アイリーン 005
「森? こんな夜更けにどうして……」
「ま、魔物を倒しに……」
魔物、と聞いた途端、頭からザッと血の気が引いた。
神山の裾野には深い森が広がっており、その森と平地を隔てる境界としてピエリアが存在している。森から続く神山を神域、ピエリア以東を下界と呼び分けており、神域では下界で起こりえないような事象がしばしば発生する。
清浄で美しい森は豊かな湧き水とたわわに実る果実で住人を潤しているが、今一歩踏み出せばそこは魔物の巣窟だ。
かつて神々が生み出した怪物とはまた違うそれは、『異能持ち』や『神憑き』の強いチカラに惹かれて寄ってくる。魔物たちは存在自体が毒だ。吐く息を吸い込めば体が痺れ、体液は人間の肌を焼く。
森と町の間には結界が敷かれており、魔物たちがピエリアに寄ってくることは滅多にない。しかし、こちらから森に踏み入るなど、襲ってくださいと言っているようなものだ。
テルペを宥める腕に力が入りそうになるのを理性で押しとどめながら、できるだけ平静な声を出すように心がける。
「キュクロがいなくなってから、どのくらい経ったかわかる?」
「気づいたのは、ついさっきで……。夕食の時にあたし、余計なこと言っちゃって。あれからすぐいなくなったなら、一時間は経ってる……」
テルペのしゃくりが大きくなる。
「リーンの役に立つには、今のままでは無理なのよ、魔物退治できるくらいじゃなきゃダメなのよって……。あたし、そんなつもりで言ったんじゃなかったのに……っ」
つられて泣きそうになっている双子に、アイリーンは細剣と外套を持ってくるように伝えた。テルペを宥めながら、キュクロの足で移動できる距離を考える。
何者かが結界を越えれば大神殿にいる誰かが気付くはずだ。静かな夜にそれらしき騒ぎが聞こえてこないところを見ると、キュクロはまだ森に辿り着いていないのかもしれない。子どもの足で、不案内な道を歩いて迷っているのかも。そう願いたい。
「アイリーン殿、魔物とは? 神話に出てくる怪物たちのことか?」
その場にプルートスもいたことを思い出し、険しくなっていた表情をはっと緩めた。下界から来た客人は、魔物を見たこともないのだ。
「いいえ、怪物とはまた違うもので……悪い気が凝って、実態化したものです。結界を張り、町には入ってこれないようになっていますが、それがなければ私たちの持っているチカラに反応して形を成し、襲ってきます」
「なんと、そんな摩訶不思議が……」
「下界にも普通にいるものです。現れ方が違うようですが」
「ふうむ?」
「リーン!」
「持ってきたよ!」
双子が息を切らせながら戻ってきて、アイリーンに細剣と外套を渡した。
実戦に向かない華奢な剣を腰に佩き、丈夫な布で作られた外套を羽織る。簡易とはいえ正装のままなので裾がひらひらしていて動きづらいが、構っている場合ではないだろう。
テキパキと身につけながら、プルートスと子どもたちを振り返る。
「テルペ、大神殿に伝えて。できれば『イーリス』を寄越してちょうだい。クレオとタレアはテルペを手伝って、屋敷の中で待っていて。プルートス様は……」
「もちろん共に行くぞ!」
「いいえ、残って子どもたちをよろしくお願いします」
意気揚々と馬の背に手をかけたプルートスが、ジャンプし損ねて馬体に額をしたたか打つ。だがそんな痛みなど微塵も感じていないようで、信じられないという表情を顔いっぱいに張り付けてアイリーンを振り返った。
「待て待て、か弱い女性一人で行かせられるものか! むしろここは私が行くところだろう!」
まっすぐな正義感に、そんな場合でもないのに笑ってしまう。ありがたいけれど、現実にそぐわなすぎる言葉だと思う。
「足手まといです」
軽やかな声音で言い切ると、プルートスが絶句した。
牝馬の首筋を叩いて労いながら、ひらりと飛び乗って馬上の人となる。自分のことを「か弱い女性」などと見当違いなことを言いきる客人に対して、いつもと変わりない笑顔を作って浮かべた。
「大切な御身を危険にさらすわけにはまいりません。どうぞご心配なく。朝までには戻ります」
手綱を繰って大通りを駆けていく。
夜になっても仄明るいピエリアには、こんな遅い時間でもちらほらと外を歩いている人がいる。高らかな足音を上げて走っていく馬の勢いにぎょっとして、みんな慌てて脇に退いていくのを視界の端で見ながら、減速することなく馬を進める。
小さい町では、誰もが顔見知りだ。驚いた声でアイリーンの名前を呼ぶ人も何人かいた。
変に目立っている気がするが、この際構っていられない。
途中で道を折れ、細い道を直進する。アイリーンが知っている森への最短ルートはこれだが、果たしてキュクロが同じ道を辿ったかどうかは定かではない。
見当はずれの方向へ進んでいませんようにと祈りながら進んでいくと、町の境界を示す石塀が見えてきた。見回りの神官たちがアイリーンに気付き、何事かとこちらを見ている。
手綱を少しずつ引き絞ろうとしたが。
――ドオン……!
