2-9 綾香ちゃん、突っ走る
頑張れ、綾香!
というわけで、どうぞ!
自室のベッドで横になった綾香は、つい先ほどまでのことを思い出す。
「ありがと……送ってくれて」
「……いいよ」
短く告げると、翔太は一人来た道を引き返していった。
大喧嘩をした後にも関わらず家まで送ってくれる翔太の優しさが綾香には痛い。きっとこれだけ優しい人だから、優衣が帰ってくるまで一人で待とうと決めたのだろう。そして自分はそれを糾弾したのだ。
暗闇にも目が慣れ、自室の天井がはっきりと見える。きっと今夜は眠れないのだろう。先ほどから思考があちこちに飛んでいる。
思えば自分がここまで悩むことは珍しい。
自分の性格がサバサバとした、女らしくないものであることは綾香自身認めている。たいていのことなら、即断即決してきたのだ。
それがここ最近、ずっと翔太のことで思い悩んでいる。少しくすぐったい。
「それでも私は……会った方がいいと思う」
呟き。
もはや結論は出ているのだ。翔太の優しさは痛いほど分かるが、それでも二人は会うべきである。それが二人のためだと綾香は信じる。
お互いに自己完結して、ボタンを掛け違えたまま生きていくことが幸せに繋がるとは思えなかった。
しかし綾香は迷う。
誰にでも他人に土足で踏み込まれたくない部分がある。
そして自分は既に翔太の心に土足で踏み入ってしまったのだ。これ以上彼の心を踏み荒らすことが果たして本当に彼のためになるのだろうか。もはや何も言わず、友として静かに見守ることが思いやりなのかもしれない。
再び思考は元に戻り、グルグルと回る。
夜はまだ長い。
………
……
…
陽が昇り、一日が始まる。暗闇に光が差し込んでも、そこにゴールは無かったらしい。
ぼんやりとした頭のままで綾香は学校へと向かう。通い慣れた道が今日はとても短く感じた。
学校に着くと、笑麻が顔を見せに来た。
顔色が悪いと心配する笑麻に、綾香はただただ「大丈夫」と繰り返す。
翔太が打ち明けてくれた秘密を、勝手に笑麻に相談するような真似は出来ない。心配そうにしてくれている笑麻には申し訳ないが、これは自分一人でなんとかしなければならない問題なのだ。
いや、相談出来るとすれば一人……。
(……こんな情けない姿、あいつに見せられるか!)
視界の端に悠斗を捉えた瞬間、沸き上がった思いを綾香は慌てて打ち消す。
秘密を打ち明けてくれた翔太に対し、自分は感情のままに厳しい言葉をぶつけた。
そしてそこまでしたくせに、今自分がどうすればいいか分からずにいる。こんな情けない自分に対し、悠斗はなんと言うだろうか。
悠斗を嫌う気持ちは、もはや存在しない。しかし、ライバル心のようなものはある。
皮肉屋で小生意気のことばかり言ってくる友人に弱味を見せたくなかった。なによりも、そんな友人から掛けられた「頑張れ」の言葉を裏切りたくはなかったのだ。
時間は飛ぶように過ぎていく。いつもは長く感じるはずの授業も気付けば終わっていた。今日一日、自分は何をしたのだろうか。
このままじゃダメだと綾香は自身に小さく喝を入れ、席を立とうとする。
「うわっ!なんだよ!?」
瞬間目に入った姿に驚き、綾香は再び腰を下ろした。
目の前には悠斗がこちらを見下ろすように立っている。ぼんやりとしていた綾香は全く気付かなかった。
いつも通りの目つきの悪い瞳がこちらをジッと見ている。
「……なによ?」
まるで親に怒られて不貞腐れた子供のような声が出る。
「……ダサいなぁ」
「はぁ!?」
聞こえるかどうか分からないような小さな声。耳ざとく聞き取った綾香は思わず大きな声を出す。
「……。どうせ救いようもない正論を言って、翔太と喧嘩でもしたんでしょ?」
「グッ……」
悠斗は翔太からも何があったかは聞いていない。
綾香の様子からおそらく喧嘩をしたんであろうことは理解したが、彼女が何を言ったかまでは想像の範疇でしかなかった。
そして今、綾香のリアクションを見て自分の推測が大きく外れてはいないことを確信する。
うなだれ、言葉に詰まる綾香に、悠斗は視線を逸らす。
「僕は……君のウザいまでにド直球なところは悪くないと思ってる」
「なにそれ……褒めてんの?バカにしてんの?」
そんな綾香の抗議を聞き流し、悠斗は一枚の紙を胸ポケットから取り出すと綾香の机の上に置いた。
珍しくその耳が紅く染まっている。
「今回も、ド直球で勝負してくれることを期待してるよ」
それだけ言うと悠斗は教室のドアに向かって歩き始めた。
あまりにもらしくない悠斗の行動にしばし綾香は唖然とし、我に返ると机の上に置かれた紙の内容を確認した。
どうやら名刺らしい。
覚えのない名前に首をかしげながら名刺を裏返す。
『西園寺あおいさんが所属している事務所の社長』
名刺の裏には、無駄に整った字で書かれた短いメモ。らしくないお節介を焼く時ですら、彼の几帳面さは変わらなかったらしい。
