ループ・エンド 2(side.R)
廊下をすたすた突っ切って、休憩スペースに腰を落ち着けた時にもまだ混乱していた。色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って自分が今どんな顔でいるかもよくわからない。涙腺は、まだ油断できない。
コンビニで買ったらしいホットのミルクティーを渡されて、どうも、と短く礼を言う。いきなり引っ張られたのには驚いたけれど、隣に座っている森矢の表情は淡々としていた。足下からじわじわきて、そのうち体の芯まで凍えそうだなという程度には冷たい床。
「どしたの。先輩と何かあったとか…かな」
問いかけは端的だった。どうしてこう、いつもなら突いてこない所を突く?
「……あんたにそんなん言われんの初めてちゃうやろか」
「そうだっけ。…鷹野とか佐々木さんとかが言うからさ。いつもは。僕まで何か言ったら嫌でしょ」
「はあ…そらどーも。…一番言われたくない時に来るなぁあんたも」
「…ごめん」
「や…よかったかも。あんたで」
これが鷹野だったら。奈美だったら。他の先輩後輩や同期だったら。どれを想像してもいい場面にはならない気がした。
遠慮なくミルクティーを一口。はあっ、と胸の中の苦い空気を追い出すように息を吐いてみたけれどなかなか気持ちは落ち着いてくれそうにない。
「……森矢ぁ、」
「うん?」
「あたし何でこんなアホばっかりなんやろな。…前からせやねんな。好きやなーえぇなーって人がおっても、アカンねんなあ……」
「アカンって?」
「ぜんっぜん巧いこといかん。向こうが他に好きな人おったりとかそんなん。ほんでよ、こっちはそんな気ぃない奴に付き合ってくれーとか言われるわけ。どうなんこれ? 何かの呪い? 【両思いってなあに?】人生まっしぐらなんやけど」
「えーと…」
それは僕もよくわかんないな、と苦笑い。
「何なんやろなあ…こんなめんどいもん持ってんにゃろな。人間」
「んん……」
指を組んで弄びながら森矢はしばし考え込む。
「面倒だなって思う時はあるよね。確かに」
「あんたでも思う?」
「思ってたよ」
でもさ、と彼は視線を手元に落としてはにかんだ。
「好きだなって思えるだけでもすごいのに、それが一緒っていうのはもっとすごいよね。…相手に言うのって実際すごく大変でしょ。違ったらショックだし、それまで仲良かったのが離れちゃうかもとか。……心配、してたでしょ」
「……した。大いにした」
明るいノリを貫き通した自分は偉い、と褒めてやりたい。
――ああ、でもツラかった…
またじわじわとダメージがきて前のめりに体が傾ぎそうになる。
「…こう言ったら怒るかもしれないけど」
「んん?」
何とか堪えて目だけ相手に向ける。
「先輩、今はああだけどさ。あの人だって矢橋みたいにじたばたもやもやしてたかもしれないよ。両思いになるまでに」
「あー…10年選手な……」
現在だけを見れば羨ましい状況だが、そこに行き着くまでにはどたばた劇があったはずで。
世の中のカップルにはそれぞれストーリーがある。始まりから現在、そして未来と終わりも。
「どっこも苦労せん奴なんかおらんよなって話?」
「そうそう。言いたいけど言えないっていうの、皆どっかで経験あるもんじゃないかな。恋愛に限らず。…その……何か巧く言えないけど……色々、簡単じゃないからじたばたしてさ、やっと手に入るから大事にするんだろうね。相手も自分も」
「……まだ早いんかなあ…あたしには」
お互い好き合って、できるだけ長く想いが続くように慈しみ合って。手に入ると粗末に扱ってしまうというのもパターンの中にはあるわけで、「そんな努力に注げる余裕はお前にはまだないよ」とどこかの誰かが引き離しているのかしらとすら思う。
苦い思いを何度もさせられるのは辛い。自分には色恋沙汰にではなく、何か違う所で頑張るようにという道筋を与えられているのだろうか。
「んー…そうかもしれないし、もしかしたらもっといい人に出会うようになってるだけかもしれないよ。そんなに意地悪には出来てないと思うけどなぁ、人生」
「かなあ…?」
「矢橋は偉いよ。…頑張ったね」
不意にそう言われて、え、と森矢を見返す。
「僕から見たら、ホントに好きなんだろうなって思う時結構あったからさ。ふわっとさせとくのも手だったろうに、ちゃんと自分で区切りつけたのは偉いよ。たくさん我慢もしてさ。……矢橋は優しいから、先輩の事も、気ぃ悪くならないように考えてたでしょ?…だから、偉い」
彼からこんな風に言われるなんて思ってもみなかった。そんなに気遣われるほどだったかと自分の素振りを思い返すが、途中でふっと感情の堰が切れてしまった。涙腺が不意に緩んでそのまま顔が歪む。
「ふ…っ、…っく……」
「わっ。えっ、あれ?!――あ、ごめん、我慢してたんだよね。ああ…」
「あんたが泣かしとんねやあぁぁっ…あんたがっ…」
「えっと……ごめん…?」
ああ、どうしよう、と思うのはお互い様で。
躊躇いがちに手が伸びてきて、とんとんと頭を撫でられる。泣き顔はあまり見られたくなくて相手の肩に頭だけ預けて伏せた。一瞬びくりと震えた細い肩が、今の頼り。
「うぅーっ…貸しといて、ちょっと……やばいぃ、止まらんー……」
ひとしきり涙が出切るまでは甘えていたいと思ったし、彼もどこかで泣かせてやるつもりだったろうからこれでいい。一人では多分泣けなくて、泣けないとこの涙はずっと残るだろうなとも思っていた。まさか森矢の前でこうなるとは思ってもみなかったけれど。
「………よしよし、」
今の内に泣いといて、とぽつりと呟かれた声はこの距離でしか聞こえないぐらい小さくて。泣いている間、頭を撫でる手はずっと優しくて温かかった。
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