんなのは『この世界』での常識だ。私は獣と闘ったこともなければ、武器も持っていない超丸腰なのだ。ラスティさんとはぐれたら本当に死活問題なんだということを、私は今更ながら認識した。痛感した。これを最初に知っていれば、絶対について来なかったのに……。
こんな大事なことを絵もない注意書き一つで済ますのかと、私は看板を睨みつけた――と、
「……ん?」
「どうかしたかい?」
「ああ、いや、たいしたことじゃないんですが」
私は看板のヘリを触り、
「この看板、ヒビが入ってるなって……。さっき私もやっちゃったんですけど、やっぱりこういうの、思わず寄りかかっちゃうもんなんですかね? それとも、その魔獣がぶつかって割れちゃうとか?」
「…………待ってくれ」
ラスティさんは急に真剣な顔になった。そして看板の真ん前で中腰になり、板の右下にできているヒビを見つめた。
「これ――さっきコノハが寄りかかった時に作ったヒビと同じ場所だね」
「……見てたんですね」
「――くそっ……そういうことか!」
急に、ラスティさんは立ち上がりながら叫んだ。
私は驚き、飛びのきつつ、
「な、何がです?」
「この看板は、さっきコノハが寄りかかった看板『そのもの』なんだ!」
さっきのと同じ看板? 同じ種類の看板ではなく、同じ看板そのもの? ってことは、つまり、私たちはさっきと同じところを歩いている? ってことは――
「――ま、迷ったってことですかっ?」
「違うよ」
…………違った。
ラスティさんは苦々しい顔で、
「いくら森とはいえ、木々の間から太陽は見えている。俺たちはずっと東に向かって歩いてたんだ。逐次、方角は気にしていた。なのに、なぜか俺たちは同じところを歩いている。となれば、原因は一つしかないね」
「原因?」
「――魔法だよ」
ラスティさんは言った。そして静かに目を閉じる。
「コノハ、下がってて」
「……え、な、何するんです?」
「魔法には魔法だよ」
ラスティさんがそう言うと、急に、彼の周りに微風が吹き始めた。そして白い光みたいなものがぐるぐると回りだす。
「ま、魔法っ? ラスティさん、使えるんですか?」
「これでも、レイド国騎士団の第一小隊長を任されている身だからね。簡単なものなら、いくつかは使えるよ」
ふ、とニヒルに笑うラスティさん。そしてぼそぼそと、呪文みたいなものを唱えだした。翻訳ネックレスでも日本語に訳してくれないようだし、どうやら本当に、意思疎通用の言葉ではない、いわゆる呪文ってやつなんだろう。
ラスティさんは数秒の間、小さい竜巻の中、光をまとって口を動かし続けていた。そしてふっと眼を見開くと、
「〈消去 〉!」
と叫ぶ。それと同時に、手を真上に挙げた。
すると、周りにあった白い光が急に強くなる。どんどんどんどん強くなり、カメラのストロボよりも何倍も強くなり、目を開けていられなくなった。
私は思わず目を閉じ、腕で顔を隠し――そして数秒経った後、そろりと目を開けた。
開けて驚いた――
――周りの風景が一変していたのだ。
周りに木はなく、さっきの立て看板もなく、私はぽっかりと開けたスペースに立っていた。
魔法魔法と言っていたが、一体ここにどんな魔法があって、今ラスティさんはどんな魔法を使ったのか。そして今どういう状況なのか。目の前でさっきと変わらず立っているラスティさんに聞こうとした――が、ラスティさんは私の背後を見上げていた。
「……こいつか」
やれやれと言わんばかりの表情で、そう呟くラスティさん。
一体何を見てるんだと振り返ると、
『シシシシシシシシ』
葉っぱが擦れる音のような、あるいは動物の鳴き声のような、はたまた歯ぎしりのような、そんな音を立てながら、『そいつ』はうねっていた。
茶色い幹のようなものが地面から生え、ミミズのように枝を左右にゆらゆらと揺らしつつつ、各所の葉っぱをざわつかせ、そしてその天頂部には数メートルも上から私たちを見下ろすような――あるいは狙いを定めているかのような――人の顔みたいな造形のうろを備えた、大きな大きな木の化け物が立ちはだかっていたのだった。




