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音のする方へ  作者: sen
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約束は果たされる(ただし、終わりではない)


 いい音にするにはどうすればいいか。楽器を弾くのは人の手で、演奏は運動でもある。(力学だとか理系からのアプローチは先生から教わった。学校の授業よりするする頭に入るのが不思議である。)運動なのだから基礎トレーニングも知識も必要で、弾き手本人の体力や忍耐力もある方が良い。高い難易度の事はそれができてから。そんな風に聞かされた時、なるほどなと感心したのを覚えている。センスばかりで全部賄ってるわけじゃないよと、彼は回転寿司をぱくついていた。おいしいと綻ぶ顔からはさっきまでの切りつけるような厳しい目つきは失せていて、等身大の、中学生らしい子どもっぽさがあった。


 いい音にするにはどうすればいいか。音をたくさん聞く事は良い。クラシックに拘らず、ポップスやロックだって構わない。好きだと思う音楽を聞いて気持ちを上げる。ノってくると自分もやりたくなるし気分良く楽器に向かえる。好きな曲があるならそれを自分の楽器でやってみてもいい。そしていい音がすると更に上機嫌だ。勿論基礎体力と技術があるからこそ、ぽんと出力できるわけなのだけれど。彼は後輩から「どうしたらそんな風にできるんですか?」と訊かれた時、大抵そうやって答えていた。ああいう時はがちがちの理論を説かず【面白いと思わせるのが第一】だと言って愉しげににっと笑っていた。


 いい音にするにはどうすればいいか。尊敬できる・目標の相手がいるならその人の音を聞いて、可能なら教わる事だ。あんな風にやりたいという気持ちは動力になる。その人は弾く上で何を大切にしているのか、どんな練習をしているのかなんかも訊いてみるといい。最初から劇的に巧い人間なんていないわけで、いい弾き手ほど基本の練習を疎かにしない。その人も憧れや好きの気持ちがあるからこそ弾いているのだから、その軌跡を知る事から学ぶものは多い。彼女はそうやってこの四年このクラブでマンドリンを弾いてきたのだと言った。憧れと同時に、友情と信頼をもって。


 ***


 二人は久しぶりに同じ舞台に立つ。舞台袖で出番を待ちながら、鷹野は先ほどからぼんやりしている矢橋を見やる。ソロが終わってからどこか違う所を見ている風なのに懐かしさと驚きを抱いていた。随分前にこんな奴を見たなと思い出して、おい、と一声。何、と半分だけ振り返り、矢橋はことりと首を傾げた。


「ピック、あるだろうな?」

「は? あるよ、ほら」

「ならいいよ、」


 鷹野がいきなりそんな事を訊いてきたのは何故か。矢橋はしばし思考を巡らせて、ああ、と声を漏らす。彼は森矢がやらかした件を懸念したのだろう。


「大丈夫やて。あたしはそこら辺はしゃんとしとるで」

「だといいけど」

「あんたこそ大丈夫なんやろな?」

「ったり前だろ」


 俺を誰だと思ってんだ、とひゅっと眉を引き上げながら鷹野は腰に手をやる。はいはい、あんたはプロでしたねすまんかった、と矢橋は苦笑い。

 スーツは堅苦しいからとジャケットは脱いで、鷹野は上下共黒のシャツにスラックス。矢橋は黒のロングドレスという装いだ。ピアスは例のオレンジの物で髪は高く結い上げてある。白い項に薄く浮いた背骨。やたら細いな、という感想を口にしたら叩かれた。どこ見てんねん、と叱る口調も手も相変わらず荒かった。



 矢橋はこれを機にマンドリンを完全な趣味にするつもりだと言っていた。川崎からは好きなら続けていてほしいと言われたらしいが、共働きな上楽器の仕事までついては後々身が保たないかもといって決めたそうな。レッスンのペースも自然と落とすのだろう。しかし完全に楽器を手放すわけではなくて、今いる社会人団体でやれたら満足かなと笑っていた。――人生楽しくやってなんぼだろ、と鷹野は反対も賛成もしなかった。ギターを本職にしてしまった側は彼女のようにはなれない。


 久しぶりに合わせた時、互いが互いの音に驚かされたのは数ヶ月前の事である。矢橋は鷹野が以前に増して魅せる(さま)に、鷹野は矢橋の音が以前と違う事に目を瞠った。「予想以上」と口にしたのは鷹野で「やばい」と項垂れたのは矢橋だった。


「やばいって何が?」

「いや……案外ちゃんと合うもんなんやなと(おも)たんよ。前は何かあたし浮いてたような……」


 三人で合わせていた頃、レベルの差が噛み合わせを悪くしているのだと思ってやたらと悔しがっていた。鷹野と森矢は場数もこなしているからと一人だけ必死だったらしい矢橋は、森矢が【矢橋に引っ張られる】とこぼしていたのを知らない。


