アイリーン 002
報せはひどく簡潔で事務的だった。
これが唯一の遺族に宛てた書簡かと思うと震えすぎて笑えてきそうだった。
実際には全身どころか頭の中から揺さぶられているような衝撃を受け、一切の感情を表に出すことができなかったのだけれど。
「お嬢、気を確かにな」
神官長さまの気遣わしげな声や眼差しも、その時の彼女には届かなかった。
ただ目に入ってくる文字を何度も何度も反芻して、意味が分からなくなるほど咀嚼して、かみ砕いて粉々にして、それでも頭に入ってこない事実を、吐き出すわけにもいかず途方に暮れていた。
―――御柱の十一、『ポセイドン』エクト。反逆の罪により死刑に処す。
十三歳を迎えた夜が明けたばかりのことだった。
あの時の空の抜けるような青さを、今でも鮮明に覚えている。
神々が降臨するときに一番初めに降り立った地――と伝えられているピエリアは、神山の裾野が形成する広大な三角の形をした町である。
緩い斜面が連なっており、高地と低地では気温も違う。神山を背にして朝日を迎えるように裾野が広がっているため、朝は早いが夜が来るのも早い。ただ、神山の上部を覆う雲はいつでも淡い光を発しており、ピエリアの町が真の暗闇に包まれることはなかった。
ピエリアの町で一番大きな建築物といえば高台に佇む大神殿だが、一番広大な敷地を持っているのはアイリーンが寝起きしているこの建物だ。石造りの壁に、赤煉瓦の屋根。敷地の境界線にはぐるりと柵が設けてあり、その柵と建物の間を埋めるように柔らかな緑が芽吹いている。
ここは『癒しの家』と呼ばれている、いわゆる救済院である。
主に、下界からやって来たばかりの子どもたちと、年老いて身体が不自由になった老人が暮らしている。昼間だけ幼子を預けに利用している者もおり、みんなが自分のできることをして助け合っている。
アイリーンは大神殿から派遣されている世話役の筆頭で、この建物の管理者である。広大な敷地と建物を維持するのには労力もお金もかかる。自分たちでできることはなるべく自分たちで、という運営方針を打ち立てているアイリーンは、今日も子どもたちを指揮して夏至祭を迎えるための準備をしていた。
夏至は一年で一番太陽のチカラが強くなる日であり、そのチカラをもって世界が浄化され一新される、再生の日とされている。夏至祭は一年の間に凝った悪い気を打ち払うための儀式であるが、庶民にとっては一年の節目にある景気づけの一大イベントだ。
その新しい日を迎えるために、夏至祭の前はどこの家も準備で忙しい。気の緩みを正し、乱れた規律を整え、不要なものを捨て、新しいものを調える。
平たく言うと、大掃除である。
救済院の敷地は広く、夏至祭りまでまだ一週間ある現在からとりかからないととても間に合わない。佳き日の前に必ず訪れる一大イベントだ。
アイリーンも汚れてもいい服を身につけ、腕まくりをして挑んでいる。虫は別に怖くないが、ネズミが出てきたらどうしようと内心思いつつも、一つずつ部屋を片付けていく。子どもたちはしっかりしていて、アイリーンが指示を出さなくても年長者を筆頭とした統率的な動きをしており、効率よく作業を進めていく姿に感心してしまう。
アイリーンは主に書棚の整理を請け負っている。ひと段落した部屋を後にして次の部屋に向かうと、子どもたちが一斉にアイリーンのほうを見た。
「リーン! これもう捨てていい?」
「これもこれも! 埃まるけ!」
「きたなーい!」
きゃっきゃとはしゃぐ年少の子どもたちの頭をひとりひとり撫でていく。
「一度洗って、マガルおばあさまのところに持って行ってみて。繕ってくれるかもしれないわ。テルペ、今日のお洗濯は……」
「洗い物はこっちよ。あんたたち遊んでないで、後でまとめてするから持ってきて。……あ、ちょっと待ってリーン、そっちにネズミの糞があったわよ。危ないわよ」
「え」
思わず固まったリーンのスカートに、それぞれ猫を抱えた双子の少女がまとわりついてくる。
「大丈夫だよリーン、ミーラが退治してくれるよ」
「ノーマも退治してくれるよ」
「まあ。よかったわ、子猫たち元気になったのね。……あ、キュクロ、修理は終わった?」
子供たちが和気藹々としている中で、『癒しの家』にやってきて一週間しか経っていないキュクロは、まだどこか浮いている。
アイリーンの姿を認めてキュクロが近づいてくると、双子が怯むように距離をとった。
隻眼の赤く丸い目と、人を寄せ付けようとしない引き結ばれた口が、幼い子どもらには怖く映るらしい。
「テーブルの脚……一本だけ擦り減ってたから、長さ合わせて短くした。ちょっと低くなったけど我慢して」
「いいわ。ありがとう。キュクロは器用だから助かるわ」
