知っているからこそ、わからない(side.R)
携帯に着信ランプが点いていて、ぱかりと開いて見てみれば鷹野からのメールだった。「朝迎えに行くから明日一日空けとけ」としか書いていないその不愛想っぷりったらない。彼にきゃあきゃあ言う女性達に見せてやりたいと思う。こいつ、本性はものすごく酷いんですよと。
「………何やっちゅーねん」
一方的なメールにぼやきつつ携帯を閉じた。鷹野がどういうつもりなのかは知らないが、返信せずとも向こうに来る気があるなら勝手に来る。そういう奴だ。一方的な約束を守る義務はないのだから、部屋の前まで来ていようが出なければいい。
自分は譜面を手放した。返したと言ってもいい。もうこれ以上固執するのが馬鹿馬鹿しくて、今までの自分が恥ずかしくてならなかった。写真の中の自分は何も知らず、目の前にあるものばかり見て、聞いて、感じて、楽しくて、笑っていた。こんな風になるなんて想像もせずに。
翌朝、鳴り止まないインターホンに起こされる羽目になった。寝起きでぼけっとしたまま出ると「起きてんのか?」と鷹野の声がして驚いた。(8時前なのにインターホンの連打は近所迷惑やコイツ!)
「おせーよ。寝てたのか」
「………うっさい、何やこんな早ぉに…」
不機嫌を全面に滲ませた声しか出ない。
「行くっつったのに何やってんだよ。早く着替えろ」
「はあぁぁ…?」
時間までは聞いとらんやろ、とぶすっとして返すが鷹野は知らん顔だ。
「とりあえず入れろよ。さっきすげー目で見られたし」
「あんたなあぁぁっ…あったりまえやろ」
「オマエまで変な目で見られたくねえだろ。早く」
コイツ、いけしゃあしゃあと。
舌打ちして玄関まで行ってから、壁掛けの姿見の自分を見て少しだけ髪を直す。ぼさぼさな頭で出たら鷹野が爆笑するのは間違いないからだ。鍵を外して少し開くとドアの縁に手が伸びてきて、そのままぐっと引っ張られる。前のめりに傾ぐ体は何とか堪えて室内で踏み留まった。
「ちょっ、」
「よ。…オマエ、寝起き?」
「やかましわっ」
言い返しても相手にされず「邪魔するぞ」と一言置いて鷹野はさっさと靴を脱いで部屋の奥に行ってしまった。待てと言っても無駄で、入っていいとは言ってないと言うのはもっと無駄だ。
「メール見てねーの」
「知らん」
「いーけど早くしてくんねぇ」
「はあぁ? どんだけ自己中なんあんた」
「そんなナリで連れ出されたくなかったら用意。今から15分。はい始め」
「あんたな! その前に何か言う事ないんかいっ!」
「…その話は後でな」
ひらひら手を振って自分は携帯をいじり始める。勝手に椅子に座ってこちらには一瞥もくれないので文句を垂れ流すのもアホらしくなってしまった。後でという言葉にだけ押されて寝室に戻る。休日の朝いきなり部屋に押し掛けられ、15分の間に身なりを整えなければならない状況とは一体。本当に勝手だ。しょうもない用だったらしばき回す、とだけ堅く決めてクローゼットを開いた。
鷹野に痛いぐらいの視線を向けながら「出れるで」と言うと彼は立ち上がり「20分」と舌打ちした。五分が憎い。というか鷹野が憎い。勢いをつけてショルダーバッグを相手の足にばしんと叩きつけると「いって!!」と喚かれた。これで済ませてやる、と言う代わりに睨み付けておく。
「ほんで。何やねん」
「……車あるから。行くぞ」
無言の抗議の目を向けてから鷹野は外に促した。車。そういえば移動にはよく使うとか言っていた気がする。一度も乗せてもらった事はないが。(乗ってくか、とも一度も訊かれた事はない。)戸締まりと火の元を確認してから外に出ると既に鷹野の姿はなかった。先に降りたらしい。
「……腹立つわー…」
朝っぱらから何度舌打ちさせるつもりだ。まったく。眠気は苛立ちで吹っ飛んでしまった。三階の部屋から階段で降り、出入り口まで行くと鷹野は煙草をくわえて立っていた。ふーっと吐き出される紫煙にまた眉を寄せて「あんた、車は」と言葉を投げる。
「あっち。路駐できねーから」
「さよか、」
歩き煙草は感心しないがぼんやり待つのは時間の無駄だ。歩き出した鷹野の後ろについて行くとコンビニの隅に停めてある車に行き当たった。
「あんた…怒られんで」
「あん?」
何が、と鷹野は怪訝に首を傾げる。いいから乗れよ、と運転席と反対側を顎で示して自分はさっさと乗り込んでしまった。朝で駐車場は空いているとはいえ…という説教は溜め息一つで吐き出した。
「おい、前座っとけ」
「ああっ?」
「酔うだろオマエ」
「………」
よくご存知で、と憎たらしく思いながら助手席に座る。薄く煙草の匂いがするのは仕方ないが、他の女はよく平気だなと思う。シートベルトをしている間に鷹野はがさがさとコンビニの袋を探って、ほら、とこちらに紙パックの野菜ジュースを寄越してきた。
「……」
「? 何」
「いいえー、別に」
「こん中適当に入ってっから。食いたきゃ食っといて」
がさりと差し出された袋を受け取る。礼なんか言うものか。勝手に引っ張り出したのは鷹野で、これを買ったのもそちらの勝手。ジュースにストローを差して黙って飲む。鷹野はエンジンをかけて、車はするりと道路を走り出した。
車内はラジオのDJが喋る声や音楽しかしない。訊きたい事はたくさんあるが相手がぽんぽん答えてくれる画は想像できなかった。【話は後で】の後はいつだ?