「悪い意味のやばいだったら蹴ってるとこだった」

「やめんかい!」


 矢橋は森矢を手本にしてきていた上に使っているのは同じマンドリンだ。何年か前に「楽しいなら楽しそうにやれ」と忠言した頃のように【森矢のコピー】だったら、多分また同じ事を言って苦い顔をしていたかもしれない。"らしく"弾こうという気が少し抜けたのか、矢橋の音はやはり矢橋のもので――


「オマエ良くなったな。面白くなるぞ、これ」


 思ったままを口にしつつにやりとしていた横で、矢橋がぽかんと呆けて目元を赤くしていたのを鷹野は知らない。

 実際に割ける時間は思っていたより短かったけれど、その分密な中身だったと思う。言うべき事は言い合い、意見をすり合わせ反映させてゆく時間は愉しくて充実していた。未発表の曲で空間を作る過程はそれだけでもわくわくする。いい大人が二人して没頭した。作った本人がどう言っていたかとか、そういえばこんな事があったなとかも話しながら、時々懐かしさに浸って。


「あのさあ、」

「言わんてゆーたやろ」

「まだ何も言ってねえだろ」

「わかるよ。何回目やその、間」


 鷹野は折々に森矢が矢橋に向けた言葉は何だったのかを訊いて、しかし毎回窘められていた。


「恵亮、しつこい男はモテんて誰がゆーてたんやった?」

「はいはい、」


 両手をあげて降参のポーズをとりながら、いつの間にやら呼び方が中学時代のものに戻っている事に何となくむず痒さを感じていたりする。矢橋に他意はないのだろう。多分意識すらしていないそれは友人としての好意がきちんと戻ってきたのと同義だと思う事にした。



 プログラムは時間通りに進んで、いよいよ出番だ。緊張感は無く二人とも楽しみで気持ちが高揚していた。


「そんじゃ、行くか」

「森矢ぶっ飛ばしにな」

「そーそー。こればっかりは客はついで」


 【やりたかったあぁっ!】と悔しがる様を想像して、二人でにやり。悪い顔だなあと端で見ていた篠原はくすくす笑って「うん、思いっきりやっといで」と二人の背中を押した。


「マンドリン、矢橋凌。ギター、鷹野恵亮でお送り致します」


 アナウンスが終わると目で合図をし、絃に手をかけた。最初の一音が零れ、音が重なって波になる。音に包まれる感覚に心地よく飲まれていると数分なんてあっという間だ。


――やばい、


 快感と浮遊感がない交ぜになって、どっと押し寄せてくる瞬間は最高にいい気分だった。終わりの一音は必ず訪れるのにそれを弾くのが惜しいと思ってしまう。隣で弾く相手も同じように思っているだろうか?


 余韻までが消えて、すっと構えを解いてから立ち上がる。客席に深くお辞儀をして、割れんばかりの拍手が送られる中で二人は笑い合った。ざまあ見ろ、と心の中でここにいない彼に向ける言葉は同じ。


「ざまあ、」

「あはははっ、あんたすごい顔」

「あん?」


 舞台袖に引っ込んで最初の一言がこれだなんて観客は知る由も無い。してやったり、という時の鷹野の表情は昔から相手に「悔しい!」と地団駄を踏ませるには充分過ぎる威力があったりする。


「あたしも満足やわ」


 ありがとぉな。

 歯を見せてにっかり笑う矢橋は子どもみたいで、鷹野に一瞬ぽかんと間ができる。


「――何、」


 覚えのある間の出来方に、今度は何を言われるのかとつい身構えてしまった。すると鷹野はふっと視線を外して後ろ首を掻く。


「………あいつが言ってたのってこういう事かなって思っただけだよ。一瞬だけな」

「はあ?」


 意味がわからない、と矢橋は首を傾げるしかない。


「いんや、こっちの話」溜め息。「とにかく終わったんだ。後は旨い酒飲むだけだな」

「あんたそればっかしか!」

「今日の酒は旨いぞー思いっきり飲んでやる。オマエもガッツリいっとけよ。この間みたくなっても彼氏呼べば何とでもなるんだろ。つかあれだ、この際乗っかってお持ち帰りされときゃいんじゃね?」

「ちょっ、ええっ? あんたホンマ…! もー最低っ!」

 

 鷹野の暴言に呆れ返りながら、気心知れた同士の間合いなどこんなものかと矢橋はふっと息を吐く。簡単に切れてしまう関係もあるはずなのに、どうしようもないな、しょうがないなと思いながらも関係が切れないのは不思議なものだ。そこには一体どれだけの要因が絡んでいるのだろう。



 ふっと笑う声がして、音のする方へ二人は目を向ける。懐かしさが過ぎった気がしたのだがそこには見知った顔があるばかりだった。「お疲れ様」「素敵だった」と口々に労いや賛辞を投げかけてくれたのに対し、顔を見合わせてから揃って、


「今日こそ寿司っ」


 と返して破顔した。



 止




先に、いきます。


これにて追いかけるカメラはストップです。長らくのお付き合いありがとうございました!

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