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アイリーン 006

「リーン!」

 傍らにやってきたキュクロに、茫然としていた意識を持ちなおす。

 しかし、びっくりして力が抜けてしまったのか、痛む背中を幹に凭れかけさせたまま体を起こせない。

「どうしたの? 怪我したの?」

「大丈夫……ちょっと、疲れただけよ」

 半分泣いているような顔で縋ってくるキュクロに、柔らかく苦笑して髪を撫でてやる。

 魔物と一緒に木々がいくつか倒されたため、先ほどよりも視界が明るい。薄ぼんやりと照らされた景色の中に、魔物の脚部を一閃で薙ぎ払った人物がこちらにやってくるのが見える。

 暗い髪色のすらりとした体躯の青年だ。手に持っているのは槍だろうか。刃の部分が淡く光っており、チカラの残滓がかすかに煌めいているのが見える。

 たっぷり布が使われている外套はさぞ重いだろうに、彼の歩みは悠々としていて、その重さも、足元の悪さも全く感じさせない。

「あの人、神殿の人? 『神憑き』? さっきのリーンもすごかったけど、『神憑き』って本当に強いんだ!」

 キュクロの言っていることは半分あたりで半分はずれだ。

 とんでもないチカラを持った『神憑き』であることは間違いない。そのチカラを無駄なく使いこなせる技量もかなりのものだろう。格が違いすぎて、アイリーンにはぼんやりとしか理解できないくらいには。

「神殿の者ではないわ……」

「え? でも……」

 じゃあどこの、と言いかけて、キュクロが口をつぐんだ。近すぎて黒い壁のようにしか見えない神山の斜面を、一つしかない瞳がゆっくりと上に辿っていく。

 白く霞む遥か高みには、オリュンポス十二神を憑き神に持つ『御柱』が住まわっていると、彼に教えたのはつい昨日のことだ。

 近づいてくる人影から目を離せずに、アイリーンはドクドクと鳴る自分の鼓動を聞いている。

 アイリーンが知っている『御柱』で、暗い髪色の人物は一人しかいない。逆光になっていて顔がよく見えないが、何をしても外にはねてしまう癖のある髪や、体にまっすぐ軸の通った無駄な動きのない歩き方を見ていると、『彼』がそこにいるという実感がじわじわとわいてきた。

 会いたいと、会いに行きたいと思っていた幼馴染の一人だ。

 けれど、同時にためらいもずっと胸の内にあった。兄が亡くなった真相を、おそらく彼らは知っている。どんな顔で会えばいいのかわからない。実際に会えた時に、素直になつかしいと思えるかどうか、正直に言って自信がなかった。

 下草を踏んでいた音がやんで、彼が目の前に立つ。

 長身のその姿から伸びる影は長く、かすかな光を遮りながら見下ろしてくる顔の目があるあたりを緊張しながら見つめ返す。


「―――大丈夫か?」


 柔らかなテノール。

 鋭さのある佇まいとは相反するように柔らかなその響きに、一気に懐かしさと、忘れかけていた慕わしさが溢れてくる。

 パチパチと瞬きをして、ふにゃりと表情筋を緩める。記憶にあるよりも低いその声音に、そういえば別れたのは、ちょうど彼が変声期に入ったばかりの頃だったと思い出した。

 気が抜けきった後で力の入りにくい体をのろのろと動かして、『御柱』に対する礼をとる。両膝をそろえて地面につき、両の掌を胸の前で交差させて首を垂れる。

「ありがとう、ございました。ご助力に感謝いたします」

「あ、ありがとうございました!」

 横でキュクロも慌てて頭を下げている。それに対して彼は簡潔に「いい」とだけ返して、顔を上げるように促す。

「あんなデカブツをわざわざ呼び出した奴に言いたいことはあるが」

 ちらり、と青年の視線がさまよう。過剰に反応して声を上げたのはキュクロだ。

「わ、わざわざ呼んでなんかない! 勝手に出てきたんだ……」

「魔物がどういう所以で現れるのか知らないのか? いや、話は後だな。まずは場所を変える。俺たちがいる限り際限なく湧いて出るぞ」

 えっ、とキュクロが呻き、青い顔をして周りを見渡す。アイリーンは木の幹を支えにしてゆっくりと立ち上がりながら、「大丈夫よ」と声をかけた。

「さっき、浄化したから。しばらくの間は現れないわ。キュクロ、私もお説教したいんだけど」

 キュクロがうろたえた顔をして見上げてくる。いたずらが見つかった子どもの顔にしては悲壮すぎる。それ以上厳しい態度は作れなくて、息をついて苦笑した。

「とりあえず、無事でよかった……。魔物のこと、ちゃんと教えてなくてごめんなさいね」

 頭をなでると、思い切り眉根が寄った。泣き出してしまうかと思ったけれど、元来は気丈な子だ。なんとか堪えたらしい。

「甘いな」

「来たばかりで、何も知らないの。どうか責めないであげて」

「死にかけていたのにか」

 物騒な言葉に首をかしげる。先ほどより近くなった距離で改めて顔を見ると、薄闇にぼんやりとしながらもはっきりとその顔立ちが見えた。

 きつい印象を与えるきりっとした目元に、感情があまりうかがえない薄い唇。

 その淡々とした声音は、受けた人によっては非難されていると感じたかもしれない。

 けれどアイリーンは彼の優しい性質を知っている。まっすぐに自分の瞳を見ている彼は、アイリーンがキュクロをかばって命を落としたかもしれないのにと、心配してくれているのだろう。