にこりと笑うと、ちらりとこちらを見上げた瞳がすぐに逸らされた。すぐに何かを言いかけたが、テルペに呼ばれたアイリーンはキュクロの様子には気づかない。
「ネズミ、どうする? 毒団子でもまく?」
あっけらかんと言う少女に、アイリーンはしおしおと眉を下げる。
「部屋の中で死んでるのを見つけたら嫌だわ……」
「もーしかたないなあ。そのくらいあたしがやってあげるわよ」
和やかなやり取りが続く室内だが、そこにふらりとやってきた影がある。
とろんとした、感情の色が乏しい瞳で室内を見回すと、影は小さく息をついた。
「そうしてると、ただの娘みたいだね」
独特の淡々とした声音が届き、アイリーンは声の主を振り返った。光沢のある黄緑の髪に、夕日色の瞳を持つその人物は、ぱっと見ただけでは男性とも女性とも判別しがたい風貌だ。
細身の身体に、すんなりと伸びた手足。背はアイリーンよりも少しだけ高い。
「イリシャン」
「威厳もなにもあったもんじゃないね。今回の夏至祭は、あんたが責任者でしょ?」
「今はこの子たちの世話役だもの」
素っ気ない言葉を気にしたふうもなく、アイリーンはにこりと笑う。三角巾を頭に被り、麻のワンピースにエプロンをつけた格好のアイリーンは、イリシャンの言うとおり町娘にしか見えない。
子どもたちに紛れてせっせと大掃除にいそしんでいるアイリーンを、大神殿で要職に就いている神官と見るものはいないだろう。
子どもたちは突然姿を現したイリシャンにぽかんとした顔を見せただけだったが、キュクロはイリシャンを警戒するように見上げながら、アイリーンのスカートを引っ張った。
「リーン……」
「なあに、キュクロ」
「誰?」
片方しかない目にいっぱいの警戒心を貼り付けながらイリシャンを見つめるキュクロを見て、アイリーンは少年の傍らに座り込んだ。一緒にイリシャンを見上げる体勢になる。
「『イーリス』よ、キュクロ。彼の創る虹の橋を渡って、神山のオリュンポス宮殿へ行くのよ」
「男?」
怪訝な声と表情に、アイリーンは笑う。イリシャンはいつもの無感動な瞳でキュクロを見下ろしている。
男の人よ、とアイリーンがキュクロに教えているのにも頓着せずに、ぐるりと部屋を見渡した。
「散らかってるね。一段落するまでにどれくらいかかるの?」
「数日はかかると思うけど。なにか用事?」
「用がないなら、こんな格好でここまで来ないよ」
その言葉に改めてイリシャンの姿を見、彼が略式の正装をしているのを見て取ると、アイリーンは彼の言う「用事」を察して頷いた。
大神殿へ行くのだろう。不在にしていた長が帰ってきたのだ。
「着替えてくるわ」
三角巾をとったアイリーンに、ネズミ用の毒団子を用意していたテルペがくるりと振り向いた。
「リーン、どこに行くの?」
「大神殿よ。神官長さまにご挨拶に行くの。テルペ、任せていいかしら?」
「はあい。いってらっしゃい」
子どもたちは慣れたもので、あちこちから「いってらっしゃい」という声が上がる。けれどその中で一人だけ、キュクロが焦ったように声を上げた。
「僕も行く!」
「無理」
すかさず言ったのはイリシャンだ。怒ってイリシャンを振り仰いだキュクロを、オレンジ色の瞳が静かに見つめ返す。何をしたともわからなかったが、空気の圧が変わったのを感じてアイリーンは眉をひそめた。
キュクロを振り返ると、彼は片目を見開いて、全身を強張らせてイリシャンを見上げていた。
「この程度で動けなくなるなんて、論外だね」
「イリシャン」
批難の滲んだ声で名前を呼ぶが、イリシャンは気にしたふうもなく手をひらりと振る。
「大神殿の圧はこんなもんじゃないよ。倒れられても面倒だから来ないで」
イリシャンが背を向けると、糸が切れた人形のようにキュクロがへたり込んだ。その背中を支えて宥めながら、アイリーンは「乱暴なんだから」と息をつく。
そこに眉をひそめたテルペが寄ってきて、キュクロの手を引き立ち上がらせる。
「キュクロ、リーンを困らせないで」
キュクロは口元を引き結んだまま反応しない。『癒しの家』で一番年長のテルペは無言のままの少年を少し心配そうに眺めてから、頼もしい口調でアイリーンにきっぱりと言った。
「リーン、後は任せて。着替えてきなよ」
着替えるとは言っても、埃だらけの服を脱いで身軽な略式正装を身にまとっただけなので、数分と経たずにイリシャンと二人で公道を歩いていた。
羽を模した耳飾りの位置を直しながら、大神殿の背後に控えている神山を見上げる。今日の雲は常よりも薄く、山の頂がうっすらと見えていた。
「あなたの悪い癖だと思うな」
脈絡なく、抑揚のない声が届く。前を向いたまま淡々と歩くイリシャンを、アイリーンは横から覗き込む。
