忘れがたい景色(side.A)
「わ、」
すごいな、と思わず口から感想がこぼれていた。何の捻りもないが心からのものだ。
空を仰ぎ見てぽかんと開いた口が塞がらない。今まで見たことがない数の星が一面に散らばっていて、感動的としか言いようがない。
「口仕舞えよ」
アホ面、と鷹野はくつくつと喉を鳴らすのにはっとして慌てて地上に目を戻す。しかしアホ面なのは自分だけではなくて、隣にいる矢橋も「すごいなあっ」とぽかんと口を開けている。
「っ、矢橋。口」
「え?――あ、あんたもやったんちゃうん?! 笑うな!」
「や、ごめん。つい――」
「オマエら並んで間抜け面すぎ」
「あんたもちったあ感動せぇ」
「してるぞ」
三人揃ってぽかん、とかアホすぎるだろ。
言って鷹野は肩を竦めてみせた。確かに。ごもっともです。
「ごめんごめん。行こう」
「あー……しっかし眠いなー…あかん。寝足りひん」
「オマエな、んな事言うなら俺こそ帰るぞ。俺は眠い!」
「あんた先輩らと酒飲んでめっさ夜更かしコースやったやん! げらげら笑いよってからに。うるさーて目ぇ覚めたわ」
「自爆しといてよく言う」
「あー…ほら。夜中だから静かにね」
この二人は言い合いが始まると本当に小学生みたいになるから不思議だ。何の拍子でこうなるのかは端から見ていてもよくわからない。鷹野と自分の間合い・矢橋と自分との間合いではこうはならないので、中学時代の二人の関係がさせる成り行きなのだろう。
深夜三時過ぎ。三人で散歩にと繰り出すには遅すぎる時間帯だけれど、明日はもう帰り支度で終わりなので許される事だ。浜が近いのでそこまで、と誰が言い出したかは既に忘れてしまった。(少しだけ飲んでいたのでいつも以上にぼんやりしているのもあるが……)
「……すごいな、」
言われたばかりなのに歩きながらつい上を向いてしまう。街中では到底見られない星空で、外灯が無いとこうも見える物が違うのかと驚くばかりだった。二十年生きてきた中でこんな景色は初めて行き当たる。
「上ばっか見とったら転けるで?」
「いやあ、わかっててもね…これはすごいよ」
「オマエ都会っ子だもんな。婆ちゃん家とか田舎で見たことねえの?」
「ないなあ…身内って皆県内だし」
今は亡き祖父母とは幼い時一緒に暮らしていた。叔父叔母も県内に住んでいるか、もっと関東寄りの県にいたので【田舎暮らし】とは縁遠い。
「えー、じゃあ夏休みとかスイカ川に浸けといてスイカ割り〜とかなかったん?」
「ついでにオマエも浸かってたんだろ」
「えぇ、えぇ、浸かりましたともっ」
それが何か? というようにひゅっと眉を上げる矢橋に、鷹野は「やっぱりな」とけらけら笑った。
「いいなあ。気持ちよさそう」
「えーよー。海の水より冷たかったかな。…やったらよかったなあスイカ」
「海で?」
スイカは塩辛くならないのだろうかと素朴でどうでもいい疑問が沸いた。(多分、ならない。)
「流れる流れる」
「流されんよーにすんの! あったり前やろっ」
「じゃあ来年もここにして、矢橋がずっと抱いとく?」
「俺、パス。まずくなりそう」
「まずくはならないんじゃ…それより、あんまり冷えないかもね。抱っこだと」
「いーやーやあぁぁっ。つか失礼なやっちゃなホンマによ」
まったく、と矢橋は憤慨して眉をきっと吊り上げた。
数時間前の彼女はすっかりどこかに行ってしまったようで、いつもの調子でころころ表情が変わるのをほっとしながら見ていたりする。多分、鷹野も同じな気がする。いちいち口や態度には出さなくとも、彼も矢橋を【自分の内側に入れた人間】として接しているのはわかる。気安い相手だからこそ茶々を入れたり扱いが酷かったりという辺りは二人してよく似ているのだ。(言ったら即否定されるので言わないけれど。)
浜辺まで出て海を臨むと、真っ黒な海面と空の境界は曖昧だった。ざあっと寄せてくる波音と潮の匂い。さくさくと軽い足取りで波打ち際へ向かう矢橋に「ハマれよー」と鷹野が言えば「するかっ!!」とすかさず怒鳴り返された。
「…お前何で矢橋にそういう言い方しかしないのさ?」
「ああ言っときゃ気ぃつけるだろ」
「はあ……」
微妙な注意の促し方である。しかし矢橋の性格を考えればなるほどなと納得してしまえるのがまた……。
「勘違いしそうになるよ」
「? 何が」
「ホントは鷹野こそ――ってさ」
「はっ。バッカじゃねぇの」
