絡まれてるだけなんだけど(side.K)
暑い。と言うか熱い。じっとしていてもじわりと汗が滲むような日に、何故自分らは扇風機と自然風のみが頼みの綱な部室にいる? 練習に来ているから、だ。
「あっつうぅ……」
「矢橋、顔。口も」
「わかっとるー!」
くっそー何やねん。譜面も腹立つ、と悪態を吐くのは暑かろうが寒かろうが変わらない。彼女――矢橋 凌がすぐこうなるのは最早直しようがないのでスルーだ。宥め賺す役目はもう一人の同期、森矢 章仁に丸投げである。
大学の課外活動棟の一室に自分らの拠点はあった。ギター・マンドリンクラブ(通称ギタマン)は40人弱のメンバーがいるのだが、部員数に関わらずあてがわれる部室の広さはどの部活も同じだったりする。大学生の長い夏休みの大半をここに通って過ごすのは三人だけではないが、今は他の面子がいない。故にゆったりしたスペースで練習できるのだけれど、普段はもっとせせこましい。
マンドリンはイタリア発祥の楽器で、ピックで撥弦して演奏する。スチール弦が二本一組(基本G/D/A/E線の並びだ)。名前はあまり知られていなくとも、映画BGMやポップス等でさりげなく使われていたりする。かわいい音と表される事が多い楽器だ。
そこにクラシックギターとコントラバスを加えたのがマンドリンオーケストラで、偶にパーカッションや木金管楽器が入ったり――ともかく、そんなクラブに所属して約一年半。大学生活最初の夏には、こんなに暑い思いをするとは思っていなかった。そして二回目の夏もその暑さは変わらない。
「鷹野、コンビニ行こう」
喉乾いた、と森矢は席を立って鞄から財布を引っ張り出す。面倒だから一人で行けよと返したのに「前借りた分奢るからさ」と彼ははにかんだ。同い年の男に言う感想ではないと思うが、森矢は童顔で笑い方がかわいらしい。細身というかひょろっとしているのもあって、男臭さは一体どこに、と思うのは周囲の面々も同じだったりする。人形みたいと誰かが言っていた。
「あ、あたしも行くっ」
「なら二人で行けよ。俺コーヒー。パックのやつでいいし」
「付き合い悪いなぁ、けーちゃんは」
二十歳の男子にちゃん付けは、するのもされるのも気持ち悪い。
「このくそ暑い中外に行くかあ?」
「コンビニ涼しいよ?」
「ええやんほっといたら」
矢橋のこの口は昔からで、はいはいそうしてくれと受け流せる程度には付き合いがあった。中学三年間同級生だったのがこんな所でまたひょっこり現れるとは、と大学の講義でお互い微妙な顔をしたものだ。 森矢は森矢で、師匠に引き合わされてからまあまあの付き合いがあった程度である。大学が同じとは知らず、このクラブの見学の際に鉢合わせてから「お前もいたのか」とお互い驚いた。
「森矢? 何でいんのオマエ」
「あれっ、」
「お前がここいるとか聞いてねぇぞ」
「鷹野も入るの?」
質問に答えろよとツッコミつつ、森矢がいるなら面白くなるだろうなと思ったのはそれまでの経験によるものだ。この頃には弾き手としての彼を尊敬していたし"こいつは文句無しに巧い"と絶大な信用が互いにあった。
他も見るつもりだったが「森矢がいるなら入ろうかなぁ」と即決。対応にあたっていた先輩方は一様に驚いていて、その後自分と森矢の経歴を知って仰け反ったり硬直したり……あれは正直笑える光景だったと思う。今の所自分らのような飛び抜けた新人伝説はなくて、でも全国的に中高の部活でマンドリンやギターの経験者は少なくない。
「鷹野ー…」
腰が重い人間を立たせるのはめんどくさいに決まってるのに、森矢はしつこい。しつこくて構われるのがめんどくさくなってくるので、折れる方が早いのだ。「わーったからしょげんなって」とギターをケースに仕舞う。入り口に凭れている矢橋はさっさとしろと言わんばかりの顔で、けれど一人で先に行こうとはしない。彼女も彼女で大概めんどくさい奴なのだ。
「あー、ぜってー焼かれて死ぬー…」
「やかましいなあんた。ちょっとやん、我慢しぃ」
「てかさ、女の子の方が焼けるの嫌がるんじゃないの? 日傘は?」
「日焼け止めは塗っとるから。焼けたら焼けたで別にかまへんねん。傘持つ方がめんどいやん」
「え、そんなもん?」
「雑」
「うっさいーーー!」
三人でいると会話に終わりがない。わあわあ言い合いながらコンビニまでの坂を下って、涼みがてら買い物して、また坂を上って部室に戻る。一休みしたらまたそれぞれ楽器と譜面に向き合って、時々雑談したり合わせたりのお決まりの過ごし方だった。
暑い暑いと文句は言うのにここに集まってしまうのは一体何の引力だったのか。学生らしい、何とも贅沢な時間の使い方だなと思う夏休みの一幕。
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