楽しい?(side.R)
自分の名前が売れてしばしば各所に呼ばれるようになった頃、鷹野との交流の機会が増えた。こちらの時間が前より少し自由になったからか、鷹野が同じような業界にいて会いやすくなったからか――とにかく、二人で会うのは大抵呑みながらだ。
「いつの間にそんなになったんだかなぁ」
「何やねん? 文句あんの?」
「いや? そうは言ってない」
気の知れた人間と話すのは楽だ。自分にとって何でもオープンに付き合える人間はそう多くない。
「そういや、式どうだった?」
「ああ、奈美ちゃんね。めっさかわいかったわーもーまた惚れてもた」
「佐々木好きな、オマエ」
「そらもう」
大好きな友人が先月結婚した。"もうちょっと"は本当にちょっとな気がしたのに、30になるギリギリ前だ。仕事は続けると言っていて、今のご時世共働きがざらなのだと笑っていた奈美と彼女の夫を思い出す。
「友達はだいーじにせな、」
本人もそうだが、思い出や物だって大切な宝だ。細々した物が減らないのはそんな理由もあったりする。
「結婚ラッシュやねぇ」
「だな。ご祝儀貧乏ってやつだよホント」
「ウチもあんたも予定あらへんしなー」
「…オマエはいい加減、森矢の後追っかけんのやめたらいいんじゃねーの」
不意に放たれた言葉に、はあ? と顔をしかめた。何だ。唐突に。
「あいつはさ、オマエに楽しんでほしいんじゃねぇの。オマエ、今、楽しいか?」
「楽しいよ?」
そっけなく返すが、正面切って言われて動揺したのが本当のところだ。結果を残せば自然と注目が集まる。いくつかの団体から誘いも受けた。賞を穫って嬉しくないわけじゃない。でも満たされない何かがあった。鷹野は「ふうん?」と意味深長に方頬で器用に笑う。
「意地っぱりは相変わらずって感じか」
「何なん? ウチの好きでやってんにゃからあんたにどうこう言われる筋合いないやろ」
「……だな、」
口角を上げ、溜め息を漏らすように応えてから鷹野は目を伏せる。目を合わさないまま、二人の間にしばしの沈黙が降りてきた。
――変わった、どっちも
変わった事は否定はしない。きっと同じように感じているはずだ。自分も相手も変わってしまったと。大学ではただひたすら楽しかったのに、今はどうだ? 自分は何がしたいのか、どこまで行けば終わりがあるのか、さっぱり解らない。
楽器にのめりこんでいくほどに、自分の中で森矢の存在はどんどん遠いものになってゆく。彼がどれだけ才があったか、彼がどんな将来を見ていたか――思えば思うほど、自身の力のなさに歯噛みするのだ。
音楽に果てはない。いつでも終止符が打てると同時に、いつまでも終わりのない世界でもある。森矢はきっと、生きていたら最後の最後までこの世界にいるつもりだっただろう。彼にはその覚悟と信念があった。この世界にいるのが純粋に「楽しい」と感じられる感性もあった。
自分には、それがない。
「こないだの。全然笑ってなかったぞオマエ。――楽しいんなら、ちったぁ笑えよ」
言ってから、彼はぐい、と酒を煽った。先日演奏会があってその事を言っているのだろう。
「あれは選曲がまずかったよな。…何でそう張り合おうとするんだか」
全曲問題なく弾いたはずだった。その中に学生時代に演奏会でやった曲があったのだ。森矢にとって最後の舞台での曲。
どこかでそんな風に【一緒にやった曲】にぶち当たるだろうと解ってはいたし、そうなった時には思い出すまいとしていたのに。本番の舞台の空気に、音に、心臓を抉り取られるような気分になった。――苦しかった。上手く息ができないくらい。彼にはわかったのだ。自身の澱みの中にある感情に引きずられた事が。
――何で、
「……何であんたはそんななんよ?」
「オマエもだろーが。も少しかわいくなれねぇの?」
泣きたくなった。
もう戻ってこない。彼も、鷹野も、随分遠い人になってしまったようで――ぐっと奥歯を噛んで泣きたい気持ちを押さえ込んでいた。
この楽器のどの音にも、思い出がいっぱいで。今は遠く離れたものが、あれからずっと側にあるようで。
――だから、ウチはこの子を手放せへんのよ?
離してみたら案外平気だと気付くかもしれない。でもそうしたらいなくなったのが自分の中で本当になる気がして。それが怖くて、できない。
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