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音のする方へ  作者: sen
29/38

少しだけ、少しだけ(side.R)



 本業は主にデスクワークなので元々肩は凝りやすかった。しかしどうやっても肩から手腕にかけての鈍い痛みは無くなってくれず、仕舞いには左手が少し腫れているようで――仕方ないと病院に行ってみれば「腱鞘炎ですね」と告げられた。医師は淡々としていて、こちらがはあ、と生返事をしている間にカルテにさらさらと何か書き付けている。


「えっと、困るんですけど…」

「だと思います」

「…その、どうしたらいいですか」

「楽器されてるんでしたね。しばらく休ませるのが一番なんですよ。何もしてなくても痛むなら余計」

「はあ…」

「利き腕は右ですか」

「はい」

「なら日常生活に無理はなさそうですかね。あまり薬出しますけど、楽器は休まれた方がいいですよ」


 ……二度も言われた。(無茶をしそうに見えたのだろうか?)

 今週も練習があるのになと思ってもどうしようもあるまい。すぐには治らないというのが厄介である。楽器の"仕事"が入っていなかったのは幸いかと長息しつつ、所属しているマンドリンオケのパートトップや先生に連絡を入れた。しばらくしてどちらからも「わかりました。大事にして下さい」とか「無理しないように」という返信があって、後はそこから話は勝手に広がってくれるだろうと携帯を閉じる。青くなっているのは案外自分だけなのかもしれない。


「りょーちゃん、手どうしたの」


 仕事終わりに奈美と約束をしていた日、大袈裟に巻かれた包帯を見て開口一番彼女はそう言った。腱鞘炎だと返すと「わあ、」とか「痛い? 大丈夫なの?」と心配された。


「使うとちょっと痛い感じやねんな。でもへーき」

「マンドリン、やってないよね?」

「うん、まあ」

「今の間は見逃せないんだけどっ! 長引くよ?」

「せやけどなぁ…」

「ダメです」

「わかってるよ。丁度ええし調整にでも出しとこかーと」

「ああ、だから?」


 奈美は自分が肩に提げているマンドリンのケースを見て納得したようだ。ついでに寄ってもいいとまで言い出して、じゃあ、と先に預けてしまう事にした。

 マンドリンは木製楽器で金属絃だ。計八本の絃を張りっぱなしにしていれば放っておいてもネックが反ったりする。表板の右手が触れやすい部分の塗装が薄くなったり、ヘッドの螺旋が緩んだりと他にもメンテナンスをしてもらう事はままあるわけで。修理となればなかなか値が張るのも他の楽器と同じだ。今回は自分が触らないように遠ざけておく意味もあって、わざと修理士のいない曜日を選んだ。


「こんばんはー」


 中高大エスカレーター式で、有名な大学近くに楽器屋はある。町中の雑居ビルの三階のそこはいつも楽器ケースが並んでいて、学生時代にも世話になっていた。店員の男性も女性も馴染みの人。いらっしゃいと迎えられる空気感も変わっていない。


「すみません、これ調整を…」

「はいはい。預かりになるけどいいのかな?」

「はい。…手ぇこれなんで、丁度えぇんです」

「あらら。怪我?」

「腱鞘炎で…」

「なるほどなぁ。近くに置いといたら弾いちゃうしって?」


 女性店員はこちらの心境をよくよくわかっているらしい。


「一ヶ月ぐらい預かってもらえば?」

「奈美ちゃあぁん……」


 それはさすがに困る。


「どっか気になるとことかは?」

「えと、E線開放絃でも何か触れてるみたいで――」

「んー…」ヘッドからじっくり観察。「ああ、確かに」

「後、巻く時締まりにくくて。空回り? みたいな。Dの下の方」

「ふんふん、わかりました」


 マンドリンをくるくる持ち替えながら検分している手つきは慣れたもので、さすがベテラン社員だと思う。学生時代には既にいた人達なので、もう10年はここにいる事になる。(しかし二人して数年前からあまり見た感じが変わらず、若い。不思議だ。)


「これあれだ。森矢君のだったやつだろう」


 男性方が口にすると、女性の方も、ああ、と声を漏らす。見たことあると思った、と。そういえば前に調整に出した時彼女はいなかった。


「いいよねカラーチェ。彼、好きでね。野口とか大野とか色々触ってたけどやっぱりこれが落ち着くって言ってたっけか」

「野口の新作どぉ? って時もなびかなかったね。ずーっと大事にしてたから当たり前かな」


 この楽器を見て、懐かしい、と細められる目を何度も見てきた。どこにいても過ぎるものはあって、自分はこんな時曖昧に笑うしかできない。

 同じ楽器のくせに森矢の音と自分の音は違う。周りが感心しても弾いている本人は納得がいかないという場面は何度もあった。次の門下生発表会でと準備している曲は森矢の弾いた音源が残っていたものだ。いつかのコンクールで「将来が見物だ」と周囲の大人達を頷かせた代物。中学生がやってのけたとは思えない出来だったとも言っていた。恐ろしい事に森矢はいなくなってからも「あの子は本物だった」と語られるような人間なのだ。――それでも手を伸ばさずにいられない。


「あ。鷹野君」


 ポスターが貼られている壁の前で奈美がほら、と指をさす。不意に明るい声に引き戻されて目もそちらに移った。演奏中のショットで、引き結ばれた口元と真剣な()で普段のチャラさがそこにない。


「……スかした顔やなぁ」

「ははっ! りょーちゃんそんなのばっかり言うー」

「目引くからいいよね、彼使うと」

「そんなもんですか?」

「腕もあるからこそだよ? 勿論。顔で何とかなる世界でもなし…」

「確かに」


 【表舞台に立つ人間らしさ】が鷹野にはある。風貌や性格もこの世界では利の方が大きくて、実力もあるのだから憎たらしいほどの自信には揺らぎがない。紙面を睨むようにして見てから視線を元に戻す。


「…楽器、いつ頃できますかね?」

「来週の今ぐらいには、かな」

「せっかくだからもうちょっと預かっといてもらえば?」

「まだ言うかあ? 迷惑やろそれは…」

「うちは構いませんよ。手、治るまででもオッケー」


 冗談っぽく女性の方が言うのに奈美は、ほらぁ、とどや顔を作った。いやいやと半笑いでいなしながらも、それでもいいんじゃないかという囁きが聞こえた気がして「じゃあその内。お願いします」という返事をしてしまった。



 とにもかくにも、休養にふさわしい環境は出来上がった。息抜きも必要だと誰もが――体までもが言うなら少しは従っていないと、余計心配や迷惑をかけてしまう。


「そういや奈美ちゃん、話て何なん?」


 メールに書いてあった文面を思い出して町中を歩きながら問う。友人はにっこり笑って、


「そうそう。あのね、できちゃった」

「は?……えっ、子ども?!」

「へへ~来年の今頃にはお母さんでーす」

「えぇーマジで?! うわあおめでとぉやん!!」


 信号待ちの交差点でわあわあはしゃぐ。嬉しい報せに高揚する気持ちは抑える事なく、その夜は楽しい時間が長く続いていた。



*


*カラーチェ・野口・大野→マンドリンのメーカー…というか種類です。ざっくりしてますが気になる方は検索してみて下さい。(キラキラ系としっかり系の違いとか色々書きそうになって危なかった...そんな話じゃない!)

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