忘れ得ぬ面影(side.R)
薄く目を開けて車が止まっているのに気付いた。ぱっと右側を見ると鷹野の姿が無い。(普通着いたら起こすだろうに!)シートベルトを外して車を降りると、足下の砂利が音を立てた。側には見覚えのある建物があって、しかし今は使われていないらしく人の気配はない。
「……どこ行きよったんや」
鍵はかけられないので念の為鞄も持ってばたりとドアを閉めた。きょろきょろと見回しても鷹野はいない。戻ってくるのを待つべきか迷っていると携帯が着信を知らせる。
「――はい? あんたどこ行っとん?」
「あれ、起きてたか。まーいいや、海側にいるから来いよ」
「車! 鍵っ」
「誰もいねーよ、んなとこ。別に何も乗せてねえから」
変な所で大胆というか雑というか――本人が構わないと言っているならまあいいだろう。
「……わかった」
「一本道だから大丈夫だろ?」
「はいはい、よぉよぉ知ってますー」
「ん。一回ぐらい転けてこいよ」
「うっさい!」
足下が悪いのに加え、こちらがヒールなのを知っているからそう言うのだ。最初から聞いていればぺたんこ靴にしたものを。携帯を片手に覚えのある道を進む。あの時は真夜中で周りがどんなだったかは気にしていなかったし見えなかったが、背の高い木が道なりに植わっている。日差しは和らぐが何せ足下がよろしくない。途中から砂地になりヒールが埋まる。足がざらざらして鬱陶しいが、後でいいかととにかく歩を進めた。
視界の先に海面が映る。ざざ、と波音もしてきた。潮の香り。昼間と夜で景色がこんなに違うのかと少し驚かされる。そして鷹野の姿を捉えた。デニムのポケットに両手を突っ込んで海の方をじっと見ているらしい。確かに整った顔立ちで、こんな場所が絵になる奴だ。黙っていればの話だけれど。
「……鷹野、」
「ん、」視線。「おう。お疲れ」
「あんた、……はあぁ…どないしてくれんねん、靴」
「ああ――まあ洗えば」
そこで、と海の方を示す。潮水で洗っても仕様がないだろう。
「べったべたになるわ。ほんで帰りよ! また砂だらけやっちゅーの!」
「だよなあ」
「端から言うとけっちゅーの…」
「言ったら、オマエ、来たか?」
来ないだろ、というニュアンス。鷹野はどうしてそう思うのか。ここはクラブで来た事がある合宿先で、三人で夜中に散歩をした場所で、否応が無しに森矢を思い出させるからだ。
そして、確かにここだったら大人しくついて来なかったであろう自分も想像できた。森矢もだが鷹野の事も考えたくなかったのだ。本当に。
「な、」
鷹野は沈黙を肯定と取った。
「………きれーな。昼間」
「オマエ来なかったけど、合宿の間も皆見に来てたんだよな。すげーっつってバッタバタ」
「ああ、なんや写真は見た気ぃするな。それ」
「だろ」
夜の真っ黒な景色とは正反対の展望。天気の加減か空と海の境界線はくっきりと分かれて見える。薄い青と濃い青。船らしき点がちらほら。
「……あんな遠いんやな。もっと先があるとかマジかって感じやん」
世界は広い。一人はほんの一点にすぎない。でもその点一つ一つに人生があって、思考や感情に振り回されながら生きている。悩みなんかちっぽけで一時的なものだとはよく聞く慰めで――そして自分が森矢に抱いている感覚はここから水平線に浮かぶ船の影よりもずっと遠い。
「遠すぎる、」
「そーゆー事だな。オマエが森矢森矢ってうるせーのはこう見えてるからだろ。…あっちまで行けると思うか? 無理だってわかるだろ」
「ははっ! あんた、これ見せるだけでわざわざ?」
笑えた。改めて見せられなくとも重々承知しているのに。
三人で来た時、と、鷹野は目を細めながら口を開いた。
「ふらふらーっと行っちまいそうとか言ってたけど、これだとそんな感じしねえな」
「……いかにも行きそうなんは森矢やなあ言うてたやつ?……マジで行ってもーたけどな」
今考えたら質の悪い冗談だった。
「あいつは行かねーっつってたろ。濡れるから、とか言ってさ」
「……よお覚えとんな」
「忘れたか?」
「いんや。忘れん」
