誰かの代わりなんか誰にもできねえんだよ(side.K)
薄く吐いた紫煙はすぐに消えて、匂いだけが漂う。いつの間にやら習慣化した起き抜けの一服は心地よく、エネルギーを発散した翌日の体は少し怠かった。
「……ふー、っ…」
やはり師匠や自分より経験値の高い相手と弾くのは面白い。海外にいた時にゲストの演奏を生で観た事があり、ギター談義も熱くなった。「君ともまた一緒に仕事がしたいね」と彼はにこやかに言ってくれた。打ち上げで酒は勿論寿司や肉にたんまりありついたし、とベッドから降りる。野菜も食えとかもっと飲めばいいとか、一番年下の自分は上手に遊ばれていたと思う。上出来だろう。
会場に矢橋がいたのはロビーで見かけるまで知らなかった。差し入れの一つぐらいすればいいのだが、あれはしないだろうなともわかっている。(されたらされたで気味が悪いと思う自分も大概か?)一緒にいた背の高い男性は見た事がない相手だった。もしかしたら新しい男かと想像だけはしたが、それよりも矢橋の左手が気になった。遠目からだが湿布だとはわかる。――あいつ、やりやがったなと呆れて物も言えなかった。怪我か腱鞘炎かのどちらにせよ、あれはしばらく楽器に触れないはずだ。
元々こうと決めたら意地を張る。無理もする。黙っていられて迷惑を被るのは周りの人間で、矢橋は代わりがきく立ち位置だからいいがプロならそうはいかない。【この音がいい】と求められたら返すのが当たり前。
門下生発表会の件はどうしたもんかなと新しい煙草に火を点けながら考える。治ったら話すか弾けない内に考えさせるかだけなのに、色々と先を考えてしまうのは自分の面倒な所かもしれない。
「まだ言ってないのか」
「はあ。最近会ってねーんすもん」
「ちゃっと連絡すりゃあいいもんを。話だけなら時間作れるだろ」
「あいつがどんだけぎゃーぎゃー言うか、横で聞いてます?」
合間合間に師匠に催促されてはいた。自分も立て込んでいて隙がなかったのだと事実を言っているのに「出し惜しみ?」とかからかわれるのがまた……。師匠はどうにも参る。気さくでいい人なのだが面白がりなのだ。若いものがあたふたするのを見るのが余程楽しいらしい。「嫌な趣味ですね」と言われても平然としている。お前も似たようなもんだと笑われて仕舞いだ。
携帯に着信があり、誰だよと顔をしかめながら画面を見やる。【間宮】という文字が出ていて、世間様は昼休みの時間帯らしいとだけは理解した。彼女からの電話は大抵その時間にしか掛かってこない。少し前に「ごちそうさまでした」と言い合って終わったので多分仕事の話だろう。
「はい、」
「こんにちは。…おはよう、の方が合ってるかしら」
「よくわかりますね」
「宴会だったんでしょう? 昨日演奏会だったから」
よくご存じでと応じながら冷蔵庫からペットボトルのお茶を出す。冷たくてうまい。
「またお願いしたいの。仕事」
「え。俺で足ります?」
「冗談ばっかり、」
くすくす笑う声が伝わってきた。そんな下からの態度なんかフリなのは見え見えらしい。ははは、と笑って返す間に「メモしてね」と言われ、耳に入れながらメモを取る。スケジュール的にはまったく問題なし。
「鷹野君、今日は?」
「宵っ張りなもんで。家でギターでも弾いてのんびりしますよ」
「頑張るわね」
「そりゃあもう。首の皮一枚で繋いでるんっすから――」
「夜は?」
いきなり? と驚いた。おかしいなと首を傾げる。別れ際と話が違うではないか。
「あらら。どうしたんです?」
「会いたいの、」
「………」
どんな顔でこんな切実そうな言葉を口にしているのだろう。結婚が決まったという彼氏にそう言ってやれば喜んで飛んでくるだろうに。
「都合、つくかしら」
最後にもう一度遊びたいのか何なのかは知らないが、間宮は軽さを無くしている。女は怖いなとつくづく思い知らされるのはこんな時で、悪いがそんな風に欲しがられると逃げたくなるのだ。「寂しいな」と惜しまれつつしなだれかかられるのは、御免。虫唾が走り表情が険しくなったのを見られない電話は便利だ。
「だーめっすよ。ちゃんとした相手がいるんならそゆ事は卒業しなきゃ」
「つれないわねぇ」
「怖い彼氏さんに怒られたくないっすもん。殺されたらどうしてくれるんすか」
「うぅん、鑑賞用の子がいなくなるのは痛いわね。確かに」
「でしょ? 見るだけならいくらでも」
――だから、ね? 俺の出番はもうおしまい。
たっぷり声を甘くして囁いてみせると、電話の向こう側でくすくす笑う声がした。
「そんなかわいい声で言われちゃ、仕方ないわね」
「そうそう。旦那さんと甘い生活、満喫して下さい」
「そうする。…そうよね。君は面倒な女はダメだったわね」
「そんな事ないですよ?」
「嘘ばっかり、」
また、おかしそうに言う。