「なにが?」
「ああいうのを手懐けたがる」
「キュクロのこと? そんなつもりではないんだけど」
「せっかくの牙がふやかされて抜けそうだよ。ああいうのは手負いのままにしておいた方がいいんだ」
淡々とした、情も何もこもっていないような声。イリシャンらしい言い分に、思わず笑う。
「それは無理だわ。傷が見えたら、手当をしたくなるもの」
「悪い癖だよね」
「そうかしら……」
「悪い癖だ」
珍しく力がこもっているような声音で断言されて、アイリーンは首をかしげる。
何を思ってイリシャンがそう言うのか判別がつかない。アイリーンからしてみれば、イリシャンの言い分のほうがよほどひどいと思うのだが。
ねえ、とイリシャンがやはり前を向いたままアイリーンに問いかける。
「本当に神山に行くの?」
また話がとんだ。これはいつものことなので、アイリーンはゆったりと笑って応える。
「ええ。道案内をよろしくね」
「えー……」
面倒くさがりなのもいつものことだが、それとはどこか様子が違う。無表情の眉間に一本皺が寄っている。まじまじと見ていると、「転ぶよ」と端的に注意される。
目線を前に戻すと、横から深いため息が聞こえてきた。
「神山には、懐かしい人がいるんでしょ?」
「? ええ」
不思議そうに笑うアイリーンを理解不能だとで言いたげな瞳で一瞥する。淡々とした声音が、ワントーン落とされた。
「憎い人もいるんでしょ?」
アイリーンの笑顔がゆるゆると解けていく。神山を真っ直ぐに見ていた視線もそっと下がってしまった。
「……どうかしら」
イリシャンが言わんとしていることはわかる。『ポセイドン』だった兄のエクトは処刑された。『御柱』を処刑できるのは『御柱』しかいない。あの中の誰かが、もしくは彼らの総意がエクトを殺したのだ。
けれどいまだに実感がわかなくて、いつまでも気持ちがついていかない。
神山にいる、かつて一緒の時を過ごした友人たちの顔を思い出す。五年前の、まだ子どもと言って差し支えない彼らのイメージと、反逆や処刑といった物騒な言葉がどうしても結びつかないのだ。
「ねえ、なんのために行くの?」
改めて問われて、いつの間にか歩みを止めていたことに気づいた。顔を上げて、神山を見つめて、その背後に広がる空の青さに目を細める。
「……確かめに行くの」
あの時の空は、もっと濃い、突き抜けるような青だった。
短い手紙に簡潔に書かれた文面を今でもありありと思い出せる。
エクトが処刑されたという事実を伝えただけの短い手紙には、詳しい理由も何も書いてなかった。どう処刑されたのか、遺体がどうなったのか、そんなことすら、何も。
アイリーンには、どうしても納得がいかないのだ。
納得がいかないから、いつまで経っても受け止められない。
―――エクトがどこかで生きているのではないかと、思ってしまう。
「確かめて、どうするの」
一瞬、空気がのどに詰まったような気がした。
じっと見つめてくる夕日色の瞳を、途方に暮れたように見つめ返す。けれどすぐに、彼がアイリーンに手を差し伸べる気がないことを悟ると、彼女はゆっくりと一つ瞬きをした。
次の瞬間には、戸惑いは綺麗に覆い隠されている。口元に笑みを浮かべ、いつもの揺るぎない柔らかさを全身に纏う。
「確かめてから、決めるわ」
決然とした声と笑みに、イリシャンはやれやれと肩を竦めた。
面倒、と呟いているのが聞こえる。けれど彼がアイリーンに付き合う気でいることはわかっている。最初から止める気などなかったことも。
「イリシャンこそ、どうしてそんな話をするの?
「たまにはあんたの鉄面皮を剥がしてみたくなって」
「てつめんぴ……」
初めて言われた。
少々ショックを受けているアイリーンに、ん、と手が差し出される。
「さっきから思ってたけど、徒歩だと全然近づかない。面倒だから飛ぶよ」
「最初から馬車で来ればよかったんだと思うわ」
「ナマモノは嫌い。――掴まっててよ」
イリシャンから虹色の光がふわりと滲む。繋がった手の感触だけを頼りに、平衡感覚がくるうのをやり過ごす。
光に視界を奪われながら、『虹の神』だから虹色なのかしらと思う。
兄は海の青だった。神山には幼い頃をともに過ごした友人が三人いるが、彼らも憑神に由来する色の光だった気がする。
知性を表す醒めた感じの青に、美と愛を表す可愛らしい薄紅色。
でももう一人、軍神と謳われる憑神を持つ彼の光は、不思議と色味がなくて。
噂されているような禍々しい気配など欠片もなくて。
――憎い人も、いるんでしょ?
――……どうかしら。
本当は、彼らのことは、思い出すたびに美しいと思う。
あの光を知っているから、憎むだとか恨むだとか、そんなことは何か違うと感じてしまうのだ。