「なんだよ……自分だって余計な世話焼いてんじゃん」
偏屈で口が悪くて生意気。そんな悠斗の不器用な優しさが心に染みる。
窓から指す西日が綾香を照らした。
※
「み、宮本綾香と申します。本日は……その、ご無理を言って申し訳ありません」
緊張と、なれない大人びた言葉遣いに綾香は少し口ごもる。ついでに言えば、目の前に現れた男が想像を超える強面だったことも大きい。
「かぁー!翔太といいお前さんといい、どうして悠斗の友達はみんな美形なんだ!?あいつにスカウトやらせようかな!」
まぁ、あいつも痩せりゃあ割と整った顔してんだけどな、と男は二カッと笑う。
顔だけ見れば正直怖い。なにせスキンヘッドのひげ面なのだ。綾香は若干腰が引けてしまっている。正直、悠斗や翔太の話を聞いていなければ、尻尾を巻いて逃げ帰っていたかもしれない。
「『Vivid Women』社長の黒岩だ。よろしくな」
そういって手を差し出す黒岩。
おずおずと出した綾香な手は、想像通り大きな黒岩の手によって優しく包まれた。
………
……
…
悠斗から名刺を貰ったあの日、帰宅した綾香は早速そこに記された番号に電話をかけた。
数回のコール音の後、聞こえてきたいぶかしげな野太い声に綾香は一瞬硬直したものの、太ももをつねって声を絞り出す。
「私……田島悠斗君から紹介していただきました宮本綾香と申します。その……黒岩社長の携帯でよろしかったでしょうか?」
電話を掛ける前に何度も練習した甲斐もあり、なんとか自己紹介をすることは出来た。綾香が考えたこの挨拶ゆえに、黒岩がAVデビューを志す女性からの電話であると勘違いしてしまい、慌てて誤解を解く羽目になったのはご愛敬といったところである。
電話をしている最中、何度も「言うことをノートにまとめておくべきだった」と後悔するほど口ごもってしまった綾香であったが、黒岩は何の文句も言わずに話を聞いてくれた。
むしろ彼が聞き上手であったために、言いたかったことをしっかりと伝えられたという感すらある。
「……というわけで、私はどうしても西園寺あおいさんに会ってお話しをしたいんです!お願いします」
その願いに対して、返ってきたのは質問であった。
「あおいに会って……君は彼女に何を伝えたいんだい?」
これまでの少し乱雑なしゃべり方から一転、心に響く落ち着いたトーンの声。
まだ顔を知らないにも関わらず、脳内の黒岩が真剣な視線をこちらに向けているような錯覚を覚えた。その雰囲気に綾香は覚悟を決める。
元々腹芸が得意ではないことは自覚している。海千山千の社長を前にして、彼女に残された手段は正直に自分の気持ちをぶつけることだった。
「まだ分かりません」
はっきりと迷うことなく自身の本心を告げる。
北村優衣という人間が、そして『西園寺あおい』という女優がどういう人物なのか、綾香はまだ知らないのだから。
「ただもし……もしも優衣さんが。……『西園寺あおい』としての生き方しか自分には無いと思っているなら、それは絶対に訂正します。それは『西園寺あおい』という存在を否定するんじゃない。ただ、北村優衣としてのあなたを愛している人がちゃんといるんだって伝えたいです」
※
事務所は雑居ビルのワンフロアーをぶち抜く形になっていた。外から見た、少し古びた印象とはまるで違い、オシャレで清潔な内装である。
案内された部屋に入り、クリーム色のソファに座る。
ウッド調で統一されたその部屋は女優がカウンセリングを受ける際に使う部屋らしい。
「もうしばらくしたらあおいも来るから、ちょっと待っててくれや」
そう言うと黒岩は、自身もドカッと椅子に身体を沈めた。
ほぼ同時にドアが開き、社員と思われる女性がお茶を運んでくる。「おぉ!すまんなぁ」と笑いながら礼を言う黒岩に続き、綾香も頭を下げた。
「あおいはなぁ……すげぇ女だよ」
出されたお茶を一気に飲み干すと、黒岩はおもむろに語り始めた。
黒岩の頭に浮かぶのは、初めて会った時の姿。まだ『西園寺あおい』になっていない北村優衣の、覚悟を決めたような静かな瞳と、脚の上に置かれた震える手。そのアンバランスさに、黒岩は危うさを感じた。
「AVって仕事はデリケートだ。どうしたってプライベートにも影響しちまう。だから俺らは女優が助けを求めれば、それが仕事とは関係のないことであっても全力で助けたいと思ってるんだ」
その一環となっているのがこのカウンセリングルームである。
Vivid Womenでは所属女優は必ず月に一回はカウンセリングを受ける。仮に女優の悩みが事務所の人間には言いづらいようなことであった場合に、第三者であるカウンセラーがいることが非常に重要なのだ。カウンセリングの内容は、社長である黒岩ですら一切知らない。
