ゆらゆら、ふらふら(side.R)
キーボードを打つ手が止まる。色々ありすぎてわけわからん、と無意識に眉間に皺が寄ってしまうのを直すのすら気が滅入った。
自分で自分がわからないのに他人の事なんかもっとわからない。曲はやりたい気持ちがあっても鷹野と顔を合わすのが苦痛だ。今度会ったらはり倒してやる。でも、会いたくも、ない。
「………」
むう、と唇を尖らせながらパソコンに向かう自分はさぞ不細工だろう。今日はあまり話しかけない方がよさそうだとはオーラでわかるはず、と必要以上口は開かなかった。それでも働いた分疲れた。思考を放棄してしまいたいとか死んだように眠りたいとかいう欲求に襲われながら最寄り駅までたどり着いたのが本音。でも川崎と約束した方が先だったし、気分転換の為にも先送りにしなかった。
待ち合わせをしていたので駅の時計を見やって少し焦った。ぎりぎりかも、と歩調を早める。ヒールがかつかつと軽快に床を鳴らすのに気持ちはここではない別の場所にあった。ざわざわと賑わう構内の一角で川崎の姿を見留めて駆け寄る。
「すみませんっ、遅なって」
「や、大丈夫。そんなに待ってない――から、」
敬語が出そうになるのを寸前で止めました、という感じの言葉尻にふっと口元が緩んでしまった。笑ったら悪いとこちらも笑いを引っ込めるが間に合わなかったらしい。
「慣れるまではこんな調子だろうから、いいよ。笑っても」
気分を害した様子もふてくされる素振りもなく川崎は言う。全部顔にも口にも出る自分とは違うなと思わされる。
「ああぁ…この顔が憎い…」
「ははは、そんな事言わないで。いいよ気にしなくても。違和感あるなぁとは自分でも思うし」
はあ、と申し訳半分に生返事をして、とりあえず行きますかと歩き出す。夕飯でも、という誘いに「割り勘なら」という返信をした自分はかわいくないというか警戒心が露骨というか――こんな女でいいんですか、と何回も訊きたくなる。
彼は【最終、お友達でも】というこちらの条件を飲んだ。好きだと思うなら自分の物にしてしまいたいというのが普通な気がするのに、彼は少し違う。束縛だとかいう欲からは離れた所にいるような……さわやか眼鏡男子は今まで自分が付き合ってきた男とまるでタイプが違って戸惑う。"待つ"のはもどかしいだろうに、苦にならないようだ。
「何か、食べたいなーとかある?」
「んんー…麺?」
「麺?」
「あぁそや、パスタおいしい店入ってるんですよここ! 前友達とも来て――どうですか?」
「じゃあそこにしますか」
「はーい」
仕事の話だとか色々喋りつつ、駅ビルの中を歩く。ぽろぽろ敬語は出てくるのは段々慣れてきて、会話が転がるテンポも心地いい。カフェだけで得ていた印象はほんの一面でしかなく、お互い新しい情報を見聞きしながらのご飯。
様々な表情を惜しげもなく覗かせてくれる相手。嘘偽りなく真っ直ぐ届く声。そんなに長く一緒にいたわけじゃないのに安心感だとかいう温かな情をくれる。あいつらとは大違いだと頭の片隅で苦る声がした。比べれば倍以上同じ空間と時間を共有していたのに、一体何だったのか。あれは。
食事はおいしかったしデザートのアイスクリームもバニラとチョコの二種類味わえたし、満足の一言に尽きる。本屋に寄っていきたいという川崎について行くと平日らしく会社帰りらしき人が多かった。
「川崎さん、何読まはるんですか?」
「小説が多いかな。実用書もまあまあ…」
「雑誌とかマンガは?」
「立ち読みが多いけど読むよ。…凌さんはよく読むの、あるの?」
「雑誌ばっかりかなあ…ああ、こーゆーの立ち読みすんのも好き」
棚に並んでいた風景や動物の写真集を指さして答えつつ、最近あまり見てなかったなと平積みの一冊をぱらり。青の表紙だ。海と空の境界線は曖昧で、開くと他にも海外で撮影されたらしい景色がたくさん載っていた。行ったことがない場所に憧れはあるけれど、行こうとはなかなかならない。
「こーゆーの見とると楽しいっちゅーか、心洗われるっちゅーか……」
「ああ、わかる。綺麗だよね」
「川崎さん海外行った事あります?」
「仕事でなら。前の職場でヨーロッパは大体…」
「えっ、そうなんですか? お仕事何してはったんですか?………とか訊いてええんやろか」
「ざっくり言ったら海外事業部って事になるのかな。よく死ななかったなあって思うぐらい大変だった」
苦笑しながら言う川崎に、え、すごい、と声を上げる。驚きは隠せない。色んな意味で。(よく死ななかったなあ、なんてどんだけハードやったんや?!)
