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午後のなめくじ

作者: 2121

天は高くどこまでも青く、空気の澄んだ動きやすい気候。深く深く肺の底まで息を吸い、伸びをしながら秋を味わう。

見渡せば、街路樹は青々と繁り、所々では黄色くなっている葉もある。夏から秋へ、季節の移り変わる瞬間。うだるような暑さからの解放感を、全身で噛み締める。

運動の秋か、食欲の秋か、はたまた静かに読書の秋か。とりあえず、一度どこかの山へ紅葉狩りにでも行きたいなぁ、と楽しく空想の予定を立てていた。

しかし。

そんな秋晴れの清々しい気分をぶち壊すのが、一匹のなめくじだと、誰が思っただろう。

伸びをして大きく息を吐いた視界の斜め下には、低い塀の上でしわくちゃになった茶色い塊があった。その周辺には、どうやら白くて塩辛い調味料も散らばっている。

なめくじだ。

塩をかけられたなめくじ。

ああ。

気分がみるみるうちに地に落ちていく。あまり見たくないものを見てしまった。

塩と身体の浸透圧によって水分の抜け落ちた残骸は、無惨な姿で死に絶える。じわりじわりと、塀に自らの体液を黒く染み込ませ、その中心に残る縮んだ物体。

可哀想に。

この子は誰に見付かってしまったのだろう。どんな残酷な人に見付かってしまったのだろう。

ひどいことをするなぁ。

苦しいんだろうなぁ。

痛いのかなぁ。

今度は嘆きを帯びたため息を吐く。せっかく、いい気分だったのに。

と、前を向けば。

ああ、近くにいる。

黄色いスカートの裾を気にせず地面にしゃがみ、塀に向かって二本の指をすり合わせる心無い子どもが。様子を見て、何か一言くらいは言っておこうと歩を進める。

……と思ったら、近所の見知った子ではないか。

「こんにちは」と挨拶を落とすと、ハッと気付いたようにこちらを向いて、立ち上がる。まだ私の腰ほどしかない身長の少女。


「あ、やっほーお姉ちゃん!学校帰り?」

「学校というか部活帰り。あなたは何をしているの?」

「これ?お姉ちゃんもする?」


テンションの高い明るい声色。機嫌良く無邪気に「おにごっこでもしよう!」と遊びに誘うような口調で、少女は塩の入った皿をズイと差し出した。少女にとって、この行為に後ろめたいところはないらしい。可愛らしいキャラクター物の皿には、スプーン一 匙分ほどの塩が盛られている。

誘った遊びには乗るのが当然、と信じて疑わない少女は、中々皿に手を伸ばさない私にコキリと首を傾げた。


「……遠慮しようかな」

「えーけど、どんどん小さくなっていってすごいんだよ?」


「こんな白い粉の小麦粉が、こんなに美味しいパンになってすごいんだよ!」と感動するかのように、目を見開いて力説する少女。

無邪気とは得てして恐いものである。


「塩は自分で持ってきたの?」

「そうだよ!」


塩のついた指をなめ、スカートで拭く。しょっぱそうに、眉をしかめた。


「そんなことしちゃ、ダメなんだよ」

「ダメなの?」

「もちろんだよ。なんでこんなことをするの?」


訳が分からないといった風に、今度は逆の方向へコクンと首を傾げる。


「なんでダメなの?」

「可哀想じゃない」

「可哀想?ならなんでお姉ちゃんは何もしないの?」


可哀想なのに、何もしない?

予想外に飛んできた問いかけに、我に返る思いがした。


「お姉ちゃんは見ているだけ?」

純粋な疑問符が、私を射捉える。

「だから、私はあなたにこう言って……」

「なめくじが可哀想なら、なんでなめくじを助けるよりも先に私に声をかけたの?」

「そりゃ、そうでしょう」

「なんで積極的に止めないの?」

「……何をするかは、あなたの自由じゃない」


子どもとは、こんな残酷なこともして、そこからこれはいけないことなのだといろんなことを学びながら大人になっていくものなのだ。そういうもの、だと思っている。

だから、私は残酷な少女の行為をたしなめることは出来ても、絶対にするなと否定することは出来ないはずで。

そしてまた、ぐいと少女は首を傾げる。


「 こうしている間にもたった今塩をかけたなめくじさんはどんどん死んでいくんだよ?可哀想と思うなら、どうして助けたりしないの?」

少女は言う。

「水でもかけたらまだ助かるかも知れないんだよ?」

少女は言う。

「私から塩を取り上げればそれで済むんだよ?」

少女は言う。

「お姉ちゃんは、可哀想だと言うだけなの?」


私は喉から声を絞り出す。口は声がかすれるほどに乾いていた。

言う『だけ』なの?