「でもな。あいつは一切助けを求めない。もちろん仕事上でサポートしてやれることはいくらでもある。でもプライベートでは……あいつは一人だ」
業界に入りある程度の年月が経った。同じ女優の友人が出来たとも聞いている。しかし黒岩は、あおいが本当に心を開ける相手がいるのか、ずっと心配していたのだ。
彼の目には、彼女がプライベートの時間もずっと、『西園寺あおい』でい続けているように映っていた。
しかしこちらから干渉することは黒岩にも出来なかった。
あおいの心の闇が黒岩の想像以上に深かった場合、そこに土足で踏み込めば、傷つくのはあおいである。まして自分は彼女が所属する事務所の社長だ。そんな人間がプライベートに踏み込むこと自体、あおいにとって負担になる可能性すらある。
「それにな。翔太も俺にとっちゃかわいい息子みたいなもんだ。悠斗といい翔太といい……やっかいな運命を持って生まれてきた中で、必死でもがいてやがる。まだガキなのに苦労してんだ……幸せになって欲しいじゃねぇか」
黒岩が翔太と知り合ってから三年近くが経とうとしている。思えば翔太も随分と大人になった。
自分が翔太の立場ならどうしただろうか。黒岩は考えたことがある。
自分ならばワガママを貫き通すだろう。たとえまだ子供で、なんの責任も持てなくても突っ走ったに違いない。そんな黒岩からすれば、ただ待ち続けるという翔太の選択はもどかしいことこのうえなかった。
しかし真に相手の幸せを考えているのはどちらだろうか、とも思う。まだ力が無いことを受け止め、『西園寺あおい』が北村優衣に戻れる場所であり続けること。
それは翔太の自己犠牲のうえに成り立っており、非常に尊いもののように思えた。
「お前さんをあおいに会わせるかどうか……かなり迷ったんだよ」
この言い方はズルいな、と黒岩は発言を重ねる。
「正直に言う。お前さんを会わせると決めた理由の九割は、悠斗が紹介してきたからだ」
プライベート、そして最近では仕事でも付き合いを持つうちに生まれた信頼。また悠斗が翔太のことを誰よりも理解し、誰よりも心配していることも黒岩は知っている。
「ただな?残りの一割は、お前さんに賭けてみたいと思ったからだ。……電話越しからでも伝わってきた君の想いに俺は賭けた」
「お前さん」から「君」へと呼び名が変わった瞬間、黒岩の目が自分の心を見透かしているような気がした。そしていつの間にか、黒岩の表情は穏やかな笑みへと戻っている。
綾香はお茶を一口飲み、姿勢を正すとその目を閉じた。
剣道の試合に挑む前にいつも行う精神統一。それは冷静さを保つための儀式である。
――コン、コン
ゆっくりとしたリズムでドアがノックされ、黒岩が入室を促す。
綾香は静かにその瞳を開き、ソファから立ち上がった。
女子高生が単身、AVプロダクションに乗り込んでいく。改めて読み返してみると、中々に度胸のある行動をしてくれている綾香ちゃんです。悩んで悩みぬいた結果、悠斗のお節介をきっかけに爆発しちゃった、という感じですかね。
さて、今回のお話では、AVプロダクション(芸能事務所のAV版)が出てきました。
AV女優さんにとって、このプロダクション選びはとても大事です。
肉体的にも精神的にも負担が大きい仕事をする上で、どんな時でも味方になってくれる、頼りになってくれる存在は絶対に必要となります。
ゆえに、プロダクションとの信頼関係がしっかりと出来ている女優さんほど、長く第一線で活躍出来ることは間違いありません。仕事において、絶対的に頼れる存在が常に側にいるのですから。
女優さんにとって、絶対的に信頼出来る存在でなければいけない。
そんなプロダクションで働くために必要な能力。
それは、やはりコミュニケーション能力なのでしょう。
女優さんの話を聞き、寄り添い、共に歩む。
それだけ聞けば簡単そうですが、実は一番難しいことだと思います。
結局は、人と人とが付き合っていくわけで、そこには踏み込まれたくないところだって当然にある。
拙作では、黒岩社長が「西園寺あおい」のプライベートな部分にまでは踏み込めませんでしたが、このような悩みを抱えていらっしゃるマネージャーさんも多いと思います。
しかし、それだけ深い付き合いがあるからこそ、担当する女優さんの一番のファンになれるという一面もあると思います。
Twitterなどにアップされる、女優さんの写真。
その中で、女優さんが一番魅力的な表情をしているのは、やはりマネージャーさんや、プロダクションの方が撮った写真だったりします。
気になる女優さんがいる方は、その人が所属するプロダクションの方がやっているSNSを覗いてみることをオススメします。
リラックスをした女優さんの表情に出会えると思いますよ(^_-)
さて、次話はいよいよ綾香の決戦です!是非お付き合いください。
香坂蓮でしたー。