「大変だったけど、楽しかった?」
「まあ、…うん。そうだね」
かわいい顔で笑うなあ、と感心してしまったのは内緒である。さておき、そんな彼が何故町中のカフェの店員に? 疑問の答えはすぐにもらえた。
「年中飛び回りっぱなしでちょっと疲れたなと……情けない話なんだけどね。ガツガツやってたくせに、ってよく言われた。――日本はやっぱり落ち着くなってしみじみ思うよ」
「カフェには何で…?」
「海外でもご飯とか打ち合わせとかで色んなカフェ行ってたんだけど、雰囲気が好きで。色んな人が来るでしょう。半年とか前に行った所で店の人が覚えててくれてたりして、何か、いいなって思ったのが最初」
今の店のオーナーは昔の知り合いで、店を立ち上げる時に声をかけてもらったのだそうだ。どこかでぽろっとこぼした一言をどこぞで拾って覚えていたオーナーはすごい、と。
「オーナーさんいっつもカウンターにいはるからあんまし喋ったことあらへんのですけど…」
「ああ…彼、昼間は出てこないのが大半だからね。宮田君とは同期なんだ。…昔から秀才でね。顔も広いし――だから余計、よく僕の事なんか覚えてたなって不思議だった」
「えっ、そうなんやーご縁ってすごい! ってゆーか川崎さんもよぉ出来はる人やないですか?」
あたし英語なんかからっきし、と半笑い。
「いやいや、ホントに、宮田君は別格」
川崎も同じように笑いながら言った。曰く「人の何倍も先を見ていて、同い年・同じ人間なのが不思議なくらい」の人なのだそうだ。うちの店にと声を掛けられたのだが、彼がまさかカフェ兼バーのオーナーなんかやるとは思っていなかったと。
「どこかで研究職やってるって聞いた気がするんだけど…とにかくまあ、状況が似た者同士が寄って始まった感じかな」
「はー…なるほどなあ…」
今度行った時はオーナーの顔もちゃんと見てみよう、と思いつつ本を棚に戻す。
「あっ、ごめんなさい。本探さはりますよね?」
「ああそうだ。ちょっと見てくるけど――」
「あたしこの辺うろうろしてますから、大丈夫」
ゆっくり探してきて下さい、と一言添えてにこり。川崎は一瞬きょとんとして、ふわりと微笑んだ。この場でその表情は! とこちらが息を飲むぐらい甘かった。
「……あの、写真、見てマス…」
「うん。すぐだから。また後で」
すっと距離ができて。後ろ姿を見やりながら「あの人とんでもない!」と心臓をばくばくさせて、しばし本棚の前でぎゅっと唇を噛んでじたばたしたくなる衝動をやり過ごしていた。こんな瞬間に彼が自分に好意を向けていてくれるのだと思い出さされる。あんな笑顔は店で見た事がない。
そういえばいつの間にやら【凌さん】呼びになっている。たった二度のプライベートな約束で馴れ馴れしいとかいう不快感はない。距離感も何もかもが自然なのだ。至極。
――年上って! 年上って何やずるいよなもおぉぉ…
あんな余裕は一体いつになったら自分には身につくのか。もしかしたら一生かかっても無理かもしれないなんて事を考えて撃沈。感情に任せて電話をぶち切ってしまった自分の器の小ささといったらない。
――でも、許せんっちゅーか…あれとこれとは別や
チャラくていつも人を食ったような態度な同期。最後の最後まで胸中を晒さずに逝った同期。彼らには彼らで思う所があるのかもしれない。でももっとちゃんとはっきりわかるように見せて欲しいと思ってしまう。【実はこうなんだ】と後出しされて打ちのめされる側の身になれ、と。毎日顔を合わせていた頃は互いの本当の所など気にもしていなかった。ただただ楽しくて、学生という限られた時間を謳歌して。
はふ、と吐息が漏れる。また本を手に取ってぱらりとめくると、今度は町中や田園風景なんかの写真集だった。人が生きて、長い長い時間を重ねてできている景色。空間と時間の一部を切り取る作業は音で空間を作る作業とはまた違う楽しさや苦労があるのだろう。
自分は、苦労さえ楽しめるだけ楽器を好きでいるか? 何があっても【弾きたい】と望むだけの強さがあるか? 改めて向き合うべき問題は自分の今後を大きく左右する。
「………」
また一息。悩んだ時の愚痴り先が悩みの種とは少々痛いところかもしれない。
「お待たせ、」
川崎の声が落ちてきて顔を上げる。お目当ての本はちゃんと見つかったようだ。そろそろお開きかなという時間で、お見送りしますよと駅の改札まで並んで歩いた。あっと言う間だったなと数時間を振り返る。
「…じゃあ、また」
「はい。また。気をつけて帰って下さいね」
「凌さんも」
「ははっ、ありがとうございます」
「や、本当に」
「明るい道ですからへーき。明日お仕事頑張って下さい」
「……ありがとう」
まだ心配そうだなとはわかる。けれど家まで送ってもらうのは少し違う気がするのだ。だからここで今日はお別れ。
改札を抜けて人混みに紛れてゆくのを見送ってから踵を返して帰路につく。気分転換には確かになったし少し親しみは深まった。でも、これが恋や愛になるかなんて到底考えらる状況ではない。じりじりしたままで相手に悪いなと思うが、返事はまだ先になりそうだ。何気なしに目に入ったショウウィンドウに映った自分はやはり険しい顔つきに戻っていて、耳のピアスを睨み付けてからきつく唇を噛んだ。
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