「可哀想なのは間違いないでしょ……だから私はこう言ってて……それに、このなめくじみたいに自分が同じことをされたら嫌じゃない?」

「されないよ」

「想像しない?なめくじの気持ちを考えたりしない?」

「そんなこと有り得ないもの」

「人間がなめくじみたいに身体いっぱいの量の塩をかけられたら、同じように水が抜けて死んじゃうんだよ」

「私はなめくじじゃないから、そんなことはされないよ。私に塩をかけるような巨人はいないし、そんな状況になることもない」


はっきりと言い切られてしまったから、私は口をつぐんだ。少女が言っていることに一つも間違いはない。しかし、こんなのは方便だ。小さな子どもの言い訳。

しかしその違和感は拭えない。

私は年長者として言わなければいけないのだ。


「可哀想だし、小さくても命があるんだから、そういうことをしちゃダメよ」

「命は平等?」

「……平等よ」

「どうしてすぐに答えないの?」


私は、口を開かない。


「……私は自由だけど、お姉ちゃんは不自由だね」


言葉を紡ぐ少女の赤い唇。


「私も自由だよ」

「ならどうして何もしないの?」

「私は子どものあなたを尊重して」

「ほら、お姉ちゃんは自由じゃないよね」

少女は言う。

「本当は、何も思って無いんだ」

少女は言う。

「可哀想と本当に思うなら、何かするはずだよ」

少女は言う。

「お姉ちゃんは……なめくじじゃないよね。私と同じだよね」

そして。

可哀想、と言う私は――。


ぐるぐると、脳内で言葉が巡る。

『可哀想』

『塩』

『水』

『命』

『自由』

『不自由』

『なんで?』

『どうして?』

そして、

『人間』

『平等』

『私と同じだよね』

少女の目は真っ直ぐに私を捉えて話さない。黒目がちな瞳が、思考を促す。


「ちがうの?」


口を開けば、唇が生き物のように動き、白い歯が覗きき、疑問符に合わせてまた首が傾いだ。


「ああ」


私は自嘲するようにはにかんで。


「そうかも知れないね」


私とあなたは同じだね。

私はなめくじのことを考えているように見せて、自分をよく見せる人間だ。少女の前で、正しい人としてあろうと見せかけただけ。

なめくじの気持ちなんて知らない。可哀想なんて言葉、口だけよ。いい人のように、常識のように、一般論のように、少女の模範になれるようにと言ってみただけ。

そんな言葉、なめくじの立場を本気で考えたら言えるわけないんだから。ひいひい喚いて、泣き叫ぶ能力も、命乞いをするようなことも出来ない生物の気なんて知らないわ。そんな小さいものに感情移入なんて出来るわけない。想像の域を出ないんだから。目の前の同じ種族のことすら分からない人間が、それ以外の物の気持ちを考えることなんて出来っこない。

ちっぽけで小さくて儚くて、私に何の変化も及ぼさない生物。塩に水分を取られて死んでも、車に轢かれて死んでも、寿命で死んでも、なんら私に影響しない生物。

それは遠く無意味で関係のない世界の話。私には全く支障が無い。

助ける意味も、見出だせない。


少女の小さな手から、塩の入った皿を取る。

なめくじが数匹集まった塀と地面の交わる隅に、真っ白な塩をぶちまけた。

なめくじの姿をしばらく二人で見る。

少女は何も言わない。ただ目を輝かして微笑んでいるだけ。

一頻り時間の経った後、塩の付いた指をパンパンと叩いて地面に落とし、もう一度伸びをする。

秋の澄んだ空気は、よく肌に馴染むほど清々しかった。

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