 微笑み、ゆるくかぶりを振る。

「そんな大げさな状況じゃなかったわ」

「……」

 呆れを含んだため息をつかれたが、意に介せず笑う。彼が目の前にいるだけで、自然に顔が綻んでしまう。

「町はこっちか」

 歩き出した彼を追うように動こうとしたが、なんでもない地面の隆起に足をとられてよろけてしまう。ぎゅっと手を握られて目を瞬かせると、キュクロがアイリーンの手を支えるように力を入れた。

「つかまってて」

「ありがとう」

 ふふ、と笑うが、キュクロはまだ唇を噛んで厳しい顔をしたままだ。きっちり叱ってあげた方が、この生真面目な少年にはいいかもしれないと考えていると、向かう先からザワザワと人の声が聞こえてきた。

「迎えか」

「ええ、そうみた―――」

 ちらりとこちらを振り向いた切れ長の瞳がハッと見開かれる。その変わりように思わず言葉を詰まらせた一瞬の間に、彼は体を反転させてアイリーンとキュクロを自分の腕と体で囲うようにとらえた。

「顔を伏せていろ!」

 頭を押さえこまれながら、アイリーンも繋いでいたキュクロの手を引き寄せて抱き寄せる。

 額を彼の肩口に押しつける格好になっているため何が起こっているのかを見ることができないが、アイリーンの頭を抱えているのとは逆の腕で彼が槍をふるったのが筋肉の動きで伝わってくる。

 風を切る音とは明らかに別種の、何かがつぶされるような粘着質な音がした。

 同時に、生暖かい飛沫が降ってくる。ジュ、と音を立てて外套を焼くそれは、魔物の体液だ。肌に触れればたちまち爛れてしまうほどの猛毒だ。庇われているアイリーンとキュクロは衣服にところどころ穴をあけられただけですんだが。

「ぐぅ……っ」

「セツ!?」

 至近距離で苦しそうに呻く声を聞き、思わず彼を―――セツナを、昔と同じように呼びなれた呼び名で呼んでしまう。

 頭に乗せられた重い腕を懸命に引きはがして顔を上げる。間近にセツナの顔を見てぎょっとした。

彼は頭から飛沫を―――飛沫とはとても呼べないような大きな塊を―――かぶってしまったらしい。

 ジュウ、と嫌な音を立てて、彼の肌が焼かれていっている。目にまで入ってしまったのなら大変だ、このままでは失明してしまう。

 アイリーンは顔を青くして、後先を考えずにセツナの頭を両腕で胸元に引き寄せるように抱え込んだ。

 セツナの髪に、顔に付着していた体液が、今度はアイリーンのむき出しの肌を焼く。

 一瞬されるがままになったセツナだが、アイリーンの行動に驚いて、細腕から逃れようともがきだした。それを全体重をかけて抑え込みながら、アイリーンは先ほど剣先に穢れを移して浄化したように、なけなしの体力をかき集めてチカラを絞り出す。

 セツナに触れているところから、彼に染み込んでいく毒を吸いだし、自分の肌に移していく。熱いような、痺れるような痛みが胸元、首元、それから腕に広がっていく。目を開ける余裕がないから見ることはできないが、毒素が移っている個所からどんどん黒く染まっていっていることだろう。

 足にもう力が入らない。耳の奥でゴオォと音が鳴って、頭の中を思い切り揺さぶられているようだ。脂汗を額に浮かせながら、それでもアイリーンの集中力は途切れなかった。肌に広がっていく黒い痕は毒素。毒気。穢れ。体に染みついた穢れを削り落とすイメージで、内側からチカラを膨らませ―――

「じょう、か、の……」

―――放った。

 チカラと一緒に光が溢れ出る。消し飛んでいく毒気と一緒に意識も持っていかれるように感じて、アイリーンは自分の体を支えるすべもなく倒れこんだ。

「リーン!!」

 叫んだのはキュクロで、細い肢体を支えたのは力強い腕だ。その腕が危なげなく自分を抱きとめたのを確かめると安堵したように眼を閉じた。

「なんて無茶を……」

 苦った声音を聞きとめて、心の中で反駁する。

 無茶なんかじゃないわ。

 少し休めば平気だもの。

 正直、自分の体なのにこれ以上は自由に動きそうにない。けれど、目を閉じる直前に見た、チカラの発した光に照らされたセツナの顔は痕一つない綺麗なものだった。暗褐色の瞳はしっかりとアイリーンを捉えていて、視力は正常に機能しているようだった。

 よかった、間に合った。

 セツナとキュクロ以外の声が複数聞こえてくるのをぼんやりととらえる。「何やってんの」とぼやくイリシャンの声も交じっていた。

 どうやら無事に合流できたらしい。アイリーンの役目はここまででいい。

 抱き上げられて運ばれる振動をかすかに感じながら、これ以上は堪え切れず、彼女は完全に意識を手放した。


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