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音のする方へ  作者: sen
30/38

いつもと違うもの(side.R)



 自分は三十路前で、単純に考えれば50年程度の未来がある。この節目で折り合いをつけるか、それとも。決めるのは自分以外いない。周りは人生の大きなイベントを順々に迎えている中、止まっている気がするのは自分だけのようで。とはいえいきなり誰かという予定もなく……。この年になると結婚を視野に入れた恋愛が多くなってしまうのが疎遠な要因の一つかもしれない。



 手元に楽器のない生活が三週間ほど。鈍い感覚が抜け切らないのでマンドリンはまだ預けたままだ。怠慢ではない。決して。

 楽器屋にあった例のポスターの演奏会にいる。鷹野の師匠が主催で海外からのゲストを引っ張ってきたそうだ。クラシックギターだけの演奏会は畑違いかなというとそうでもないと思う。(ちなみにギターはマンドラ・テノールと同じ音域も持っている。)そして魅せ方についても勉強になるのだ。鷹野が仕事の時どんな風かとかいうのは二の次。あちらはバッサリ批評してくるがこちらはし返す気が起きない。

 客席の片隅で一人、ただ純粋に作られる空気や音を味わっていた。鷹野の師匠は壮年ながらエネルギッシュな音を作る。ギターに傾けられる気力精力は共に圧倒するものがあって「あんな風になりたい。すっげーカッコイイ」と鷹野が言っていたのもなるほどと頷かされた。ゲストとの掛け合いは二人とも楽しそうで、アドリブが入っても互いに負けじと打ち返す。すごいな、と思った。観客を"持って行く"力は桁違いである。

 一時間半はあっという間だ。拍手をしながらぼうっと舞台を見つめていた。幕が下りて客席に明かりが戻るとほうっと肩で息をする。連れがいたらすごかったとか言い合うところだが、今日はこの浮かされた感覚を一人で持って帰るつもりだった。わざわざ鷹野に会おうとは思わなかった。


 とんとん、と肩を叩かれて振り返りざま「こんばんは、」と聞き覚えのある声が次いで耳に入る。


「あ、あれっ。お兄さん?」


 カフェの店員の男性だった。(眼鏡男子の人、と口から突いて出なくてよかった。)どうしてこんな所にというのは多分お互い様である。目を丸くしているこちらに対して彼は平静だった。


「休憩の時見かけて。そうかなって思ってたんですけど、合ってた」


 よかった、という風な声音で彼は言う。眼鏡は変わりないが、店にいる時のYシャツに黒のスラックスとエプロンとは違うラフな装いだ。黒に近いデニムに襟刳りの深いシャツ。腕時計もしている。当たり前だが私服姿は初めて見て何だか不思議な感じがした。


「えと、お兄さんはどうして…? ギター好きなんですか?」

「オーナーが行けなくなったから、どうかってチケットくれたんですよ。近くだったんで、じゃあって。…普段はあんまり」

「そうなんですかーいやあ、奇遇ですねぇ」

「矢橋さんはお好きなんでしたっけ。楽器されてるって前――」


 名字は覚えてくれているらしい。すみませんこっちは知らなくてと一方的に胸中で平謝り。(あの店では名札がついていないのだ。)


「ええ、まあ…勉強? に…」

「熱心ですね、」


 にこりと微笑みを向けられた。見たところどうやら彼も一人らしい。帰る人達が行き交う中この場でずっと立ち話をしているわけにはいかないので、ひとまずロビーには出る事にした。

 同僚に「代われ!」とか言われそうだなこの状況、と頭の片隅でどうでもよさげな事が過ぎる。身長差は結構あるので見上げるには変わりないのだが、店で席に座って見上げるいつもの感じとは違う。この人180cmはあるよなと比べ――…待て待て、今、誰を比べた?


