ままならないものばかり(side.K)
遺影の前で手を合わせ、顔を上げる。写真の彼は最後に向き合った時と同じようにぎこちなく笑っていた。大学時代のどこかで撮ったものだろう。何ヶ月か一度くらいはと思っていたのだが案外時間はままならなくて。戻ったら年に一度は顔を出さないとなと思っている。
「鷹野君、いつもありがとうね」
ことりとローテーブルに麦茶の入ったグラスが置かれる。横にはふるりとした水饅頭。
お構いなく、と言うのだが森矢の母親は「鷹野君と久しぶりに会えるからおばさんも嬉しくてね。何がいいかなーって楽しみで買っちゃうの」と笑って椅子を勧める。こうして見ると森矢は母親にはあまり似てないなと思う。父親には何度か会った事があるのだが、どうも威厳たっぷりで口数も少なく話が続かない。よく、一人息子の愚行を許したなと思った。
森矢の母親は早すぎる喪失にひどく打ちのめされてもいた。最後まで【いつも通りでいたい】という我が儘を通した彼。自分の息子の最後の我が儘をきいてやれたと思うのか、無理にでも手元に置きかったと思うのかはわからない。時間の経過と共にその傷は少しずつ癒えてきているかなと傍目からは感じる。
「どお?」
「うまいですね。これどこのです?」
「福井のお水がいい所のでね、お店でも食べられるのよ。さやかも好きなんだけどあの子も好きでね――」
「食べ過ぎて腹壊したやつですか?」
「あら、知ってる?」
「ええ。あいつでもそんなのあるのかってすげー笑ってたんで。そっか、これならわかるな」
「好きな物ばっかり詰め込んじゃうから困ったわ」
控え目な笑い方は同じだなと思いつつ、自分も小さく笑った。友人の思い出話をその親と、だなんていうシチュエーションはもっとずっと後か、無いものだと思っていたのに。
「ギター、進んでる?」
「は、まあ……いや、まだ全然ですけど」
「難しい世界だもんね。…ああでも、関東で演奏会出てたんでしょう? さやかがDVD出ないかなって言ってたの。自分も観に行ったのにねぇ」
「あれですか。んー一応撮ったみたいっすけど、身内で欲しい奴がいたら焼き増しって感じだったんで……貰っときますね。送ります」
「ホント? 楽しみにしてるわ」
にこにこ、にこにこ、
中学から知っている息子の友人にまであれこれ気にかけてくれる。その優しさを自分の親にも分けてやってくれと思うことしばしば。放任主義な家庭は自分がどうしていようが「偶には帰ってこい」などとは言ってこない。今に始まった事ではないし、楽なので構わないのだけれど。
「矢橋さんは元気にしてる?」
「みたいですね」
矢橋の事を訊かれるのも毎度の事だ。息子がずっと大事に使ってきたマンドリンを譲りたいといった相手。しかも同期の女だ。何かしら思うところがあったのだろうなとは想像するだろう。当の本人は葬式と楽器を受け取った時以来顔を出していないそうだ。多分、まだ会えるような立場ではないとでも思っているのだろう。――くだらない。
「ただ持っててくれるだけで嬉しいと思うんだけどね…」
同感だ。森矢が今の矢橋の生き方を望んでいるとは思えない。しかしそれに首肯も否定もできず、こくりと麦茶で喉を鳴らすに留めた。
彼女が森矢を追うのに疲れ果てればいいとどこかで思いながらその終末を待っている自分がいる。しかし同時に彼女が折れないようにと見ている自分もいる。あれから矛盾したものの間で過ごしてきた。亡き友人に振り回されているのは彼女も自分も同じなのかもしれない。
「鷹野君、行ってらっしゃい。体に気を付けて。無理はしないでね」
しばしの雑談の後、家を辞す時にかけられた言葉に「はい、行ってきます」と笑んで返す。緩やかな坂道を下ってふと振り返ると、ひらりと手を振る森矢の母親の姿が見えた。細くて小さな手で、でも温かな眼差しに胸が少し痛んだ。
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