プロローグ とてもかわいいおんなのこ
雨がぱたぱたと窓を叩く音が石造りの堅牢な建物の中に響いていた。本降りの雨は横殴りの風に煽られて、屋根の下であっても平気で吹き込んでくるありさまだ。そんな音が溢れる中でその建物の中には微睡んでいる者がいる。
五歳くらいの男児が他に誰もいないその家の中で、絨毯の引かれた床の上でうつらうつらしていた。ベッドに移してくれる人もなく、男児は描き途中の絵を前にしたまま激しい雨音にも関わらずうつらうつらしている。
絨毯の上にそのまま置かれた紙に描いていたせいでぐちゃぐちゃになっているその線は、ぱっと見て何が描かれているのかは分からない。だが、一目見ただけで異様と言える点が一つあった。色鉛筆は他の色も揃っているのに、紫一色のみで描かれているのだ。
それを書いただろう男児は夜更けという時間もあってか、夢の世界に旅立ってしまっている。表情無く眠る男児の前には、手から落としただろう紫色の色鉛筆が転がっていた。
黄色の髪の男児が、明かりに包まれた夜の部屋でうつらうつらしている。そのまま永遠に時間が流れていってしまいそうな光景だったが、それは唐突に破られた。部屋の隅に置かれた転移盤から人が次々に入ってきたのだ。大人の男性が一人と七、八歳の子ども二人だ。
子どもは男女それぞれ一人で、男の子の方は明るい橙色の髪に木目のような濃い茶色の目、女の子の方は濃い桃色の髪に赤をほんの少しだけ柔らかくしたような濃いピンクの目である。見た目から判断するに、男の子の方が年上のようだ。
「ただいま、いい子にしてたか? って、寝てるか」
大人が留守番をしていた男児に声をかけたが、男児が眠っていることに気が付いてそれ以上声をかけることを止めた。
「二人ともお疲れ様だ。今日はもう寝ていいぞ」
「はーい」
「はい」
この部屋には二段ベッドが一つと、普通のベッドが一つ置かれている。休みを告げられた二人の子どもたちは、うつらうつらしている男児を起こさないようにそっと運ぼうと手を伸ばした。だが、そうやって触れられたことで眠りの浅かった男児は目を覚ます。
それと同時に転移盤からもう一人大人の男が転移してきた。彼は、両手で紫色の髪の女児を抱えている。女児の年齢は男児より少し下といったところだろうか。綺麗な身なりに飾り立てられた女児は、周りの光景をきょろきょろと見回していた。
その結果、当然のように男児と女児は視線が合う。男児の透明感のある黄緑の目と、女児の鮮やかな真紅の目が交差した。女児は男児に気が付いたのか、とても楽しそうにふわりと微笑む。その瞬間、まだ寝ぼけていた男児の意識ははっきりと覚醒し勢いのまま立ち上がる。
「どうしたの、サイ?」
女の子が驚いた声で男児、サイの名前を呼ぶ。サイはとたとたと女児の元に歩いていくと、手を伸ばして抱えられている女児の手をそっと握りしめる。
「この子どうしたの? すっごくかわいい!」
そして、まるでもう離したくないとでも言うかのように、男が床に降ろした少女をぎゅっと抱きしめた。
大人達がサイに行った説明は以下の内容だった。
「その子は商品だ。他に場所もないからしばらくお前たちと一緒の部屋だが、売り手が見つかったらいなくなるからな。それまで狭くなるが我慢してくれ」
それを聞いたサイは、いなくなっちゃうの、と信じられないと言った表情で訊く。それに大人たちはめんどくさそうに頷いて、説明は終わったとばかりに子ども部屋を出ていった。
それからも女児を抱きしめて動く様子の無いサイに、男の子と女の子がそれぞれ声をかける。
「サイ、いい加減離れたらどうなんだ?」
「サイは、その子のこと、気に入った?」
二人それぞれにかけられた言葉に、サイはこう答えた。
「アル、それはやだ。ノーリ、うんとっても! すごく、かわいい」
そう言ってぎゅーっと女児を抱きしめるサイに、アルと呼ばれた子どもが慌てて言う。
「サイ、力強すぎてその子困ってるだろ」
「あ」
アルに指摘されて、サイは気が付いたのか抱き付いていた力をだいぶ緩めた。抱き付かれていた女児の顔に、少しほっとした表情が浮かぶ。流石に力が強くて苦しかったのだろう。
「サイ、その子のこと気に入ったなら、サイが名前つける? アルに任せるのは絶対に無いし」
「おい、どーいう意味だよ」
「だって、アルのセンス、酷いもん」
ノーリと呼ばれた女の子が、サイにそう提案した。ついでとばかりにけなされたアルがノーリに怒る。
「どこが酷いんだよ。アルシャイン、かっこいいだろ!」
「長い、呼びづらい」
アルとノーリの会話を横で聞きながら、サイは女児の名前を考えているようだった。浅い紫色の肩まで伸ばされた髪がサイの目に写る。しばらく考えた後、サイは決めた名前を口にした。
「ネリー。君の名前はこれからネリーだよ」
「ネリー?」
「そう、よろしくね、ネリー」
サイは決めた名前を女児に告げる。ネリーと名付けられた少女は、不思議そうにその名前を口にした。そんな女児に対し、サイはもう一度言い聞かせるようにその名前で呼びかける。
「ネリーは、ネリー?」
「うん、そうだよ」
「ネリーはネリーなのー!」
そんな微笑ましい会話を、アルとノーリは横で聞いていた。
「うん、サイのセンスが普通でよかった」
「オレは普通じゃないって言いたいのかよ」
「だってそうでしょ。じゃあアルならなんて名前にしようと思うの?」
こちらの二人の会話はまったくもって微笑ましくない。アルはしばらく考えた後、思いついた名前を口に出した。
「……ペリカリアステとか」
「うん、却下」
壊滅的なセンスの塊にノーリが呆れる。その間にもネリーは自分の名前を嬉しそうに何度も繰り返していた。