「何か変な感じですね。お客さんとこんな所でばったり、っていうの」

「ですね。あたしも何や不思議な感じします。びっくりした! ぼけぇっとしとったでしょ。恥ずかしいな…」

「余韻に浸ってらしたのに邪魔しちゃいましたかね。すみません」

「いやいや、そやなくて。アホ面やったでしょー? ははは」

「アホ面ってそんな事、」


 ありません。と続くはずだった所で相手がふと目を上げたまま止まる。同じ方向に目をやれば人の輪の中に見知った顔があった。鷹野もいる。ついさっきまで舞台にいた面々は終演後の歓談兼挨拶回りの最中らしく、傍には彼の師匠もいた。こちらには気付いていない。


「あれ、出てた方達ですよね?」

「そうそう。あんなんしてよお喋ってはるんですよ。演奏会の後」

「へぇ…ライブとかとはまた違う感じなんですね」

「主催さんやから色んな人に挨拶せんならんのでしょうね。センセも大変やー」

「お知り合いなんですか?」

「楽器習いに行ってる先生の、先生仲間なんですよ。あたしは何回かしか喋った事ないんですけどね」

「そうなんですか。…お話、いいんですか?」

「あー、いや。忙しそうやしまた今度にしときます」


 へらっと笑っておいて、行きましょうかとそっと促す。鷹野に捕まると何か余計な事を言われるのは必至だ。「来てるなら言えよ」とか「差し入れは?」とか色々と。「彼氏?」なんて言われたら最悪だ。相手に失礼過ぎる。

だがそうはすんなりいってくれなかった。何げなしにロビー全体に向いていた鷹野の視野にこちらが入ったようで、動いていた視線がひたりと止まる。――うげ、と苦虫を噛んだ。


「………」


 注視していたのがすっと逸らされるまでそんなに間はなかったか。無表情だったのが引っかかる。いつもならにやりとぐらいするだろうに。……まずい。こちらに来る前に退散してしまいたいという気持ちには変わりない。


「行、きましょか。ね? お兄さん帰りは地下鉄ですか?」

「は、…ええ。東西線です」

「駅までご一緒してもええですか?」

「こちらこそ、」


 またそんないい笑顔を、と冷静なんだか動揺しているんだかよくわからない感想を抱きながら出口へ歩き出す。もしかしたら後々何かつつかれるだろうかと嫌な予感も同時にあったのだけれど、"カフェの店員とそこの客"な自分達が偶然会っただけなのだからやましいことなんかないと吹っ切る。しかし何なのか。さっきの鷹野は何だか――


「矢橋さん? 大丈夫ですか?」

「はい?!――ああ、まだふわっふわしとるみたいで。すみません」

「ふわ…?」


 彼が不思議そうに首を傾げると何となくかわいらしく見えるのは一体。(私服効果か? ふわ、という音の所為か?)


「ええと、わーっといい音聴いて、すごいなあって地に足ついてへんような…そんなんです」

「ああ、なるほど」


 そんなに感心されるようなものではないのだけれど、それより今はちゃんと前を見て歩くのが先決だ。顔馴染みとはいえ馬鹿な所はさすがに見せられない。



 地下鉄に乗っている間に他愛ない世間話なんかして、彼が自分の最寄り駅から二駅先に住んでいるだとか、実際は二つ年上だったとかそんな事を知った。あれだけ通っておいて失礼ですけどと先に断ってから、川崎 由貴(ゆき)という彼の名前も教えてもらった。


「女の子みたいな名前でしょう。この年になると下の名前言うのも少ないんでそうでもないですけど、昔は結構恥ずかしくてね」

「ははっ、あたしも【凌】って名前なんでそーゆーのわかります。字面が男の名前っぽいから――クラス替えでばーっと名前出るじゃないですか? ああいうので男子と勘違いされてたり」

「ありましたありました」


 ははは、と笑い合って【お腹にいた時に女だ・男だと勝手に思いこまれていた】という下りまで一緒で更に笑う。


「そうか、逆だったらよかったかもですね。僕ら」

「ホンマや、」


 オチまでついた所で自分が降りる駅のアナウンスが流れた。もうじき列車が止まる。ドアの近くでの立ち話も仕舞いだ。


「じゃあ…今日はありがとうございました。また、お店で」

「こちらこそ。お待ちしてます」


 お互いにお辞儀をし、別れの挨拶は手短に。

 ちょっとお見送りをとホームに降りてから人を避けつつしばし待つ。電車がホームを滑り出した辺りで小さく手を振ると、向こうは目元を緩め会釈して返してくれた。さわやか眼鏡男子はやっぱりさわやかだ。名前の話の下りも面白かった。(同僚に「何それいいなあっ!」と言われそうである。)

 いい人だなとひとしきり感動して歩き出した頃には、会場での鷹野の事など完全に忘れてしまっていた。



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