人生の岐路(2200文字)
注)ほんのりビターブラックです。
その日、青年は人生の大きな岐路に立たされていた──
大学時代から登山サークルで意気投合していた二人の仲間と青年は、その日も三人揃って他県にある登山家でも知る者は少ないとある山へと登山に出発した。
初めて登る山とはいえ、これまで幾多の山々を制覇していった三人は順調に登山道を登り、頂上まであと一息といった所で"その事故"は起こった。
前日の雨でぬかるんだ斜面に足を取られ、青年の前を歩いていた二人が崖下へと身を躍らせたのである。
しかし二人は、既のところで岩肌に手を引っ掛け、なんとか滑落には至らなかったものの、依然として予断を許さない状況には変わりなかった。
そして今、青年の目には必死に助けを求める二人の姿が映っているのであった──
「た、頼む! 助けてくれ!」
大学時代、青年の同級生であった小島が懇願するような目で呼びかける。
青年はその声にちらりとそちらを見ると、今度はそのすぐ側から別な声が聞こえてきた。
「ま、まずい。もう指先が持たない……悪いがこっちから先に助けてくれ!」
そう声をかけたのは大学時代、青年のひとつ先輩で青年に登山の手ほどきをしてくれた吉見だった。
すると青年は吉見の方を見た、確かに吉見は今にも崩れそうな不安定な岩肌に手をかけており、いつ手が離れてもおかしくない様相であった。
「そ、そんな! こっちだってもう持ちそうにないですよ!」
そう声を荒げたのは小島だ。確かに、小島がしがみ付いている岩も、掴むための大きさは十分だが、形がやや丸みを帯びているため、身体を支えるには通常より強い握力が必要とされているのだろうと青年は思った。
「馬鹿! それはこっちも一緒だ! 俺は先輩だぞ、いいから早くしてくれ」
青年はそんな様子に何故か慌てることなく二人を交互に見た。
「わかった、俺から先に助けてくれれば、お前の好きな物なんでもご馳走してやるから!」
小島の言葉に青年はピクリと反応した。するとすかさず吉見が異議を唱える。
「ひ、卑怯だぞお前……。よし、それなら俺はお前に百万やるぞ! どうだ、これで文句ないだろ!」
顔を真っ赤にしながら吉見はそう叫ぶと、小島の顔はみるみる青くなっていった。
「そ、そんな……ま、待ってくれ! それなら俺は……俺は……」
狼狽える小島の姿を冷静に見つめながら、青年はそこで初めて口を開いた。
「ちょっと待ってください。二人共、どうして僕がどちらかを助ける前提で話を進めているんですか?」
青年の言葉に二人は自分の境遇も忘れ、しばらく唖然としていた。
「な、何言ってんだよ……お前」
小島が信じられないといった表情で、青年に問いかけた。
「何って……言葉の通りですよ。ここには僕ら三人しか居ない。例えここで二人が死んでもそれは事故であって、僕が罪に問われることは無い。なのにどうして僕が自分が死ぬかもしれない危険を冒してまで助けなきゃいけないんですか?」
青年がいたずらっぽく答えると、突然吉見の怒声が響いた。
「ふざけんな! 助けられる人命を助けないのは殺人と一緒だろ!」
「だとしても、ここで二人が死んでしまったら誰がその事実を証明するんですか?」
青年の冷え切った口調が吉見の言葉を詰まらせた。
「い、一体どうしちまったんだよ! おい!」
小島が大声をあげて青年を睨みつけた。だが、青年はその視線をものともせず二人に向かってこう言い放った。
「まだわからないんですか? どうして僕が知る人の少ないこの山に登ろうと二人に提案したのか、どうして雨の降ったばかりで悪路の多い今日に登山することにしたのか、どうして……僕が今日に限って最後尾を歩いたのか?」
「お、お前……まさか……」
必死にしがみつく二人の表情が硬直した。青年はその顔を見てくすくすと小さく笑い声をたてる。
「まぁ、とは言ってもまさかここまで僕の思い通りになるとは思ってませんでしたけど。もちろん、何事も無ければ僕が二人を後ろから谷底へ突き飛ばしていましたがね」
青年はそう言うと口元を歪ませ不気味な笑みを見せた。
「ど、どうしてなんだよ……お前……」
小島が腕の痺れに顔をしかめながら、弱々しく呟いた。
「どうして? 僕にとってはそんな台詞が吐けることに疑問を覚えますよ」
青年はそこで小さくため息をついて言葉を繋げた。
「……まぁ、いいでしょう。もうお二人にはあまり時間も無いようですから、手短に話します。まず吉見先輩、あなたには過去に"特訓"と称して様々な体罰を僕に行ってきましたよね。あの時に出来た火傷の痕や傷痕はもう一生僕の身体から消えることはありません。これはその報復なのです」
青年は表情ひとつ変えずに淡々と喋り続ける。
「次に小島。君は大学時代、僕が陽子と付き合っていることを知りながら彼女に手を出したな。僕はあの時、陽子がそれで幸せになるならと思って君のことを許した。しかしどうだ、大学を卒業したと同時に君は陽子を捨てて会社の同僚と結婚した。君は知らないだろうが、陽子はその後鬱病になって自殺したよ。これは僕ではなく陽子からの報復だと思ってくれ」
そこまで一気にまくしたてる様に話すと、青年は再び歪んだ笑みを二人に向けた。
「僕の話はこれで終わりです。二人とも、どうか安らかに眠ってください」
青年はそう言うと後ろへ振り返り、二人から少し距離を取るように歩き始めた。
だがその時、小島が捕まっていた右手を岩から離し、青年に気づかれないように右腕を吉見の方へと伸ばしていった。
吉見は小島の視線に気がつくと、最後の力を振り絞って身体をよじらせ、自分の左足をゆっくりと小島の右手の手のひらに乗せた。
そして、次の瞬間吉見は小島の右手を足場にして素早く岩壁をよじ登った──
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テレビの報道番組では、今日登山に出かけた三人組のうち一名が崖下に滑落死したというニュースが流れていた。
画面には一人の男が泣きながらインタビューに応えている。
《登ってたらいきなり足場が崩れて……俺も……吉見先輩も目一杯手を差し出したんですけど……届かなくて……うっうっ……あいつは大学時代から凄く良い奴でした……》
すると、画面の横からもう一人の男が現れて俯いたまま男の肩に手を置いた。
《もうよせ小島……あれはどうしようもない"事故"だったんだから……》