心外、と鷹野は顔をしかめる。余計な事考えてんじゃねーよと後頭部にぺしんと軽い一撃がきて、確かに余計な事だったかもしれないと思った。さっき話した事を引きずっている。
「勘繰る前にテメーが頑張れっつの」
「はは、」
とはいえ、こうしているとやはり三人でいる方が好きだなと感じるわけで。矢橋と二人だったら多分間が保たない。更に言えば「散歩しよう」という話の時点で「じゃあ…」と鷹野を引っ張っていこうとしたのは自分の中では至極自然だった。あそこで【二人で】などとは欠片も思いつかなかった。友情よりずっと淡い恋心。こんな風になるとは思ってもみなかった。
「何や怖いなあ」
「ん?」
「海。暗いやろ。何か出そうっちゅーか、ふらふらーっと行ってまいそうになるの、何かわかる気がする」
「んなデリケートに出来てねえくせに?」
「あんたもや」
二人の声を聞きながら、ふむ、と視線を投じてみる。昼間は色がわかるのにそこはただただ真っ暗だ。沖へ行くほどその深さは増していて、時々光るのは星ではなく船だろう。留まる事なく寄せては返す波。果てがない。先が見えない。永久的に繰り返されるそれをぼんやりと眺めながら――
「森矢。ちょい待ち」
「……は? 何。鷹野」
「行くなよ」
……誰がだ。そんな挙動はしていない。
「行かないよ。濡れるでしょ」
「そこかいっ」
「え、違うの」
きょとんとしながら二人を見やると、はは、と揃って笑い出した。益々きょとん、だ。
「何なの二人共」
「いかにも行きそうなのオマエぐらいしかいないだろうが」
「せやでー。んでも、あんたは行かんな。うん」
「ええ? どこで納得したの今」
「オマエも図太いっつーこった」
「だからどこからそう――」
「【濡れるから行かん】て、まあ正しいっちゃ正しいけどなぁ」
自分が認識している自分像と他人が認識しているそれとは何か違うらしい。それだけはわかったのだが、何に笑われたのかはやはりわからず――思ったまま返しただけなのに人からこんな風に言われるのは今に始まった事ではない。だから「ああ、また何か間違ったんだな」と深くは考えない事にした。
「酒も抜けたし、散歩おしまーいっ」
「はいはい。よーござんした」
宿舎から歩いてきて、ちょっと海の風に当たって満足したらしい。言い出しっぺの彼女は自由きままだ。
「あんたまだ飲むんかー?」
「まだ誰かいたらな」
「鷹野は好きだよね、お酒」
「酒がっつうか雰囲気がな。色々面白いもん見れるし聞けるし」
「悪い顔だなあ…」
この友人は抜け目がない。自分の手札はまともに出さないくせに人には吐かせるのは巧いのだ。
「なーなー、手貸して」
返事をする前に、左手がすっと矢橋の右手に取られる。またきょとん、だ。
「あんたのも貸しぃー」
「あー? はいはいどうぞ」
矢橋は鷹野の右手も取って。彼女を間に挟んで三人が並ぶ。へへー、とへにゃりと相好が崩れた。
「わーい、逆ハー♪」
この状況がその言葉の意味に当てはまっているのかはさておき、楽しそうにゆっくり歩き出すのに合わせるしかない。
「……こいつまだ酔ってんな」
「……かも、ね」
普段なら無いような事も起きる酔っ払いクオリティは大学でいくつか見てきたが、自分が巻き込まれるのは初めてだった。矢橋は鼻歌まで出ている態で、繋がれた手は緩い拘束なのに離される気配はない。多分戻るまでこのままなのだろう。
「この空はあれやな。Bのドラの入りぐらい!」
「――ああ。うん、そんな感じ」
「曲の話か」
「そうそう。気持ちえぇやろなードラパ」
メロディーをなぞる矢橋こそ気持ちよさそうで、やっぱり面白い子だなとつい笑みがこぼれてしまう。その向こうで鷹野も微かに笑いながら「転けろよ」とまた微妙な注意を促していた。
友達だからこそこうして簡単に手も繋がれてしまうのだ。例の先輩には触れるどころか対峙すらまともにできないのに。
――小さいなあ……
緩く、簡単に。自分よりも小さな手を握る左手にほんの少し力を込めたら、その分握り返された。今向けられている笑顔は普段なら見られまい。見守るような心地でそれに笑んで返す。
この手が離れなければいいのにと思う自分がいたのは認める。けれど繋がれないよりはずっといいと思ってしまう辺り【楽器以外冴えない】自分らしいとも思うのだ。
君は君のままであればいい。その気持ちは、ずっと変わらない。
*
序盤、ひとまずここで区切りです。
先が長くなりそうですがのんびり進行させてゆきます(=゜ω゜)ノ