1-4 彼のことが気になる理由
突然だが、クラス替えの際に自分のクラスの担任の名前を見て『うわっ……○○かよ』と友人同士で愚痴を言い合ったことがある人は多いのではないだろうか。別に悪い先生ではない、というかむしろ頼りになる良い先生である。ただちょっとうっとうしい。そんな先生が自分の担任になった際のあれである。
二年五組の担任である権藤幸一は熱血漢であった。生徒からの悩みには全力で向き合い、勉強が遅れている生徒には、例え自分が担当する国語以外の教科であっても居残り学習に付き合う。ルールすら知らなかったバスケットボール部の顧問を任されてからは家でルールブックを読み込んでおり、高齢者ボランティアとして教えに来てくれているコーチにも感心されている。そんな権藤教諭の唯一の欠点、それはとにかく話が長いのである。
(もう他の教室はみんなホームルームなんかとっくに終わってるのに……もうっ!)
いつもならば『先生今日も熱いなぁ』と心の中で苦笑いをするだけの笑麻であったが今日は違う。
ホームルームが始まる前、六時間目が終了した段階から『先生お願い!今日だけは早く終わって!』と心の中で祈っていた笑麻にとって、一向に終わる気配のない権藤教諭のありがたいお話はもはや苦行以外の何物でもなかった。
二年二組の教室にて悠斗不在を確認した後、笑麻は悠斗がいそうなところをしらみつぶしにあたることにした。といっても悠斗のことを何もしらない笑麻である。結局のところ食堂やテラスそして図書室などの人が集まりそうなところを巡るしかなかった。そしてそのいずれにも悠斗はいなかったのである。
(田島君、絶対帰っちゃってるよ……部活もやってないみたいだし)
悠斗のことを聞いても冷やかしたりしなさそうな何名かの友人に聞き込みをしたところ、田島悠斗という生徒はとにかく謎に包まれているのである。
――曰く、気付けばいなくなっている。
――曰く、誰かと仲良くしている様子を見たことがない。
ほとんど情報が無い中で出てきた数少ない一つが、ホームルームが終わればすぐに帰っているのでおそらく部活はやっていないだろう、というものだった。それはすなわちほとんど毎日全クラスの中で最も遅くまでホームルームを行っている二年五組に所属する笑麻が悠斗を捕まえるチャンスはゼロに近いということである。それでも万に一つの可能性に賭けていた笑麻であったが結果は残念なものであった。
「……というわけで!夏休みも終わってもう一週間以上経ったわけだから勉強に部活に気合を入れて頑張っていくぞ!以上っ!日直号令っ」
ようやくホームルームの終わりが近づいてきた。廊下はすでに授業から解放された生徒達のにぎやかな声で溢れている。鞄を持って立ち上がった笑麻は礼もそこそこに廊下へと駆け出す。普段ではあり得ない出来事に何人かのクラスメートが目を見張っていたが、それを気にする余裕はなかった。
「……っ!あやちゃん!」
開けっ放しになっていた二組のドアをくぐると綾香が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「笑麻ごめん。田島の奴、ホームルームが終わったらすぐに帰っちゃった」
綾香と悠斗が所属する二組のホームルームは、五組とは対照的にいつも早く終わる。それはなかなかの差であり、平均して五分、時には十分以上も終業の時間に差が出る。
ホームルームが終わった後、笑麻が悠斗に会いたがっていることを知っていた綾香は、あっという間に帰り支度を終えて今にも帰ろうとしている悠斗を見て大いに焦った。
「あのさっ田島!ちょっと時間ない?」
「無い」
相も変わらずコミュニケーションをとろうとする意志が見えない返事と共に、悠斗は綾香の横をすり抜けようとする。
「おっとっ!ねぇお願い!五分だけ!五分だけでいいから!」
慌てた綾香は思わず悠斗の手首辺りを掴む。
悠斗は少しバランスを崩した後、顔だけを綾香の方に向けた。
「申し訳ないんだけど帰ってから用事があるんだ。急いでるから離してくれない?」
表情はほとんど変わらず、目つきの悪さだけが増したような鋭い視線に綾香は思わず怯む。その隙に手を振り払った悠斗は、何事もなかったかのように教室を出て行ったのであった。