行く手の森から衝撃音と、かすかな光が見えた。
手綱を握り直し、上半身をぐっと前へ倒す。姿勢を低くして足できつく馬の腹を締め付けた。揺れる馬上で石塀を凝視し、その距離を測ることに集中する。
石塀が目の前に迫ってくる。減速する様子のないアイリーンに泡を食った神官たちが「アイリーン様!」と悲鳴じみた声を上げる。
「跳んで」
馬が大きく一歩を踏み出したのに合わせて鐙を踏み込む。小さな声と手綱の力で、大人の背丈ほどもある石塀を跳び越えた。
着地の衝撃で受けた反動をそのまま利用して馬から飛び降りる。石塀の向こう側であわあわと声を上げている神官に「この子をよろしくお願いします!」と言い置いて馬を任せ、音が聞こえた方向へ走り出した。
空は仄明るいとはいえ、木々の落とす影は濃く、周りの状況などほとんど見えない。数分もしないうちに走るどころではなくなってしまったアイリーンだったが、とにかく音のする方へと歩を進めていく。
耳をすまさなくても、何かが木々にぶつかり起こしている葉擦れの音は聞き間違えようがない。
魔物は何体出ているのだろう。キュクロは無事でいるのだろうか。
嫌な想像に背筋がヒヤリとした時、また先ほどと同じ衝撃音がして、先ほどとは比べ物にならないくらい間近に爆風と火薬のにおいを感じた。
一瞬の光が森の濃い影を追い払い、その中に見知った小柄な姿を見つけて安堵する。
「キュクロ!」
木の根や下草に足を取られないように注意を払いながら、見つけた人影を見失わないうちに足早に進む。手の届きそうなほどまで近づいたところで、爆風から顔をかばっていたキュクロがアイリーンに気付いた。
「リ、リーン……」
「キュクロ、もう、無茶をして」
「リーン、駄目だ、逃げて……!」
縋りつくように放たれる声がどこか弱い。ハッとして、キュクロが羽織っている外套を彼の鼻元まで引っ張り上げた。痩せた体を抱え込んで、怪我をしていないか確認する。
「キュクロ、体は動く? 痛いところは?」
「僕は、へ、平気……」
「毒を吸ったの? 痺れはある?」
「吸って、ない。ちゃんと気をつけてた……けど、でも、リーン、逃げてよ。僕、動けない! こ、怖くて、足に力が……」
全身を震わせているのは毒のせいかと思ったけれど、どうやら違うと知って少し安心する。けれど爆風がおさまった森の中には、確かに毒気が蓄積されている。鎮守の効果も兼ねている森で、こんなに強く毒が蔓延するなんて。
「リーン!」
キュクロの怯えた声に引っ張られて見上げた先に、とてつもなく大きな黒い影が見えた。
想定外の大きさに唖然とする。森の中に暗い影を落としている木々よりもまだ高い位置に、真っ赤に光る一対の珠が見えた。ぎょろり、と音がしそうなほど大きなそれは、巻き上がっている噴煙の向こうから確かにこちらを捉えたようだ。
キュクロを自分の後ろに押しやり、細剣を構える。空気をかき回すように、掲げた剣先をゆっくりと回す。
「キュクロ、まっすぐ後ろに進みなさい。境界の塀が見えたら大声で叫んで。神殿の者たちがそろそろ駆けつけてるはずだから」
「なに……リーンは?」
「一緒に行くわ。あんな大きなものどうしようもないもの。さあ」
「でも、足が……」
「這ってでも行きなさい。早く!」
一喝すると、キュクロが息をのむ気配が伝わってきた。ずり、ずり、と緩慢ながらも地面を這う音が聞こえてくる。
キュクロが離れていくにしたがって、剣先の振れ幅を大きくしていく。右手に左手に持ちかえて、大きく8の字を描くように回していくと、だんだん手にずっしりとした重量がかかってきた。
視界が良ければ黒く濁っていく細剣の刀身を見ることができただろう。空気の毒気を集めて、吸い込ませて、アイリーンは呼吸を整えてまっすぐ天に突き刺すように構えた。
