鈍い二人(side.R)
鬼のような練習の日々。それを乗り越えて迎えた定期演奏会は無事幕を閉じ、打ち上げでは皆よく食べよく飲み、よく笑って、泣いた。四回生は後輩達に後を任せて引退だ。次に運営を任される二回生――つまり自分ら――は演奏会後から来期の事に向けて動かなければならない。新入生の勧誘・来期のホールの手配・選曲等々……「ああ、頭痛い」と主幹とコンダクターが呻くのは毎年の事である。
今回の演奏会で森矢と鷹野は幕間の演奏に参加していた。二人してマンドリン界では若手ホープと名前が知られているので、余興とはいえ観客をなかなかにひきつけていた。「あんたら、ずるい」というのはおかしいと頭ではわかっているのだが――ずるい。そして羨ましい。
楽器の経験の差は明白で、自分など彼らの背中を見ているばかりだ。同期連中だけでなく先輩ですら「あいつらはやっぱ違うな」と唸る。羨望の眼差しを向ける後輩も少なくない。そんな二人と三人組と一括りにされているのが何とも複雑な心境だったりする。普段は生活破綻者とチャラ男なのがまた……二人が絡むと何かとこちらにまで話が波及してくるのは一体。(「ウチはあいつらのお母さんとちゃうんやけど?!」と何回言わせる気なのか。)
「……眠い……」
ふああ、と部室で大きく欠伸をする森矢。"先生"から紹介されてまた発表の場に出るらしく、オフ期間ながら楽器からはほぼ離れられない生活のようだ。(そうでなくても自主的に弾いていると思うが。)
「寝てへんのん?」
「え。…いや、寝たよ」
「どんくらい」
「…………さあ」
さあ?
「譜面さらってたから時計見てなくて。うとうとしてきて寝たのは寝たんだけど……何時だったかな? 二限あったからそれまでには起きたよ、一応」
「ご飯は?」
「え。いやあ――時間なくて…」
「あんたなぁ……」
「スミマセン……」
大の男に抱く感想ではないが、しゅんとしながらもそもそと大きなメロンパンを頬張る様は何ともかわいらしい。しかし、その生活サイクルってどうやねん、と呆れるばかり。
「あんた、ちゃんと食べて寝な体壊すで」
「食べてるし、寝たんだって。だから」
「あかん! あんたのはひどすぎるっ」
「えぇー……うーん…厳しいなあ」
「弾くの好きなんはわかるけどな、あんたは極端すぎ。人間食べて寝てってのは最低限せな後々泣かんならんで。年いってから悪なるんやから」
「ははは…気を付けます」
言ったそばから「あ! そうだ音源貰ってきたんだ。それがまたすごくてさ――聞こう聞こう。ねっ」とまた音楽の話題になって、ああこいつはこうだった言うだけ無駄だったかと溜め息。メロンパン三分の二は放置である。しかしいい音は聞きたい。
「ね。いいよねこれ」
森矢の笑い方は遠慮がちというか、ふにゃっと柔らかい。声を上げてけたけた笑うところは見たことがなくて、きっとテレビなんかで面白い場面があっても爆笑なんてしないのだろうなと思う。はは、と軽く笑うぐらい。とはいえ無表情というわけではなくて――要は上品なのだ。実家は音楽一家だと言っていたので、そういう家庭の子らしい立ち振る舞いをしてきた結果なのだろう。育ちの違いはそういうところで見え隠れするものだ。
「あんた、黙っとったらええとこのお嬢さんみたいやんねー」
「んん?」
「線ほっそいしふわーっとしとるやん? ウチよかよっぽど大人しいしさ。女装男子とか全然いけそう」
「なにそれ」
「知らん? オネエとはちゃうんやけど、女の格好して街中歩いとるんやて。気分転換的な? よぉわからんけど似合うててん、これが」
「へえ……コスプレみたいなやつ?」
「かなあ? あんたもいけるて、コスプレ」
無理無理、と森矢は言うがそんな事はないだろう。女子会でも「森矢君はかわいい系だし弟とか妹的な子!」と笑い種になったりした。いつか拝みたい、とも。
「ちょ、そんな話してるの?」
「するする。つかあんたらかて誰がかわいいとか胸あるとかゆー話しとるんやろ? それと似たようなもんやん」
「ええぇぇ違うでしょ。…っていうか、他は知らないけど、しないよ。僕は」