大笑いしている自分らを見るきょとんとした顔も、思いの外鮮明に覚えている。人間の記憶の引き出しとは不思議なものだ。
「あー、オマエそういや自棄で一気した後だっけか」
「んな事まで?!」
「もう子持ちだっけあの先輩。おっそろしい……――しっかしまあ、来てみたら思い出せるもんだな。案外」
「せやな、アホな事ばっかりよぉ覚えとるわホンマ……」
繰り返される波をぼんやり眺めながら、はは、と苦笑いが漏れる。不意に髪が風に撫ぜられたので片手で押さえた。日差しが眩しい。
「…あいつも俺もオマエもさ、ちゃんと居たろ。ここに」
二人の立っている場所はあの時とよく似ている。間に一人分、開いて。
「あのな、嫌いとか本気で面倒だったらオマエが【逆ハー♪】とか言って手持ってっても繋いでやってねーよ。散歩行こうっつっても行ってねーし。……俺がどんだけキツイ事言っても、あいつが天然ボケかましも「しょーがねーなー」っつって笑ってツッコミかましてたろ。オマエもさ。ダチじゃなかったら女相手にあんな滅茶苦茶やってねえし、こっちも黙ってしばかれてねえっつの」
その辺割とシビアだしな、と鷹野はとんと浜辺に下りる。歩く度にざくざくと足跡が残った。
「…あんたらは特別で、あたしはついでみたいなもんやったやろ。楽器持たせたら」
まだ拗ねていたい気分だった。背中を見やりつつ重なる面影がある。鷹野よりもう少し体の線が細くて、短い黒髪の青年。
「あんたらは別格やて、端から皆言うとったのにな。仲良かった分勘違いしとったんやろ。あたしも一緒に、とか――」
「前は、だろ。やるなって思ってなかったらあんな曲渡さねーよあいつは。俺もだけど、出来ない奴には冷たいとこあったから」
鷹野は足下を見たまま、小気味よさ気に笑った。
「オマエ、すげーよ。よくやったんじゃね。初心者がばりばり弾いてきてここまでなったら本物だろ。…森矢も、そう言う」
いい弾き方してる。マジな話。
鷹野がこんな風に言うのを聞くのは初めてだ。こちらを見ないままだったけれど、彼が本音を漏らす時はこんな態度なのは知っている。だからこそ驚いたし、ぐっと胸を捕まれた心地になった。不覚にも嬉しくなってしまうではないか、これでは。
「……何やねんあんた。一回も、褒めんかったくせにっ…」
ぎっと睨むようにしていると、彼はこちらを振り仰いだ。
「素直に喜んどけ。今日だけ特別サービス。…ああ、言っとくけど、曲がどうこうとか今思ってねえから。あれは俺が走り過ぎて言い方間違えたかもな。……オマエがやる気になるまで待つしかねぇかなーって反省、したし。やるならやるで、俺らにしかできねー音にしたいだろ?」
やる時ゃ、あいつ思いっきりぶっ飛ばしてやろーぜ。
そうしてにっかり笑った。子どもみたいな笑い方で、随分前に見た事がある無邪気なものだ。
「ぶっ飛ばすん、客やなくて森矢なん?」
「ったり前だろ。俺らにまで黙ーっていきなり死にやがってあん畜生…散々振り回されてんのはオマエだけじゃねーんだ。だから仕返ししてやんねーと腹立つだろ」また、にやり。「悔しがるぜ。【やりたかったあぁっ!】っつってさ。そんで、ざまあ見ろっつってやったら気持ちいいに決まってる」
「……はは。おかし、」
何それ、とくしゃりと泣き笑いの時のように顔が歪む。
「あんた、あたしがキレてからそんなん考えとったんか?」
「あん?……まー、ぶっちゃけ今思いつくまま喋ってるな。ここ来たら何か、俺もさっぱりしたっつうか……オマエと一緒で、俺も置いてかれたとか思わなかったわけじゃねえんだよな。でもぐだぐだやってもしょうがないだろ。――男がそんなん、カッコ悪ぃ」
「あんたらしいっちゃあんたらしいなそれ。……あんたも言わんかっただけで、寂しかった?」
森矢がいなくて。
こちらの問いかけに、鷹野はしばし黙ってから「そりゃあもう、」と冗談めかして応えた。
「今考えたら、いねーとつまんなかっただろうなって思うよ。どっちも」
【三人セット】も悪くなかったって今だから思える。
鷹野がそんな風に口にするなんて思っていなかった。正論で畳み掛けてくるとばかり思っていたのに、彼がここで過去に頼るだなんて。