「浄めの一閃」
唱えるように呟いて、正中線上に振り上げる。
その体勢のまま数秒溜めた後、鋭く呼気を吐きながら一気に振り下ろした。
刀身から光が吹き出し、真っ黒にこびりついた毒気が剥がれ落ちていく。光はそれだけでやまず、細剣を振り下ろした軌跡にそって夜の闇を切り裂いていく。
光が通り過ぎた後は綺麗に毒気が消えて、束の間森はもとの様相を取り戻した。けれど。
「やっぱり効かないわよね……」
噴き出した汗が玉となって肌の上を転がり落ちるのを感じながら、荒くなった呼吸の合間に小さく呟く。
巨大な魔物は心なしか小さくなったようにも感じるが、びくともせずそこに立っており、アイリーンとキュクロを変わらず見下ろしている。
「リーン、すごい!」
「キュクロ、行って」
諦念を感じているアイリーンをよそに、キュクロは魔物への脅威よりも、初めて間近で見たアイリーンのチカラの方に意識を移したらしい。先ほどとは打って変わって明るく弾む声に口元を緩ませながら、魔物から目を離さないままでキュクロを促す。
毒気を祓ったことで元気を得たのか、多少ふらつきながらもキュクロが立ち上がる。アイリーンの言うとおりにまっすぐ進んでいく少年を視界の隅で確認しながら、乱れた呼吸を静かに整える。大きな赤い双眸をひたと見据えながら考える。
魔物はチカラに惹かれてやってくる。そのチカラが大きければ大きいほど、出現する魔物も大きくなる。
この魔物はキュクロが呼んだものだ。キュクロが『神憑き』であることはもう間違いないだろう。名のある憑き神に違いないどころか、ひょっとするともっと高位の―――。
その時、じっと鈍重に構えていた魔物がおもむろに前脚を振り上げた。
自分のチカラでどこまで対抗できるかわからない。けれどアイリーンは覚悟を決めて、腰を落として細剣を構えた。
とんでもなく重量のありそうな一撃をまともに受けては吹き飛ばされるだけだ。空色の瞳を大きく開いて間合いを測り、魔物の前肢ではなくそこにまとわりついている毒素――澱、濁り、瘴気と呼ばれるもの――を絡めとって、先ほどと同じように光で弾けさせた。
範囲が絞られれば効果もそれなりに凝縮される。片方の前肢だけ貧相に細くなった魔物は、今度は逆の肢を振り上げてきた。
反応の早い魔物に比べ、チカラをふるうごとに結構な体力を持っていかれるアイリーンは細剣を構えることができない。魔物の注意が完全にアイリーンに向いたと知ると、彼女はキュクロとは別の方向に転がって受け身をとった。
「リーン!?」
「キュクロ――先に、行って。町まで行けば、これは、追ってこれないから」
「でも!」
「行って。私じゃ、あなたを庇いながら逃げ切るのは――あ!」
通り過ぎたと思った肢が振り子のように返ってきた。かろうじて表面を削いだが、間合いが取りきれずに吹き飛ばされる。
幹に背中を打ち付けて盛大にむせた。起き上がろうとして、鈍重な手足に焦りを覚える。
打撲よりなにより、着実に削られていく体力が痛い。逃げるだけの余力は残しておかなくてはいけないのに。
「リーン!」
キュクロの不安も煽ってしまっている。腰に下げた袋を何やら探っているのは、また火薬の類を使おうとしているのだろうか。早く行けと言っているのに、まったくアイリーンの言うことを聞こうとしない姿に苦笑してしまう。
「先に行ってくれた方が、いいんだけど……」
「同感だな」
小さく呟いた声に思いがけず返答が返ってきて、アイリーンは体を強張らせた。
何、と思う間もなく、アイリーンの背後から影が飛び出してきた。
視界の中で動いたものを反射的に目で追う。暗がりで細かい動きは見えなかったが、影が手に持っている棒状の何かを横に払った途端、魔物の巨躯はあっけなくバランスを崩し、木々を巻き込んで地に伏した。