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アイリーン 001

 さあ、詩歌女神(ムウサ)のことから始めよう。

 (中略)

 さて彼女たちが神さびた声をあげて

 まず歌のはじめに賛え歌うのは

 大地(ガイア)と広い(ウラヌス)が設けた神々と

 この両柱から生まれた善きものの贈り手なる神々

 これら神々の(きよ)い族。

 さてつぎには神々と人間どもの父ゼウスを

 (ゼウスが)神々の中でどれほどにも並びなく秀でたまい

 力においてもいかに無双の方でいてたもうかを。

          ―――ヘシオドス(廣川洋一訳)『神統記』より



「神様って、こんなにいっぱいいるの」

「そうよ。名前のついてるものは、昔はみんな神様だったの」

「今は違うの?」

「今もきっとそうね。でも、神様だったのかどうか、わからなくなってしまったものも多いんじゃないかしら」

 ペラペラと古い本のページをめくりながら、少年は「ふうん」と相槌を打つ。

 机にべったりと上半身をつけながら書物に目を落とす少年をちらりと見て、アイリーンは自分の用事を済ませるためにペン先をインク壺に落とした。

 ところどころに引っ掛かりを感じる羊皮紙の上に、器用にサラサラと文字をつづっていく。屋敷の手伝いに来てくれる人は何人もいるが、一日の出納帳をつけるのは管理者である彼女の役目なのだ。

 しばらく紙をめくる音とペンがこすれる音が続いていたが、少年がおもむろに伸びをしてアイリーンを見上げてきた。

 赤銅色の隻眼がろうそくの明かりを照り返して、常よりも赤々としている。

「ねえリーン、覚えきれないよ」

「キュクロったら、覚える気でいたの?」

 むしろそのことにびっくりして、アイリーンは目を丸くする。ここに来る前はまともに書物を読んだこともなかったはずなのに。彼の賢さに感心し、ついで、その生真面目さに微笑した。

「神話の本が読みたいなんて言うからどうしたのかと思ったけれど、神山に行く前の予習だったのね。でも、その本に書いてある名前を覚えようと思ったらきりがないでしょう。全部覚える必要はないのよ。神山に宮を構えるのはオリュンポス十二神の神憑きだけだから……」

「え……『御柱』ってそんなに少ないの?」

「そうよ。今は十二柱そろっていないから、もっと少ないわね」

「ふうん、なんだ。じゃあ覚えたかな……」

 机を押して椅子の足をゆらゆら揺らしながら、少年は片方しかない目を閉じる。

「リーン、教えて。神様の名前」

「ちょっと待ってね」

 書き物から逸れそうになった思考を引き戻し、記述し終えた数字を道具を使って計算していく。二つの指でテンポよく珠を弾いて答えを出す。残金と相違ないことを確認すると、ほっと息をついた。

「これ便利ね。ソロバンと言うんですって。やっと使い慣れてきたわ」

「それできるとリーンの役に立つ?」

 じっと見上げてくる少年を見下ろして、アイリーンはにこりと微笑む。まっすぐな髪をさらりと梳いて、新しい羊皮紙を取り出した。

「十二柱の『御柱』は、それぞれ位が決まっているの。これは神話の時代に大神ゼウスが神々に振り分けた領分(テーベ)にのっとって決められているそうよ」

 説明しながら、IからXIIまでの数字を書いていく。

「一番位が高いのが、Iの柱である大神ゼウス。でも、神山に今『ゼウス』はいないわ」

 覗き込んでくるキュクロに見やすいようにゆっくりとした筆致で、アイリーンは数字の横に神々の名前を書いていく。それをじっくりと目で追って、キュクロは神話の本に載っている系譜と照らし合わせる。

「あ、やっぱり……ゼウスの兄妹だったり、子どもの神様ばっかりだ」

「正解よ。この中で今、確実に神山にいるのは――」

「『アテナ』、『アポロン』、『アプロディテ』、『アレス』、『アルテミス』、『ヘルメス』……六人?」

「そう。でも、この中で『アテナ』は未成年だから、表に立っているのは他の五人ね。一番位が高いのは、『アポロン』ということになるわ」

「ミセイネン……って?」

 耳慣れない言葉に眉をひそめるキュクロに、アイリーンはふと微笑む。

「子どもということ。十五歳までは子どもなの。守られる立場ということよ」

 一瞬きょとんとしたキュクロだったが、アイリーンに頭をなでられて、ハッとしたように席を立った。椅子が倒れて、静寂の濃い室内に大げさな音が響く。

「そんなの、ただの役立たずじゃないか!」

「キュクロ」

「聞かなかったことにする。ミセイネンとか、僕には関係ない」

 おやすみ! と言い捨てて、軽い音を立てて走り去っていく。その細い背中が扉の向こうに消えるのを眺めながら、ふと息をついた。

「気持ちは、わかるんだけど」

 ぽつりと独り言ちて、自分が書いた文字のデコボコを指でたどる。『神憑き』の名でない、個人としての名を頭の中で反芻させながら、「XIポセイドン」の字でぴたりと指を止めた。

「兄さま」

 空気に溶かし込むように、自分の耳にも聞こえないほど小さな声で、答えの返らない問いを宙に投げる。

「どうして死んでしまったの?」


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