「……ははは、何がそりゃあもう、やねん。どっちもて…あたしはついでかい」
「ひねくれてんなあ。どっちもいいダチだっつってんの。言わすなよ、こっぱずかしい」
「あんたが勝手に言うとんにゃろ。……ホンマ、そーゆーの、…っ……」
「ああ?……――おい、」
ざっ、ざっ、と足音が近付いてくるのはわかったけれど、こちらはぼろぼろ落ちてくる涙を拭ったり押さえたりするのに必死で。立っていられなくてその場にしゃがみ込んでしまった。嗚咽が止まらなくて、喉や胸の奥がひくつく。泣けてきた原因が何なのか自分でもよくわからなかった。安堵か悔しさかかなしさか? どれが一番大きいだとか、どうでもいい。
「っ……ふえっ、く、――何なんや、ホンマにぃっ……あた、あたしばっかり泣いてっ、あんた、何で、全然…泣かへんねんっ………」
「………」
すぐ隣に気配があって、とん、とん、と背中を叩かれた。同じように身を屈めているのか「泣いとけ泣いとけ、」という声は思いの外近くから降ってくる。
「チャラ男はへらへらしてなんぼだから簡単に泣けねえもんなんだよ。キャラじゃねーからな」
自分でチャラ男とかそんな。どんな言い訳だ、というツッコミもできない。
「っ…――あんたまでおらんくならんとってや?! いくらあんたでもなあ、泣くであたしはっ……!」
「………」
沈黙。
宥めるように一定のリズムで叩かれていた手が止まっていた。怪訝に思い、ぐしゃぐしゃな顔なのも忘れてそっと目を上げる。
「………何? その顔」
相手の顔は思いの外近くにあった。鷹野は眉間に皺を寄せ、口元はぐっと引き結んでいる。ものすごく複雑そうな気色の双眸はこちらをじっと見返していて、一瞬心臓が止まった。近い。とにかく近い。
何、と首だけ傾げてみせるとようやくその口が開いて――
「………しおらしくて気持ち悪い」
「何やとおぉっ!?」
搾り出すようにして彼の口から出てきた言葉に、唖然として涙も引っ込んだ。言うに事欠いて【気持ち悪い】だと?!
「あんたなあぁぁっ!! あんたホンマ、しんっじられん!! 誰がっ、誰がここでキモイとか言うねんっ!」
「ってええぇぇっ」
ばしんっ、と力一杯背中を叩いたのは間違ってないと思う。そしてやはり、この男はどうしようもない阿呆だと思った。
* * *
「なあ。ここ、何て書いてあったんだ?」
帰ってきたのは夕方で、車を降りる前に「あ、」と鷹野が思い出したように例の譜面を出してきた。最後の一枚の赤い部分の事らしい。そこも見たのかと半笑いしか浮かばなかった。
「オマエが消したんじゃねぇの?」
「……まあ、」
「なら覚えてるだろ」
「…………いや。あんたは知らんでいい」
「は?」
「あんたばっかりは狡いやろ。偶には知らんわからんもだもだ感味わえ」
「はあぁ? 何、ラブレター?」
「そんなんちゃうよ、」
じゃあね、とクリアファイルをさっと奪って車を降りる。まだ何か言いたそうだった鷹野にひらりと手を振って背を向けた。
あそこに何が書いてあったか。それは森矢と自分だけの秘密にしておこうと思う。別れの言葉でも愛の告白でもない、でも彼が自分に向けてくれた好意そのままの優しい言葉だった。
――……はあ、泣いた泣いた、
森矢にも鷹野にも泣き顔を見られたなとほんの少しだけ悔しい気持ちはあった。いつかは情けない泣きっ面を拝めるかなと思いつつ見上げた空は茜色と灰色のコントラストが綺麗で。
結果的に自分の手元に戻ってきた譜面に、誰かさんはどうやってもこれはやらせる気なのだなとふっと小さく噴き出してしまった。
「……しゃーない奴ばっかしやな、」
独りごちてかちゃりと部屋のドアを開く。朝出た時と寸分違わぬ景色だったけれど、もやもやした物が取り払われて気持ちはしゃんとしていた。単純、と我ながら苦笑を禁じ得ない。
それでいいんじゃないかな。友達同士ってこんなもんでしょ? と小さく笑う声がした気がした。
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