「わーお上品~。でもかわいいと思うでアキちゃん! あんたが女やったらかわいがるのになー今でも弟みたいなもんやけども」
冗談で笑っていたのに、不意に森矢が「あのさ、」と低い声で言った事で流れが止まった。
「……それ言われるとさすがに傷つく」
「へ?」
「だから、やめて」
そう言う彼の表情や声には切実なものが滲んでいて。
「……ごめん」
いつもなら笑って流すところなのになと頭の片隅で怪訝に思いながら素直に謝る。
森矢は指を組んだ手元に視線を落としたままで、言葉を選ぶようにしばし黙っていた。左手の指先は弦楽器をやっている人間らしいく堅く皮が張っていて、しかしそこ以外は細くて――
――……ああ、でも、
女性の手にはない、かちっとしたラインだった。甲の側は薄く血管が浮いて見えるし、自分よりも大きい手だ。普段はそんなものを意識して見た事がなかったけれど。
自分が知っている男子の中で彼は華奢な方で、並んで歩いていても異性だとはあまり感じない。中性的なイメージなのだ。ひたすら楽器に打ち込み、音に浸り、還元する姿が先行している節がある事に今更気が付いた。格が違うものは無意識に神聖化されるもので、幾度となく人間らしい彼を見てきた自分ですらどこかで"違う生き物"としてフィルターがかかっていたのかもしれない。
その間もデッキからは綺麗なマンドリンオーケストラの旋律は流れっぱなし。何だか妙に静かだ。ここに誰かいたらもっと違う空気だったろうに、生憎今は自分と彼しか部室にいなかった。
「かわいかろうが、僕は男だから。……弟でも、ない」
「ああ、うん。ごめん…」
「弟扱いは、その、……困る…」
本当に。
彼の言葉や声音から覗く感情すらどこか遠慮がちで、押しつけがましさなんか欠片もない。ただどうにかして訴えたい気持ちに押されて、辛うじて口にしているというような態なのだ。彼は一対一の会話が苦手だといつかこぼしていたような記憶がある。鷹野は別なんだけど、とも。付き合いの長さとお互いの間合いをよく知っているからこそなのだろうか? 一瞬、悔しくなったのは一体どちらに対してだ?
「ごめん。調子乗りすぎたわ」
「…………」
森矢は気まずそうに俯いたまま「うん、いいんだ。こっちもごめん」とだけ。
「あんた顔はかわいいけど、やっぱ男やな。よぉ見たら手ぇがちゃう」
「手?」
「そ。とっかえたい、いい手」
「え、」
「あたしはあんたが羨ましい。巧くてセンスあってさ。飲み込みええし、めっさえぇ弾き方するから。あんたが最初に楽器教えてくれたやん? やし、ウチ的にはあんたが一番好きやねんな」
これは本当で、本人に対してここまで明言するのは初めてだっただろうか。何せ普段は生活破綻者で世話の焼ける奴なのだ。おかげで三人まとめて扱いだし、自分でもすっかりそういう頭になってしまっている。
数度目を瞬かせながら、森矢はじっと見返していた。不思議そうな顔で、そして目元を緩めて
「僕は、矢橋が好きだよ」
と、返してきた。「え、」と短く息を呑む。……何だ、直球には直球返しか? という間。
「音? んーあんたに言われても何やぴんと来ぉへんなー」
「……」
ふうん、と深く息を吐き、森矢は苦く笑んでいた。
「ん? 何?」
「いや」微笑。「矢橋も最初に比べたら巧くなったし聞かせるようになってるよ。女の子らしい音してるなって思う」
「またそーゆーよくわからん表現……」
「僕も矢橋が羨ましいって話だよ。……僕は矢橋みたいにやれないから」
「あんたのが巧いくせに何言うてんの」
わけわからんなあ、と笑うと今度は彼もくすくす笑っていてほっとしている自分がいた。小さな喧嘩(今のが喧嘩になるかはさておき)が尾を引くような事はままあって、そこから溝がなどというのは大学ではしまいと思っている。大事に思う相手を失うのは、痛い。
いつの間にかCDからは違う曲が流れていて。「これも好きだな」と目を細める森矢の横顔には先ほどの影はなくいつもの柔らかさが戻っていた。
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