ループ・エンド(side.R)
元に戻ったり悪くなったり。そんな中例年のイベントをこなし、例の如く鬼のような合宿や直前練習を生き残った定演が終わった夜。
定期演奏会の打ち上げは毎年すさまじい。達成感や次への課題なんていう感情はそれぞれにありつつ、何にせよ大きな山を越えたには変わりない。四回生は最後の舞台を終え皆すっきりとした面持ちで――だが、後輩から「お疲れ様でした」とミニアルバムや色紙なんか差し出された途端ぶわっと泣き出す先輩もいる。後輩達が密かに【四回を泣かせる】と裏で仕掛けをしているのは毎年の事だ。
後は頼むとか次はお前等が泣かされる番だぞとか言いながら後輩に発破をかけ、同期とはここまでよくやったよなと労い合いながら飲み明かす。まだ卒業するわけではないが、クラブの表舞台からは姿を消す四回生達。感慨の深さはその時にならないときっとわからないのだろうな、と思う。
「頑張ってね、次期トップ」
「ははっ、任せて下さーい。伝説残しますよ俺ら」
「暴走すんなよ。そんで女子には手出すなよホントに」
「わーってますって!」
「天川さん。やりそうになったら殴っていいからね! 女の子守ってね、ガツンと!」
「はぁい。お任せですっ♪」
「ちょ、何それコワっ。もーいいっすよー叩かれんの先輩らだけで十分――…」
「なら今躾とくか? 存分に」
「だねぇ。最後に一発いっとく?」
「えっ、泣かされんの俺?!」
ギターパートはわあわあ賑やかだ。穏やかな雰囲気な他パートに比べたら倍ぐらいやかましい。ムードメーカーの資質の違いは普段から出るもので、最後もそんなもの。鷹野がトップになったので多分来期もこんな感じだろうなと容易に想像できた。マンドリンパートの面々はああはなるまい。
次期トップは森矢に負けず劣らずおっとりした女の子で、ほわわんと柔らかい空気なのだ。本人の意思と、実力でなく人間性での人選。諸先輩達の目は正しいと思われる。(確かに森矢にやらせたら色んな意味で危険な気がする。自分の事も碌に管理できないから。)
延々と続くような気さえするのに時間はきちんと進んでいて、宴の席も次第に終わりに近付いてゆく。夜も更け、この時季らしいしんとした空気。今日はやらかすまいと思ってアルコールもほとんど入れなかった。最後の最後まであしらわれるのは勘弁、と。
「……あの、」
声をかけると「ん、どうした?」と弥坂は顔をこちらに向ける。片手に携帯電話があって、少し前に席を外していたのは見て知っていた。外で電話していたのだろう。多分、例の彼女と。戻ってくるのを玄関脇の廊下で待っていた。
リセットしようと決めてから、それまでのもやもやは一体何だったのかというぐらい気楽だった。わいわいやっていればその中にすっと入っていけて相手もそれまでよりラフな空気で接してもくれた。ぎこちなさや変な遠慮をせずにいられる気安さったらない。彼とは先輩後輩の間柄でいるのが正解だな、と思わされる場面があったのも事実。
「寒ぅなかったですか? 外」
「や、別に」
「電話、彼女さんからで?」
「…お前も人のそういう話好きな」
何で皆してつつきたがるんだか、というような声音。
「ははー、そら先輩の反応がかわええからやないですか? 彼女さんもかわいい人ですけど」
「鷹野みたいな言い方するなよ。ったく…」
半眼で呻く弥坂は本当に嫌そうだった。後輩からからかいのネタにされていい気分ではないだろう。そうやって憮然とするのを見られるのは多分これで最後になる。彼は教職志望だし、卒論やバイトも忙しいので卒業までクラブに顔を出す余裕はないというのはちらりと聞いた話だ。
「先輩、卒業式の時は来て下さいね。皆待ってますし」
「ああ、それは行く。悪かったな、最後の方あんま来れなくて」
「ホンマですよー恵亮うるさーてしゃーなかったんですから」