それが今から五分ほど前の出来事である。
「声はかけたんだげどなんか急いでたみたいで……本当にごめん」
珍しく怒らせてしまった笑麻のために、なんとしても悠斗を食い止めようと意気込んでいた綾香は、しょげかえってしまっていた。そんな綾香の肩を笑麻は優しくさする。幼馴染ゆえに綾香の性格をよく知る笑麻は、綾香が精いっぱい努力したことを理解している。また自分が怒ってしまったことを綾香がとても重く受け止めてくれていることにも気づいていた。
「ありがとうあやちゃん。気をつかわせちゃってごめんね」
「笑麻ー……」
抱き着く綾香を笑麻は笑顔で受け止め、その脇腹をくすぐる。じゃれあい始めた二人の姿に教室に残っていた数人の男子は心の中でガッツポーズをするのであった。
※
夏も終わりに近づいてきてはいるがまだまだ陽は長い。夕焼けまではもう少しという空の下を、笑麻と綾香は並んで歩いていた。
桜木高校は小高い丘の上に建っており、笑麻と綾香は坂を下りた先にある少し開けた住宅街に住んでいる。帰り道は緩やかな下り坂となるため二人の足取りは軽やかであった。
ちなみに学校の最寄駅は、笑麻達の家から学校を挟んで反対側に坂を下らなければならないため、電車通学の生徒はそちらに向かって下校する。数としては駅に向かう生徒の方が多い。
「でもさぁ笑麻。どうしてそこまで田島のことを気にするの?」
悠斗が笑麻を助けてくれたことは綾香も理解している。しかしその後の悠斗の対応を見ていると別にわざわざもう一度お礼を言いにいく必要はないのではないかと感じてしまうのだ。なにより悠斗がそれを望んでいないように見える。
「なんでって言われると難しいんだけど……」
自らの言葉通り難しそうな顔をしながら、笑麻はゆっくりと話し始める。その様子は、まだ頭の中でまとまっていない答えを言葉にしていくことで、自分自身もはっきりと理解しようとしているようにも見えた。
「たぶん、なんだけど。私のことを助けてくれた時、田島君は私が同級生だって気付いてたと思うんだよね」
悠斗が自分を助けてくれた後、綾香が怒りながら突撃してきた時のことを笑麻は思い出す。
あの時悠斗は少しも驚いた様子を見せなかった。あまり表情が豊かではないらしい悠斗だが、それでもあの態度は「まるで綾香が友達であることを知っていた」ように見えた。
「綾ちゃんの話を聞いたり、今日ちょっとだけ喋ったりしてみて分かったんだけど、田島君ってあんまり学校の人と関わりたくないみたいじゃない?だから本当は私のことも気付かないフリをしたかったんだと思うんだ」
それでなくても怖そうな男の人二人に囲まれてたしね、と笑麻は苦笑いする。
「でも結局田島君は私のことを助けてくれた。無視してどこかに行ってもよかったのに私のために頑張ってくれた。それがなんだか嬉しかったんだよね」
実を言うと笑麻はここまで深く考えていたわけではない。助けてくれて嬉しかった、という気持ちと『なんとなく気になる』という本能的なものに従って悠斗の教室へと足を運んだだけである。しかし改めて頭で考えてみることで、笑麻は自分の悠斗への気持ちが少しずつ明確になってきているような気がした。
「うーん。……でも田島が学校の人と関わりたくないんだったら、笑麻も放っておいてあげたほうがあいつのためなんじゃない?お礼はもう言ったんだし?」
綾香としては、笑麻が言うほどに悠斗のことを評価出来ないというのが正直なところである。そもそも絡まれているのが同級生だと分かっていたなら危なくなる前に最初から助けろよ、とつい思ってしまう。
また、結果として笑麻が助かったのだから文句を言うことではないのは分かっているが、助け方だって他になかったのかと問い詰めたいくらいだ。
「そうだよね……でもせっかく優しい人だって分かったんだから仲良くなりたいんだ!私ワガママだから!」
とはいえ悠斗に対して良くない先入観をもっていることは自分でも分かっている。もう一度ちゃんと向き合ってみれば実はいい奴かもしれない。
ペロっと舌を出して笑う幼馴染の顔を見て、ひとまず彼女の気持ちを応援しようと思う綾香であった。