「本命の彼女は元気? 最近顔見てないけど」
「は?……矢橋ですか?」
「そ、」
「違う違う。ただの腐れ縁の喧嘩仲間っすよあれは」
「嘘ばっかり。悪い子ね」
小さい子を窘めるような言われ方だ。事実なのに何故皆してこうなのか。人のあれこれをつつくのが好きだなと目を細めながら、ああ自分もよくやるよなと省みる。今まで散々人で遊んだ分が今やり返されているのかもしれないな、と先輩のかわいい嫁を思い出す。そういえば随分会っていない。
「…話、そんだけですか」
「えぇ。疲れてる所ごめんなさいね。じゃあ仕事はよろしく」
引き際はさっぱり。(仕事"は"と強調されたのはこちらへのささやかな気遣いか嫌味かもしれない。)通話が切れた携帯をソファにぽんと投げてまたお茶を一口。ふうん、と息を長く吐いて、換気に窓を開ける。ちょうどいい風が入ってきて肌を撫でられた。
小腹が減った、と昨夜の差し入れの数々から一つを探し出す。森矢の母親からの物で、独り身の男にやるはかわいらしい洋菓子詰めだ。(甘い物はそこそこ食べるのを覚えてくれているからだろう。)会場でもわざわざ声を掛けてくれて、隣にいたさやかも「かっこよかった」とにこにこしていたなと思い出す。
「鷹野君のばっかし追っかけて聴いちゃった。いい手してるよねホントに」
「ははっ、ありがとうございます」
「やっぱり聴くなら生だなーってなるね。来ると」
「ですかね? よかったです」
耳が肥えている相手が満足するのを見るのはこちらにとっても充足感のプラスになる。リアルタイムの空気はCDでは味わえないもので、演奏者の動作が目で見られるこそ価値があるとさやかは以前言っていた。(ついでに「鷹野君の弾き方色気ハンパないよね」と太鼓判まで押されたり。さすが、よく見てらっしゃる。)
「お疲れ様」
「どうもです。やー疲れました。この後の酒が沁みて旨いのなんのって…」
「あなたらしいわね」
母親は目元に皺を寄せくすりと笑みを零す。でも飲みすぎちゃだめよという忠告すら自分にはありがたい。実の両親よりも友人の親の方がよっぽどそれらしいのは、妙なものだけれど。
「ああそうだ。こんな時に何なんだけど、来月の第二土曜、あの子のお墓参りなのよ。もし都合つくなら…と思ってたんだけど……」
「私がメールしといた! で、オッケー貰ったよ」
「もう、何でそういう大事な事ちゃんと言わないの?」
「お母さんずっといなかったんだもん。今日待ってる間に喋ろうと思ったらお母さん来るの時間ギリギリだったし」
「俺からもちゃんと連絡してなくてすみません。ええと…いいですか。ご一緒させてもらって」
「ありがとう、喜ぶわ。…ごめんなさいね、お呼び立てしちゃて」
「いえ。大事っすから、」
節目節目できちんと向き合う事で自分は至極現実的でいられる。【不在】を客観視して冷静に受け止めるのは生きている側には肝要。自分は相棒で友人を高嶺の花になど、しない。
「ああやべえ。全然顔出してねーっすね、そういや」
「忙しくて何よりって笑ってるとこだと思うけどなぁ?」
「やぁー…どうだろ。怒られっかも」
「えぇ? 何で?」
結局自分の事しか考えてないよね、鷹野。――そう、バッサリ切られそうな気がする。
「何々?」
「まあ色々、――ああ、…ごめんなさい、挨拶回りとかまだあるんでそろそろ行きますね」
離れた場所から師匠が目で「来い」と言っているのが見えたので、申し訳ないと頭を下げて二人と別れた。はくりとフィナンシェに食いついて「…あま、うま、」と味わってからお茶で流し込む。息子が好きだった菓子を出すのは無意識なのかもしれないが、複雑だなと思わずにいられない。親の性というのもなかなかのものだ。
森矢は矢橋を好きだと言っていた。あれでは長期戦になるに違いないと践んでいたが、彼がいて、いつか二人がくっついても自分は素直に驚き喜んで「よかったな」と言っていたと思う。よくやったと笑って肩を叩いて、彼が照れくさそうにはにかむ様すら想像できる。
なのにどうして、そうならなかった?
「………はっ、」
馬鹿馬鹿しい。まだ思考がぼけているからこんな事が浮かんでしまうのだろう。
――恋でも愛でもない。友情。男女間に成立しないというそれが自分らにはある。周囲の想像は安っぽく、さっさと収まるところに収まらないかなとにやにやされるのは心底気にくわなかった。三人でいた時の距離感は自分の中でも強烈に刻まれていて、しかしそれが永遠だとは言わない。いつかはもっと大事な物、本物を掴む時が来る。その時に自分らを繋いでいるこの情が邪魔をするような事があってはならない。
何かの代わりになど、ならされてたまるか。
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