「? あれのツッコミ役はお前のが適任だろ」
「ちゃいますよ。遊び足りん~って。他の先輩らいじっても物足りんなー言うてましたもん」
「はあ? 人を何だと…殴っとけ。許す」
「あははは! はぁい、了解です」
悔しいかな、きちんと線引きしてからの方が自分らしい調子でいられた。この人じゃないんだ、私じゃやっぱり違うんだと落胆しなかったわけじゃない。けれど奈美の言ったように【いい先輩後輩】でいればこの先も付き合いは続く。クラブ絡みで一声かかれば、集まるだけの情はそれぞれにある。そこでまた馬鹿騒ぎできる方がきっとずっと楽しいはずだと思えるようになっていた。
視野が狭いといけない。今ばかり見ていては無くさなくて済むものまでなくしてしまう。
「先輩、お疲れ様でした」
「ん。矢橋も頑張れよ来年」
言葉も微かな笑みも【後輩】に向けられるものだ。勘違いなどしない。
「…あたし、弥坂先輩めっちゃ好きですよ」
へらっと笑って、何でもないように。後輩が先輩を好きだと思うのは当たり前だからという明るさで口に乗せた。一瞬驚いた風に固まってから弥坂は苦笑を浮かべる。
「言われるほど"いい先輩"じゃなかったと思うけどな、俺は」
ごめんな。
弥坂が何に対してどんな気持ちでそう口にしたかがわからない自分ではない。――泣くな、泣くな。ここで泣いたらそれこそ一生残る。そう自分に言い聞かせてまた笑う。
「んな事ないですって。飲み会とか先輩らおらんかったらもう。ねー?」
「まあ何とかやってけんだろ。もう羽目外すなよ」
「はあい、努力しまーす」
「お前な――…ったく、頼むぞ」
ぺしん、と額に軽い痛みが落ちてくる。そうしてそのまま「じゃあな。そろそろ寝とけよ」と通り過ぎる影。
「いたぁ、……」
叩かれた部分を撫でつつ、足音が遠くなるまでその場に突っ立っていた。散々喚いてきたとはいえ最後だけは格好がついたと思いたい。
「……はー…」
終わった…と吐き出した息は重くて、肩が落ちそうになるのをぐっと堪える。泣くような事ではない。本当に区切りがついたのだからこれでよかったのだ。もう相手を困らせる要因も自分が自棄になる要因もない。
「――あれ、矢橋…」
何してるの、という声に目だけ上げればコンビニの袋を片手に提げてこちらを見やる森矢がいた。彼もこんな時間に外に出ていたのかとぼんやり考える。
「……あんた寒ぅないん」
「いや矢橋のがさ――ここ冷えるのに。何? 酔い醒ましってわけじゃないでしょ」
素面なのはお互いわかる。
「んー…ちょっと。空気に酔うたっちゅーか何ちゅーか…熱冷ましにな」
「そう?」
森矢はそれ以上追及しようとはしない。言葉を額面通りに受け取るから変な態度さえ見せなければそのまま部屋に戻るだろう。
「……」
「何? どしたん」
しかし事はいつも思っている通りにはいってくれなかった。森矢がじっと窺う間がひどくもどかしい。半笑いで短く訊くぐらいしか余裕はなくて、顔も声も崩れそうなぎりぎりの所なのに、だ。
「あんたもはよ寝ぇな」
「…いや、無理でしょそれは」
「はぁ…? 何でよ」
「何でってさあ…矢橋、一人で泣きそうだし」
「だからっ、…何でやねん、泣かんて――」
「あのね。そんな顔の子ほったらかしてすんなり寝られるほど図太くないよ、さすがに」
気になるでしょ普通。
普段の柔らかいものとは違う、どこか怒っている風な語気だ。いつもはほったらかしておくくせにと今日ばかりは彼が恨めしい。
「だから大丈夫って…」
「――はあぁ……」
森矢にしては珍しく苛立っている。深い溜め息がその証拠だ。
「ちょっとおいで、」
すいっと左手が掬われそのまま引っ張られる。玄関から廊下の奥へと離れたのはあっと言う間だった。
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