そうこうしている内に車は市内を抜けて高速道路に乗っていた。一体どこに、どれだけ遠くに行こうとしているのかという疑問が深まるばかりだ。しかし少なくとも森矢の実家ではないらしいのには安堵した。(方向的に反対の道路な事ぐらいはわかる。)
「オマエ森矢んとこ行ったんだって?」
不意に口を開いた鷹野に虚を突かれる。いきなりかと目を剥くが彼は運転中なので前を見据えたままだ。
「…あんたにいちいち許可がいるんか」
「そうじゃねえけど。オマエらしいっちゃらしい事したな」
どうやらあれこれ知っているらしい口振りに目を伏せて唇を噛む。
「譜面無しでできるかっつの。……オマエ、何がしたいんだよ? 泣くぞあいつ」
泣きたいのはこっちだ、と膝の上でぎゅっと拳を握る。現在進行形で腹も立っているし惨めな気持ちだってある。
譜面を返しに行く前からマンドリンには触れていない。なのにピアスだけはどうしてか外せないのだ。あっと言う間に外せるものなのに、いつの間にか視覚的にも耳にも馴染んでしまっていた。外したら本当に弾けなくなってしまいそうな気すらして、こうなったら病気だと自分でも思う。
「やらんゆーたやろ。…あたしはもう知らんてゆーた。後は好きにやる」
「好きにやるのはいいんじゃね。楽器辞めろとは言ってないだろ、俺。でもな、曲はやっちまわねーと一生残るぞ。お互い」
「…あんたの方が拘っとるんやんけ」
「……かもな、」
素直に認めるが鷹野の横顔はさきほどから変わりない。今までのように「俺はオマエとは違うんだよ」と笑い飛ばしもしなくて、ただ無表情で前を向いている。気持ち悪いなと感じるのは普段のチャラさが見当たらない所為だろうか。
「オマエ自分だけのけ者みたいに言ってっけど、実際そうなってんのは森矢だってわかってるか?」
生きている側は未来がある。自分達には少なくとも"今"はあるわけで――森矢は五年以上も過去で唐突に時間を止められて、思い出される側になってしまった。彼からしたら「のけ者なのは自分だ」と苦笑するかもしれない。
「…気持ちの問題や」
「あいつが譜面持ってきた時最初に食いついたのもオマエ。まだまだっつって延ばし延ばしにしてきたのもオマエ。そんで【やりたくなくなったからもう嫌です】なんて滅茶苦茶だろ」
「せやけどっ…あたしはっ、」
「一回聞かせてやる優しさぐらい、まだあるだろ。いくらムカついてても」
「あんたの都合でいきなりやろうかーなんて言われてもな!【はあ?!】ってなもんじゃっ」
「オマエの都合も考えたろ、一応。…あの眼鏡の人、どうなったよ」
「あんたに関係ない」
「だよなあ、」
言うわけないよな、と鷹野はここで初めて薄く苦く笑った。
休憩するか、とサービスエリアに入ったのは昼過ぎだった。長時間運転しているのは鷹野で、自分はただ座って景色を眺めつつむすっとしていただけなのだから文句はない。休日なだけあって駐車スペースは車でいっぱいだ。家族連れだったり観光バスなんかの団体客だったりで人も多くどこも賑やかだった。
「飯、どうする」
「…別に」
「何か適当に食おうぜ。なーにすっかなー…」
鷹野は呑気にあちこちに視線を向けて歩く。置いて行かれても困るので何となくついて歩きつつ、溜め息を一つ。
「…おい、あからさまに溜め息吐くなよ」
「どこ行くん」
「あ?」
「やからっ――…! どこ連れてこうっちゅーねんあんた」
「着くまで内緒。今更帰るとか言われたら困るし。それより飯! 腹減った」
一人でさっさと済ませる様子がないので、渋々ながら付き合う羽目になった。テーブルで顔をつき合わせてご飯だなんて久し振りな気がして、そういえば呑みにだとかここ半年していなかったなと思い出す。「ん、悪くねーな」と定食をぱくつく鷹野をじと目で眺めやり、この男が自分をどう説き伏せて曲を弾かせてやろうとしているのかとそればかり考えていた。
お腹が満たされてほっとした所為か朝から奇襲をかけられた所為かはさておき、会話もほぼ無しでいるとさすがに眠気がすごい。運転はスムーズで荒さはどこにもない。高速を下りてからしばらく山道で、見覚えのある景色がちらほら見られた。
「……あのさぁ、」
「んー。…ああ、眠いなら寝てりゃいいから。まだ半時間はかかる」
「……………あたしも知ってるとこちゃう。行くのん」
「ははは。やっとか」
オマエら揃って寝転けてたから覚えてねえと思ったんだけど。
鷹野はくつくつ喉を鳴らして、それで自分の訊いた事が正解だと知らされる。しかし彼の目的が見えない。あんな何もない所に何の用があるというのか。
「………あんたはホンマわからん」
「どこが」
「わざわざ早起きして、遠出して、どうしたろうっちゅーねん。無駄足になるやろ。こんなん」
「そうならねえようにとは考えてるつもりだけどな。まあ寝てろって」
眠気全開のままじゃまんまと丸め込まれるぜ、と言う彼の口調は軽い。昔から飄々としていて掴めない奴だが今日は特にそうだ。
「………あんたはホンマ、わからん……」
寝やすいように体勢を少しだけ変えて目を閉じると、すうっと眠りに就くのは即だった。
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